黄金の約束
「………預かっている子ども達が帰ったとは聞いてないので、まだ難しいかと」
「…そう。…………それじゃあ、来てくれるのはまだ当分先になりそうね…」
あからさまにがっくりと肩を落とした秀麗に静蘭はもちろん邵可も微苦笑を浮かべた。
「……本当に、その潤月様っての好きな、姫さん。噂だけどよ、大猿並に力持ちなんだろ?んで、婚期が来ないほどの見た目してるとかで軍に入った変わり者の女って聞いたぜ?」
どこかで聞いた噂話を言うと秀麗はカッと目を見開いて怒り出した。
「そんなこと誰が言ってるのよ!潤月様は可愛いんだから!」
「へぇー、菫少師とどっちが好きなんだ?」
もそもそとご飯を食べながら、燕青は何気なく質問してみた。
秀麗は驚いてう〜んと頭を左右に傾けていた。
「………どっちって言われても……。…潤月様はかっこいいし、一緒に居ると不思議と安心するのよね。涼佳様は綺麗で仕事が出来る女って感じで、憧れるわ。……でも、どっちが好きかって聞かれると………悩ましいところね………」
「いいんですよ、お嬢様。こんな奴のくだらない質問に真剣に答えなくても」
「くだらないとは失礼な。純粋な疑問だろー」
「ふふふ、二人共、とてもいい子達だよ」
他愛ない会話が広がる賑やかな食卓を秀麗は囲んでいた。
その夜遅く、秀麗の室に差し入れを持って行った燕青は話が終わり静蘭と庭で話していた。邵可は持ってきた皿を洗いに行った。
「――で、燕青」
「ん?」
「今夜は出かけないのか?」
燕青は詰まった。ウロウロと視線をさまよわせたのち、あきらめたように溜息をつく。
「………バレた?」
「バレないとでも思ってたのか?」
「十年以上経ってるし、俺の棍の癖なんかとうに忘れてるかなーと」
「お前の腕がなまってれば忘れてた。それに羽林軍で捕まえた連中、揃いもそろってなんていったと思う。『左頬に十字傷のある男を捜してた』と『女武官』だ」
「……あちゃー。やっぱり、アイツら女武官のこと探してんだ。ホント的外れもいいところだよな」
「……お前が夜中に賊退治なんぞしてる理由に興味はないし、なんであんな奴らに追われてるのかも知らんが、今夜に免じて黙っててやる。ただし旦那様とお嬢様に迷惑をかけるな。あいつに関しては、とりあえず大丈夫だろう。日中は白大将軍も宋太傅も、私も付いてるしな。それに、そこらの賊にやられるような腕はしてない」
「へぇー。強いんだ?」
「まあな」
珍しい。こいつが、そこまで認めるなんて。
彼の性格をわかった上で、燕青は少し女武官・楊潤月将軍に興味が湧いた。
ともあれ、きっぱりいってのけた静蘭を、燕青は何かいいたげな満面の笑みで眺めている。
「……気味悪いぞ。なんだ」
「や、お前ほんとイイとこに拾ってもらえたんだなーって思ってさ」
ふん、と静蘭は苛立たしげに鼻を鳴らしたが、余計な世話だとは言わなかった。
「な、姫さんの話だけどさ、四方丸くおさまる手があるよな」
途端、静蘭はきびすを返して歩き出した。そのあとを燕青がくっついていく。
「お前も気づいてるだろ。お前と姫さんが夫婦になればいーんだもんな」
にかっと燕青は笑った。
「姫さん、恋愛経験ないだろ。つーか多分無意識に考えねーようにしてたんだな。恋愛すると結婚がもれなくくっついてくるし、そうすっと官吏になれないって思ってたんだろうな。恋愛より国試の勉強のほうが重大なんて、見上げたもんだ。そこらの男どもよりよっぽど気骨があるよなぁ。傍にはお前がいるし。まあ下手な男に注意はむかねーわな」
立ち止まり、無言で睨みあげた静蘭の顎を、燕青は楽しげにつついた。
「お前だって姫さんより大事な女なんていないだろ?いやいや、見てりゃわかるって」
「……………燕青」
殺気を帯びて低くなる声を無視して、燕青は言葉を継いだ。
「いやー姫さんイイ娘だし、似合いじゃん。きっとい女になるぜ。つかまえとくなら今のうちだぞ?大体、性格悪いお前と一緒にいられる女なんて、そうそういないだろ」
「…………やっぱり明日、白大将軍にお前の所業をこと細かに報告することにする」
「あっ、ごめんもういいません!」
「遅い」
静蘭の口調は冷ややかこの上なかった。
* * * * *
劉輝は遅くまで執務室におり、机案で人うんうんうなっていた。 何事か書き記したりバツ印をつけたりして料紙とにらめっこしていた彼は、室に入ってきた者の気配に気づかなかった。
「ふふふ、悩んでおるようじゃのう、若人よ」
突然の老臣の声に、劉輝はむっと顔を上げた。
前王の時代は名宰相として辣腕をふるい、今は朝廷百官の長として色濃く影響力を残す 霄太師は、とぼけたじじいを装う一方でひどく酷薄な一面もあわせもつ。それを知る数少ない一人である劉輝も、今まで何回か痛い目を見てきた。特に前回はひどく、真面目に土に埋めてやろうかとも思ったが、なんだか埋めてもひょっこり出てきそうなのでやめにした。というより悔しいが彼が今いなくなるのは痛かった。それに彼の冷酷さが発揮される条件は限られているので、自分がしっかり目を光らせていればいいと決めていた。 しかしくそじじいと思う気持ちはまったく変わらない。うっかり口に出しかける。
「くそじ...霄太師。 また、なんでこんな時間までふらふらしてる。なにしに来た?」
「ふ………この城はわしの家のようなものですぞ」
「……………余の家だ。それに、潤月から家出中と聞いたぞ。義理とはいえ、年甲斐もなく娘に心配をかけるものではないと思うがな」
わしだって帰れるものなら帰ってあの子のご飯が食べたいわい。
そう思ったが霄太師は鼻を鳴らして流した。
「……………………ふん。今はあのちんちくりんが泊まって居るからな。わしが居ない方が良いだろうという心優しい気遣いじゃ。それに気づけぬとは……劉輝様もまだまだですな。ほうほう、新国試案の草稿か」
霄太師はちょっとのぞきこんだだけでズバリ当てた。そしてわざとらしく首を横に振る。
「はぁ、あやつも手加減を知らぬのう。朱墨だらけではありませんか。まぁ、これが不純な動機からきたものでなければ、素直に賛辞を送るのじゃがのう」
「う、うるさいっ」
「朝議で唐突に発言して黄戸部尚書から見事な無視を食らったそうですの。ずいぶん焦っておるようじゃが、まーさーか、今度の会試に間に合わせようと思うとるのですかのう」
「………じ、 じじいはおとなしく邸に引っ込んで隠居生活してろ。だいたいこの猛暑でなんでそんなに元気なんだ。若手だって次々ぶっ倒れてるっていうのに......お前もたまには普通のじじいらしくぶっ倒れてみたらどうなんだ。桃くらいなら送ってやる」
しかしその程度で撃退できるじじいではない。雪太師は大仰によよよと泣き崩れた。
「おお、これほどまでに有能で、しかも誠心誠意国家のために尽くしてきた老臣を邪険になさるとは。何か主上の御為になればと老骨にむち打ってここまできたけなげなじじいを。 はぁ、秀麗殿のところに行って愚痴でもこぼしてこようかのう」
「わああ、ちょ、ちょっと待て!くそっ、そんなことしてみろ」
「なんですかのう?劉輝様。また秀麗殿に愚痴るネタをいただけるのですかな?」
「くっ……………こ、この」
結局、劉輝はこうやって手のひらの上で転がされ、いいように遊ばれているのであった。 ふと、劉輝は霄太師が小脇に抱えている壺に気づいて視線を落とした。片手で抱えられるくらいの壺だ。模様などはなく、ただ素っ気ない茶色がつるつると輝いている。
前も夜中にふらっとやって来た時に何だか妙だと劉輝は思ったが、どこが妙だかやっぱりよくわからない。
「……………そういえば、前も持っていたな。もしかしてその瓶が噂の“超梅干し”だったりするのか?」
すると霄太師はわずかに沈黙したあと、劉輝の視線から隠すように壺を抱え直した。そして、うんざりしたように息をついた。
「………全く、誰がそんなふざけた噂を流したのか…。そんなものはないと言っているのに……」
「………なんだ。デマだったのか。ひとつくらい貰おうと思ったのに」
「あったとしても、梅干しだけはあげませんぞ!貴重な物なのでな!」
劉輝の目が半眼になる。なんだろう、この奇妙な反応は。つねに泰然と構える老太師のいつになく慌てた口調は、それが本当に貴重な梅干しだからか。それとも。
「では、わしはこれで失礼いたす」
「―――あ、待て」
そそくさと室を出て行こうとする霄太師を劉輝は慌てて呼び止めた。
「二人に“花”の代わりを贈ろうと思うが、構わないか」
「…………“花”の代わり、ですか」
そう言うと霄太師は足を止めて振り返った。
「あぁ。この草案が出来たら、余は二人にケジメを付けるつもりだ」
「………そんなもの送らずとも、あの子達ならずっと貴方を支えてくれるかもしれませんよ」
「………………だろうと思う。しかし、それではダメな気がするのだ。それでは…………今までと、変わらぬ……」
春、秀麗と過ごしてようやくわかった。自分には『努力』が足りなかったのだと。 誰かの優しさに甘え、しがみついているだけでなく。 誰かに必要とされ、好かれたいのなら、そのための努力をしなくてはならなかったのだ。
たぶん、自分も遥か昔はなにがしかの努力はしていたように思う。けれど頑張っても、そばにいてほしい人は、いつも指の間からすり抜けた。幼かった自分は求めることに疲れ果てて、邵可と出会った頃にはもはや努力の仕方さえ忘れていた。
劉輝は懐にしまってある手巾を衣の上から触れた。
「ふん。勘違い召されるな、主上。いつでも選べる側であるとは限りませぬぞ」
「……それは、どういう意味だ?」
「さあ?どういうことでしょうな?それでは」
妙な言い方をしといて、それ以上何も言う気のない霄太師は今度こそ本当に室を出て行ってしまった。劉輝はそれ以上なにも聞けなかった。
それから、ある日。城外警備から戻って来た潤月は稽古を終えて広間でまばらに談笑している武官達と他愛ない会話を軽くしつつ、割り当てられた更衣室に入って行った。防具をしまい、汗を拭き私服に着替える。手早く荷物をまとめて挨拶だけに広間に迎えば、珍しい顔に出くわした。
「お。楸瑛じゃん。おつかれ様、珍しいね」
「おかえり。たまには顔出さないと怒られるからさ」
「ちゃんと出てれば怒られる心配ないんじゃない?」
呆れ気味に言えば楸瑛は笑って受け流した。
「ははは、そうかもしれないね。ところで、そっちは相変わらずかい?」
「いつも通り。路地裏見回って、縛り上げられている奴らを回収して終わり。一応、他も見回ってるけど、全然成果なし。もう、ただ暑い中を重たい防具着て練り歩いただけだよ」
暑かったと愚痴を零して手でパタパタと仰げば、楸瑛は持っていた扇でそよ風を送ってくれた。
その涼しさに目を細めれば自然と頬が緩む。
そんな様子にクスクスと笑みが零れる。
「これだけ暑かったらね。ところで静蘭は?」
その名前にウッと気負いつつも、最後に見た状況を口にした。なぜかニヤついているように見える同僚が憎たらしい。
「………まだ白大将軍に勧誘を受けてるんじゃないかな。呑むぞ、とか言ってたし遅くなりそうだから置いてきた」
おぞましい単語が広間で駄弁っていた他の武官達の耳にも届くと、「俺、用事があったわ……」「やべぇ、厠!厠!」などと口にしてぎこちなく蜘蛛の子を散らすように武官達は動き出した。
「……あー……。それは大変だ。潤月はこれから主上のところに向かうかい?」
「うん。もう報告書はまとめて、子竜が兵部に上げてくれたっていうし、顔だけ出して涼佳と帰ろうかなって思ってるよ」
「なら、一緒に行こう」
「ああ」
そう言って潤月と楸瑛は武官舎を出て、執務室に向かった。
潤月は施政室と化した室の扉を叩いて声をかけながら開けて覗き込んだ。
「主上、戻りましたよー」
「ただいま〜。みんな倒れてない?」
机案から顔を上げた劉輝は二人を見ると真剣だった顔つきを緩めた。
「ああ、もうそんな時間か。おかえり、二人とも。潤月はご苦労だったな。どうだ、そっちの様子は」
「相変わらず、謎の親切な人が私達の代わりに賊の捕縛をしておいてくれるよ」
「………一体誰なんだ、ソイツは」
「本当に、誰だろうねー」
のらりくらりと言った楸瑛の声音に潤月は少しだけ視線を投げた。にこにこと笑んでいる横顔に内心でため息を漏らす。
…………なんか、心当たりありそうだな。
そんな会話をしているとけたたましい沓音が室に近づいていたかと思えば、室の扉が無遠慮に開かれた。
「―――失礼します!菫少師はおいでか!」
「……はい。いかがなさいましたか?」
「―――霄太師は何処かおわかりでしょうか?!」
なだれ込んで来た高老官達に涼佳はため息を吐き出した。昼休憩や終業するとここ数日はこうして噂の霄太師を探しに涼佳の下を訪れる人が増えたのだ。
「……申し訳ございません。ここ連日まともに顔を見てないので所在は分かりませんが…」
涼佳は申し訳なさそうに謝りながら、荷物を抱えて帰り支度を済ませていた潤月をみやる。少し思案した。
その視線に気づいて、美しい女人が居ることに気づいた高老官達は慌てて居住まいを正した。
「………そ、そちらの方は…」
「霄太師のご息女です。養子ですが」
涼佳が簡単に紹介すると高老官達は目を見開いて潤月を凝視した。
「―――な、なんと!?」
「――初対面でこんなことをお願いするのは誠に無礼ですが、霄太師が持っている“超梅干し”を分けていただきたいのです!!」
「あ、あの……」
「妻と子供が!」
「大切な同僚が!」
「母が!」
縋るように詰め寄られ圧倒される潤月は傍から見ても困惑していた。きょとんと小首を傾げて、考えた。
……“超梅干し”ってなに……霄じいが邸にある梅干しをそう言ってるのかな……?
チラりと涼佳をみやったが目すら合わない。
潤月は内心で盛大にため息を吐くと、床に膝をついて悲願する一人と視線が重なるように屈んだ。肩にそっと手を置いて顔を上げさせた。
「…えっと、とりあえず顔を上げてください。……“超梅干し”?がなにかはわかりませんが、梅干しなら邸にたくさんあります。もし、それでいいのなら…」
その言葉に高老官達は潤月の背後に後光が見えたという。
歓喜の声を上げる面々に潤月は微苦笑を零した。
…梅干しってこんなに人気だったんだ……。
そうではないのだが、潤月はここ最近朝廷に居ないのでまことしやかに囁かれている噂を知らなかった。
「なら、明日持って来ますね。食尚長官に壺ごとお預けしておくので他の欲しい方にもお声をかけあってください」
「――ありがとうございます!」
「―ありがとうございます!貴女は仙女様だ!」
「―これで妻も子も救われます!!本当にありがとうございます!!」
潤月は喜ぶ高老官達に柔和に微笑んだ。
「そんなお礼を言われることではないですよ。いつも養父がお世話になっております。まだ暑い日が続きますので、皆さんも体調に気をつけてくださいね?」
その柔らかな笑みにはしゃぎすぎたと顔を赤らめる臣下達を見ながら、劉輝は涼佳にこっそり訊いた。
「………涼佳姉上、“超梅干し”が本当にあるのか?」
「あの子が漬けた梅干しならあるわよ」
『梅干しがある』ということに劉輝は悔しそうに眉を寄せた。
「…………そんな、良い仕返しだと思ったのに…。これでは、あのクソジジイの好感度が上がってしまうではないか…」
「なに言ってるの?ちゃんと考えなさい。梅干しはあのクソジジイの大好物よ?まして、あの子が漬けた梅干し。――さて、日々逃げ回るのと、愛娘の漬けた梅干しが無くなるのとあのクソジジイにとってどちらが効果的?」
圧倒的、後者だった。
絳攸は遠縁と言っても血筋に違いはないのだと一人身震いしていた。
「仕返しの仕方が、甘いのよ」
「……でも、これは霄太師の怒りを買うんじゃないかい?」
そろそろと近寄って来ていた楸瑛が心配を口にすると、涼佳はあけすけもなく言ってのけた。
「どうして?私はただ、『霄太師の義理の娘』を彼らに紹介しただけよ?なぜ、怒られないといけないのかしら?それに以前、あの子が言ってたじゃない。なにかあれば自分の名前を出せって。どこに怒りを買う要素があるのかしら?」
三人は少し考えてから、確かにと納得した。
彼らから“超梅干し”と聞いて、思い当たる梅干しをあげると言ったのは潤月自身だった。決して、涼佳がお願いしたわけではないし、一言もそんなことは言っていない。
霄太師の怒るに怒れない状態を想像して劉輝は関心した。
その様子に満足気ににっこりと微笑む涼佳に対して怒らせないようにしようと誓ったのだった。
「―――あっちぃ〜〜〜」
茹だるような暑さを紛らわしたくて手に持った書類で涼しさを求めるが、あまり意味をなさかった。燕青は秀麗の邸に居候する代わりに朝廷で働くひと月の間旧い友人の静蘭から護衛を仰せつかった。しかし、一緒に来てみればなんだかんだとこき使われて、あれよあれよと言っている間に臨時で施政官にまでなっていた。
……そういや、姫さんと一緒に居てから、飽きねぇな。
思い出し笑いが口から零れ落ちる。
ふと前を見慣れた真っ白な官服の官吏が壁に手をつきながらフラフラと歩いていた。
「………ッつ……」
……ヤバい、頭痛い…。………目が回る。
今朝、突然やって来た月の物に煩わしさを感じながらも休むわけには行かない涼佳は薬だけはしっかりと服用して来ていた。
しかし、疲労の中の血液不足により服用した薬では今の涼佳には不足だった。
こんなところで倒れるワケにはいかないと、足に力を入れたが思ったように動かず、視界が急にブレた。
一瞬の浮遊感の中、誰かの声が聞こえた気がした。
手に持った書翰だけはギュッと握り締めたまま倒れた涼佳を転倒する前に受け止めたのは、ちょうど声をかけようとしていた燕青だった。
「―おいっ!?…………参ったな、こりゃ…」
キョロキョロと周りを見渡しても人っ子一人居ない。
いや、今は人が居た方が大騒ぎになりそうだから、安心するべきか。
どうしたものかと思いながら、化粧でよくわからない顔色を見る為に紅い紅を指の腹で拭うと、真っ青な唇にぎょッとする。
…急いで姫さんのところにっ!
ふと考えていたことを一旦止めた。彼女の立場と現状を考えて連れて行くのはまずいのかもしれない。
本を持った手で器用に頭を掻きむしる。
「……ったく、しょうがねぇか…」
そう思うと視線を巡らし、庭先に木陰を見つけるた。燕青は持っていた書類を涼佳のお腹の上に乗せて、思ったよりも軽い身体を持ち上げた。
――かっるッ!?――。
女の人ってこんなに軽いものなのか?!
驚きつつも細心の注意を払って木陰の中はに連れて行った。木陰の中は幾分か涼しい風が吹く。地べたはどうだろうかと一巡して、胡座をかいてその中に抱えた。
頼りない知識を総動員させながら、楽にさせた方が良いと思った燕青はまだ離さない書翰を避けて胸元を肌けさせれば、細く白い首筋と、はっきりと浮かぶ鎖骨に程よい膨らみを意味する谷間がちらりと露わになった。少しだけ柔らいだ顔色にホッと一安心する。
喉が無意識に鳴ったあと他のことを考える。
…………じっちゃん達の裸でも考えとこ。
ふと、腰にぶら下がる竹筒を見やる。
『―知り合いのお医者様がね、言ってたの!夏バテしたら、塩水が良いんだって!予防にもなるから、汗をかいたり喉が乾いたらコレ飲んでね―』
そう言って秀麗が持たせてくれた塩水の入った竹筒の栓を抜いて青白い唇に当てるが、自力で飲むことは叶わない。ツーっと口の端から水分が零れ落ちていった。
「…………人命救助だから、怒るんじゃねぇ〜ぞ…」
自分の口に塩水を含み、青白い唇に重ねた。
嚥下させる為に白い喉をなぞればゴクリと、塩水を飲み下した音を確認して燕青は涼佳の唇と自分の唇を拭った。
わずかだが柔らいだ表情をみやってホッと息つく。
少し横にさせようと抱え直すといつの間にか衣の端をがっしり掴み、書翰は抜き取ろうとしても離さない状態で不可能だった。
……すげぇな。死んでも仕事だけは守りそう…。
掴んでる上衣を脱いで地面に敷くと頭を自分の膝に載せて寝かせた。
時折吹く風の心地良さにホッと息が抜けた。
起きない涼佳の艶やかな前髪をそっと触った。
心地の良い涼しさにうっすらと瞼を押し上げた。見慣れない景色と不審者極まりない髭もじゃの物体が視界に入って来る。
倒れていることに気づいてハッと頭が覚醒する。
起き上がって自分の状況を確認した。
不審者(燕青)が薄着。自分の衣が乱れている。
「…………………………………」
少しだけうたた寝をしていた燕青も気づいて目を開けた。
「……ん〜ッ、はぁ〜〜〜、風が気持ち良くて俺も寝ちまったわ。―――お、気づいた?体調は?目の前で倒れられたからびっくりしたぜ」
「……………………少し、喉が乾いてるくらい……………」
「なら、コレ飲めよ。夏バテ予防になるんだと。姫さんが持たせてくれたんだ」
そう言いながら燕青は竹筒を涼佳に差し出した。
涼佳は衣の袷を整えつつ警戒しながら受け取り水筒を見て、下に敷いてある汚い衣に気づいた。
「…………………………迷惑かけたようね。悪かったわ」
そう言って竹筒の塩水を口に含めば喉が潤っていく。
口元を抑えるように拭ってまた気づいてしまった。
その一瞬の間に気づかなかった燕青はいつものようにのんびりとした口調のままだった。
「俺、謝罪じゃなくてお礼を言われた方が嬉しいな―」
「………………そう。あなたはあたしに殴られても仕方ないようなことはなにもないのね」
そう言われ燕青は思わずドキッとした。なぜバレたのだろうか。
黙っておけば誰も知らないことだから良いと考えていたのに。
「…え、あ〜〜〜〜〜……………。………倒れた時に、その……………水飲ませようと口移ししました……」
スっと上がった手を見て慌てて自分の顔面を腕で覆い、囁かな無実を訴えた。
「――タンマッタンマッ!!でも、これって人命救助だし!ほら!事故みたいなもんだろ!?殴られるのは勘弁して欲しいっつーか――すみませんッ――」
燕青の言い分を少し思案して、涼佳は渋々手を下ろした。
「…………………………それも、そうね。私が倒れなければよかったのだから」
殴られずに済んだことに燕青はホッ胸を撫で下ろした。
涼佳はスっと立ち上がると燕青の上衣を拾い土を落として、短くお礼を言って渡した。
仕事に行こうとする涼佳に、燕青は一応提案してみた。
「……なぁ、もうちょい休んだら?今度は過労でぽっくり逝っちまうぜ?」
「充分、休んだので大丈夫です。戸部尚書に迷惑がかかりますので、あなたも早く仕事に戻ってください。助けていただいたことには感謝します」
そう言って涼佳は早足に去って行った。
燕青、頬をポリポリとかいて思う。
「……なんか、野良猫みてぇ…」
それからという物、燕青は涼佳を見かける度に野良猫に挨拶でもするようによく声をかけるようになった。
相変わらず日差しの強い中、潤月は今日は内勤に回っていた。
いつもと変わらないだろうし、茶州から流入して来た賊達の動きが怪しかったこともあり、安全の為と言われ潤月は城外警備を外されたのだ。
……別に、そんなことされなくても大丈夫なんだけど…。
不服そうに口を尖らせながら、武官舎の広間で最近の報告書の整理を済ませていると、突然どこからか警笛の音が聞こえた。
何事かと頭を巡らせれば、部下が慌てた様子で入って来た。
「――賊の侵入です!!」
「茶州のか?!」
「………い、いえ、それが…………」
潤月は部下から聞いたその言葉に血相を変えて飛び出して行った。
「…そう。…………それじゃあ、来てくれるのはまだ当分先になりそうね…」
あからさまにがっくりと肩を落とした秀麗に静蘭はもちろん邵可も微苦笑を浮かべた。
「……本当に、その潤月様っての好きな、姫さん。噂だけどよ、大猿並に力持ちなんだろ?んで、婚期が来ないほどの見た目してるとかで軍に入った変わり者の女って聞いたぜ?」
どこかで聞いた噂話を言うと秀麗はカッと目を見開いて怒り出した。
「そんなこと誰が言ってるのよ!潤月様は可愛いんだから!」
「へぇー、菫少師とどっちが好きなんだ?」
もそもそとご飯を食べながら、燕青は何気なく質問してみた。
秀麗は驚いてう〜んと頭を左右に傾けていた。
「………どっちって言われても……。…潤月様はかっこいいし、一緒に居ると不思議と安心するのよね。涼佳様は綺麗で仕事が出来る女って感じで、憧れるわ。……でも、どっちが好きかって聞かれると………悩ましいところね………」
「いいんですよ、お嬢様。こんな奴のくだらない質問に真剣に答えなくても」
「くだらないとは失礼な。純粋な疑問だろー」
「ふふふ、二人共、とてもいい子達だよ」
他愛ない会話が広がる賑やかな食卓を秀麗は囲んでいた。
その夜遅く、秀麗の室に差し入れを持って行った燕青は話が終わり静蘭と庭で話していた。邵可は持ってきた皿を洗いに行った。
「――で、燕青」
「ん?」
「今夜は出かけないのか?」
燕青は詰まった。ウロウロと視線をさまよわせたのち、あきらめたように溜息をつく。
「………バレた?」
「バレないとでも思ってたのか?」
「十年以上経ってるし、俺の棍の癖なんかとうに忘れてるかなーと」
「お前の腕がなまってれば忘れてた。それに羽林軍で捕まえた連中、揃いもそろってなんていったと思う。『左頬に十字傷のある男を捜してた』と『女武官』だ」
「……あちゃー。やっぱり、アイツら女武官のこと探してんだ。ホント的外れもいいところだよな」
「……お前が夜中に賊退治なんぞしてる理由に興味はないし、なんであんな奴らに追われてるのかも知らんが、今夜に免じて黙っててやる。ただし旦那様とお嬢様に迷惑をかけるな。あいつに関しては、とりあえず大丈夫だろう。日中は白大将軍も宋太傅も、私も付いてるしな。それに、そこらの賊にやられるような腕はしてない」
「へぇー。強いんだ?」
「まあな」
珍しい。こいつが、そこまで認めるなんて。
彼の性格をわかった上で、燕青は少し女武官・楊潤月将軍に興味が湧いた。
ともあれ、きっぱりいってのけた静蘭を、燕青は何かいいたげな満面の笑みで眺めている。
「……気味悪いぞ。なんだ」
「や、お前ほんとイイとこに拾ってもらえたんだなーって思ってさ」
ふん、と静蘭は苛立たしげに鼻を鳴らしたが、余計な世話だとは言わなかった。
「な、姫さんの話だけどさ、四方丸くおさまる手があるよな」
途端、静蘭はきびすを返して歩き出した。そのあとを燕青がくっついていく。
「お前も気づいてるだろ。お前と姫さんが夫婦になればいーんだもんな」
にかっと燕青は笑った。
「姫さん、恋愛経験ないだろ。つーか多分無意識に考えねーようにしてたんだな。恋愛すると結婚がもれなくくっついてくるし、そうすっと官吏になれないって思ってたんだろうな。恋愛より国試の勉強のほうが重大なんて、見上げたもんだ。そこらの男どもよりよっぽど気骨があるよなぁ。傍にはお前がいるし。まあ下手な男に注意はむかねーわな」
立ち止まり、無言で睨みあげた静蘭の顎を、燕青は楽しげにつついた。
「お前だって姫さんより大事な女なんていないだろ?いやいや、見てりゃわかるって」
「……………燕青」
殺気を帯びて低くなる声を無視して、燕青は言葉を継いだ。
「いやー姫さんイイ娘だし、似合いじゃん。きっとい女になるぜ。つかまえとくなら今のうちだぞ?大体、性格悪いお前と一緒にいられる女なんて、そうそういないだろ」
「…………やっぱり明日、白大将軍にお前の所業をこと細かに報告することにする」
「あっ、ごめんもういいません!」
「遅い」
静蘭の口調は冷ややかこの上なかった。
* * * * *
劉輝は遅くまで執務室におり、机案で人うんうんうなっていた。 何事か書き記したりバツ印をつけたりして料紙とにらめっこしていた彼は、室に入ってきた者の気配に気づかなかった。
「ふふふ、悩んでおるようじゃのう、若人よ」
突然の老臣の声に、劉輝はむっと顔を上げた。
前王の時代は名宰相として辣腕をふるい、今は朝廷百官の長として色濃く影響力を残す 霄太師は、とぼけたじじいを装う一方でひどく酷薄な一面もあわせもつ。それを知る数少ない一人である劉輝も、今まで何回か痛い目を見てきた。特に前回はひどく、真面目に土に埋めてやろうかとも思ったが、なんだか埋めてもひょっこり出てきそうなのでやめにした。というより悔しいが彼が今いなくなるのは痛かった。それに彼の冷酷さが発揮される条件は限られているので、自分がしっかり目を光らせていればいいと決めていた。 しかしくそじじいと思う気持ちはまったく変わらない。うっかり口に出しかける。
「くそじ...霄太師。 また、なんでこんな時間までふらふらしてる。なにしに来た?」
「ふ………この城はわしの家のようなものですぞ」
「……………余の家だ。それに、潤月から家出中と聞いたぞ。義理とはいえ、年甲斐もなく娘に心配をかけるものではないと思うがな」
わしだって帰れるものなら帰ってあの子のご飯が食べたいわい。
そう思ったが霄太師は鼻を鳴らして流した。
「……………………ふん。今はあのちんちくりんが泊まって居るからな。わしが居ない方が良いだろうという心優しい気遣いじゃ。それに気づけぬとは……劉輝様もまだまだですな。ほうほう、新国試案の草稿か」
霄太師はちょっとのぞきこんだだけでズバリ当てた。そしてわざとらしく首を横に振る。
「はぁ、あやつも手加減を知らぬのう。朱墨だらけではありませんか。まぁ、これが不純な動機からきたものでなければ、素直に賛辞を送るのじゃがのう」
「う、うるさいっ」
「朝議で唐突に発言して黄戸部尚書から見事な無視を食らったそうですの。ずいぶん焦っておるようじゃが、まーさーか、今度の会試に間に合わせようと思うとるのですかのう」
「………じ、 じじいはおとなしく邸に引っ込んで隠居生活してろ。だいたいこの猛暑でなんでそんなに元気なんだ。若手だって次々ぶっ倒れてるっていうのに......お前もたまには普通のじじいらしくぶっ倒れてみたらどうなんだ。桃くらいなら送ってやる」
しかしその程度で撃退できるじじいではない。雪太師は大仰によよよと泣き崩れた。
「おお、これほどまでに有能で、しかも誠心誠意国家のために尽くしてきた老臣を邪険になさるとは。何か主上の御為になればと老骨にむち打ってここまできたけなげなじじいを。 はぁ、秀麗殿のところに行って愚痴でもこぼしてこようかのう」
「わああ、ちょ、ちょっと待て!くそっ、そんなことしてみろ」
「なんですかのう?劉輝様。また秀麗殿に愚痴るネタをいただけるのですかな?」
「くっ……………こ、この」
結局、劉輝はこうやって手のひらの上で転がされ、いいように遊ばれているのであった。 ふと、劉輝は霄太師が小脇に抱えている壺に気づいて視線を落とした。片手で抱えられるくらいの壺だ。模様などはなく、ただ素っ気ない茶色がつるつると輝いている。
前も夜中にふらっとやって来た時に何だか妙だと劉輝は思ったが、どこが妙だかやっぱりよくわからない。
「……………そういえば、前も持っていたな。もしかしてその瓶が噂の“超梅干し”だったりするのか?」
すると霄太師はわずかに沈黙したあと、劉輝の視線から隠すように壺を抱え直した。そして、うんざりしたように息をついた。
「………全く、誰がそんなふざけた噂を流したのか…。そんなものはないと言っているのに……」
「………なんだ。デマだったのか。ひとつくらい貰おうと思ったのに」
「あったとしても、梅干しだけはあげませんぞ!貴重な物なのでな!」
劉輝の目が半眼になる。なんだろう、この奇妙な反応は。つねに泰然と構える老太師のいつになく慌てた口調は、それが本当に貴重な梅干しだからか。それとも。
「では、わしはこれで失礼いたす」
「―――あ、待て」
そそくさと室を出て行こうとする霄太師を劉輝は慌てて呼び止めた。
「二人に“花”の代わりを贈ろうと思うが、構わないか」
「…………“花”の代わり、ですか」
そう言うと霄太師は足を止めて振り返った。
「あぁ。この草案が出来たら、余は二人にケジメを付けるつもりだ」
「………そんなもの送らずとも、あの子達ならずっと貴方を支えてくれるかもしれませんよ」
「………………だろうと思う。しかし、それではダメな気がするのだ。それでは…………今までと、変わらぬ……」
春、秀麗と過ごしてようやくわかった。自分には『努力』が足りなかったのだと。 誰かの優しさに甘え、しがみついているだけでなく。 誰かに必要とされ、好かれたいのなら、そのための努力をしなくてはならなかったのだ。
たぶん、自分も遥か昔はなにがしかの努力はしていたように思う。けれど頑張っても、そばにいてほしい人は、いつも指の間からすり抜けた。幼かった自分は求めることに疲れ果てて、邵可と出会った頃にはもはや努力の仕方さえ忘れていた。
劉輝は懐にしまってある手巾を衣の上から触れた。
「ふん。勘違い召されるな、主上。いつでも選べる側であるとは限りませぬぞ」
「……それは、どういう意味だ?」
「さあ?どういうことでしょうな?それでは」
妙な言い方をしといて、それ以上何も言う気のない霄太師は今度こそ本当に室を出て行ってしまった。劉輝はそれ以上なにも聞けなかった。
それから、ある日。城外警備から戻って来た潤月は稽古を終えて広間でまばらに談笑している武官達と他愛ない会話を軽くしつつ、割り当てられた更衣室に入って行った。防具をしまい、汗を拭き私服に着替える。手早く荷物をまとめて挨拶だけに広間に迎えば、珍しい顔に出くわした。
「お。楸瑛じゃん。おつかれ様、珍しいね」
「おかえり。たまには顔出さないと怒られるからさ」
「ちゃんと出てれば怒られる心配ないんじゃない?」
呆れ気味に言えば楸瑛は笑って受け流した。
「ははは、そうかもしれないね。ところで、そっちは相変わらずかい?」
「いつも通り。路地裏見回って、縛り上げられている奴らを回収して終わり。一応、他も見回ってるけど、全然成果なし。もう、ただ暑い中を重たい防具着て練り歩いただけだよ」
暑かったと愚痴を零して手でパタパタと仰げば、楸瑛は持っていた扇でそよ風を送ってくれた。
その涼しさに目を細めれば自然と頬が緩む。
そんな様子にクスクスと笑みが零れる。
「これだけ暑かったらね。ところで静蘭は?」
その名前にウッと気負いつつも、最後に見た状況を口にした。なぜかニヤついているように見える同僚が憎たらしい。
「………まだ白大将軍に勧誘を受けてるんじゃないかな。呑むぞ、とか言ってたし遅くなりそうだから置いてきた」
おぞましい単語が広間で駄弁っていた他の武官達の耳にも届くと、「俺、用事があったわ……」「やべぇ、厠!厠!」などと口にしてぎこちなく蜘蛛の子を散らすように武官達は動き出した。
「……あー……。それは大変だ。潤月はこれから主上のところに向かうかい?」
「うん。もう報告書はまとめて、子竜が兵部に上げてくれたっていうし、顔だけ出して涼佳と帰ろうかなって思ってるよ」
「なら、一緒に行こう」
「ああ」
そう言って潤月と楸瑛は武官舎を出て、執務室に向かった。
潤月は施政室と化した室の扉を叩いて声をかけながら開けて覗き込んだ。
「主上、戻りましたよー」
「ただいま〜。みんな倒れてない?」
机案から顔を上げた劉輝は二人を見ると真剣だった顔つきを緩めた。
「ああ、もうそんな時間か。おかえり、二人とも。潤月はご苦労だったな。どうだ、そっちの様子は」
「相変わらず、謎の親切な人が私達の代わりに賊の捕縛をしておいてくれるよ」
「………一体誰なんだ、ソイツは」
「本当に、誰だろうねー」
のらりくらりと言った楸瑛の声音に潤月は少しだけ視線を投げた。にこにこと笑んでいる横顔に内心でため息を漏らす。
…………なんか、心当たりありそうだな。
そんな会話をしているとけたたましい沓音が室に近づいていたかと思えば、室の扉が無遠慮に開かれた。
「―――失礼します!菫少師はおいでか!」
「……はい。いかがなさいましたか?」
「―――霄太師は何処かおわかりでしょうか?!」
なだれ込んで来た高老官達に涼佳はため息を吐き出した。昼休憩や終業するとここ数日はこうして噂の霄太師を探しに涼佳の下を訪れる人が増えたのだ。
「……申し訳ございません。ここ連日まともに顔を見てないので所在は分かりませんが…」
涼佳は申し訳なさそうに謝りながら、荷物を抱えて帰り支度を済ませていた潤月をみやる。少し思案した。
その視線に気づいて、美しい女人が居ることに気づいた高老官達は慌てて居住まいを正した。
「………そ、そちらの方は…」
「霄太師のご息女です。養子ですが」
涼佳が簡単に紹介すると高老官達は目を見開いて潤月を凝視した。
「―――な、なんと!?」
「――初対面でこんなことをお願いするのは誠に無礼ですが、霄太師が持っている“超梅干し”を分けていただきたいのです!!」
「あ、あの……」
「妻と子供が!」
「大切な同僚が!」
「母が!」
縋るように詰め寄られ圧倒される潤月は傍から見ても困惑していた。きょとんと小首を傾げて、考えた。
……“超梅干し”ってなに……霄じいが邸にある梅干しをそう言ってるのかな……?
チラりと涼佳をみやったが目すら合わない。
潤月は内心で盛大にため息を吐くと、床に膝をついて悲願する一人と視線が重なるように屈んだ。肩にそっと手を置いて顔を上げさせた。
「…えっと、とりあえず顔を上げてください。……“超梅干し”?がなにかはわかりませんが、梅干しなら邸にたくさんあります。もし、それでいいのなら…」
その言葉に高老官達は潤月の背後に後光が見えたという。
歓喜の声を上げる面々に潤月は微苦笑を零した。
…梅干しってこんなに人気だったんだ……。
そうではないのだが、潤月はここ最近朝廷に居ないのでまことしやかに囁かれている噂を知らなかった。
「なら、明日持って来ますね。食尚長官に壺ごとお預けしておくので他の欲しい方にもお声をかけあってください」
「――ありがとうございます!」
「―ありがとうございます!貴女は仙女様だ!」
「―これで妻も子も救われます!!本当にありがとうございます!!」
潤月は喜ぶ高老官達に柔和に微笑んだ。
「そんなお礼を言われることではないですよ。いつも養父がお世話になっております。まだ暑い日が続きますので、皆さんも体調に気をつけてくださいね?」
その柔らかな笑みにはしゃぎすぎたと顔を赤らめる臣下達を見ながら、劉輝は涼佳にこっそり訊いた。
「………涼佳姉上、“超梅干し”が本当にあるのか?」
「あの子が漬けた梅干しならあるわよ」
『梅干しがある』ということに劉輝は悔しそうに眉を寄せた。
「…………そんな、良い仕返しだと思ったのに…。これでは、あのクソジジイの好感度が上がってしまうではないか…」
「なに言ってるの?ちゃんと考えなさい。梅干しはあのクソジジイの大好物よ?まして、あの子が漬けた梅干し。――さて、日々逃げ回るのと、愛娘の漬けた梅干しが無くなるのとあのクソジジイにとってどちらが効果的?」
圧倒的、後者だった。
絳攸は遠縁と言っても血筋に違いはないのだと一人身震いしていた。
「仕返しの仕方が、甘いのよ」
「……でも、これは霄太師の怒りを買うんじゃないかい?」
そろそろと近寄って来ていた楸瑛が心配を口にすると、涼佳はあけすけもなく言ってのけた。
「どうして?私はただ、『霄太師の義理の娘』を彼らに紹介しただけよ?なぜ、怒られないといけないのかしら?それに以前、あの子が言ってたじゃない。なにかあれば自分の名前を出せって。どこに怒りを買う要素があるのかしら?」
三人は少し考えてから、確かにと納得した。
彼らから“超梅干し”と聞いて、思い当たる梅干しをあげると言ったのは潤月自身だった。決して、涼佳がお願いしたわけではないし、一言もそんなことは言っていない。
霄太師の怒るに怒れない状態を想像して劉輝は関心した。
その様子に満足気ににっこりと微笑む涼佳に対して怒らせないようにしようと誓ったのだった。
「―――あっちぃ〜〜〜」
茹だるような暑さを紛らわしたくて手に持った書類で涼しさを求めるが、あまり意味をなさかった。燕青は秀麗の邸に居候する代わりに朝廷で働くひと月の間旧い友人の静蘭から護衛を仰せつかった。しかし、一緒に来てみればなんだかんだとこき使われて、あれよあれよと言っている間に臨時で施政官にまでなっていた。
……そういや、姫さんと一緒に居てから、飽きねぇな。
思い出し笑いが口から零れ落ちる。
ふと前を見慣れた真っ白な官服の官吏が壁に手をつきながらフラフラと歩いていた。
「………ッつ……」
……ヤバい、頭痛い…。………目が回る。
今朝、突然やって来た月の物に煩わしさを感じながらも休むわけには行かない涼佳は薬だけはしっかりと服用して来ていた。
しかし、疲労の中の血液不足により服用した薬では今の涼佳には不足だった。
こんなところで倒れるワケにはいかないと、足に力を入れたが思ったように動かず、視界が急にブレた。
一瞬の浮遊感の中、誰かの声が聞こえた気がした。
手に持った書翰だけはギュッと握り締めたまま倒れた涼佳を転倒する前に受け止めたのは、ちょうど声をかけようとしていた燕青だった。
「―おいっ!?…………参ったな、こりゃ…」
キョロキョロと周りを見渡しても人っ子一人居ない。
いや、今は人が居た方が大騒ぎになりそうだから、安心するべきか。
どうしたものかと思いながら、化粧でよくわからない顔色を見る為に紅い紅を指の腹で拭うと、真っ青な唇にぎょッとする。
…急いで姫さんのところにっ!
ふと考えていたことを一旦止めた。彼女の立場と現状を考えて連れて行くのはまずいのかもしれない。
本を持った手で器用に頭を掻きむしる。
「……ったく、しょうがねぇか…」
そう思うと視線を巡らし、庭先に木陰を見つけるた。燕青は持っていた書類を涼佳のお腹の上に乗せて、思ったよりも軽い身体を持ち上げた。
――かっるッ!?――。
女の人ってこんなに軽いものなのか?!
驚きつつも細心の注意を払って木陰の中はに連れて行った。木陰の中は幾分か涼しい風が吹く。地べたはどうだろうかと一巡して、胡座をかいてその中に抱えた。
頼りない知識を総動員させながら、楽にさせた方が良いと思った燕青はまだ離さない書翰を避けて胸元を肌けさせれば、細く白い首筋と、はっきりと浮かぶ鎖骨に程よい膨らみを意味する谷間がちらりと露わになった。少しだけ柔らいだ顔色にホッと一安心する。
喉が無意識に鳴ったあと他のことを考える。
…………じっちゃん達の裸でも考えとこ。
ふと、腰にぶら下がる竹筒を見やる。
『―知り合いのお医者様がね、言ってたの!夏バテしたら、塩水が良いんだって!予防にもなるから、汗をかいたり喉が乾いたらコレ飲んでね―』
そう言って秀麗が持たせてくれた塩水の入った竹筒の栓を抜いて青白い唇に当てるが、自力で飲むことは叶わない。ツーっと口の端から水分が零れ落ちていった。
「…………人命救助だから、怒るんじゃねぇ〜ぞ…」
自分の口に塩水を含み、青白い唇に重ねた。
嚥下させる為に白い喉をなぞればゴクリと、塩水を飲み下した音を確認して燕青は涼佳の唇と自分の唇を拭った。
わずかだが柔らいだ表情をみやってホッと息つく。
少し横にさせようと抱え直すといつの間にか衣の端をがっしり掴み、書翰は抜き取ろうとしても離さない状態で不可能だった。
……すげぇな。死んでも仕事だけは守りそう…。
掴んでる上衣を脱いで地面に敷くと頭を自分の膝に載せて寝かせた。
時折吹く風の心地良さにホッと息が抜けた。
起きない涼佳の艶やかな前髪をそっと触った。
心地の良い涼しさにうっすらと瞼を押し上げた。見慣れない景色と不審者極まりない髭もじゃの物体が視界に入って来る。
倒れていることに気づいてハッと頭が覚醒する。
起き上がって自分の状況を確認した。
不審者(燕青)が薄着。自分の衣が乱れている。
「…………………………………」
少しだけうたた寝をしていた燕青も気づいて目を開けた。
「……ん〜ッ、はぁ〜〜〜、風が気持ち良くて俺も寝ちまったわ。―――お、気づいた?体調は?目の前で倒れられたからびっくりしたぜ」
「……………………少し、喉が乾いてるくらい……………」
「なら、コレ飲めよ。夏バテ予防になるんだと。姫さんが持たせてくれたんだ」
そう言いながら燕青は竹筒を涼佳に差し出した。
涼佳は衣の袷を整えつつ警戒しながら受け取り水筒を見て、下に敷いてある汚い衣に気づいた。
「…………………………迷惑かけたようね。悪かったわ」
そう言って竹筒の塩水を口に含めば喉が潤っていく。
口元を抑えるように拭ってまた気づいてしまった。
その一瞬の間に気づかなかった燕青はいつものようにのんびりとした口調のままだった。
「俺、謝罪じゃなくてお礼を言われた方が嬉しいな―」
「………………そう。あなたはあたしに殴られても仕方ないようなことはなにもないのね」
そう言われ燕青は思わずドキッとした。なぜバレたのだろうか。
黙っておけば誰も知らないことだから良いと考えていたのに。
「…え、あ〜〜〜〜〜……………。………倒れた時に、その……………水飲ませようと口移ししました……」
スっと上がった手を見て慌てて自分の顔面を腕で覆い、囁かな無実を訴えた。
「――タンマッタンマッ!!でも、これって人命救助だし!ほら!事故みたいなもんだろ!?殴られるのは勘弁して欲しいっつーか――すみませんッ――」
燕青の言い分を少し思案して、涼佳は渋々手を下ろした。
「…………………………それも、そうね。私が倒れなければよかったのだから」
殴られずに済んだことに燕青はホッ胸を撫で下ろした。
涼佳はスっと立ち上がると燕青の上衣を拾い土を落として、短くお礼を言って渡した。
仕事に行こうとする涼佳に、燕青は一応提案してみた。
「……なぁ、もうちょい休んだら?今度は過労でぽっくり逝っちまうぜ?」
「充分、休んだので大丈夫です。戸部尚書に迷惑がかかりますので、あなたも早く仕事に戻ってください。助けていただいたことには感謝します」
そう言って涼佳は早足に去って行った。
燕青、頬をポリポリとかいて思う。
「……なんか、野良猫みてぇ…」
それからという物、燕青は涼佳を見かける度に野良猫に挨拶でもするようによく声をかけるようになった。
相変わらず日差しの強い中、潤月は今日は内勤に回っていた。
いつもと変わらないだろうし、茶州から流入して来た賊達の動きが怪しかったこともあり、安全の為と言われ潤月は城外警備を外されたのだ。
……別に、そんなことされなくても大丈夫なんだけど…。
不服そうに口を尖らせながら、武官舎の広間で最近の報告書の整理を済ませていると、突然どこからか警笛の音が聞こえた。
何事かと頭を巡らせれば、部下が慌てた様子で入って来た。
「――賊の侵入です!!」
「茶州のか?!」
「………い、いえ、それが…………」
潤月は部下から聞いたその言葉に血相を変えて飛び出して行った。