唇も色付かせて

 人理焼却から世界を守る為に奔走するマスターの手がボロボロなのを見かねて、オベロンが彼女の為に特製のマニキュアを作って贈ってから、彼はマイルームに訪れて立香の手のケアをするのが習慣になった。
 別にオベロン手ずから毎回ケアをする必要は無いのだが、人類最後のマスターである少女の手を労わり手入れをするついでに他愛もない話をすることでドクターと話すのとはまた違った息抜きやカウンセリングのようになっている。立香はその時間が結構好きだった。初めはオベロンに毎回丁寧に手をマッサージしたりしてもらうのはなんだか申し訳なくて気恥ずかしかったけれど、今ではオベロンの手が自分の手を取ってくれるのに慣れてきて、立香はとても安心できるのだ。
 その日も、いつもの様にふらっとやって来たオベロンが、ベッドの淵に腰かけていた立香の隣に座りこちらに差し出してくれた手に、自分の手をなんの迷いもなく重ねた。
 オベロンお手製の薬草入りの軟膏を塗り込む様にしながら他愛もない話をしていたが、立香の手のマッサージを終えるとオベロンが「今日はマスターにもう一つ贈り物があるんだ」と言った。

「贈り物?」

 立香が首を傾げて尋ねるとオベロンは優しく微笑んで。蓋に蝶々が描かれた手のひらサイズの容器を見せた。

「これは何?」
「これはリップバームだよ」
「リップバーム?」
「そう。最近、マスター唇が切れて痛そうにしていたからこれも作ってみたんだ」

 すごい。と立香は素直に思った。マニキュアからハンドクリームまで色々お手製で作れるからリップバームくらいもオベロンは作るのなんてお手の物なのかもしれない。

「……オベロンには色々もう作って貰ってるのに……」

 滅亡の危機に瀕している世界を救うために力を貸してくれている英霊なのに、こんなことまでしてくれるなんて……あまりにもオベロンに良くしてもらいすぎて立香は嬉しいと同時に本当に申し訳ない気持ちになった……

「気にしないでくれマスター。僕がしたくてしたことさ」

 蓋を捻り見えた中身は、うっすらと色が付いていて綺麗だった。
 「君の肌の色に合う色にしたつもりだよ」というオベロンの言葉にじわじわと、胸が温かくなる。

「……オベロン、ありがとう」

 いつだって、オベロンは立香を『マスター』としてだけでなく、『ただの頑張る女の子』として労わってくれる。それがとても嬉しかった。

「どういたしまして。これで保湿すれば、すぐに切れてしまった唇もよくなるよ」
「うん。オベロンのお手製ならお墨付きだね」

 そして、立香は目を閉じて少し顎を上げる。その彼女の行動に、オベロンが息を飲む気配が伝わってきた。

「……マスター?」

 ちょっと戸惑うようなオベロンの声音にどうしたんだろう…と一瞬不思議に思ったが、すぐにハッとなる。

(私、当たり前みたいにオベロンにリップ塗ってもらおうとしちゃった…!)

 手のケアをいつもしてくれているから……と当然の様に……「ごめん!オベロン!」と言って目を開けると、先ほどよりもずっと近い距離に、オベロンの顔があった。

「!?」

 驚いて身を引こうとした立香だったが彼の細いがしっかりとした指先が、彼女の顎に添えられていて叶わなかった。
 長い睫毛に縁取られた透き通るような蒼い瞳がじっ…と彼女を射抜く。その視線から目を逸らせないでいると、さらに顔が近づいた。

「マスター」
「お、オベロン…?」

 吐息が掛かる距離までオベロンが顔を寄せる。立香はその事実にうるさいくらい、心臓がバクバクいってきた。
 唇が触れてしまいそう…そう思って瞼をぎゅっと閉じた瞬間に、「ぷっ」と吹き出すような笑い声が聞こえた。

「ダメだよ。マスター」

 顎から指が離れる。柔らかく嗜める様なオベロンの声に、おそるおそる瞼を開けると先程よりも顔の距離を離したオベロンが笑っていた。

「そう易々と目を閉じて身を委ねては…」

 そう言いながらもオベロンは自分の手に持っていたリップバームを薬指で取り…立香の唇にその指を滑らせる。薄く色付き、艶やかになった唇を見てオベロンは一瞬満足そうに目を細めると、すぐにニヤッと意地悪い顔になった。

「僕を信用してくれるのは嬉しいけれど…あんまり無防備だと何されるかわからないよ?」

 そして、再びオベロンは顔を近付けると、ちゅっと軽いリップ音を立てて立香の頬にキスをした。

「僕も、男だからね…気を付けて。可愛いマスター?」

 彼女の手に、蓋をしたリップバームの容器を握らせるとオベロンは立ち上がり「またね」とウインクしてマイルームを出て行く。
 
 マイルームには顔を真っ赤にしたマスターだけが残された。

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