黄金の約束
* * * * *
「―おいっ!も一回だっ!」
「休憩だってばっ!―――ほら、ないとは思いますがちゃんと水分取ってください。夏バテで倒れられたら、運ぶのに一苦労なので」
「……誰が倒れるかよっ」
そう言いつつ放り投げられた竹筒を宙で掴み、栓を抜いて豪快に煽った。
「―――にしても、あっちぃな!」
口の端から零れた水を腕で拭いながらぼやく白大将軍に潤月も顔にまとわりつく髪を払いながら同意する。
「本当に。…羽林軍は普段から鍛えているので、倒れる人が居なくてよかったですね」
「良くなんかあるかっ!十六衛が貧弱で余計な仕事が増えてんじゃねーか」
なにかと怒ってないと気が済まないのだろうか。見た目通りの気性の荒らい口調がさらに増した。
「―――あっ!十六衛っていやーよ!アイツ!全然首を立てに振りやがらねぇんだ!どうなってんだッ!」
内心でまた始まるのか、と潤月は毎度のように聞く愚痴にため息を吐いた。
「………私に言われても………」
「―――米倉門番なんざ、つまらねぇだろって言えば、『いいえ』。俺と酒でも酌み交わそうって誘っても、『いいえ』。燿世の奴に誘われてんのかって聞いても『いいえ』。どうなってんだ、アイツはッ―――」
白大将軍が言っている“アイツ”とは連日勧誘をしている静蘭のことだ。彼が入りたくないと言っているならそっとしとけば良い。第一に今来たところで、顔が合わせずらい。仕事ならば、致し方ないが………。
潤月はあれから二ヶ月――彼とは、ずっと会わないようにしていた。
上司のボヤきも聞かずに一人考え込む潤月に白大将軍は再び竹筒を煽りながら、引き締まった細い首筋をつたう汗を見ながらさり気なく言う。
「…おめぇよ、いつになったら嫁に来るんだ…」
「ああ、一生行かないから。他を当たれください」
「―――てめぇ!聞こえてんじゃねーか!」
振り回される拳を避けると、舌打ちして胡座をかいた白大将軍に潤月は話題を戻した。
「というかな。またそうやって、いびるの良くないと思います。羽林軍なんかに入ったら、どうなるのかくらいわかるでしょ」
彼の根底にある剣筋は“王家の剣”だ。上手いこと隠してはいるが、宋太傅や楸瑛のように見る者が見ればすぐにバレる。それは、きっと彼が望むところではないのだろう。
「いびってねーよ。強いなら過去とか何者とか関係ねぇ。――燿世の奴も同じろうが――“俺が”欲しいんだ!おめぇが居るのがいい証拠だろうが!」
胸を張って豪語する白大将軍をみやって潤月は口元を緩めた。
「…………なら、仕事として誘ったらいいじゃないですか?白大将軍の話を聞いてくれるかは別として」
妙案を得たと言いたげに白大将軍は豪快に膝を叩く。
「―その手があったか!よし、お前誘って来い!」
「なら、楸瑛に頼んでおきますね」
「…おめぇも主上付きで顔見知りだったろ。なんで楸瑛なんかに頼むんだ?」
「………いや、まあ。私なんかより楸瑛の方が仲良いようなので頼みやすいと思いますよ」
そう言った潤月に白大将軍はふぅんと目を細めた。
「……なんかあったのか?」
「……………いや〜…」
潤月は合わないように自然を装って逃げているのだが逆に静蘭は毎日潤月を訪ねて来ている。
『―お嬢様から楊将軍に文を預かっています。直接渡すよう言われているので、また来ます』
そう言って、誰にも文を預けずに次の日も来るのだ。
一度楸瑛に協力を仰いだが、結果的に玉砕してしまった。更に、羽林軍の稽古場や武官舎は倉庫区と近接しているため、宮中警護の際に鉢合わせしないようにするのは非常に困難だった。しかし、潤月は何とかしてその障壁を突破していた。
「―あ、そうだ。早速、楸瑛に伝えて来ますね!」
急いで、稽古用の剣を手に彼女はそそくさと武官舎に向かった。
細心の注意を払い劉輝が執務室として使っている室に向かい、扉の前で立ち止まった。物凄く怒られている声が聞こえる。
ちょっと待っていようかと思っていると、扉が勝手に開いた。
「―やぁ、稽古お疲れ様だったね。意外と早く終わったのかい?潤月。中に入ったら?」
「……今、取り込み中じゃないのか?」
「…あ〜、取り込み中だけど構わないと思うよ」
そう言う楸瑛にため息を吐きつつ、潤月は執務室に入った。
中では怒られている劉輝が椅子にこじんまりと座って居る。
「―本当に馬鹿。信じられない」
「―論外だ。なんの根回しもしてないんだぞ」
「それに、なに?こんな草案でよく通ると思ったわね」
「……つ、つい…気持ちが早って…。それに、涼佳姉上が居るので、通ると思って…」
「姉上言わないっ!先王は半ば強制で通したの!!反発はあっても捩じ伏せられる力があったのよっ!アンタに同じことが出来るっていうの?!」
黙って様子を見て居ると、隣りに楸瑛が立った。
「今日の朝議でね、国試に女人登用を正式にしたいと議案に出してしまったんだよ」
それを聞いて潤月は唖然とした。
「…………本当に?」
「本当に。絳攸も止める間もなかったよ。それで、主上の出した草案を見た黄尚書が無言で退室してしまってね。もう、夏の暑さを忘れるくらいの空気だったんだ」
冗談ぽく言っているが、事実大堂の空気は凍り付いていた。
「…あ〜、なるほど」
「もう少ししたら、止めに入ろうかと思っているところだよ。主上になにか用事かい?」
「いや、用事があるのは楸瑛だ」
意外だと言わんばかりに楸瑛は数回、目をまたたかせた。
「なに用かな?お茶のお誘いなら喜んで付き合うよ」
「阿呆抜かせ。今度静蘭に会うなら白大将軍からの言伝を頼みたい。仕事として、茶州からの賊退治に参加しろって」
……私があの彼と交渉しろと?
「……………ちなみに、日当の上限は?」
「……うーん、急な話だし…高くても金三、引き上げられても五、辺りが妥当だろうな。―よく、行くだろ?」
最後の小声に楸瑛はキミも来ればいいとはまだ言わない。
肩で息を抜いて了承した。
「…………………わかった。善処はしてみる。断られても、文句言われないようにしておいてよ」
「悪いな。頼んだよ」
とんでもないことを頼んでくれた代わりに楸瑛は潤月に訊いた。劉輝の説教も潤月が来たことでいつの間にか終わっている。
「そういえば、秀麗殿の文を持って静蘭がキミのことずっと探しているよ」
静蘭、と言えば彼女はバツが悪そうに身を縮めてそろそろと後退りする。
「………あ〜、他の奴からも同じこと聞いたなぁ〜。ちょうど、合わないんだよな、たぶん…うん」
下手くそなはぐらかし方で後退る潤月の腕を良い笑顔でがっしり掴んだ。
「―――キミさ、私に二度目の頼み事だよね?そろそろ理由を聞いてもいいじゃないかなって私は思うんだけど?」
「………ぁう……えっと……」
ほとほと困った様子の潤月に絳攸が心配そうに声をかけた。
「……………なんかあったのか?前は普通に喋っていたのに」
「潤月、兄上と喧嘩したのか?!どうして!」
劉輝の兄上呼びに涼佳は気をつけなさいと手刀を脳天に食らわして、潤月をみやった。
「ま、でもそうなるわよね。アンタ、挙動があからさまにおかしいのよ」
「………あ〜〜…」
「まさか、口付けでもされたかい?」
楸瑛は椅子を潤月の前に持ってきながら座らせる。からかうつもりで発した言葉だった。
彼を思えばそんな衝動的な行動は先ず有り得ない。想像ではあるが、きっと逃げ道を塞いで頷くしかないように仕向ける
そう言った楸瑛に涼佳もまさかと笑った。
だが、潤月の反応は違う物だった。
ボッと真っ赤になった潤月に空気が止まる。
「………え、待ってよ…」
「………………本当に?…冗談のつもりだったんだけど………」
赤面したままの潤月を見て、鳩尾のあたりがモヤッとしたことに僅かに眉根が寄る。絳攸は一人、不思議に思い首を傾げた。
最近は普通に喋れて喉が詰まることも腹の居所が悪くなることもなくなった。慣れたのだろうと自分でもわかる。なのに、なぜモヤッとしたのだろうか…。
そんな絳攸に気づかない涼佳は潤月に訊いた。
「それで?逃げてる理由はなに?襲われたとか言わないでよ。私の中のアレの評価が虫以下になるから」
「…涼佳、の静蘭の評価は今どこなのだ?」
聞いたらいけないとおもいつつ劉輝は確認の為、恐る恐る訊いてしまった。
「決まってるじゃない。出会った時からクズ男よ。まだ人間認定してるだけ、甘いと思うわ」
「………い…」
潤月が俯きながらごにょごにょと喋り始めた。
「……いきなり、で………い、いろいろ、と言われて………」
「うん。で?」
「……本当に、びっくりしたから……………………頭突き…して、……………………逃げた………」
頭突きして逃げた。
静蘭に?……………あの、静蘭に?
充分に鐘が三つ分鳴る間が空くと、楸瑛と涼佳は人目もはばからずどっと声を出して笑った。
「―わ、笑うことないだろ!!本当に驚いたんだもん!!」
「それ本気で言ってる?だって、アレよ?クフ、客観的に見て、顔だけはいいじゃない?普通…そんな、……ねぇ?」
「…………まぁ、確かに…クク、彼が口説いたとしたら並の女性がイチコロだろうからね。それを考えると、………頭突きって…」
「…その上、逃走…………って…。ダメ、…………あ、あたし、もう、お腹痛い………アハハ!」
「主上の微笑ましい夢の話も、面白かったけど、キミの話もなかなかだね」
「微笑ましくないっ!あれは悪夢だっ!」
なんの話かと小首を傾げると楸瑛はぷりぷりと怒る劉輝を気にせず話し出した。絳攸はまたかと呆れたように書翰の整理をしだした。
話を要約するとこういうことだった。
夢に秀麗が出てきて劉輝はやっと結婚できると思い秀麗を自分に引き寄せ、口付けをしようとした。すると突然、秀麗が腕の中からいなくなり、静蘭に抱きついていた。二人は幸せそうに笑い合い、お金の話をしながらどんどん遠ざかっていった。過去の男達(愛人)にすがりつかれながらも劉輝はあとを追ったがそこで目が覚め、寝台から落ちて頭を打った。そして、タンコブが出来た。
毎日、頓珍漢な贈り物をしているようでなんの進展も文の返事さえもないから見たのだろうと涼佳は思っていた。
藁人形を贈ったと聞いた時は流石にと思い、こっそりとそれがクソじじいからの意地悪だと教えてあげたこともあった。
話を聞いた潤月は立ち上がると劉輝の額に手を伸ばして撫でた。
「タンコブは大丈夫?もう痛くない?」
「…………潤月だけなのだ。余を心配してくれるのは……」
潤月の優しさに涙を流したのもつかの間。その柔和な面差しから無邪気に口を開いた。
「でも、確かに。静蘭は秀麗ちゃんのこと慕ってるし、夫婦になってもおかしくはないよね」
「―――ダメなのだッ!!いくら兄上でも、それは――」
「コラ。今は兄上って言ったらダメだろ?」
額を小突かれて劉輝はウッと口を噤んだ。
「―まぁ、秀麗ちゃんは全商連の王都支部にも良く賃仕事に来てくれているようで、大変人気よ」
「そうそう。元気で賢く働き者で器量よし。ぜひうちの嫁にほしいと近所の方々が口々に」
「それに可愛いしね」
ちなみにそのあとにつづく言葉は『でも、静蘭がいるからねぇ』
なのだが、楸瑛も涼佳もそこまではいわないでおいた。
純情な青年の心をあっさり打ち砕いてはいけない。
「………でも、余はこまめに文を送ってるし、言われたとおり贈り物もたくさん……。――って、余の話よりもだ!」
話題を変えたくて、無理やりにでも劉輝は話を戻した。
「…その、潤月は兄…じゃなかった、静蘭のことが嫌いなのか?」
核心に触れる質問に楸瑛と涼佳は笑いを引っ込めた。やや間があって薄い唇が開かれた。
「………好きか、嫌いかで言われたら…好きだよ」
恥ずかしげに言う彼女にまたもやモヤッとした。絳攸は、今度は鳩尾の辺りを触った。
視界の端で旧友の様子におくびにも出さず楸瑛は苦笑する。
少し前に自分でなんとか気持ちに整理を付けようとしていたので、見守っていたがそろそろ人の意見が必要だろう。
………本当は自分から頼って来てくれるのを待っていたんだけどね…。
このままでは、友人の大事な初恋が破綻まっしぐらだ。そもそも、相手はあの元第二公子様。今のうちに手を打たねば、気づいている向こうに恋を自覚しないまま黙殺されかねない。
旧友を思いやっている中、潤月はまだ言葉を探しながら喋っていた。
「でも、………好きだけど。皆好きだし、大事だから………分からなくて、困る……口、付けはびっくりしたけど……よくされるから…別に、それほどって感じで…………」
…………聞き間違いだろうか。
問題発言が今あった。
「………………ちょっと待つのだ、潤月」
「……口付けをよくされるって、どういうことだい?誰に?」
何故そこに引っかかっるのか。
潤月は少し怒り気味の二人に妙な顔をしながら、あったことを思い出しながら指を一本広げ話しだした。
「…えっと…一回目は、確か殺人賊の参謀とかいう女盗賊で、ちょうど遠征訓練の時だったかな。目付けられて、人質と交換で連れてかれそうになって…抵抗出来ないように口移しで麻痺毒飲まされた時。………あの時は身体も上手く動かなくて少し危なかった」
人攫い。人身売買。酷く危なかったのではないか、と楸瑛と劉輝は思った。
いや、訓練中にそういうことに遭遇することはままないことではない。霄太師の娘でなくても、彼女の見た目なら貴族の変態共には高く売れるだろう。
もう一本、指を広げて潤月は言葉を何故か詰まらせた。
「二回目以降は…………………………主に、酒の席で…………一応、ソイツの名誉の為にも、匿名を希望する…」
「……匿名って、誰よ」
「………………………性別を言えば女だよ。ソイツも…」
何故か潤月は恨めしそうに言い捨てた。
それ以上は言わない潤月に特定するのをやめた涼佳は顎を触って、一人でふむと頷いた。
「ねぇ、潤月。劉輝のことは?好き?」
「好きだよ」
即答されて、劉輝はにへらと笑った。
「楸瑛様は?」
「好きだよ」
「本当かい?ありがとう。私もだよ」
「絳攸は?」
「好きだよ」
「……………あ、ああ」
真正面から素直に向けられた好意に各々返事をした。
楸瑛はその意味を把握して素直に返し、絳攸は体内で響く心臓の音が漏れないように鉄壁の理性で平静を装っていた。
「―あたしは?」
「……………お前は、嫌いじゃない」
嫌いじゃない、と微妙な評価なのに涼佳も満足気に微笑む。
『嫌いじゃない』悪くないわ。
きっとその立ち位置に居れるのは自分だけだと思っている。
涼佳の質問の意図を理解した潤月は口を窄めて下を向く。
「………だから、分からなくて困ってるんだよ。言われたことが理解できないから…好きに区別なんか付けれないだろう。皆好きで、大事で、大切だから…」
妙な顔をする潤月に涼佳は面白いものを見たというように笑う。………この子にこんな一面があったなんて、知らなかった。
普通にそこら辺に居るような恋愛に鈍感な女の子のようだ。
「―――まぁ、いいんじゃないかしら?アンタが苦悩するなんて珍しいもの」
悩みなさいな、と涼佳は自分の仕事を再開した。
「………聞き出しておいて、結局それなのか」
「だって、アンタ。今話した感じだと、もう答え決まってるでしょ。他人というか、友人だと思ってた人にそういう好意を向けられたことに悩んでるんじゃないの?」
「……まぁ、断るは断るんだけど…………ちょっと、違う気がする…?」
それよりも、なんというか………。寂しい……?
胸の前で腕を組んで潤月は頭を捻る。
「―えッ?!どうして断るのだ?!…」
ハッと出た言葉に劉輝はそっと口を噤んだ。密かに隣に立つ絳攸を気にかける。
劉輝の驚いた声に潤月はまたもや爆発物を悪気なしに投下した。
「……だって、涼佳と静蘭はいつか結婚するだろ?元とはいえ許嫁だったんだから」
その場の誰もがギョッとすることを言う。
それは涼佳にとって地雷だった。細い腕のどこにそんな力があるのかと思いたい。バキッと筆が折れた。
「………アンタ、まさかとは思うけど……………。あ、あたし、とあの男が、け…結婚、するだろうから……断るとか…阿呆なこと……………………言わないわよね……?」
「―――待つのだ、潤月。良く考えて言うのだっ!」
「…え、そうだけど…。良く考えてもなにも、昔から息ぴったりで仲良かったじゃん。お似合いだと思うよ?」
劉輝の制止も虚しく、不可解と言いたげな表情をする潤月にプルプルと細い肩が揺れている。
「―――こんのっ!間抜けぇーいっ!!」
潤月の脳天に落ちた特大の雷にぴゃっと目を瞑った。
「―アンタってなんでそんなに間抜けなのっ!?いい?!良く聞いてっ。例え、天と地がひっくり返ったとして、勅命であの男と結婚しろとか言われたら、あたしは迷わず自害するわ!その方が全然マシ!」
「い、言わないから自害だけは…」
「…………そう、なのか……?」
涙目になっている劉輝は放っておいて、解せぬ、と顔に出ている間抜け面に涼佳は頭痛がした。
「…………アンタの、その間抜けさは“頭痛が痛い”と同じよ……」
「頭痛が痛いのは当然だぞ?頭痛って言ってるんだから」
「…………キミね……そういうことを言ってるんじゃないんだよ…」
………これは、なにか対策を取らないと…。
とりあえず、こんな話はもう終わりにしたい涼佳は折れた筆を屑篭に片付けて話題をおもむろに変えた。
「……もう、いいわ。この話はまた別の機会にしましょう。―ねぇ、これは個人的なお願いなんだけど。暫く、アンタの邸に泊めてくれない?今は移動時間すら勿体ないの」
現在、人手不足による窮地に陥っている朝廷に移動時間は無駄だった。寝泊まりすればいいのだが、風呂だけは譲れない。
潤月は終わった話に安堵を覚え二つ返事で了承した。
「別にいいよ。今、霄じい家出中だし」
……………………なんて?
四人は同じことを思った。部下である、涼佳が一応、訊いてみた。
「……家出って、なんでよ…?」
「前にすっごい怒ったでしょ?アレ以来、帰って来ないの。そりゃあ、いろいろ考えて仕事してるのはわかるけど……喧嘩も稀にするけど、その時は口聞かないぐらいだし…。……ちゃんとご飯食べてれば、いいけどな………」
………子供か、と思ったが口には出さなかった。
心配そうに息を吐く潤月の姿はどちらが親なのかわらない。
雑談を終えたあと、楸瑛と絳攸は定時で帰宅した。
思いがけず、話し込んでしまった涼佳は残った仕事を片付けて書翰を届けに席を外している。
執務室の片付けを手伝っていると、劉輝に声をかけられた。
「―潤月。そなたは父上を知っているだろう?」
「うん。専属の間者してたし」
「……父上は…いや、先王は潤月から見て“いい王様”だったか?」
「……私なりの意見を言っていいの?」
「ああ。頼む」
潤月は暫く考えて、口を開いた。
「…私は先王を…戩華おじさんを王として見てなかったんだ。出会った時から最後までただの歳の離れた友人だった。それが“約束”だったから」
「……ん?だが、間者をしていたのだろう?」
「うん。手伝ってほしいって言われたから。お手伝いしてたよ。だけど、ただの一度も膝を折ったことはないよ。遊びながら知識と力、生き方を教えてくれた。すっごく感謝してる。だけど、……だけど、“いい王様”かって言われたら疑問しか残らない、かな。最後まで、寂しそうな王様だった印象かな」
たくさんの贈り物をくれた大切な友人。最後の最後まで、私との約束は守ってくれなかった酷い友人。
「どう?今のでなんかの参考になった?」
「ああ。ありがとう」
頷く劉輝に、潤月はにっこりと笑みを浮かべた。
そうこうしてるうちに、涼佳が戻ってくる。劉輝は涼佳にも二、三大事な質問をすると、その内容を書き出していた。
「―それじゃあ、私達もこれで失礼するわ。明日から早朝出仕するので、他に聞きたいことがあればその時にでも。おやすみなさい」
「ああ」
「劉輝もちゃんと寝るんだぞ!また明日な。おやすみ〜!」
「おやすみ、潤月、涼佳」
おやすみ、とそう言った二人を見送って劉輝は一人口元を緩め、引き出しの中から草稿を取り出して一人向かい合った。
翌日。茶州・賊捜索討伐任務で住民の聞き込みをしたあと潤月は、兵を連れて路地裏を見回っていた。
「手分けしよう。二人一組で必ず行動しろ!賊らしき人物を見つけたら、警笛を忘れるな!」
潤月の指示に男達の野太い声が短く響く。
右羽林軍・皇子竜将軍と静かな路地裏に入って行った。慎重に辺りを見渡していると二人同時に迫る気配を感じ取り、身構えれば柄に掴みかかる。
―――が、潤月が寸前のところで手を上げ子竜の警笛を制した。
「―我らが悪名高き“茶州の禿鷹”っ!茶州では超有名人であるぞ!!なにを隠そう、貴様らが血眼になって探している凄くて悪い大物なのだ!」
「…お、親方!早く、早く目的の口上を言わないと捕まっちゃいます!」
「―ば、馬鹿者!口上を言っている時は手を出されないという暗黙の了解があるんだと教えただろうっ!それでは田舎者であると言っているようなものだ!それに登場時の挨拶は命をかけていいほど、なによりも一番大事な場面なんだ!」
バッと目の前に十歳前後の子供が二人突然降り立ったかと思えば、なにやら揉め始めた。
小さい方がお頭と読んだ少し背の高い少年の言葉にハッと口元を両手で隠す。
「…す、すいません、お頭っ」
「ええい、とにかく続きだ!…………えっと、…なんだ…………」
「……親方、我らは女で男の武官が持つ大事な物を貰いに来たことと断られた場合は問答無用で暗殺、です」
「おお、そうだった!お前は素晴らしい右腕だ!よし―――女で男の武官が持っている大事な物を渡してもらいに来た!イヤだと言うなら、問答無用で暗殺致す!」
「決まりましたっ!かっこいいです!親方っ!」
「………………えっと………」
「………………」
惜しみない拍手を送り、それを受けて胸を張る子供達に潤月も皇将軍も呆然と立ち尽くしてしまった。
潤月はこんなにも困る勝負の申し出を受けたことがない。
一方、その頃。外朝の回廊をガラガラと手押し車を押した無位無官の白い官服を着た涼佳が歩いていた。
異様な静けさを放つ扉を叩き、押し開くが誰も女人の方を見なかった。所定の位置に処理した書翰を手押し車から取り出し積んで行く。
「―こちらに処理した書翰を置いて行きます。よろしくお願いします」
「ありがとうございます」
顔も上げずにお礼を言わた。涼佳は淀みない筆の音を聞き、吏部の中を見渡す。乱雑に積み上がった書翰や書類、床に散らばる不要な料紙。
深く息を吐き出して、吏部の奥で懸命に筆を動かす見知った顔の官吏に近づく。
「…そのままで結構です、李侍郎。紅尚書は居るかしら」
「…菫少師っ。はい……………奥に……」
「わかったわ」
「………すみません。…ありがとうございます」
申し訳なさそうに言った絳攸はそれでも手を止めずに、気配だけで見送った。吏部に居る面々も固唾を飲んで結果を待った。
尚書室に入ると目の前に広がる料紙の白い壁にウっと面をくらった。
「―崩すなよ。絶妙な均衡を保っているんだ」
白い壁の向こうから聞こえた声に呆れたように息を着き、細心の注意を払いながら室の中に入って扉を閉めた。人一人分通れるだけの隙間を通っていくと椅子に座る人物に向き合った。
紅家特有の癖のない黒髪に、深い色の瞳、整って彫りの深い顔立ちの男は扇で目元まで隠して涼佳を目線だけで見ていた。
「……こんなに溜めて、呆れた。仕事しなさいよ、黎深」
「嫌だね。それに、お前は私に貸しがあるだろう」
吏部尚書、紅黎深。現紅家当主でもあり、“怜悧冷徹冷酷非情な氷の長官”と異名を持つ男。本気を出せば、一年分の仕事も三日で終わるというのに、今室の中は天井まで届きそうなほどに積み上がっている。
その黎深が紅家の色を持つ扇子を涼佳に渡した。それは、彼女が紅家の庇護下にあるという証だった。牢屋から出て来たばかりの頃はまだ噂程度で信じる者もいなかったが、外朝を歩く姿を目撃されることが多くなり、よからぬ事を考える者が出て来たことで黎深は扇子を渡した。
あの時は、紅秀麗が狙われているから絳攸に銀の茶器を運ばせるという話をしただけだが、涼佳はこの目の前の人物の意図をわかっていた。
……どうして、こんなに好かれたのかしら。さっぱりだわ…。
「…持ってたおかげで助かったわ。感謝してる」
「なら、辞めろ」
「辞めない。仕事して」
「嫌だ。…アレは違う」
「そんなことないわ。それ以上よ、きっと」
「……強情だな」
「貴方もね。あたしが決めたの」
「………ふん…」