【大正文通許婚】恋を綴り、愛を紡ぐ
私には恋い慕う人がいる。
顔も声も知らない、私の将来の旦那様。
……顔も名前も知らないのに恋をするなんて…と思う人もいるかもしれない。
けれど、顔も知らない人と結婚するなんて未だ珍しい事でもないし……
それに私は、あの人の事を何も知らない訳では無いの。
きちんと、あの人に恋をしている。そう、胸を張って言える。
顔も声も知らなくとも、私達は心を交わしているのだから……
*
とある大きなお屋敷の一室で、明るい橙色の髪の乙女が一人、机に向かう。
彼女の名前は『藤丸りつか』。今彼女は自分の婚約者に手紙を書く所であった。
婚約者と言っても物心付く前に家同士で決められたものでりつかは彼の顔は知らない。
……だが顔は知らずとも文字を書けるようになってからこうやってお互いの近況を手紙でやり取りして親交を深めていた。
今日もりつかは使い慣れたペンをお気に入りのインクの入った瓶に浸して、彼の為に選んだとっておきの便箋に筆を滑らせる。
【拝啓 オベロン・ヴォーティガーン様】
その名前を見るだけでりつかは口元が緩んでしまう。自分の字で綴っただけなのに、なんとも不思議だと思いながら名前の下の部分を人差し指でそっとなぞり、行を変えて言葉を続ける。
【冬の寒さが和らぎ、春の訪れを感じられる今日この頃如何お過ごしでしょうか】
季節の挨拶を認 めて、さて何を書こうかと彼女は考える。
うーんとしばらく悩み、いつも通り日常であった些細な事を書き連ねた。
女学校での授業の事。学友たちとの何気ない会話の中での面白い話。今のちょっとした自分の中での流行。
りつかは彼に話したいことはいっぱいあって、けれどあまりたくさん書きすぎても迷惑になってしまうからと何度か書き直しながらも便箋に言葉を連ねた。
たわいのない話題を書いた後、ああ、そういえばもうすぐ梅が咲くのだと思い出す。
【梅の蕾が膨らみ始め、もうすぐ綺麗に咲いてくれることでしょう】
けれどこの手紙が届く頃には梅は盛りを過ぎその次は……
【そうしたら桜の季節ももうすぐです。この手紙を読まれている頃きっと満開になるかと存じます】
今書いている手紙が彼の手元に行く頃にはこちらの季節もとうに移り替わっているだろうことはもうすでにりつかは理解している。けれど……
【オベロン様】
季節は巡ってくるものだから、彼女は願わずにはいられない。
【貴方と一緒に梅も桜も見ることができたら……きっと今まで見たどの花より綺麗に見えると思うのです】
春だけではない。夏も、秋も、冬も……巡る季節を、一緒に過ごせたら……いつか来てくれるその日が、待ち遠しくてたまらない。
最後に結びの言葉と名前を書いて、もう一度頭から変な所は無いかと確認してから便箋を折りたたみ封筒に入る。最後に、朱色の封蝋を垂らして璽を押して封をした。
「……英吉利かぁ」
未だ顔も知らぬ、りつかの婚約者。彼は今海を渡った遠い地にいる。
兄に見せてもらった写真や本での知識しかないが、きっと素敵な所なのだろう。
彼の居るその国にりつかは思いを馳せ、手紙を手に持ち、祈るように目を瞑る。
「無事に届きますように……」
海を越えて、数か月かけて届けられる手紙。
遠く離れた自分と彼とが、唯一の言葉を交わすための手段。
今回も、無事に彼の元に届くようにとおまじないのようにそっと手紙に口付けた。
*
りつかが手紙を出してから4ヶ月ほどが経過した。
女学校から帰宅すると、家にいた兄から「りつかに手紙と小包が届いているよ」と教えられた。その言葉に、一日の疲れがすべて飛んで行ってしまう。
兄から手紙と小包を受け取ると、りつかはすぐさま自分の部屋に行き机に向かった。
早く手紙を読みたい気持ちもあるけれど、海を渡って今手元にある手紙の封筒をじーっと見詰める。
封筒に【Dear. Ritsuka Hujimaru】という流れるような筆記体で書かれた自分の名前。
その宛名の文字を暫く見詰めた後、丁寧に封筒を開けて手紙を取り出した。心成しか、便箋からふわっとなんだかいい香りがする。
【拝啓 藤丸りつか様】
宛名に書かれた異国の文字で綴られた自分の名前も、りつかに馴染みのある母国の文字で綴られた自分の名前も、彼の美しい文字で綴られているだけで、なんだか特別な名前になった気分になれるから不思議だ。それだけで、頬が緩んでしまうのを感じながらりつかは大切に手紙を読み進めていった。
英吉利はこの手紙を書いている時は春の花の盛りを過ぎ、新緑の季節になってきていること。気まぐれで入ったパン屋のパンが美味しかったこと。仕事の同僚との世間話の中で聞いたこと。何気ない日常の些細な事だけでもオベロンの事を知ることができてりつかは嬉しかった。
そして、ある一文を読んでピタリと目を止める。
【りつかさんに似合いそうだと思って、つい手に取ってしまいました。気に入って頂けたらよいのですが】
その文を読んだ後、ドキドキと早鐘の様に脈打つ胸を押さえながら小包を開く。
「わぁ……!」
包装された化粧箱の中に入っていたのは、黄色のリボン。両端に橙色の蝶々と、花の刺繍があしらわれている。
「こんなに素敵なものを……私の為に……嬉しい……」
宝物を持つみたいにそっとリボンを手に取り、広げたりして散々眺めた後胸にぎゅっと押し抱いた。
彼の美しい文字で、名前を綴ってもらえるだけで親からもらった自分の名前がより一層、素敵なものになった気がする。
彼に関することならどんな些細な情報でも知ることができたら嬉しい。
そして彼がこうして自分のことを思って贈り物を選んでくれて天にも昇るような気持ちになる。
「オベロン様」
そのそっと口にする。それだけで、りつかの胸は幸福感でいっぱいになる。
……これを、恋と呼ばずになんと呼ぼう……
「貴方に会える日が、私とても待ち遠しい……」
顔も声も知らない、海の向こうの国にいる、自分の未来の旦那様。今日もりつかは彼に恋をしている。
顔も声も知らない、私の将来の旦那様。
……顔も名前も知らないのに恋をするなんて…と思う人もいるかもしれない。
けれど、顔も知らない人と結婚するなんて未だ珍しい事でもないし……
それに私は、あの人の事を何も知らない訳では無いの。
きちんと、あの人に恋をしている。そう、胸を張って言える。
顔も声も知らなくとも、私達は心を交わしているのだから……
*
とある大きなお屋敷の一室で、明るい橙色の髪の乙女が一人、机に向かう。
彼女の名前は『藤丸りつか』。今彼女は自分の婚約者に手紙を書く所であった。
婚約者と言っても物心付く前に家同士で決められたものでりつかは彼の顔は知らない。
……だが顔は知らずとも文字を書けるようになってからこうやってお互いの近況を手紙でやり取りして親交を深めていた。
今日もりつかは使い慣れたペンをお気に入りのインクの入った瓶に浸して、彼の為に選んだとっておきの便箋に筆を滑らせる。
【拝啓 オベロン・ヴォーティガーン様】
その名前を見るだけでりつかは口元が緩んでしまう。自分の字で綴っただけなのに、なんとも不思議だと思いながら名前の下の部分を人差し指でそっとなぞり、行を変えて言葉を続ける。
【冬の寒さが和らぎ、春の訪れを感じられる今日この頃如何お過ごしでしょうか】
季節の挨拶を
うーんとしばらく悩み、いつも通り日常であった些細な事を書き連ねた。
女学校での授業の事。学友たちとの何気ない会話の中での面白い話。今のちょっとした自分の中での流行。
りつかは彼に話したいことはいっぱいあって、けれどあまりたくさん書きすぎても迷惑になってしまうからと何度か書き直しながらも便箋に言葉を連ねた。
たわいのない話題を書いた後、ああ、そういえばもうすぐ梅が咲くのだと思い出す。
【梅の蕾が膨らみ始め、もうすぐ綺麗に咲いてくれることでしょう】
けれどこの手紙が届く頃には梅は盛りを過ぎその次は……
【そうしたら桜の季節ももうすぐです。この手紙を読まれている頃きっと満開になるかと存じます】
今書いている手紙が彼の手元に行く頃にはこちらの季節もとうに移り替わっているだろうことはもうすでにりつかは理解している。けれど……
【オベロン様】
季節は巡ってくるものだから、彼女は願わずにはいられない。
【貴方と一緒に梅も桜も見ることができたら……きっと今まで見たどの花より綺麗に見えると思うのです】
春だけではない。夏も、秋も、冬も……巡る季節を、一緒に過ごせたら……いつか来てくれるその日が、待ち遠しくてたまらない。
最後に結びの言葉と名前を書いて、もう一度頭から変な所は無いかと確認してから便箋を折りたたみ封筒に入る。最後に、朱色の封蝋を垂らして璽を押して封をした。
「……英吉利かぁ」
未だ顔も知らぬ、りつかの婚約者。彼は今海を渡った遠い地にいる。
兄に見せてもらった写真や本での知識しかないが、きっと素敵な所なのだろう。
彼の居るその国にりつかは思いを馳せ、手紙を手に持ち、祈るように目を瞑る。
「無事に届きますように……」
海を越えて、数か月かけて届けられる手紙。
遠く離れた自分と彼とが、唯一の言葉を交わすための手段。
今回も、無事に彼の元に届くようにとおまじないのようにそっと手紙に口付けた。
*
りつかが手紙を出してから4ヶ月ほどが経過した。
女学校から帰宅すると、家にいた兄から「りつかに手紙と小包が届いているよ」と教えられた。その言葉に、一日の疲れがすべて飛んで行ってしまう。
兄から手紙と小包を受け取ると、りつかはすぐさま自分の部屋に行き机に向かった。
早く手紙を読みたい気持ちもあるけれど、海を渡って今手元にある手紙の封筒をじーっと見詰める。
封筒に【Dear. Ritsuka Hujimaru】という流れるような筆記体で書かれた自分の名前。
その宛名の文字を暫く見詰めた後、丁寧に封筒を開けて手紙を取り出した。心成しか、便箋からふわっとなんだかいい香りがする。
【拝啓 藤丸りつか様】
宛名に書かれた異国の文字で綴られた自分の名前も、りつかに馴染みのある母国の文字で綴られた自分の名前も、彼の美しい文字で綴られているだけで、なんだか特別な名前になった気分になれるから不思議だ。それだけで、頬が緩んでしまうのを感じながらりつかは大切に手紙を読み進めていった。
英吉利はこの手紙を書いている時は春の花の盛りを過ぎ、新緑の季節になってきていること。気まぐれで入ったパン屋のパンが美味しかったこと。仕事の同僚との世間話の中で聞いたこと。何気ない日常の些細な事だけでもオベロンの事を知ることができてりつかは嬉しかった。
そして、ある一文を読んでピタリと目を止める。
【りつかさんに似合いそうだと思って、つい手に取ってしまいました。気に入って頂けたらよいのですが】
その文を読んだ後、ドキドキと早鐘の様に脈打つ胸を押さえながら小包を開く。
「わぁ……!」
包装された化粧箱の中に入っていたのは、黄色のリボン。両端に橙色の蝶々と、花の刺繍があしらわれている。
「こんなに素敵なものを……私の為に……嬉しい……」
宝物を持つみたいにそっとリボンを手に取り、広げたりして散々眺めた後胸にぎゅっと押し抱いた。
彼の美しい文字で、名前を綴ってもらえるだけで親からもらった自分の名前がより一層、素敵なものになった気がする。
彼に関することならどんな些細な情報でも知ることができたら嬉しい。
そして彼がこうして自分のことを思って贈り物を選んでくれて天にも昇るような気持ちになる。
「オベロン様」
そのそっと口にする。それだけで、りつかの胸は幸福感でいっぱいになる。
……これを、恋と呼ばずになんと呼ぼう……
「貴方に会える日が、私とても待ち遠しい……」
顔も声も知らない、海の向こうの国にいる、自分の未来の旦那様。今日もりつかは彼に恋をしている。
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