黄金の約束
朝、出仕の支度をして家人が用意してくれた朝餉を食していると、届いた文を渡された。
誰からだろう、と差出人の名前を見て意外な人物に手を止めて文を開いた。
* * * * *
今日も四省六部の長が居並ぶなかで、いつもと同じように次々と議案が処理されていく。
「今年はずいぶんな猛暑で......」
本日の朝議進行役である戸部の景侍郎は、いつも穏やかな笑みをたたえる好人物なのだが、今日は珍しくもうあとがないといわんばかりのせっぱ詰まった顔をしていた。
それもその筈、今年は例年に比べ物にならないほどの猛暑が続いている。その中でも朝廷は被害が尋常ではなかった。
暑さで倒れ人手が足りず、少ない官吏が過労でさらに倒れるという悪循環が発生していた。
「―早急に手を打たねばなりません。どなたか良案はございませんか」
一番の被害を受けて居る景侍郎が在籍する戸部はもともと官吏が少ないうえ、今夏の猛暑と、部下をこき使いまくることで有名な戸部尚書のおかげで、現在戸部は空前絶後の危機的状況であった。
この朝議には王も出席していた。即位して半年間ほとんど政事を執らず、後宮にこもりきりの昏君と囁かれていた彼であるが、ここ数ヶ月で見違えるように変わったと最近ひそかに評判である。朝議には欠かさず出るようになり、政務態度も目に見えて改善した。
やがてぱらぱらと、おざなりにいくつかの案が出される。しかしどれも決定打にはならなかった。こういう問題では、結局暑さが過ぎるのを待つしかないのである。
そんな中、ふと、誰かが口を開いた。
「………菫少師なら、戸部でも…」
その発言に誰もが、確かにと頷き始めた。当人である涼佳は何も動じず涼しい顔をしていた。
王はそのいずれにも頷いたのち、ぐるりと一同を見回した。
「財政を預かる戸部が機能しなくなったら、国はもとよりみなも困るだろう。禄が正常にふりわけられなくなったら、米でなく麦ご飯になるのだぞ。それは悲しいことだろう」
微妙に頓珍漢な台詞に、朝臣たちは目を点にした。
………なぜ麦ご飯。
一人、吏部の紅尚書だけは笑いをこらえるかのように口許に手をやっている。
「だが、菫少師は既に各部署の大半の仕事を補っている。彼女が戸部に専念するというなら、彼女に任せている仕事が戻ってくることになるが、構わぬか?」
王がそういうとうっと、各長官たちは顔を引きつらせた。
そして、各省庁から適当な人材を貸し出すということで王はこの議案をまとめた。
残りの議案をつつがなく消化していき、進行役の景侍郎が終わりを告げようとした時、王に押しとどめられた。
その時、涼佳は劉輝とチラリと目が合ったのが気のせいだと思いたかった。
―――――まさか。
「―最後に、余から一つ聞いてほしいことがある。なにを突然、と思われるかもしれない。だが、聞いてほしい」
喋り出した王を見て涼佳は顔には出さなかったが、内心で冷や汗が止まらなかった。
―――劉輝!止めなさい!
必死の念話も虚しく王は朝臣一同に注目される中、しっかりと聞き取れるようにゆっくりとはっきり告げた。
「今年の国試から、女人受験の導入――これを本格的に実施したい」
* * * * *
男はドスン、ドスンと日差しが照りつける暑い中をその肥えた腹を揺らし歩いていた。少しでも涼を取ろうと扇であおいでいるのにちっとも涼しくならないからイラついていたわけではない。
「…なにが、女人試験導入だ。ふざけるなっ」
政事は男の物だ。
第一に何故あの女が朝議に出ている。王位争いで罪を犯して牢に入ってたのではないのか!?神聖であるはずの朝廷を女が汚しおって!何故平然とまだ居るのだ。
男は、機嫌の悪さを隠しもせず、回廊を歩いていた。すれ違う周囲が彼の気分の荒さから漏れる雰囲気に気を配るほどに。しかしながら、男自身はそのことに気づいていないようで、ただただ前だけを見つめて、足を進めていた。
王の周りをうろちょろしおってどうせ身体を開いたに決まっている。故に、あんなに平然とここに居られるのだ。無位無官の冗官のくせに肩書きだけ高いのがさらに気に食わん。
いくら扇ってもとれない涼しさに身体にこびり付いた脂肪から汗がドっと流れでる。余計にイライラする。
扇いでも涼しさが身体に伝わらず、脂肪の重さが身体にこびりついたまま、汗が滝のように流れ落ちる。ますますイライラが募る。
しかし、問題はそこではない。この暑さで仕事ができるだろうかという疑念から男は考え直した。そして、夏バテで部下が次々と倒れる事態に陥ってしまっている。
男は暑さに耐えかねたのか、もう一度よく考え直した。こんな暑さの中本当に仕事ができるのかと疑問を抱いた。次いで、夏バテで部下が次々と倒れる事態に陥っている自分の部署を思い浮かべる。彼は、もはや仕事を続けるべきではないのではないかと考えた。―――そうだ、彼らが倒れればいいのだ。という思いが浮かんできた。
男はハタっと足を止めて脂がこびり付いた口元をニヤリと上げた。なんて、天才なのだろうかと自画自賛に心の内で拍手を送る。…少し、金はかかるが必要経費として計上すれば誰の懐も痛まない。
自分は働かなくても、仕事は勝手に処理され、部下からは思い遣りのある上司だと賞賛される。尚且つ、やはり大変だと投げ出して、逃げれば国試の件も無くなる。円満な解決策を思いつくことができるなんて、自分の才能にはつくづく驚かされる。
武官の女人については、口を出しにくい。彼女に対しては婚期を逃すほどの大猿という噂を聞いたことがあった。しかし、女人に負けるような武官は、本当に王の剣である存在とは言えまい。どうせ武官共も大したことなどないのだろう。男は、扇で口元を隠しながら、クククとほくそ笑った。
…そうだ、朝廷三師の霄太師殿のところに実は美しい娘が居ると噂で聞いたな。
あのなにを考えているのかわからない妖怪のような老人が今までひた隠しにしている娘だ。きっと、さぞかし可憐なのだろう。先ずは、文を出してお伺いを立てねばならぬな。
あの老人は純粋な貴族ではないが、 先王に仕え大役を成し今の権力を手に入れた。そういう者に礼をかいては高名な貴族の仲間入りの前に名折れてしまう。
そうだ、それがいいと小さく口にして男はさらに顔面の脂肪を持ち上げると、先程とは違い軽やかな足取りで自分の職場へと向かった。
暫くして、主上の耳に礼部の官吏が次々に倒れ、無理をした礼部尚書までが疲労に倒れたと一報が入ったのだった。
誰からだろう、と差出人の名前を見て意外な人物に手を止めて文を開いた。
* * * * *
今日も四省六部の長が居並ぶなかで、いつもと同じように次々と議案が処理されていく。
「今年はずいぶんな猛暑で......」
本日の朝議進行役である戸部の景侍郎は、いつも穏やかな笑みをたたえる好人物なのだが、今日は珍しくもうあとがないといわんばかりのせっぱ詰まった顔をしていた。
それもその筈、今年は例年に比べ物にならないほどの猛暑が続いている。その中でも朝廷は被害が尋常ではなかった。
暑さで倒れ人手が足りず、少ない官吏が過労でさらに倒れるという悪循環が発生していた。
「―早急に手を打たねばなりません。どなたか良案はございませんか」
一番の被害を受けて居る景侍郎が在籍する戸部はもともと官吏が少ないうえ、今夏の猛暑と、部下をこき使いまくることで有名な戸部尚書のおかげで、現在戸部は空前絶後の危機的状況であった。
この朝議には王も出席していた。即位して半年間ほとんど政事を執らず、後宮にこもりきりの昏君と囁かれていた彼であるが、ここ数ヶ月で見違えるように変わったと最近ひそかに評判である。朝議には欠かさず出るようになり、政務態度も目に見えて改善した。
やがてぱらぱらと、おざなりにいくつかの案が出される。しかしどれも決定打にはならなかった。こういう問題では、結局暑さが過ぎるのを待つしかないのである。
そんな中、ふと、誰かが口を開いた。
「………菫少師なら、戸部でも…」
その発言に誰もが、確かにと頷き始めた。当人である涼佳は何も動じず涼しい顔をしていた。
王はそのいずれにも頷いたのち、ぐるりと一同を見回した。
「財政を預かる戸部が機能しなくなったら、国はもとよりみなも困るだろう。禄が正常にふりわけられなくなったら、米でなく麦ご飯になるのだぞ。それは悲しいことだろう」
微妙に頓珍漢な台詞に、朝臣たちは目を点にした。
………なぜ麦ご飯。
一人、吏部の紅尚書だけは笑いをこらえるかのように口許に手をやっている。
「だが、菫少師は既に各部署の大半の仕事を補っている。彼女が戸部に専念するというなら、彼女に任せている仕事が戻ってくることになるが、構わぬか?」
王がそういうとうっと、各長官たちは顔を引きつらせた。
そして、各省庁から適当な人材を貸し出すということで王はこの議案をまとめた。
残りの議案をつつがなく消化していき、進行役の景侍郎が終わりを告げようとした時、王に押しとどめられた。
その時、涼佳は劉輝とチラリと目が合ったのが気のせいだと思いたかった。
―――――まさか。
「―最後に、余から一つ聞いてほしいことがある。なにを突然、と思われるかもしれない。だが、聞いてほしい」
喋り出した王を見て涼佳は顔には出さなかったが、内心で冷や汗が止まらなかった。
―――劉輝!止めなさい!
必死の念話も虚しく王は朝臣一同に注目される中、しっかりと聞き取れるようにゆっくりとはっきり告げた。
「今年の国試から、女人受験の導入――これを本格的に実施したい」
* * * * *
男はドスン、ドスンと日差しが照りつける暑い中をその肥えた腹を揺らし歩いていた。少しでも涼を取ろうと扇であおいでいるのにちっとも涼しくならないからイラついていたわけではない。
「…なにが、女人試験導入だ。ふざけるなっ」
政事は男の物だ。
第一に何故あの女が朝議に出ている。王位争いで罪を犯して牢に入ってたのではないのか!?神聖であるはずの朝廷を女が汚しおって!何故平然とまだ居るのだ。
男は、機嫌の悪さを隠しもせず、回廊を歩いていた。すれ違う周囲が彼の気分の荒さから漏れる雰囲気に気を配るほどに。しかしながら、男自身はそのことに気づいていないようで、ただただ前だけを見つめて、足を進めていた。
王の周りをうろちょろしおってどうせ身体を開いたに決まっている。故に、あんなに平然とここに居られるのだ。無位無官の冗官のくせに肩書きだけ高いのがさらに気に食わん。
いくら扇ってもとれない涼しさに身体にこびり付いた脂肪から汗がドっと流れでる。余計にイライラする。
扇いでも涼しさが身体に伝わらず、脂肪の重さが身体にこびりついたまま、汗が滝のように流れ落ちる。ますますイライラが募る。
しかし、問題はそこではない。この暑さで仕事ができるだろうかという疑念から男は考え直した。そして、夏バテで部下が次々と倒れる事態に陥ってしまっている。
男は暑さに耐えかねたのか、もう一度よく考え直した。こんな暑さの中本当に仕事ができるのかと疑問を抱いた。次いで、夏バテで部下が次々と倒れる事態に陥っている自分の部署を思い浮かべる。彼は、もはや仕事を続けるべきではないのではないかと考えた。―――そうだ、彼らが倒れればいいのだ。という思いが浮かんできた。
男はハタっと足を止めて脂がこびり付いた口元をニヤリと上げた。なんて、天才なのだろうかと自画自賛に心の内で拍手を送る。…少し、金はかかるが必要経費として計上すれば誰の懐も痛まない。
自分は働かなくても、仕事は勝手に処理され、部下からは思い遣りのある上司だと賞賛される。尚且つ、やはり大変だと投げ出して、逃げれば国試の件も無くなる。円満な解決策を思いつくことができるなんて、自分の才能にはつくづく驚かされる。
武官の女人については、口を出しにくい。彼女に対しては婚期を逃すほどの大猿という噂を聞いたことがあった。しかし、女人に負けるような武官は、本当に王の剣である存在とは言えまい。どうせ武官共も大したことなどないのだろう。男は、扇で口元を隠しながら、クククとほくそ笑った。
…そうだ、朝廷三師の霄太師殿のところに実は美しい娘が居ると噂で聞いたな。
あのなにを考えているのかわからない妖怪のような老人が今までひた隠しにしている娘だ。きっと、さぞかし可憐なのだろう。先ずは、文を出してお伺いを立てねばならぬな。
あの老人は純粋な貴族ではないが、 先王に仕え大役を成し今の権力を手に入れた。そういう者に礼をかいては高名な貴族の仲間入りの前に名折れてしまう。
そうだ、それがいいと小さく口にして男はさらに顔面の脂肪を持ち上げると、先程とは違い軽やかな足取りで自分の職場へと向かった。
暫くして、主上の耳に礼部の官吏が次々に倒れ、無理をした礼部尚書までが疲労に倒れたと一報が入ったのだった。