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黄金の約束



今日の報告書をまとめて兵部に届けると武官舎へ帰る途中、潤月の足取りはいつもより重かった。
………どうしよう…。…涼佳はああ言ってたけど二人は仲良しだし…こ、断るだけ。断るだけでいいんだ。…でも、断って友達じゃなくなっちゃったら………悲しい……。
そう、潤月はだからこそ逃げていた。楸瑛に吐かされてから、改めて一人で考えた結果、悲しいのだと気がついた。
仲が良かったのに、恋人同士になりたいとどちらかが言ってしまったら自然と疎遠になると以前、後宮の女官達からそんな恋バナを聞いたことがある。
初めて出来た同い年の友達。大切な友達。あの楽しい日々は今も記憶の中に大切にしまってある。
だからこそ、再開出来た時は本当に嬉しかった。ひと目で彼だとわかった。だけど、本当に生きているのか抱きしめて確かめたい衝動を抑えるのに必死だった。
………再会出来たのに、普通に話せないなんて寂し過ぎる。
そんなことを考えながら、武官舎に向かっている彼女に声がかかる。

「………軍…」

――ああっ!どうしたらいい?!こういうの本当にわかんないよっ!どんな顔すればいいの!?私ってどうやって静蘭と顔合わせてたっけ??

「……将軍…」

――ていうか、いっその事殴って記憶飛ばす?…いや、頭突きして飛んでないから今さら殴ったところで、ただの暴力だ…………。それはいけない。

「―――潤月!」
「―!?」

グイッと肩を掴まれて驚き振り向くとそこには呆れたような顔の彼が居た。

「―ぅおっ?!なな、なんで!?」
「………考え事しながら歩いてると転びますよ、楊将軍」

『楊将軍』と言われたことに潤月は罪悪感のような後暗い、重たいチクリとしたものを感じて潤月は少し冷静になった。

「…………すまない。茈武官」
「いえ…。…………お仕事はもう終わりましたか?」
「…ああ。……待たせて悪かった。……向こうの方で話そう」
「…はい…」

そう言って、潤月は庭園の方に降りて行くとその後に静蘭も続いた。
誰の気配もしなくなった緑の生い茂る大きな桜の木の下にある四阿まで来ると前を歩く桃色の背中に声をかけた。

「……楊、将軍。こちらを…」

懐から取り出した文を立ち止まって差し出せば振り返った彼女は視線も合わせずに少しくたびれた秀麗からの文を受け取った。
その業務的な態度に静蘭の胸の内がザワつく。

「………お嬢様が、大変お会いしたがっています。なので、是非とも都合の良い日にいらしてください」
「……わかった。だけど、今は……難しい……」

はっきりと聞こえた拒絶の言葉に眉間に皺が寄りそうになる。
この際、キッパリと断られた方が傷が浅くて済むのかもしれない。
静蘭は腹を括ると、彼女が良い易いように言葉を選び訊いた。

「……………私のことを気にしているのか?…あれはもう気にしなくていい。気の迷いだったんだ。悪かった。…ただ、避けないでくれ。…………出来るなら、以前のように話せたら、それでいい。だから、お嬢様には会ってやってくれ……」
「――そ、そうじゃなくて!…………いや、なくはないんだけど…………今、昔お世話になった人の子達が遊びに来てたり、涼佳が泊まってたりで、ちょっと都合が合わないから………。その………」

彼女は頭を垂れさせ、横に流れる髪の中に隠れた耳が真っ赤に染まっているのを目にして、自分が今まで考えてた事と違和感が生じた。
思考が速く回転し始める。
…………もしかして…。
潤月は緊張して、手に握り締めた文を触って、形の良い唇をもごもごと動かしていた。静蘭は黙って彼女の様子を見つめた。

「…………ず、頭突きしたことは、ごめん………。だけど、びっくりしたから……。……静蘭の言ったことが、私には……分からない……」
「………わからない?…………私のことは、嫌いか?」
「………………、好き、だけど、……皆好きなのと同じ好きで……考えてて、断わらなきゃいけないけど、……友達じゃなくなったら、寂しいし、どんな顔したらいいかも、わからなくて……」

いや、待て。聞き間違いだろうか。
ついさっきまでの期待が静蘭の中で一瞬で崩れ落ちる音がした。

「………………………………断るのか?」
「…………だって、…アイツは、否定してたけど……静蘭はもう、結婚相手が居るだろう?」

顔を赤らめそろりと覗くように伺って来る想い人に鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
よろめきそうになる身体をなんとか足に力を入れて耐えつつ、頭の中で整理する。
………………………つまり、あれか…………。婚約者が居る友人に告白されて、困って避け続けていたとかそんなところか…………?
いや、いつの話だ。そもそも、婚約者なのは“清苑”であって今の静蘭ではないのだが…………。
ふと、前に言われたことを思い出す。
『―――清苑も静蘭も、“違う人”だけど、全部ひっくるめてキミ自身だよ』
つまりはそういうことなのだ。
静蘭は頭を抱えたくなって額を抑えた。

「………………お前は、本当に間抜けだな…」
「間抜けってな!」
「―――いいか。良く聞け。万が一にもないが、例え王命であの女と結婚しろと言われても絶対にしない。劉輝に詳しく、詳細に理由を聞いて、一言物申してトンズラするぞ、私は」
「……あの子と、同じこと言ってる…」
「…………………やめろ……………。…頭が痛くなる」

想像もしたくないが、あんな可愛げもない計算高い女と結婚などしたら、殺伐とした腹の探り合い、精神の削り合いが繰り広げられる夫婦生活となるに決まっている。
ゾッとすることを考えてげんなりしていると心配そうに顔を覗く愛しいと思える煌めく瞳と目線がかちあった。
彼女の恋愛観は無いに等しいのだろう。あんな小さい頃から大の大人達に囲まれて、ましてや養父はあの妖怪たぬきじじいだ。友人とそれ以外。恋人や夫婦がどんな関係かの知識はあれど、それを自分に当て嵌めて考えれないか、考えたこともないのだろう。
現にこの臨時の仕事中、想いを寄せる奴らの下心丸出しの行動を見て来たが、邪魔なら叱り、受け取ってもただの好意として感謝していた。
…………他人の機微には聡いくせに…。
静蘭はスっと近づいて薄い桃色の髪を束ねる玉飾りの髪紐に触れた。避けもしない様子に少しの安堵を覚えて息をつく。

「…………前言撤回だ。私はお前が好きだ。愛している。だが、今は返事をするな」
「……………………………どう、いう……」
「…まだ、友人のままで居ようと言うことだ。…私もいろいろと整理を付けないといけないことがあるからな…」

また唇を重ねることが出来てしまいそうな距離なのに、潤月は友人、という言葉を口にした。

「……友人…。……なんで、“まだ”なの。いつ友人、じゃなくなるの。なんで、…そんな寂しいこと、言うの…?」
「………お前、本当にわかってないのか」
「……???……」

小首を傾げわかってない様子に静蘭は少しムッとすると悪戯でも思いついたように小さく口角を上げた。

「別に、友人をやめるわけではない。これはお前次第だ」
「……私はずっと静蘭と友人でいたいと思ってるよ」
「…………それは、私が嫌だな…」

少し固く言った静蘭の言葉を拒絶と受け取った潤月は驚き、寂しさを滲ませて困惑した。
……あまり、この手の意地悪はしない方がいいな。
そんな様子に微苦笑を浮かべて、背後にある桜の木にそっと押しやった。薄い桃色の甘い香りのする髪を手に取り口付けを落とした。唖然としている間に素早く股の間に自身の足を入れ込み簡単に逃げれないように閉じ込める。
開いた手で陶器のような頬に触れるとやっと慌て出した。

「―せ、静蘭?!ちょっと、まっ―」
「――お前と友人以上の関係になりたいと言ってるんだ。だから――」

―――もっと、私を意識しろ。
耳元にそっと宣戦布告をすると潤月はぴゃっと真っ赤になった。




「―――菫少師。少しお時間良いですか」

変わらない朝議のあと、涼佳はいつも通り一番最後に大堂を出ようとすると珍しく黄尚書に声をかけられた。

「はい。いかがなさいました?」
「…礼部尚書が倒れたと報告をあって……混乱を招くと思い、朝議ではこちらの報告を控えましたが……朝一で、下吏から戸部の司政官の二人が倒れ出仕困難と報を受けました」

その報告に涼佳は目を見開いた。
急速に思考を回した。

「……そうですか…。……倒れた二人は高天蓋と碧遜史ですか?」
「はい……」
「…………お二人共に、お年を召してらっしゃいましたので、これまでよく頑張ってくださいました。今はゆっくりと療養するようお伝え下さい」
「…お気遣い痛み入ります。それで、人員の話ですが、今適当な“手伝い”が居るのでそれに臨時で司政官の権限を与えようと思っていますが、よろしいでしょうか?」

さらに珍しいことを言った同僚に思わず怪訝な表情をしてしまった涼佳は確認の為に、その名を口にした。

「…その適当な“手伝い”とは、もしかして……」
「私のところに、無精髭の熊男が居たでしょう。あの男です。名は『浪燕青』―――」
「…………は?」


施政室に赴くとこっそりと受けた先程の報告を劉輝に伝えた。
劉輝は思わず頭を抱えていた。

「……なんてことだ…」
「嘆いても仕方ないことです」

化粧で上手く隠しているが良く見れば、滲む隈から疲れが溜まっているのがわかる顔色で、書類を手に劉輝の前に立つ涼佳は淡々と現状の説明をした。

「礼部に関しては、尚書と侍郎共に倒れましたので、魯教官を代理に推薦します。長年礼部で働いている彼ならこの状況でも大丈夫でしょう。必要なら、私が入れば業務に問題はないと思います。吏部は例年に比べて業務効率が上がっているので問題はなし。工部、兵部、刑部に関しては最低水準を保ちつつもギリギリ業務にさわりない状態です。戸部は最後まで残っていた高官吏と碧官吏はだいぶお年を召されていたので、致し方ありません。戸部に関しては黄尚書と現状確認と打ち合わせをして現場の判断で業務執行をいたします。構いませんね?」
「―承知しました」
「……う、うむ。礼部に関してはそれでよい」
「それと、承認要請の書翰の催促が何件か来ています。早急にご確認くださいませ。―絳攸、午前中はこちらで王の補助を。紅尚書がお仕事されているのなら問題ないでしょう。処理する順番は絳攸の判断に任せます。行事方面の書類は重要順にこちらに書き出しておりますのでご参考に。それと、紫州州牧からお礼状が届いておりましたので、返信を書いておきました。内容はこちらに。それで問題なければそのまま出します。終業間際にはこちらに寄りますので、ご質問等あればその時に」
「―――はいッ!涼佳姉上ッ!!」

言葉が途切れた瞬間、劉輝が勢いよく手を挙げた。涼佳は深くため息をつき、彼の名前を呼んで指し示した。

「………………。はい、劉輝くん。なんでしょう」
「あ、…えっと。涼佳姉上が戸部に行くのはいいです。能力から考えても問題はまずないと思っています。ですが、各部署の雑務処理も、となると話は別です。これ以上仕事を抱えたら涼佳姉上が倒れてしまいます…」

腕に抱えていた料紙の束を片手に持ち替えて、腕を伸ばし劉輝の頭に軽く乗せた。

「…あんたね。今は誰だって顔色くらい悪いわよ。あたしだけじゃないわ」
「………でも、心配なんです…」
「……………全く。心配してくれるのはいいけど、“コレ”を通したいって言ってる本人が、今あたしを特別扱いしてはいけませんよね?」

そう言って、涼佳は劉輝の頭の上に乗せていた紙の束をドン、と机案の上に置いた。
ビクッと絳攸も劉輝も肩を跳ねさせる。――来たッ。

「こちらは返却です。急いでいることも加味して、特別に、ダメダメな箇所だけには朱墨で印を付けました。確認して考えてください。貴方もよ、絳攸。まだ草案の詰め方が甘いわよ。次回から正式採用したいと言うのなら、つけ込まれる隙のある草案は論外です」

恐る恐ると赤筆先生をされた草案を捲り、確認する。横から絳攸も覗けば、顔色が青くなって行く。
………また、全部ダメだった……。
事前準備もなしに、劉輝がいきなり切り出してしまった『国試の女人登用案』は先ず、劉輝が練り直し、絳攸が確認。及第点になるまで試行錯誤して、涼佳に最終確認をお願いしていた。
今日で五回目の挑戦だった。

「…………はい…」
「…………はい。………と、特に問題なところだけ……聞いておいてもいいか?…」
「―なら、要点だけ――」

三人の恒例のやり取りを楸瑛は畳に腰掛け見守っていた。
珍しいことに、楸瑛が感嘆の息を漏らす。
朝誰よりも早く出仕。終業後、他の文官が帰宅する中最後まで机案に向かい届いている雑務処理を終わらせて帰る。
男よりも肝の据わり方が違うのだとここ最近の彼女を見ていてつくづく思う。しかし、人にはそれぞれ体力の限界がある。それは彼女も、同じはずだった。
要点だけ伝えると、涼佳はふぅ、と息を吐き落ち着いた。

「―――と、まぁこんなところでしょう。心配してくれるのは有り難いですが、この草案を通したいのなら、今は私を使い潰すつもりでいなさい。いいですね?」
「…………」

返事がない劉輝を見やって涼佳は困ったように肩を落とした。
納得いかないとありありと顔に出ている。そんな困った様子に楸瑛も絳攸も心配はするが、彼女の合理的な言い分に納得していた。
むくれる劉輝を二人も宥めた。

「主上、“つもり”ですから。体裁での話です」
「涼佳様も潰れるつもりはありませんよ。それに実害は先ず有り得ません。黎深様が紅家の紋の扇子を贈っているので」
「そうですよ。自分の体力ぐらい自分で管理出来てます。適度に休憩も入れてますし、大丈夫です」

劉輝は、涼佳が言う“適度な休憩”が実は休憩とは言えないことを承知していた。しかしながら、こうして彼女を引き留めることが彼女にとっての負担を増やすことになることも理解していた。なんとも言えない板挟みに劉輝はただ黙るしかない。
少し考えた後、劉輝はしぶしぶ妥協案を口にする。

「…………なら、昼餉は一緒に食べましょう。来てくれなかったら私もお昼は食べません」

小さい子供のようなささやかな抵抗に涼佳は肩でため息を吐き出した。
……あぁ、そうだった。この子は聞き分けが良くみえて密かに望みを通すのが上手かったんだった。
清苑は周囲から称えられる優秀な手腕で望みを手にしていたが、悪列な環境に身をおいていた劉輝は無意識的に人が許容出来る妥協点を見分けるのは秀逸だったことを思い出した。

「……わかったわ。お昼には一度戻って来るから、あんたも頑張んなさい」

そう返事を返すと劉輝はパッと表情を明るくさせて、満足気に頷いた。


それから、涼佳の執務室に呼んでいた魯官吏と現状の報告を受けて、彼に代理権限を渡し礼部に関してはそれで落ち着いた。
回廊を歩いてると柱にへばりついてコソコソしているこの世で最も憎たらしい老吏の背中を見つけてしまった。

「……………………なにやってるのよ、クソじじい」
「――ッ?!………な、なんだお前か…。びっくりして心臓が止まるかと思ったわい」
「そのまま止まれば、世の中の為だったのに。惜しいことをしたわ」

皮肉を返しながら、霄太師が見ていた先をそっと覗いた。
これから城下警護に向かうのだろう潤月が兵部尚書・孫陵王と話し込んでいた。
涼佳はしょうもない覗き見をしている彼女の養い親をみやった。

「…………なんじゃ、その目は……」
「すみません。ただ、気持ち悪いなと思っていただけですが…顔に出てしまっていましたか」
「………お主は本当に、口を開けば嫌味しか言えないのか。ワシはあの子を見守っておるだけじゃぞ」
「見守ってるって言うよりも、付きまとっているという方が正しいのでは?口の悪さに関しては、どこかの上司様が散々こき使ってくださったので、上司の底意地の悪さが似ついてしまったのかもしれませんね」
「ホホホ、お前さんのような小娘を教育するとはとんでもなく慈悲深く懐の大きな奴も居たものだのう」
「………うざ……」
「―お?なにか言ったかえ?」
「…いいえ。なにも」

自画自賛して調子に乗せてしまったことに後悔しかない。
あの目も眩むような雰囲気を漂わせ、妖しく光る刃のような視線を送る戩華王と賭けをして、朝廷で働くようになってからこの男はそうだった。何故、お爺様が朝廷を辞したのか。己の定めた王に仕えることだけを誇りにしていた紫門菫家。ずっと疑問に思っていたが、それはこの男が居たからだ。
ふと、霄太師が大事そうに抱える壺に目をやった。霄太師はその視線に気づき、隠すように懐に壺を抱え直す。

「……まさかとは思うが……お主も“超梅干し”なんぞと言わぬよな……」

“超梅干し”―――。
霄太師が大事そうに持っている壺の中には東方諸島の特産で夏バテのさい食欲増進に効くといわれる梅干し。そのなかでも最高の効能わもつという“超梅干し”が入っている。それを口に含むと猛暑にやられた死者までもが立ちどころに蘇る、とかなんとか。
今、城で急速に広まっている噂である。
………噂の出処は、きっと彼だ。いや、確実に。
その噂の出処の正体を思い浮かべて涼佳は内心で称賛を送る。

「なわけないでしょ。そんなアヤシイものを口に入れるほど理性まで溶けてないですわ。っていうか、愛娘や宋隼凱様も部下も必死こいて働いてるんだから、アンタもふらふらしてないで働いてくださいよ」
「ふん。お主が動いておるのにワシが動く意味がわからんのう。それに、この程度の事態に対処出来ぬようにしごいたつもりはないのじゃがな」
「………………本当に…。………それでは、失礼します」

再び謗りの一つでも言ってやろうと思ったが、やめた。今こんなクソじじいに構ってる場合ではない。労力の無駄だ。
簡単に礼を取り、涼佳は戸部に向かう為つま先を変えた。
あっさりと引いて行く涼佳の後ろ姿を訝しげに見送っているとふと足を止めた彼女は振り返った。

「―あ、そうだわ。大事なことを言い忘れていましたわ。今貴方のお宅にお邪魔していますので。暫くは帰って来なくて大丈夫ですよ。邸に帰ってもあなたの顔を見るとかゾッとしますので。まぁ、どうして帰って来ないかは知りませんが、潤月が心配しておりましたよ―――霄太師」

最後の名前だけが回廊に大きく響き渡った。
それにギョッと目を見開くとけたたましい沓音がすぐに聞こえて来る。

「―お前ッ!!?なんてことをっ」
「――ここに居られましたか!今日こそ!今日こそはッ!」
「―霄太師っ!どうか、どうか!“超梅干し”を譲ってくださいッ!!」
「―ええいッ!!しつこい奴らじゃ!そんな物はないと言っとろうがッ!!」

名前を聞きつけた官吏達は、目を血走らせながら逃げる霄太師を追いかけて行った。
けたたましく遠のいて行く沓音を聞きながら涼佳は後ろ手に手を振って涼佳はその場を後にした。


朝議から戻った黄尚書は、仕事を初めていた景侍郎のほうへ歩みよった。そしてあっさりと、深刻な事実を伝えた。

「…………柚梨、高天凱と碧遜史が倒れた」
「ええ?あ、あのお二方まで!?ちょ…ええっ?」

コーン、と景侍郎の手から書翰が落ちた。みるみるうちにその顔が蒼白になる。
書棚の整理をしていた秀麗と燕青が顔を見合わせた。

「うわー、ついにあの二人まで倒れちまったのか」
「二人ともお歳を召してらっしゃったものね。……でもこれで」
「ああ。......施政官、あの二人だけになっちまったな…………」

各省庁から人手がきていたとはいえ、門外漢に戸部の指揮までは任せられない。ゆえに高官の負担はほとんど減らず、ここ数日もばったばったと倒れていたのだが、ついに施政の要職は黄尚書と景侍郎だけになってしまったようだ。戸部、絶体絶命の危機である。
しかし、次に言った言葉に景侍郎は覚醒した。

「それで、半日ではあるが菫少師が補助に入ってくれることになった」
「―――は?!あなた菫少師が今、尋常じゃない量の仕事を抱えているのを知っていて、そんな無茶なことを頼んだのですか?!――」

憤慨する景侍郎を宥めようとすると、落ち着いた女性特有の声音が先に割って入った。

「―――心配は要らないですわ、景侍郎」

もう見慣れた真っ白な官服を纏った涼佳が静かに戸部に入って来た。
慌てて礼を取ろうとする面々に手を上げてすぐに解かせた。

「それと景侍郎。心配をしていただいてありがとうございます。ですが、戸部が潰れては元も子もないのです。これで、戸部尚書まで潰れてしまったら、どうにも出来ませんので私が来ました。……私では不足ですか?」
「不足だなんて!!…………すみません、菫少師。心から感謝します」

戸部の現状を良くわかっている景侍郎は本当に申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
それに微苦笑を零すと、黄尚書をみやった。

「夏も過ぎます。じきに快復して人も戻ってくるはずです。あと五日六日ばかりの辛抱ですから」
「ああ。そうだな」

仮面で相変わらず表情はわからないが、さすがになんとなく疲れた声に聞こえた。一方では、疲れた顔色を隠しているのか、明らかに濃くなった化粧のその奥に溜まる疲労を汲み取った。

「あ、ああああの!」

振り向いた二人に、秀麗は一瞬いっていいものかどうか迷ってから、結局いった。

「その、私たち頑張りますから!一生懸命お手伝いしますから!ね、燕青!」
「へ?ああ、まあ、できることなら」

持っていた本を下段に並べながら燕青が生返事で頷く。何を思ったか仮面の尚書は秀麗に近寄ると、くしゃくしゃとその頭をなでた。珍しい光景に景侍郎が目を瞬かせる。
黄尚書は涼佳に視線を送ると静かに頷いた。

「……………そうか、じゃあ燕青」
「はいはーい。なんですか〜」
「お前を今から臨時に戸部施政官に加える。 高天凱と碧遜史の仕事を引き継げ。これが判子。筆、硯。仕事はあそこの机案に積んである。即刻取りかかれ。わからないことがあれば訊け。ああ、任命書はあとで適当につくっておく」
「……………はい?」

コトンと片付けていた音が止んだ。秀麗も唖然とした。今、何かすごいことを聞いたような。

「できることならやるといっただろう」
「そりゃいいましたけどね、でもちょっとそれはどうかと」
「私も適任だと思いますが?ねぇ、『浪燕青』?」

すっと左頬の傷に涼佳は手を伸ばす。 燕青はその指を避けるようにわずかに身を反らした。そしてそんな自分に気づいてしまった、という顔をする。その反応ににっこりと微かに笑む顔を視界に捉えて観念した。

「…………わかりましたよ。やりますよ。でもあとで後悔したって知りませんよ」

秀麗は仰天した。

「えっ、ちょっと黄尚書、菫少師ほんとにいいんですか?!!こんな髭もじゃ男にそんな」
「髭は関係ないだろー」

燕青は自分の髭をひっぱった。

「構わないな?柚梨」

黄尚書の問いかけに、何を思ったのか景侍郎もにっこりと頷いたのだった。
その後、涼佳は午前中戸部の手伝いをする中で書類の処理順を変えるよう指示を出して調整した。
その日の仕事は驚くくらいに順調に終わった。


夕餉の席で大興奮で今日のことを秀麗は話していた。

「―――本当に!凄かったのよ!ね、燕青もそう思うでしょ?」
「確かに。いや、俺もすげぇ奴知ってるけど……また、別の意味ですげぇって思った」
「黄尚書も凄い的確に仕事を割り振る方だと思っていたけど、涼佳様も素晴らしかったわ!仕事の順番を変えただけで、いつもの倍仕事がすんなり終わったのよ!届く書翰も言い当てるの!これって各部の状況を把握してないと出来ないことだわ」

鼻息荒く楽しそうに話す秀麗に燕青が、お米を口に放り込みながら不服そうにボヤいた。

「だけどよ、俺ってば、ただの護衛のはずだったのに……めっちゃ字が汚いって怒られるしよ」
「………そりゃ、他の人がちゃんと読める字じゃなきゃ…」
「なんだよー、ちゃんと読めるだろー」

膨れる燕青に秀麗がクスクスと笑うと、それを見て邵可も静蘭も頬を緩めた。

「ふふっ、そうかい」
「お嬢様が、楽しそうでなによりです」
「この時期になると秀麗は元気をよくなくすから安心したよ」

そう言った二人に秀麗の箸がふと止まった。

「ええ、楽しいわ。……でも、ひと月だけなのよね」

ポツリと呟いた秀麗に邵可の顔が陰った。

「秀麗………」
「いーの、わかってる。ひと月だっていいのよ。充分満足してるわ」

パクリとおかずを口に放り込み飲み込むと、秀麗は思い出したように口を開いた。

「―――あ、そうだわ静蘭。潤月様と今日も一緒の仕事だったのよね?」
「ええ」

その返事に秀麗はパッと顔を明るくさせた。

「―――それで、潤月様はどうだって…?」
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