黄金の約束
* * * * *
「曜春、我らが〝茶州の禿鷹"は、この王都でも超有名だということが判明した!」
茶店でまぐまぐと名物の紫州饅頭をほおばりながら「お頭」が重々しく告げた。
かんかん照りの往来には人通りがほとんどなかった。
「そうですね!すごいですねーお頭!」
同じくまったりと冷茶をいただきながら曜春が相づちを打つ。
「なんと近衛まで出動して我らを捜しているという。もはや我らはれっきとした大物だ」
「なんか、おそれおおいですね。潤月殿から聞いた親父殿に並びますかね?」
「ばかもの。親父殿の功績は遥か高みにある。しかしながら、我らの実力を思えば当然だ。ふ、近衛などにつかまってたまるものか。さて曜春、大物ならそれなりのことをしなくてはならん」
「それなりのことですか?」
ぱちくりと曜春の目がまたたく。
「そうだ、何もせずに王都見物だけしてのこのこ帰るなんて、有名人の名がすたる」
何もせず?いや、自分たちはそもそもれっきとした目的があって、この貴陽にやってきたのではなかっただろうか。第一に依頼主からの返信を待っていただろう。しかし曜春がそれを思い出す前にお頭がつづけた。
「ここは一つ、有名人にふさわしい大きなことをしようと思う。 すでに計画はできている」
「ええっ、お頭いつの間に!」
「ふふふ、お頭たるもの、いつも一歩先を考えているのだ」
「でも………潤月殿にご迷惑がかかりませんか?寝床もご飯もいただいているのに……」
「なにを言うか!潤月殿に迷惑などかけぬ。我ら“茶州の禿鷹”はそこまで落ちぶれてなどないぞ!潤月殿は羽林軍というところに属していると言っただろう。近衛とは別なのだ!紫州軍というのがあるから、そちらに迷惑をかけてはならんぞ。同じ『軍』が入っているからな!」
「なるほど!さすがです!それで、何をするんですか」
この時点で、お頭と躍春の頭からは、すでになんのために貴陽にきたのか、きれいさっぱり抜け落ちていた。
お頭は饅頭で口をもこもこさせながら、自信満々に宣言した。
「ふっ。聞いて驚くなよ。王宮に忍びこんで、潤月殿との城見学の前に下見に行って我らの博識を披露するのだ!」
一―戸部。 妙に空っぽに見える執務室に、景侍郎は今日何度目かになる溜息をついた。
それを受けて涼佳は小さく笑みを零した。
「なんです?あの二人が居ないと寂しいのですか、景侍郎?」
「ええ。あの元気な二人がいないと、この室も寂しいですよ。ね、鳳珠」
「その名で呼ぶな」
「いいじゃないですか三人だけですし。 大体奇人なんてみっともない名では呼べません」
十年以上飽きもせず一緒にいてくれるしたたかな癒し系景柚梨には、黄尚書・鳳珠もいまいち強く出られないところがある。
「いつもの宝物庫の点検も、一人だとなんだか変な感じがしますね」
隠し金庫から宝物庫の鍵をとる。それを腰につけながら、景侍郎はふとを見回した。
「この室、 こんなに広かったでしょうかねぇ」
ぽっかりと空間が空いてしまったような気がする。たった半月とちょっとなのに、あの二人はこんなにもなじんでしまったのかと驚く。
「菫少師、ずっと留め置いていただくわけにはいかないでしょうか。 燕青さんはさすがに無理としても……秀くんなら」
そう言った景侍郎に涼佳は微苦笑だけに留めたが、鳳珠がすぐに否定した。
「いや、それは無理だろう」
「なぜです?」
仮面がじっと待郎を見る。呆れたような視線を正確に感じとり、景侍郎はむっとする。涼佳は一人でクスクスと笑っていた。
「なんですか」
「………お前、本当に気づいてないのか」
「は?何をです」
「いや……まあ、いい。 李侍郎はいずれ秀が国試を受けるといってたんだろう」
「いいえ、官吏になった暁にはと、はっきりおっしゃってましたよ」
涼佳は筆を止めて、スっと目を細めた。
「へぇ……絳攸がそこまで……」
鳳珠はやや沈黙した。何を思ったのか、滅多に放さない筆を
「気になっていることがある」
「黎深のことかしら?」
「ああ、吏部尚書のことですか。確かにあのとき、吏部尚書がさしたる反対をしなかったのには驚きました。もちろん積極的に賛成もしてませんでしたけれど」
黄尚書は苦虫を噛み潰したような顔をしたようにみえた。少なくとも二人には。
「………何でお前らはそうズバズバ見抜くんだ?」
「そりゃあ仮面をかぶる前からあなたのそばにいるんです。そのくらいわかります」
「当然よ。あんたの褌まで洗わされていたあたしに隠し事が出来ると思ってるの?」
「………お前が洗濯係をやると言い出したことだろうが」
「変態扱いをされたくないあなた達に気を使って、あたしがなくなく洗濯係を引き受けたのよ。そこ、間違えないでね」
「…………話が脱線した。どうしてあいつは動かなかった?」
真剣に聞いて来た鳳珠に書類の処理を終えて涼佳も同じように筆を止めて向き直った。
「黎深が動かなかった本当の理由は知らないわ。検討はついてはいるけどね」
「それはなんだと聞いているんだが?」
「憶測で他人を語るなんて失礼なことあたしには出来ないわ。同期とはいえ、増して年上の方を」
「…………………………どの口が言っている」
喋る気が一切ない様子の涼佳に鳳珠は仮面の中で息を着いた。
違う質問をした。
「……お前から見て、秀はどうだった?」
「まあまあってところね。現状のままなら、居ないよりマシって感じかしら?」
「…………随分、辛口ですね。あの子は貴女に尊敬の念を抱いていましたよ。ああいう女性もどこかにいるかもしれないじゃないですか。女人導入が本当に現実化したら、貴女もそんな無位無官の官服を着ることなどないんですよ?」
真正面からズバリと言い放つ景侍郎に涼佳は思わずといったように笑ってしまった。
「…………柚梨、コイツのコレはただの嫌がらせだ」
「だとしてもです!周りがなんて言っているか知っていますか?!名ばかりの位だから居ないも当然、ですよ!女だからなんです!これだけ能力があるのを認めず官位にばかりっ……本当にっ私は腹が立ってしょうがありませんっ!」
いつもこの話題になると怒る柚梨に鳳珠は呆れ、涼佳は嬉しさ半分に困ったように微笑み、処理の終えた書類をまとめた。
「ありがとうございます、景侍郎。貴方や鳳珠のようにちゃんと認めて下さる方が居てくれるだけで、私は嬉しく思います。ですが、私は尊敬をされているからと言って甘くはなりません。『官吏』とはそういうものでしょう?」
そう言われて景侍郎はハッと口を噤んだ。失言だった。
女だろうが男だろうが、官吏という仕事は甘くはないことを彼女自身一番良く知っていた。
そんなことはくだらないというように涼佳は処理した書類を片付ける為に書棚に向かった。
「……別に、私はお前が仕事が出来ることを知っているだけだ」
「…………鳳珠、あなたね。素顔のあなたと対等に向き合ってくださる数少ないご友人なんですからもっと大切になさったらどうですか?」
「……友人?コレがか?コイツはあのクソッタレと並ぶ悪友の間違いだ」
「あら、酷い。あたしの繊細な心が傷つきそう。泣いちゃうかも……」
うぅ、と袖を引っ張り目元を抑え泣き真似をする涼佳を鳳珠は無視した。
「………くそったれって…相変わらずですね。 吏部尚書にはよく贈り物を頂いてるのに」
「あのヘンな仮面の数々か?あれは嫌がらせというんだ」
「昔のことは水に流してお付き合いなさったらよろしいのに」
「ふざけるな。死んでも御免だ。誰が友人だ。コイツもあんな男もくそったれで充分だ」
相変わらずの剣幕に、景侍郎が溜息をつく。いつも冷静沈着な黄尚書だが、菫少師と吏部尚書のこととなると一転して頑固で感情的になる。
「で、女人受験のことですけれど――」
そのとき、庭院先から何やら騒々しい音が聞こえてきた。
「つかまえろ!」とか「向こうへ逃げたぞ!」などという近衛たちの怒鳴り声が耳に入ってきて、三人は顔を見合わせた。
「猟犬でも逃げたんでしょうか?」
「いやね。入って来ても困るから窓を少し閉めときましょうか」
「そうですね」
そんな会話をして開いた窓に近づいた途端、その窓から猟犬ならぬ二人組の黒装束の少年たちが飛びこんできた。
涼佳と景侍郎はあまりの出来事に絶句していた。
なんだ、この黒い二人は………?
そして飛びこんだほうも別の意味で仰天した。
「――涼佳殿!大丈夫ですか!!」
「うおっ!こ、こんなところに怪人仮面男が曜春!ここは死んだふりだ!」
叫んで「お頭」はつぶれたカエルのようにバッタリ倒れた。つられて曜春も死んだふりをしかけハッと思いとどまる。
涼佳は自分の名前を呼ばれたことに困惑を隠せななかった。
………………もしかして、……。
「お、お頭!!それはクマと出会ったときです!」
「ハッ、そ、そうか。怪人仮面男の対処の仕方はそうだ、塩だ!」
飛び起きたお頭は懐から旅用の塩袋を取り出し、黄尚書に向かってぶちまけた。そのあまりに脈絡のない行動を予測できず、黄尚書はまともに塩をかぶってしまった。
「おおお頭!!それって幽霊とかなめくじとかの対処法じゃなかったですかぁあ」
「似たようなものだろう!しかし真っ昼間から出るとは非常識な怪人だ!」
黄尚書は無言で仮面にかかった塩をぬぐった。景侍郎はその仕草に内心うめいた。
お、怒っている………。
近ごろでは珍しいほどに。…これはまずい。
仮面の目や鼻の穴から塩が入りこんだのか、黄尚書の機嫌がみるみる悪くなっていくのが手にとるようにわかった。
「お頭!!全然効いてないみたいですよぉぉお」
「な、何い。じゃ、砂糖か!?とんがらしか!」
「き、君たち、悪いことは言いませんから、ね、今のうちに近衛の方々に捕まった方が」
黄尚書が後頭部に回った仮面の紐に手をかけた。
「あっ、いけません鳳珠!」
「――鳳珠っ!ダメよ!」
二人が止める間もなくほどいた紐が、はらりと落ち、追って仮面が外される。
「でたな怪人仮面ぉ......」
髪や顔面の塩を払い落としながら、黄尚書はじろりと闖入者たちを睨みつけた。
その顔をもろに見てしまった少年たちは絶句した。いや、思考回路がぶっ飛んだ。固まったままの二人に歩みよると、黄尚書はすっと手を伸ばした。 涼佳は額を抑えて、久しぶりに見る素顔に景侍郎もしばらく息をのんでいたが、そこでハッと我に返った。
「うわわ、手加減してあげてください鳳珠!あなたは気功の達人」
そのとき、固まっていた少年たちは弾かれたように両脇に飛びすさった。本能で呪縛を解き、あやうく吹っ飛ばされるのを免れた二人に黄尚書の双眸が細められる。
「曜春やばいぞあの男っ!我々を石にする気だっ!目を合わせちゃいかん!」
「ええ。 まだ仮面してたほうがましでしたね」
うわーと景侍郎が額を押さえた。すごい追い打ち。
黄尚書のこめかみに青筋が浮いた。
「………人の顔をごちゃごちゃと……私は猛獣か?」
「まずい。これは相手が悪いぞ曜春っ。よし」
「逃げるんですね!」
「バカモノ、明日へつながる名誉ある撤退といわんかっ」
強運ともども逃げ足にも定評のある二人はあっというまに駆けだした。
「―――え、ちょっと!?」
「―動かないでくだされっ!」
「―すぐ安全なところに逃げます!」
その際、曜春は涼佳の手を引き抱え、「お頭」も涼佳の足のほうを担ぎ上げた。その時景侍郎とぶつかり、拍子に彼の腰辺りにあった何かに手を引っかけた。堅くてほどよい重さのそれを反射的に左手でつかむと、再び入ってきた窓から飛び降りる。あまりに見事な逃げっぷりに、追いかける気さえ起こらないほどだった。
「ちっ、逃げ足の速い………………」
黄尚書は悪役全開の台詞を吐いて忌々しげに舌打ちすると、まだ衣の上や髪にまばらに残っている塩を払い落とし、再び仮面を装着した。
「まったく、これを外すことになろうとは思わなかった」
いかにも苛立たしげな声に、景侍郎はくすりと笑った。
「笑いごとじゃないぞ柚梨。あの二人が非番の日で助かった」
「ええ、でも燕青さんなら一笑して元通りな気もしますけれど。秀くんは驚くでしょうけど、一生懸命見なかったふりをして、いつも通りに接してくれるんじゃないでしょうか」
何せあなたの仮面を外す機会に恵まれながら、何もしなかった子ですからね。そう言外にいわれて、黄尚書は仮面の中の視線を逸らす。
「………ところで柚梨」
「はい?」
「お前、さっきまで腰に宝物庫の鍵をつけていなかったか」
「え?ええ。定期点検に行こうと思ってましたから。って……ああっっっ?」
腰の辺りをさぐった景侍郎はみるみるうちに蒼白になった。慌てて床にはいつくばって鍵の行方を探ろうとするが、上官に止められる。
「無駄だ。 多分ぶつかりしなに持っていかれたんだろう。私に塩をぶちまけた方の手にそれらしいものが握られていたし、涼佳も連れてかれたな」
バッと辺りを見渡して、涼佳の姿がどこにもないことにやっと気がついた。黄尚書の動体視力を知っていた景侍郎はますます青くなった。
「ちょ、嘘でしょう!なんでそんなに落ち着いてるんですっ」
彼は大急ぎで窓に駆けよろうとすると、またもや人影が飛びこんで来た。
しかし、先程の黒ずくめの二人とは違かった。桃色の髪は太陽の光を透過し金色にも見える。整った顔立ちがゆっくりと室内を見渡し、星空のような瞳と景侍郎の視線がかち合う。…なんて神々しい。
潤月は景侍郎を見て留めると早口に訊いた。
「―今っ!子供たち来た?!」
固まった景侍郎に代わり、驚きつつも冷静だった鳳珠が飛び込んで来た潤月の問いかけに答えた。
「……子供なら、さっき飛び込んで来ました。涼佳を連れてもう出て行ってしまいましたが」
「―なんで?!――あぁっもう!足速いんだからっ!!―わかった!ありがとう!ごめん、お邪魔しました!」
悔しそうにボヤいてまた早口に言い残し、窓から飛び立っていった。
「―ハッ?!そうです!!菫少師が!!ゆゆ、誘拐されましたッ!!」
「……もう行ったぞ、柚梨」
一拍遅れた景侍郎に、鳳珠も手短に告げた。
「柚梨、私は出かける」
「―――は?」
城内に侵入した黒ずくめの子ども達を追っていた潤月は、城の塀から逃げて行く姿を捉えその後を追ったが、一瞬見切れた隙に見失ってしまっていた。
一旦、邸に戻り子ども達と涼佳が居ないかを確かめてまた潤月は走り出した。
「――すみませんっ!羽林軍の楊潤月という者です!ここに黒ずくめの幼い子どもが二人来ませんでしたか?!」
「……あ、いえ。来てませんけど……」
「――ありがとうございます。すみませんっ!」
そうやって、街中を探し回った。話に聞いた巡った場所や茶屋など探し回ったがどこにも見当たらない。
………涼佳が一緒だから、大丈夫だとは思うけど…暴走気質だからな、あの二人……。
この炎天下にあんな格好で走り回ったら熱中症などすぐになってしまう。すれ違ってしまったのかと思いもう一度邸に戻れば、日も沈み始めようと傾いた頃だった。
再び邸に戻れば、鳳珠から文が届いていた。不思議におもいつつ、呼吸を整え家人からその文を受け取り内容に目を走らせると、潤月の足はすぐに動き出していた。
彩七区の黄東区に位置するとある大邸宅の前で潤月の足は止まった。
肩で息をしながら、その邸宅の者に声をかけるとすんなりと中に入れてくれた。他人の邸で走るなんて失礼極まりないが、今はそんなことを気にする余裕がなかった。家主が居るという室の前に着くと声もかけずに押し入った。
「――翔琳!曜春!」
「潤月殿ではないか!なぜここにっ?!――」
驚きに目を見開く翔琳に潤月はずかずかと近寄り小さな肩を掴んだ。ギュッと抱きしめれば、大きな身体から飛び出そうと脈打つ鼓動を翔琳は感じた。
「…………………………よかった、見つかって……」
「………………潤月、殿……」
「……曜春は?」
「曜春は……急に倒れて、涼佳殿がなんとかしてくれようとしていたのだが、弱っていたみたいで……この男達が助けてくれなければ、野垂れ死んでいた……今は二人とも別室でお医者殿に診てもらってる……」
「……涼佳も……そっか…………」
見当たらない二人の所在を翔琳から確認すると、一度深く息を吐き出した。
「――コラッ!どうして約束守れなかったの?!」
「ッ!?」
その怒った声に翔琳はビクッと肩を震わせた。その様子を同じ室内にいた燕青も鳳珠も黙って見守った。
「お城はこの国で生きてるみんなが生活していくのに大事なお仕事してるところでもあるから、勝手に入っちゃいけないって言ったでしょ!」
「……………し、下見に…」
「……下見?」
「………いや、格好をつけようとしたんだ。潤月殿には凄くお世話になっているから、現『お頭』として“茶州の禿鷹”がすごい、というところを見せたかったんだ……」
そんな小さな男心に潤月は深く息をついて、俯く翔琳の表情を伺った。
「……そっか。でも、私すごく心配したんだよ?暑い日に真っ黒な衣を着込んで、飛んで行っちゃうから倒れちゃうかもとか、他の人に捕まったりしたらすごく怒られちゃうし、もしかしたら牢屋に入れられてたかもしれない。そう思って、ずっと追いかけてたの」
「……………心配、した……?」
「そう!本当に心配した!見失ってからどこかで倒れちゃったかもしれないと思って、本当に心配した!」
潤月の顔をちらっと盗み見るように視線だけを上げれば、夜空のように深い瞳が震えていたのが、わかった。
「………親父殿が、言っていた。他人に心配をかけるうちは半人前なのだと……だが、自分のことを思って心配してくれる人は大事にしろと……。……潤月殿、心配をかけて…すまなかった……」
素直に謝った翔琳の頭を潤月は柔和に笑って頭を撫でた。
「えらい。ちゃんと謝れたね。それとね、キミたちのことすごいって思ってるよ。昔、鬼ごっこしたらお父さん捕まえられてたけど、私、翔琳達を捕まえられなかったもん」
「………オレ達の足は、親父殿よりもすごいってことか?」
「そう」
潤月の言葉に翔琳は照れながらも嬉しさを噛み締めていた。
「……ところで、なんで涼佳も連れ出したの?」
密かに疑問だったことを訊けば、翔琳は長椅子に優雅に座る鳳珠を見やった。
「……あの怪人が、涼佳殿をいじめていたから。助けようとして…」
「…………………え?」
「…………………は?」
どういうことかと潤月は、ちゃんと翔琳の話を聞いた。
近衛から逃げている最中、窓から見えた涼佳が誰かと対峙し泣いて、助けに飛び込んだ。……らしい。
そもそも、あれは嘘泣きだったのに。
「………………とんだ濡れ衣で、私は塩をぶちまけられたのか」
「……えっと、翔琳?あのね、彼と涼佳は仲の良い友人同士なの。私ともね。彼は優しい人だから、誰かをいじめたり意地悪したり、そんなことはしないよ。それに人を外見だけで判断しちゃいけないの。それは失礼なことだから。わかった?」
優しく諭されて、翔琳は暫く考えたのちに頷き、鳳珠をみやった。
「……塩をぶつけて、すまないことをした。怪人でも、良い怪人はいるのだと今回のことで良くわかったぞ。申し訳ない」
きちんと頭を下げた翔琳に苦笑を溢しつつ、潤月は立ち上がり久しぶりに見た素顔の鳳珠に向き直った。
「この子達、私が子どもの頃にお世話になった人の子どもなの。貴陽に居る間は私が預かって面倒見てたんだ。この子達が迷惑かけてごめんね?私に免じてこの子達のこと許してもらえないかな?」
「………別に、もう怒っていませんよ。楊教官」
本当は暗殺に来たことは黙っておいた。こっそり依頼主の返信を確認して、潤月は二人の話を聞きながら、指輪を持っていないことは話し合って解決済みである。久しぶりに聞く呼び方に潤月は微苦笑を溢してお礼を口にした。
話が終わった空気を察して、燕青は胸があるのに男物の武官着に身を包む薄い桃色の髪をした女人に不思議な感覚を覚えつつも話しかけた。
どっかで見たことある顔立ちだが、こんなに眉目秀麗な顔、一度見たら忘れるはずない。
「……なぁなぁ、話終わった?」
見知らぬ髭もじゃの頭だけクマの被り物をしたような男を見上げて潤月はスッと立ち上がった。
それを受けて、鳳珠が二人を紹介した。
「そうか、二人は初対面か。私が紹介しよう。――こちらの女性は羽林軍大将軍補佐官・楊潤月将軍だ。こっちの熊男は浪燕青と言います。こんな格好ですが不審人物でないです。李侍郎がよこした戸部専属の雑用係の内の一人です」
「えー。大将、俺の紹介に悪意ないっすかね?」
「事実を述べただけだ」
麗しい美貌でフン、と鼻を鳴らす鳳珠に燕青は口を尖らすも潤月に視線をうつした。
「……へぇ、あんたが…」
「そうだよ。はじめまして、よろしく」
「おう。…………一応、訊くけど……。特別な指輪とか持ってたり…する?」
口元を手で隠し耳打ちされた。ココ最近では聞かれ慣れた質問に潤月はフルフルと頭を振る。
「いや、持ってないんだ」
「やっぱり、そうだよな。悪りぃっすね、変なこと聞いて」
「…………そうだ。それで言うと申し訳ないことに私を狙ってる茶州の賊達がココに来ちゃうかも……」
なにも気にせず、街中を名乗りながら探し回っていたから『女みたいな名前の武官』の正体がバレただろう。
「……楊教官、狙われているんですか?」
「…………まぁ、ちょっと茶州絡みでね」
そんな話をしていると、施術室の扉が開いた。
「はー、終わった終わった」
トントンと腰を叩きながら白衣に身を包んだ背の小さい老人を見て潤月は驚きに目を見開いた。
「――葉先生!」
「お?おぉ、お嬢ではないか。久しぶりだのう」
駆け寄って来た潤月の手を取り、葉棕庚医師は幾重にも刻まれた皺を深くして握り合った。そんな様子の二人に鳳珠はぽつりと驚いたことを口にした。
「……お知り合いだったんですか?」
「うん。霄じぃの知り合いでもあるから、私が体調を悪くした時とか良くお世話になってたの。先生に診てもらえばすぐ治るんだよ」
嬉しそうに話す潤月のとある言葉に鳳珠は引っかかった。
「…………霄じぃ、とはどなたですか?もしかして以前言っていた養い親の方……」
「あ、そうか。知らないんだっけ?私の養い親は霄太師なの」
驚きに目を見開く姿さえ麗しかった。
そんな鳳珠を放っておいて、葉医師はにこにこと潤月をみた。
「ほほほ、嬉しいことを言ってくれる。見ない間にまた一段と美しくなられましたのう」
「ふふっ、相変わらずお世辞が上手いね、先生。―ねぇ、曜春と涼佳の容態は?」
世間話もそこそこに潤月は葉医師に二人の状態を聞いた。それに応えるように、柔和な笑みが返ってきた。
「――大丈夫じゃよ、お嬢。少年のほうは軽度の熱中症じゃし、綺麗な娘さんのほうは女人特有の貧血と疲労じゃ。そっちはもう起きとるしのう」
「…そっか、先生が看てくれたのならひと安心だよ。二人の様子、見れたりする?」
「あぁ、大丈夫じゃよ。行ってあげなさい。あの綺麗な娘さんはもう起きて着替えをしとるからの」
「あ、そうなの?わかった。――じゃあ、ちょっと見に行ってくるね」
お礼を言って潤月は施術室に入って行った。
施術室に入るとお手伝いをしていた秀麗に驚かれたが、潤月は人差し指を立てて、にっこりと笑った。秀麗は手巾など使った物を片付けにそっと室を出て行った。
そっと寝台に近寄り、傍の椅子に腰を下ろした。規則正しい寝息を立てている曜春の柔らかな頬を撫でて、頭を触った。
「…………ぁ、……さん……」
呟かれた言葉と共に零れた涙を優しく拭った。
施術室の扉が開いた音に視線を上げて、葉医師をみやった。
「……ありがとう、先生」
「ほほ、なにを言うとりますか。これが今のワシの仕事ですじゃ。お嬢は、どこか具合の悪いことはないですかな?」
「ないよ。私は元気いっぱい!」
「そうかそうか。良いことですじゃ」
小声でそんな会話をしていると深く皺を刻みながら葉医師は桃色の頭を撫でた。懐かしさに目を細めながらも、潤月は小さくムッと抗議してみせた。
「………先生、私もういい大人なんだけど…?」
「ほほほ、そうじゃった。申し訳ないですのう」
すまない、と言いながらもまだ頭を撫でていた葉医師に潤月はあ、と思い出したように訊いた。
「そうだ。ねぇねぇ、先生」
「ん?なんですかな?」
「先生のところに、霄じいって行ってたりする?」
「……いんや?どうしてそんなことを?」
訊かれたことの意味が理解出来なかった葉医師は訝しげに潤月を伺った。
「…………それが、喧嘩っていうか…、前にいろいろあって私が怒り過ぎちゃったのがいけないのかなとは思ってるんだけど……霄じい、邸に帰って来ないの…。私も仕事が外回りになってるから、朝廷の中でも会えないし。もし、先生の所に居るようならひとまず安心だったりするんだけど…」
不可解なことを訊いた気がする。
あの、潤月様命の、溺愛に溺愛し過ぎている霄の奴が、この子が居る邸に帰って来ない、だと……?幼い頃に発熱して慌てた様子で連れて来た時は、心底驚いたものだ。話を聞いて、育児日記でも書いたらどうだ、とからかい半分で言ったら初めの内は今日なにをした、とか元気だったとか、そういう普通のことを書いていた。しかし、暫くするとくしゃみの回数を書き出し、厠に行った回数、しまいには瞬きの回数まで書き出して、辞めさせたがもう既に遅かった。あの付ける薬もない親バカが完成してしまった。
そんな奴が、邸に帰ってないとはどういうことだろうか。