唇も色付かせて

 人理修復というグランドオーダーの中でカルデアの中で過ごす、日常の中で人類最後のマスターは自分に割り当てられた部屋にて自身のサーヴァントと会話を楽しむ事が多かった。
 そんな彼女のサーヴァントの一基であるオベロンも、気ままにマスターのマイルームに訪れては話をした。旅の中であった事やカルデアで過ごした中であったことなど……そんななんてことない他愛のない話。その話をしている途中で立香が「痛っ」と呟いて口元を抑えた。

「どうしたんだい?マスター」

 突然痛そうに唇に手を当てた立香を心配してオベロンが尋ねると「ううん。ちょっと唇が切れちゃて」そう言った。

「乾燥しているから荒れちゃったかな……」

 眉を下げて困ったように立香は笑った。そんなやり取りをした翌々日、オベロンの手には蝶々の絵柄が描かれた可愛らしい手のひらサイズの容器があった。中身は彼が作ったリップバームである。自分の手に収まる、自分で作った、リップバーム。それをじっと眺めた後、オベロンは目を閉じて、すうーっと息を吸い込んだ。

(……いや、別に深い意味無いし?別にマスターがたまたま唇切ったからなんか唇すらも自分で手入れ出来ないなんて可哀想だなって思っただけだし?)

 誰に言うでもなく、何となく心の中で弁明する。ちなみにこれ作る時に丁度いい容器の素材を融通をして貰ったダ・ヴィンチにはニヤニヤされ、マニキュアの時も相談に乗ってもらったメディアには若干引いた反応を貰った。男が女に口紅を贈るって……という反応だったがこれは薬用のリップバームでどちらかと言うとスキンケア用品。深い意味は無い。
 マスターの為にマニキュアを作って贈り、おしゃべりをしながらこれまたお手製の薬草入りの軟膏で手のケアをオベロンがやっていることで誤解を招いているのかもしれないが、これはあくまでサーヴァントとしてマスターを気に掛けているだけである。
なんせ今のオベロンは『人類最後のマスターである少女に力を貸す妖精王』の役を羽織っているので。
 だから、「この男、マスターを自分の手で磨き上げて伴侶にするつもりじゃないわよね?」って目で見てくるのはやめて欲しい。彼が今契約しているマスターの少女 藤丸立香は、オベロンが妖精國で探し続けた『輝ける星 ティターニア』ではないのだ。決して。

(マスターのことは別に、これっぽっちも、全然、好みじゃないし)

 と誰に向けてか言い訳した。まあ色々と不本意な誤解を受けてはいるが、せっかく作ったものを捨ててしまうのも癪なので……オベロンはマスターの部屋へ足を向けるのだった。
 声を掛けて中に入ると、マスターは自分のベッドに腰掛けながらタブレットを見ていたがオベロンの姿を見て「いらっしゃい」と笑った。オベロンもにっこり笑い返し「やぁ、マスター。お邪魔するよ」と言って彼女の座るベッドに自身も腰を下ろした。
 そして、差し出されたオベロンの手のひらに立香は自分の手を素直に重ねる。……マスターの証である令呪が刻まれているそれを、なんの躊躇いも迷いもなく、差し出す。

(……もし、今この手を引っ張って奈落に引き摺り落としたら頭から飲み込んでしまったら……)

 世界が終わってしまうのだけれど、この世界の運命を背負った少女は目の前の男がそんな物騒な事を考えているなんて露とも知らず彼が施す手指のマッサージを受けながら楽しそうにお喋りをしている。

(まったく、暢気な人類最後のマスター様お嬢さんだよ)

と、内心毒づきながらもマスターの手を労わるように軟膏を塗り込む。そして、手のケアが終わった辺りで「今日はマスターにもう一つ贈り物があるんだ」と言うとマスターは「贈り物?」と首を傾げる。そして、オベロンは手のひらサイズの蝶が描かれた容器を取り出して見せた。

「これは何?」
「これはリップバームだよ」
「リップバーム?」
「そう。最近、マスター唇が切れて痛そうにしていたからこれも作ってみたんだ」

 すると、立香の明星あけぼしの瞳がキラキラと輝く。

(すごい……!オベロン、リップバームまで作れちゃうんだ……!)

 と純粋に感嘆しているようだった。だがすぐに眉を下げ、申し訳なさそうな表情になる。

「……オベロンには色々もう作って貰ってるのに……」 

 先程まで、オベロンがマッサージをしていた手を立香はそっと撫でた。戦いを乗り越えるごとに傷ついて帰ってくる彼女の手はオベロンの作った軟膏のお陰で手荒れは幾分もマシになったし、爪も特製のマニキュアで彩られている。
 オベロンは、世界を救うために力を貸してくれている英霊なのに唇が荒れていることまで気遣わせてしまって申し訳ない……ということを考えているのが読み取れた。

「気にしないでくれマスター。僕がしたくてしたことさ」

 そう言うとオベロンは容器の蓋を捻り中身を見せた。うっすらと唇が色付くように……立香に似合うと思う色味にしたリップバーム。
 そう、これはオベロンが勝手にやっていることだ。『人類最後のマスター』だけでなく『なんでもない普通の女の子』の藤丸立香でもあるのだと……それを証明するように……。つまるところ、ただの凡庸な少女に大層な役割を押し付けている、カルデアへの当てつけでもあるのだ。そんな思いをかけらも見せず「君の肌に合う色にしたつもりだよ」とオベロンは微笑む。それに立香は顔を綻ばせた。

「……オベロン、ありがとう」

 はにかんで、立香は笑う。明星あけぼしの瞳は、相変わらずキラキラしていて……眩しくて目が潰れそうだと思いながらも「どういたしまして」と返した。

「これで保湿すれば、すぐに切れてしまった唇もよくなるよ」
「うん。オベロンのお手製ならお墨付きだね」

 そう言うと、立香はオベロンに顔を向けて目を閉じた。その行動にオベロンは思わず息を飲む。

「……マスター?」

 思わず、戸惑うような声で彼女を呼んでしまった。
 目を閉じ、自分からの動きを待つその姿……それが、まるで口付けを待つ乙女の様で……
 安心しきった顔でオベロンが当たり前の様にリップバームを塗ってくれると思っている立香の様子にちょっと警戒心薄すぎじゃないか?と思った。

(……いっそ、このまま唇奪ってしまおうか)

 信頼している己のサーヴァントに突然キスされたら……目の前のマスターはどんな反応するのだろうか……なんて思っていたら、オベロンの様子がおかしいことに立香は一瞬(オベロン、どうしたんだろう……)と不思議そうにしていたが、すぐにハッと自分が当然の様にオベロンにリップバームを塗ってくれると思っていたことに気が付き、恥じた。

「ごめん!オベロン!」

 閉じていた目が開き、立香の明星あけぼしの瞳がオベロンの冬の青空の様な瞳と視線がぶつかる。
 オベロンが立香に顔を近付けていたことに気が付いて、立香は驚いて身を引こうとしたのだが、オベロンはそれを許さないと彼女の顎を自分の指で捕えて逃がさなかった。

「マスター」

 目線を合わせ、目の前の女の子に声を掛ける。彼女は自分を見めてくる目の前の男に戸惑いながらも「お、オベロン……?」と彼の名を呼んだ。
 ゆっくりと、更にオベロンは顔を寄せる。お互いの吐息が感じられ、唇が触れてしまうくらいの距離で立香はぎゅっと瞼を閉じた。その顔を見て、思わず「ぷっ」と吹き出してしまう。

(ははっ、変な顔)

 思いっきり瞼を閉じた立香の顔が、あんまりにも不細工で可愛くて……オベロンはなんだか可笑しい気持ちになった。

「ダメだよ。マスター」

 嗜める様に、けれど優しく聞こえるような声音で、明るく優しい妖精王を演じる男は少し顔を離した。そんな彼の声に、おそるおそる瞼を開けた目の前の少女に彼は微笑んで見せた。

「そう易々と目を閉じて身を委ねては……」

 そう言いながら、オベロンはリップバームを薬指で少量取ると立香の唇に指を滑らせる。

(うん。やっぱりこの色で正解だったな)

 元気に笑う彼女を見て、薄く色付く程度でも顔色がパッとさらに明るく見えるように……と思って作ったリップバームは、オベロンが思った通り良く似合っていた。
 艶が出てうっすらと色付いた立香の唇に、オベロンは満足げに目を細めたがすぐにニヤッと意地の悪い顔で笑う。

「僕を信用してくれるのは嬉しいけれど……あんまり無防備だと何されるかわからないよ?」

 信頼できる、優しい妖精王を演じているオベロン。だが、その本性はいずれカルデアと敵対する奈落の虫である。
 愛も無く、敵意も特に持たず、ただただ何もかもを滅ぼしたいと願うだけの世界の終わりをもたらす“終末装置”。
 だから、その気になれば、目の前の少女を壊すことだってきっと容易い。

(ま、全部まるごと飲み込んでやろうとしたら腹切り裂かれて逃げられたんだけど)

 再びオベロンは立香に顔を近付けると、彼女の頬に自分の唇で触れた。ちゅっとわざと軽く音を立ててキスしてみせると、立香の首筋から耳まで一気に真っ赤に染まる。
 何とも初心な自分のマスターの反応に内心笑い出したくなるのを堪えながら「僕も、男だからね……気を付けて。可愛いマスター?」と彼女の手に蓋をしたリップバームの容器を握らせた。

「またね」

 顔を真っ赤にしたマスターにウインクして、オベロンは彼女の部屋から出て自分に当てられた部屋へと足を進めながらオベロンは先程キスした立香の頬が、少し乾燥していたな…と思っていた。

「……今度、化粧水や顔用のクリームも作ってみるか……」

 そんな呟きが、誰もいない通路で微かに響いて、誰の耳にも入ることなく消えた。
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