プルガトリオの水面
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鬱蒼とした空気が漂う森の奥、いかにもと言った場所にある小さな家には魔女が住んでいると伝わっている。そこは王城の敷地の最奥にあり、誰しも幼い頃にはそこに踏み入れば魔女に連れ去られてしまうと厳しく言いつけられた禁足地であった。
大人になればその足場の悪さと、高く茂った木々のおかげで光が届かない森は目印になる物もなく、子供が単独で立ち入れば太陽のある内に帰宅することが困難な場所であることが分かる。種を明かしてしまえばたったそれだけの話だが、何となく背筋が冷たくなるような気がして、一部の人間を除いて好き好んでその森に入ろうとする者はいなかった。
おかげで件の魔女は誰にも邪魔されることなく、今日も恐ろしい魔術を煮詰めている。
「森の魔女、ベアトリクス。どうか謁見を願いたく存じます」
そんな噂が流れる森に、一人の男が足を踏み入れた。まるで森に扉でもついているような仕草で名を呼ぶと、手燭で燈っていた小さな火がぐるぐると渦を巻く。その火が指し示す方向へと歩みを進め、月の明かりも通さない真っ暗な森を危なげなく闊歩する。
迷いなく進む男は、まるで暗闇の中でも世界を見渡しているようだった。そうして数分歩いた先に、こじんまりとした古い家屋がぽつんと現れる。城下町で慎ましく暮らしている家族の一軒家程度の大きさの家は、けれど造りがとても古く決して豪奢な外観ではない。きぃ、と音を立ててひとりでに開いた扉に臆することなく、男はその家に入っていく。そうして男の体が全てその家に入った時、また扉はひとりでに閉まっていった。まるで、招き入れた男を逃がさないとでも言うように。
ガラスに入った炎が油もなく揺れ、室内を照らしていた。ダイニングテーブルには淹れたてなのか湯気が立つティーカップが二客並んでいる。入室が受け入れられていることを知った男は、外套を脱いで椅子に腰を下ろした。
「いらっしゃい、ホークス。あの子は?」
「夜分に失礼します、ベアトリクス卿。俺一人ですいませんね」
奥の部屋からゆったりとした動きで出てきた女性は、美しく長い髪を背に流し少しばかり退屈そうな顔で男を出迎えた。ホークスと呼ばれた男は、連れがいないことをひとつも悪いと思っていない声色で詫びる。迎え入れたベアトリクス――魔女は、ホークスが森に入った時点で彼がひとりきりでやってきたことを知っている。だからこれは、いつも通りの挨拶なのだ。
用意されたティーカップは二人分。対面に腰かけたベアトリクスが体を温めるようにゆっくり紅茶で喉を潤す。カップが机に置かれたことを見届けてから、ホークスは口を開いた。
「いい加減、森から出てくださいよ」
「嫌よ。あの子が私の子守歌がなければ眠れないと言うのならば、喜んでベッドで囀るけれど。そうじゃないのでしょう」
話し合いは幾度と繰り返されてきた。毎回同じ話題であることに、お互いがうんざりしている。けれどホークスは、今日も同じ言葉を差し出した。
この国は世襲制ではなく、功績を積み上げた者が城に上がる。その功績とは戦績に限らず、民衆を支えた者として選ばれるのだ。周囲の国とは違い血や出自に固執せず、より良い王国になるように。そうして長くこの国の王として民を導いてきた先の王であるオールマイトは、民衆の声に耳を傾け、誰よりも先に手を差し伸べた。けれど酷使した身体は病には打ち勝つことが出来ず、昨年人々に惜しまれながら玉座から降りたのだ。
空席となった玉座に座ることになったのはかつてのナンバーツーである現王のエンデヴァーだった。炎烈王と呼ばれる彼は、英雄王と呼ばれたオールマイトとは対極の位置に在る。彼をナンバーツーたらしめた大半は戦で挙げた戦績であり、決してにこやかに民と寄り添った結果ではないからだ。
しかし炎烈王が玉座に座ったとて、国が荒れた訳ではない。為政にも細やかで精力的な王はあらゆる設備を見直し、英雄王の不在で不安に満ちた民のために駆けた。先の大きな戦では、その顔に大きな傷を負ったものの勝利を収め、民衆の心を掴んでいる。
それでも不安の声が全て消えた訳ではない。この国の行先に、確実な安堵を欲しているのだ。
「千年の魔女、ベアトリクス卿からの祝福が欲しいんです。民衆は目に見える安心を求めています」
魔女の祝福。
それは魔導が均衡を保つこの世界において、世界がその者を認めるための儀式だ。傾き始めた天秤の重りを、いとも簡単に入れ替えてしまう魔法。
かつては幾人かいた魔女も、千年の月日が流れ今はベアトリクスたったひとりになった。その魔女の祝福ともなれば、世界が認めたと言っても過言ではない。たとえそれが、現代においてただのまじないだったとしても、人々は伝承に救いを求めるのである。
「求めているのは民衆で、あの子の本心ではないわ。それに、オールマイトにだってわたくしは何もしていないもの。それでも彼は王だったわ。あなたはあの子に、エンデヴァーに足りない物があると、そう思っているの?」
「そうではありません。例え幻想であっても、それが手品でも。必要な駒は全て揃えて差し上げたい。それだけです」
ホークスは真面目な声色で告げる。
「油があれば火が灯り、水路が出来て水を汲みに泉まで行かなくてもよくなった。どんどん国が豊かになっていくこの時代に、魔女の祝福が必要だとは思いません。けれど民衆が信仰しているのであれば、話は別です」
「役立たずと嗤いながら、わたくしを求めるのね、あの子のために」
くすくすと笑うベアトリクスは、魔女である。
凡そ千年前にこの世に生を受けたと言うベアトリクスは、今年で四十五歳になったエンデヴァーのことをまるで小さな子供に言うように慈しみを込めてあの子と呼ぶ。そしてエンデヴァーも、その周囲もそれを否定しない。オールマイトやその師であってもベアトリクスには敬意を示し、心からの礼を尽くす。
けれどまだ年若いホークスは、外見だけで言えば自らと大差ない魔女を、ずっと信じられずにいた。ホークスが生まれた時には魔道具に手を出せない一般家庭であっても油があれば夜に明かりを灯すことが出来たし、水除けの魔法を施さなくとも外套があれば凌ぐことが出来た。
王城に上がるようになってから、廊下の端まで明るく照らす魔道ランプや決して火が消えることのないキッチンを便利だと思ったが、下町で生まれたホークスにとってその全ては必需品ではなかったからだ。
かつては王城に住まう魔女もいたそうだが、それも百年は存在しない。空白の期間も問題なく国は動いているし、魔女が必要だとは思えなかった。英雄王・オールマイトも側に魔女を置かず自ら全ての指揮を取った。魔女の予言も祝福も必要とせず、自らの意思で歩き、自らの意思で必要な物を掴んだ。
だからホークスにとって、魔女は必要のない存在だった。
しかし新たな玉座に就いた炎烈王・エンデヴァーは武を志す者であれば惹かれるが、日常を生きている者の中には恐れている者もいる。英雄王の時代に騎士団長として名を馳せたエンデヴァーを、まるで人を狩る獣のようだと称した噂話が、今も消えずに残っているからだ。全身に返り血を浴びて凱旋したことも一度や二度ではない。あの頃を知っている大人はみな、今もエンデヴァーを怯えた目で見つめるのだ。
そして口を揃えて音にする。魔女が祝福してくださったのなら、と。
かつて荒れ果てた森に、名のある魔女が永い時を生きてきた。そこに訪れた若き王を祝福し迎え入れ、この国の繁栄を言祝いだ。そのおかげで千年の間、この国は滅びずに人を増やし続けている。
ずっと見守って来た千年の魔女が王を言祝いでくれたのなら、また千年安心して暮らすことが出来る。そんな御伽噺を、みな信じているのだ。
「千年も続くなんて呪縛だ。祝福を受けたから炎烈王の寿命が千年に延びる訳でもない。それなのに民衆は呪いを求めている。この国が滅びないために必要だと言うのなら、頭くらい下げにきますよ。何度だって」
その価値がある、とホークスは無遠慮に値踏みしているのだ。魔女には価値がある、過程がどうであれ、望む結果は手に入る。そう言う算段だ。
ホークスに君主エンデヴァーには魔女が必要かと問えば否と答える。けれどエンデヴァーを王とするには、民衆の掌握が必要だった。そして、民衆には魔女が必要である。結果として民の心がエンデヴァーに寄り添うのであれば、過程については問わない。ただ最速で結果を得るには、魔女と関わりを持つ必要がある、それだけの話だ。
「賢い子ね、ホークス。でもあの子の側には必要な野心だわ」
「お褒めにあずかり光栄です」
にこりと笑った互いの目は、突き刺すように見つめ合っている。
「今日で何度目か覚えている?」
「満月の夜に丁度十回目です」
「そうね、十の夜を踏みしめたわ。……あの子の望みではなくとも、立ち上がるべきなのかしら」
細められた双眸は、何も映していない。けれど確かに遠いどこかを見て、ベアトリクスは微笑んだ。
「……知っているの。あの子は玉座のために愛する家族を遠ざけて、王で在ろうとしている。誰も傷付けずに、自分を傷付けている。傷付くのは自分だけでいいと思っている、わたくしさえも、拒んで」
でも末の子は騎士団に残ったわね。と呟く。
「どこまで、ご存じなんですか」
「あの子が産声を上げた日から、血濡れの玉座に至る今日まで、すべてを。あの子に名を与えたのはわたくしです、見守る義務がある」
ホークスが瞬きをした刹那、ベアトリクスの衣服はゆったりとした部屋着から古めかしいローブに変わり、流れていた髪も結い上げられて唇は艶やかな紅色になっていた。思わずぽかんと口を開けたホークスを見て、ベアトリクスはくすくすと笑う。
「魔法を見るのは初めてかしら」
「詠唱もなく、こんな……!」
「そうね、魔法と魔術は違うもの」
ホークスは腕に自信のある魔術師だ。魔術には国で一番詳しいと自負しているし、王の側近たる自覚もある。けれど国で最速を誇るホークスとて、瞬きの間に詠唱もなく魔術を使うことは出来ない。
何でもない風に言うベアトリクスが使った魔法は、魔術で代用しようとすればどんな術式になるのかさえ、ホークスはすぐに判断することが出来なかった。
魔術とは、その成り立ちを紐解いて使う物だ。元々の素質も関係があるが、導き出す結果に対して明確な答えを持たなければ利用することが出来ない。衣服を着替えるためには新しい衣服を準備して、それを風で持ち上げる必要がある。けれど今来ている服を剥がし、新たな物に入れ替えるにはかなり複雑な術式が必要だろう。
着替えを引き寄せるくらいであれば、ホークスとて瞬きの間に済ませることが出来る。けれど一瞬で衣服を入れ替えるのは、手品でなければ何だと言うのか。
「元々展開していて、発動を遅らせれば……」
「小難しく考えなくていいのよ坊や。さあ、行きましょうか。目を閉じておいでなさい」
ベアトリクスの華奢な手のひらがホークスの視界を遮る。じんわりと温かくなったと思えば、そっと抱き寄せられた。ホークスより幾分か小さな身体は頼りないが、どこか安心感さえ抱く不思議な感覚があった。
そうして閉じた双眸が再び開いた時、ホークスはまた大きく口を開くことになる。
「……え、は?」
「何を呆けているホークス」
目の前にいたのは、エンデヴァーだった。森の奥にいたはずのホークスは、瞬きの間に王の執務室に移動していたのだ。
「魔女ベアトリクス、王命を以て馳せ参じました」
「……ビーチェ」
ホークスが制するよりも早く、立ち上がったエンデヴァーがベアトリクスに近付く。一歩ずつ噛み締めるように距離を詰め、人がひとり挟まる程度の距離を空け立ち止まると、ベアトリクスは膝をついて頭を下げた。
「ご機嫌麗しゅうございます、我が君。着任式には拝謁出来ず申し訳ございませんでした」
「やめてくれ、そのようなことは」
「あら、そう? まぁ随分男前になったこと。もっと顔を見せてちょうだいな」
形式に則って最上級の礼を見せたベアトリクスに、王であるエンデヴァーがやめろと強請る。そうすればまるで母親のような笑みを浮かべたベアトリクスはそっと手を伸ばして頬の傷に触れた。壊れ物に触れるように、それでいてやんちゃな子供を叱るように。
「お久しぶりね、エンデ。元気だったかしら」
「ビーチェも息災だったなら構わん、俺のことは知っているだろう」
「ふふ、それでもあなたの口から聞きたいこともあるのよ」
旧知の仲であるようでいて、友人と呼ぶには些か距離が近い。ホークスは言葉を発することが出来ないまま、ふたりを見つめていた。それに気付いたエンデヴァーが、視線だけでホークスを側に呼ぶ。慌てて駆け寄ったホークスは、隠すことなく不思議そうにエンデヴァーを見上げた。
「ちょっと混乱してるんですけ、ど。えぇと、エンデヴァーさんはベアトリクス卿と仲がよろしいようで……」
「母親のような存在だ、幼き頃はよく構って貰っていた」
「母親……? え、ベアトリクス卿って俺とそんなに変わらないんじゃ……」
「俺が生まれた時からこの姿だったと聞いている」
「千年の魔女って、ガチで千年生きてるってことです?!」
「坊やのご想像にお任せするわ」
部屋にあるテーブルにメイドも呼んでいないのに茶会の準備が整っていく。カップは二客。どうやら今度は招かれざる客になってしまったようだと悟ったホークスは、わざとらしく大きな息を吐いた。
「エンデヴァーさん」
「怪しい者ではない、暫く人払いを頼む」
「……はぁい」
しぶしぶ執務室を後にしたホークスは、外側から扉が開かないように術式を施し、知識として得ている魔女ベアトリクスの情報を整理しながら自室に向かう。
千年の魔女。ベアトリクス卿。魔法が使える魔女としては最後の一人で、言い伝えにある森の奥に住む女性。エンデヴァーの名付け親で、母親代わり。見た目は自身と変わらない年頃に見えたはずだ、とまで考えて首を傾げる。つい先ほどまで対面していたはずの魔女の顔を、思い出すことが出来ないからだ。
認識阻害の一種なのか、或いは。窓から見える満月は、こんなにも室内を照らしてくれているのに、たった一人の顔を思い浮かべることが出来なかった。深く考えるのを諦めたホークスは重苦しい魔術師のコートを脱いでベッドに寝転がる。
真っ赤に彩られた薄いくちびるだけが、やけに視界にちらついたまま、夜は更けていく。
大人になればその足場の悪さと、高く茂った木々のおかげで光が届かない森は目印になる物もなく、子供が単独で立ち入れば太陽のある内に帰宅することが困難な場所であることが分かる。種を明かしてしまえばたったそれだけの話だが、何となく背筋が冷たくなるような気がして、一部の人間を除いて好き好んでその森に入ろうとする者はいなかった。
おかげで件の魔女は誰にも邪魔されることなく、今日も恐ろしい魔術を煮詰めている。
「森の魔女、ベアトリクス。どうか謁見を願いたく存じます」
そんな噂が流れる森に、一人の男が足を踏み入れた。まるで森に扉でもついているような仕草で名を呼ぶと、手燭で燈っていた小さな火がぐるぐると渦を巻く。その火が指し示す方向へと歩みを進め、月の明かりも通さない真っ暗な森を危なげなく闊歩する。
迷いなく進む男は、まるで暗闇の中でも世界を見渡しているようだった。そうして数分歩いた先に、こじんまりとした古い家屋がぽつんと現れる。城下町で慎ましく暮らしている家族の一軒家程度の大きさの家は、けれど造りがとても古く決して豪奢な外観ではない。きぃ、と音を立ててひとりでに開いた扉に臆することなく、男はその家に入っていく。そうして男の体が全てその家に入った時、また扉はひとりでに閉まっていった。まるで、招き入れた男を逃がさないとでも言うように。
ガラスに入った炎が油もなく揺れ、室内を照らしていた。ダイニングテーブルには淹れたてなのか湯気が立つティーカップが二客並んでいる。入室が受け入れられていることを知った男は、外套を脱いで椅子に腰を下ろした。
「いらっしゃい、ホークス。あの子は?」
「夜分に失礼します、ベアトリクス卿。俺一人ですいませんね」
奥の部屋からゆったりとした動きで出てきた女性は、美しく長い髪を背に流し少しばかり退屈そうな顔で男を出迎えた。ホークスと呼ばれた男は、連れがいないことをひとつも悪いと思っていない声色で詫びる。迎え入れたベアトリクス――魔女は、ホークスが森に入った時点で彼がひとりきりでやってきたことを知っている。だからこれは、いつも通りの挨拶なのだ。
用意されたティーカップは二人分。対面に腰かけたベアトリクスが体を温めるようにゆっくり紅茶で喉を潤す。カップが机に置かれたことを見届けてから、ホークスは口を開いた。
「いい加減、森から出てくださいよ」
「嫌よ。あの子が私の子守歌がなければ眠れないと言うのならば、喜んでベッドで囀るけれど。そうじゃないのでしょう」
話し合いは幾度と繰り返されてきた。毎回同じ話題であることに、お互いがうんざりしている。けれどホークスは、今日も同じ言葉を差し出した。
この国は世襲制ではなく、功績を積み上げた者が城に上がる。その功績とは戦績に限らず、民衆を支えた者として選ばれるのだ。周囲の国とは違い血や出自に固執せず、より良い王国になるように。そうして長くこの国の王として民を導いてきた先の王であるオールマイトは、民衆の声に耳を傾け、誰よりも先に手を差し伸べた。けれど酷使した身体は病には打ち勝つことが出来ず、昨年人々に惜しまれながら玉座から降りたのだ。
空席となった玉座に座ることになったのはかつてのナンバーツーである現王のエンデヴァーだった。炎烈王と呼ばれる彼は、英雄王と呼ばれたオールマイトとは対極の位置に在る。彼をナンバーツーたらしめた大半は戦で挙げた戦績であり、決してにこやかに民と寄り添った結果ではないからだ。
しかし炎烈王が玉座に座ったとて、国が荒れた訳ではない。為政にも細やかで精力的な王はあらゆる設備を見直し、英雄王の不在で不安に満ちた民のために駆けた。先の大きな戦では、その顔に大きな傷を負ったものの勝利を収め、民衆の心を掴んでいる。
それでも不安の声が全て消えた訳ではない。この国の行先に、確実な安堵を欲しているのだ。
「千年の魔女、ベアトリクス卿からの祝福が欲しいんです。民衆は目に見える安心を求めています」
魔女の祝福。
それは魔導が均衡を保つこの世界において、世界がその者を認めるための儀式だ。傾き始めた天秤の重りを、いとも簡単に入れ替えてしまう魔法。
かつては幾人かいた魔女も、千年の月日が流れ今はベアトリクスたったひとりになった。その魔女の祝福ともなれば、世界が認めたと言っても過言ではない。たとえそれが、現代においてただのまじないだったとしても、人々は伝承に救いを求めるのである。
「求めているのは民衆で、あの子の本心ではないわ。それに、オールマイトにだってわたくしは何もしていないもの。それでも彼は王だったわ。あなたはあの子に、エンデヴァーに足りない物があると、そう思っているの?」
「そうではありません。例え幻想であっても、それが手品でも。必要な駒は全て揃えて差し上げたい。それだけです」
ホークスは真面目な声色で告げる。
「油があれば火が灯り、水路が出来て水を汲みに泉まで行かなくてもよくなった。どんどん国が豊かになっていくこの時代に、魔女の祝福が必要だとは思いません。けれど民衆が信仰しているのであれば、話は別です」
「役立たずと嗤いながら、わたくしを求めるのね、あの子のために」
くすくすと笑うベアトリクスは、魔女である。
凡そ千年前にこの世に生を受けたと言うベアトリクスは、今年で四十五歳になったエンデヴァーのことをまるで小さな子供に言うように慈しみを込めてあの子と呼ぶ。そしてエンデヴァーも、その周囲もそれを否定しない。オールマイトやその師であってもベアトリクスには敬意を示し、心からの礼を尽くす。
けれどまだ年若いホークスは、外見だけで言えば自らと大差ない魔女を、ずっと信じられずにいた。ホークスが生まれた時には魔道具に手を出せない一般家庭であっても油があれば夜に明かりを灯すことが出来たし、水除けの魔法を施さなくとも外套があれば凌ぐことが出来た。
王城に上がるようになってから、廊下の端まで明るく照らす魔道ランプや決して火が消えることのないキッチンを便利だと思ったが、下町で生まれたホークスにとってその全ては必需品ではなかったからだ。
かつては王城に住まう魔女もいたそうだが、それも百年は存在しない。空白の期間も問題なく国は動いているし、魔女が必要だとは思えなかった。英雄王・オールマイトも側に魔女を置かず自ら全ての指揮を取った。魔女の予言も祝福も必要とせず、自らの意思で歩き、自らの意思で必要な物を掴んだ。
だからホークスにとって、魔女は必要のない存在だった。
しかし新たな玉座に就いた炎烈王・エンデヴァーは武を志す者であれば惹かれるが、日常を生きている者の中には恐れている者もいる。英雄王の時代に騎士団長として名を馳せたエンデヴァーを、まるで人を狩る獣のようだと称した噂話が、今も消えずに残っているからだ。全身に返り血を浴びて凱旋したことも一度や二度ではない。あの頃を知っている大人はみな、今もエンデヴァーを怯えた目で見つめるのだ。
そして口を揃えて音にする。魔女が祝福してくださったのなら、と。
かつて荒れ果てた森に、名のある魔女が永い時を生きてきた。そこに訪れた若き王を祝福し迎え入れ、この国の繁栄を言祝いだ。そのおかげで千年の間、この国は滅びずに人を増やし続けている。
ずっと見守って来た千年の魔女が王を言祝いでくれたのなら、また千年安心して暮らすことが出来る。そんな御伽噺を、みな信じているのだ。
「千年も続くなんて呪縛だ。祝福を受けたから炎烈王の寿命が千年に延びる訳でもない。それなのに民衆は呪いを求めている。この国が滅びないために必要だと言うのなら、頭くらい下げにきますよ。何度だって」
その価値がある、とホークスは無遠慮に値踏みしているのだ。魔女には価値がある、過程がどうであれ、望む結果は手に入る。そう言う算段だ。
ホークスに君主エンデヴァーには魔女が必要かと問えば否と答える。けれどエンデヴァーを王とするには、民衆の掌握が必要だった。そして、民衆には魔女が必要である。結果として民の心がエンデヴァーに寄り添うのであれば、過程については問わない。ただ最速で結果を得るには、魔女と関わりを持つ必要がある、それだけの話だ。
「賢い子ね、ホークス。でもあの子の側には必要な野心だわ」
「お褒めにあずかり光栄です」
にこりと笑った互いの目は、突き刺すように見つめ合っている。
「今日で何度目か覚えている?」
「満月の夜に丁度十回目です」
「そうね、十の夜を踏みしめたわ。……あの子の望みではなくとも、立ち上がるべきなのかしら」
細められた双眸は、何も映していない。けれど確かに遠いどこかを見て、ベアトリクスは微笑んだ。
「……知っているの。あの子は玉座のために愛する家族を遠ざけて、王で在ろうとしている。誰も傷付けずに、自分を傷付けている。傷付くのは自分だけでいいと思っている、わたくしさえも、拒んで」
でも末の子は騎士団に残ったわね。と呟く。
「どこまで、ご存じなんですか」
「あの子が産声を上げた日から、血濡れの玉座に至る今日まで、すべてを。あの子に名を与えたのはわたくしです、見守る義務がある」
ホークスが瞬きをした刹那、ベアトリクスの衣服はゆったりとした部屋着から古めかしいローブに変わり、流れていた髪も結い上げられて唇は艶やかな紅色になっていた。思わずぽかんと口を開けたホークスを見て、ベアトリクスはくすくすと笑う。
「魔法を見るのは初めてかしら」
「詠唱もなく、こんな……!」
「そうね、魔法と魔術は違うもの」
ホークスは腕に自信のある魔術師だ。魔術には国で一番詳しいと自負しているし、王の側近たる自覚もある。けれど国で最速を誇るホークスとて、瞬きの間に詠唱もなく魔術を使うことは出来ない。
何でもない風に言うベアトリクスが使った魔法は、魔術で代用しようとすればどんな術式になるのかさえ、ホークスはすぐに判断することが出来なかった。
魔術とは、その成り立ちを紐解いて使う物だ。元々の素質も関係があるが、導き出す結果に対して明確な答えを持たなければ利用することが出来ない。衣服を着替えるためには新しい衣服を準備して、それを風で持ち上げる必要がある。けれど今来ている服を剥がし、新たな物に入れ替えるにはかなり複雑な術式が必要だろう。
着替えを引き寄せるくらいであれば、ホークスとて瞬きの間に済ませることが出来る。けれど一瞬で衣服を入れ替えるのは、手品でなければ何だと言うのか。
「元々展開していて、発動を遅らせれば……」
「小難しく考えなくていいのよ坊や。さあ、行きましょうか。目を閉じておいでなさい」
ベアトリクスの華奢な手のひらがホークスの視界を遮る。じんわりと温かくなったと思えば、そっと抱き寄せられた。ホークスより幾分か小さな身体は頼りないが、どこか安心感さえ抱く不思議な感覚があった。
そうして閉じた双眸が再び開いた時、ホークスはまた大きく口を開くことになる。
「……え、は?」
「何を呆けているホークス」
目の前にいたのは、エンデヴァーだった。森の奥にいたはずのホークスは、瞬きの間に王の執務室に移動していたのだ。
「魔女ベアトリクス、王命を以て馳せ参じました」
「……ビーチェ」
ホークスが制するよりも早く、立ち上がったエンデヴァーがベアトリクスに近付く。一歩ずつ噛み締めるように距離を詰め、人がひとり挟まる程度の距離を空け立ち止まると、ベアトリクスは膝をついて頭を下げた。
「ご機嫌麗しゅうございます、我が君。着任式には拝謁出来ず申し訳ございませんでした」
「やめてくれ、そのようなことは」
「あら、そう? まぁ随分男前になったこと。もっと顔を見せてちょうだいな」
形式に則って最上級の礼を見せたベアトリクスに、王であるエンデヴァーがやめろと強請る。そうすればまるで母親のような笑みを浮かべたベアトリクスはそっと手を伸ばして頬の傷に触れた。壊れ物に触れるように、それでいてやんちゃな子供を叱るように。
「お久しぶりね、エンデ。元気だったかしら」
「ビーチェも息災だったなら構わん、俺のことは知っているだろう」
「ふふ、それでもあなたの口から聞きたいこともあるのよ」
旧知の仲であるようでいて、友人と呼ぶには些か距離が近い。ホークスは言葉を発することが出来ないまま、ふたりを見つめていた。それに気付いたエンデヴァーが、視線だけでホークスを側に呼ぶ。慌てて駆け寄ったホークスは、隠すことなく不思議そうにエンデヴァーを見上げた。
「ちょっと混乱してるんですけ、ど。えぇと、エンデヴァーさんはベアトリクス卿と仲がよろしいようで……」
「母親のような存在だ、幼き頃はよく構って貰っていた」
「母親……? え、ベアトリクス卿って俺とそんなに変わらないんじゃ……」
「俺が生まれた時からこの姿だったと聞いている」
「千年の魔女って、ガチで千年生きてるってことです?!」
「坊やのご想像にお任せするわ」
部屋にあるテーブルにメイドも呼んでいないのに茶会の準備が整っていく。カップは二客。どうやら今度は招かれざる客になってしまったようだと悟ったホークスは、わざとらしく大きな息を吐いた。
「エンデヴァーさん」
「怪しい者ではない、暫く人払いを頼む」
「……はぁい」
しぶしぶ執務室を後にしたホークスは、外側から扉が開かないように術式を施し、知識として得ている魔女ベアトリクスの情報を整理しながら自室に向かう。
千年の魔女。ベアトリクス卿。魔法が使える魔女としては最後の一人で、言い伝えにある森の奥に住む女性。エンデヴァーの名付け親で、母親代わり。見た目は自身と変わらない年頃に見えたはずだ、とまで考えて首を傾げる。つい先ほどまで対面していたはずの魔女の顔を、思い出すことが出来ないからだ。
認識阻害の一種なのか、或いは。窓から見える満月は、こんなにも室内を照らしてくれているのに、たった一人の顔を思い浮かべることが出来なかった。深く考えるのを諦めたホークスは重苦しい魔術師のコートを脱いでベッドに寝転がる。
真っ赤に彩られた薄いくちびるだけが、やけに視界にちらついたまま、夜は更けていく。
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