花色の雫
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俺は委員会で保管庫の整理をしていた。数が多いのですみれにも手伝って貰っている。
他の者は本を運んでいて、今は俺とすみれの二人だけだ。
「長次ー」
それまで無言で作業していて、ふとすみれが口を開いた。
俺を呼ぶ声音はどこか頼りなくて、作業をやめて振り向く。視線を泳がしていたすみれだが、ゆるりと近寄り俺の胸元に手を添えた。
「…痛い?」
俺は合点がいった。
すみれが手伝いをすると言い、二人きりになりたい理由は、先日の怪我か。俺は平気だと頷いたのだが。
「ほんと?」
けれどすみれはなおも眉を下げて不安げに見つめてくる。
疑り深いな…。
この怪我は仕方ないことだ。すみれも本気でこなければならなかった。痣になったが、今はだいぶ痛みも和らいだ。
「ごめんね…」
俺の着物を弱々しく掴み俯くすみれの頭を撫でる。まだ言い募ろうとしそうなので、俺は上着の帯を解いた。
袖無しの代わりに現れたのは包帯。それを見て更に眉を寄せてしまったすみれの手を包み込み、安心させるように言ってやる。
「……安心しろ、直痣も消える……」
うん、と頷いたはいいが、すみれは俺の胸に顔を埋めてしまう。表情が分からんと思い、すみれの顔を持ち上げれば、少し濡れた瞳が揺れていた。
見つかりバツが悪そうに口を尖らすすみれと目が合えば、自然とお互い笑みが零れた。
昔より広がった身長差から、ずっと顔を上げていた彼女が少しふらついたのをみて、俺はすみれの腰に腕を回して引き寄せて支えた。
そっと瞼を閉じたすみれへ更に顔を近付けた時、
――どさっ…
音がした方に目を向けると、入口で顔を赤くした不破が立っていた。足元に本があることから、先程の音は本を落とした音か。
不破は口をぱくぱくさせて動こうとしない。
俺が首を傾げている、一方ですみれも不破の存在に気付いた。
「あ、雷蔵」
「すすすすみませんーっ」
やっと言葉を口にしたと思えば、不破は更に顔を真っ赤にさせて俺たちに背を向けた。
すみれはぽかんと口を開いている。
「おお邪魔しました! 安心して下さい、僕はなっ何も見てませんから!」
するとすみれと俺はお互い顔を見合わせて、
「……ぷっ、あはははっ」
――同時に噴出した。
腹を抱えて笑うすみれに腕を回したまま、俺も肩を震わせる。頬が赤いまま呆気に取られていた不破がやけに印象的だった。
*
保管庫に設けられた座敷に腰かけて、書物の仕分けをしていた僕は向けられる視線に眉を寄せた。
そちらを見れば予想通り、にこにこと笑みを浮かべているすみれさん。
「ーーっ、いい加減笑うの止めて下さいよ…」
「だって、ねぇ…ははっ」
そう言ってすみれさんはまたコロコロと笑い出した。先程までいた中在家先輩は図書室の方へ行ったので諫める人はいない。
僕は何も言えず渋面を浮かべるしかなかった。だって仕方ないじゃないか。あんな場面を見てしまったのだから。
本を抱えて保管庫に入ろうとした僕は、視界に入ったものに思わず本を落としてしまったのだ。
そこには上着を開帳の中在家先輩と、先輩の逞しい胸板に寄り添うすみれさんがいた。そして中在家先輩がすみれさんを抱き寄せて、彼女は目を瞑り二人の距離が無くなっていくところだった。
その時の事を思い出した僕は、冷めたと思った頬に再び熱がこもるのがわかる。そんな僕を見て、すみれさんは可愛いと言ってまた笑った。
ひとしきり笑ったすみれさんは、ふと僕の頬に手を添えた。思いの外に近距離で見つめられて、とくりと心臓が小さく跳ねる。
「雷蔵には随分心配かけたね」
「……覚えているんですか?」
「んー、ぼんやりとだけど。あの時はそれどころではなかったし」
――そう。
あれはすみれさんの姿を見なくなって最初に迎えた長期休みのこと。
親の頼みで遠出をした帰り道の山中で、僕は行方知らずになっているすみれさんと出会った。僕は声をかけようとして、やめた。
学園で見る優しい彼女は見る影もなく。開かれた瞳は朧気で何も映していないようだった。だらりと大木に寄り掛かる身体には、着物で隠しきれない程包帯に覆われている。彼女が腰を下ろした横には杖らしきものが見えた。
結局その日僕はそのまま帰路へついた。
そして次の日、僕が同じ場所を訪ねれば彼女はいた。
それから僕はすみれさんの隣りに腰かけて話しかけた。
彼女からは何も返されなかったけど、僕は話し続けた。彼女がいなくなってから起こったことや学園の皆についてなどを。
僕は何度も彼女の元へ通った。けれどすみれさんは相変わらずだった。
そしてもうすぐ長期休みが終わる、ある日のこと。
僕はいつものようにすみれさんの隣りに座り込み話した。暫く話せば内容も尽きてきて口を閉じる。沈黙の時を包み込むように穏やかな風が僕たちを撫でていく。
『……そういえば、もうすぐ休みが終わるんです。だから今日が最後になりますね』
傾きかけた太陽に、そろそろここを発たないとぼんやり思う。
今日も、すみれさんは変わらない。
ため息を飲み込んで僕は重い腰を上げた。
『では、これで失礼します。また休みにでも来ますから』
『………もう、来ないで』
『え…?』
一瞬何を言われたか分からなかった。
どういうことか、説いただそうにも声は出なくて。
すみれさんを見ても微動だにしなくて。
――なんだよ、それ。
『………っ』
僕は悲しいやら悔しいやら、心はぐちゃぐちゃで。荒い足取りで彼女に背を向けて歩き出した。
すると幾らか進んだところで、僕は背後の気配が変わったことに気付いた。
『――雷蔵』
久し振りに聞く凜とした声で名前を呼ばれて振り向けば、強い風が真正面から僕を襲う。
目の前の光景に思わず息を飲んだ。
すみれさんが杖も無しに立っていたのだ。僕に向けられた瞳は懐かしいもので、優しさの中に毅然とした強さが輝き放つ。
『すみれ、先輩……』
未だ呆然とする僕に、すみれさんは笑顔をくれた。
僕の大好きな、笑顔を――。
『必ず学園に戻ってみせるから。
だからそれまで、待ってて――…』
ふと肩に重みと温もりを感じた。柔らかな香りに包まれて、僕は目を細める。
未だ夢のようだ。こうして彼女が隣りにいるなんて…
いつもの迷い癖は何処へやら。僕は作業を止めて、すみれさんの細い手に自分のを絡めていた。
「……もう、どこへもいかないで」
「ええ、ずっとここにいるよ」
子供の我が儘みたいだ、と思ったけれど。
彼女は優しく僕の手を握り返してくれた。あまりの心地よさに、僕は知らず力を抜き瞼を閉じていた。
あのあと、休み中にすみれさんと過ごしたことを、僕は中々人には話せずにいた。
三郎は情報網を片っ端からあたっていて。兵助だって気にしているはずなのに、敢えて考えないようにしてるのが分かった。ハチに至ってはすみれさんの影を追うように、忍犬の教育に格闘していてそれどころではなかった。
彼女と仲が良い先輩方も、(後から知ったけど)学園長命令で動くに動けなかったそうだ。
そんな中どうしても一人で抱えるのも限界になってきて、僕はついに同じ委員会の中在家先輩に話したのだ。
先輩は話を聞いた最初は軽く驚いたけど、安心したようにふっと笑みを零した。そんな様子に話して良かったのだと、安堵のあまり僕は泣いてしまった。先輩はよくやったというように僕の頭を撫でてくれた。
『……ならば、俺たちは待とう。すみれが帰ってくるのを……』
嗚咽のせいで声が出ない僕はその言葉に何度も何度も頷いた。
そして、待ち焦がれること一年以上が経ったあの日――
『 ただいま 』
*
幾つかの本を手に保管庫へ戻ってきた長次は、中を見たあと後ろから来る後輩達に向けて、静かにと人差し指を口に当てた。
首を傾げていた後輩達だが、隙間から中の様子が見えた途端、あっと小さく声を上げた。中には頬を染めている者もいた。
そこには座敷に腰掛けて、お互い寄り添うように静かな寝息を立てている雷蔵とすみれがいた。
固く手を握り合いながら――
「はっ! ……あれ、僕寝ちゃったんだ…」
「……起きたか……」
「中在家先輩、……あぁ! 寝てしまってすみませんっ、委員会は?」
「……終わった。だが、お前はまだ仕事がある。…隣り……」
「へ? な、なんですみれさんが!?」
「……すみれを部屋まで運んで、寝かせて来い……」
「は、はい!」
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