ハッピーエンドルート

「できたぞ。これが人間になる薬だ」

 トリトンが用意してくれた船の医務室。その診察台に、手のひらに収まるくらいの小瓶がコトッと置かれた。

「これを飲めば、すぐに人魚から人間の身体になることができる」

 小瓶を見詰めながら、アスクレピオスの言葉を聞いて思わずゴクッと喉を鳴らす。

「これを飲めば、人間になれるんだ……」
「ああ。だが、この薬を飲む前に先にこっちを飲め」

 診察台に置かれた小瓶とは別の瓶を差し出される。

「これは?」

 瓶を見ながら首を傾げながら尋ねると「痛み止めだ」とアスクレピオスは答えた。

「人魚と人間は見た目の造型に共通点はあるが根本的に造りが異なるからな。薬の力で身体を変化させるのに最初は激しい痛みが伴う。これを飲めば少しは和らぐだろう」

 じっ……とアスクレピオスが私の目を見詰める。

「……とは言え、多少は痛む。それでも、人間の身体になりたいか?」

 何度も、聞かれた言葉。
 薬の材料を集めている最中にも、色んな人に同じことを言われた。
 皆、私の身を案じてくれているのはわかる。ただ、人間の友達とダンスを踊る為だけに生まれてからずっと持っていた海で生きていくための身体を私は手放すのだから。

 でも、私はやっぱり……

「……うん。私、人間の足が欲しい」

 これも、私が何度も返してきた答え。

「それに、私の我儘にたくさんの人が力を貸してくれたのに今更飲まないなんて言えないよ」

 薬の材料を集めるのもトリトンが船を出してくれたり、時にはイアソン達アルゴノーツも手伝ってくれたし、陸地に上がる時はアキレウスがチャリオットに乗せてくれたり、ケイローンが背負って移動したりして連れて行ってくれた。
 そして何より、私が早く人間になれる様に、材料を手に入れたらすぐに薬を作ってくれたキルケーとアスクレピオス。
 2人が私の願いを聞いてくれなければこうして薬を手にすることもできなかっただろう。

「人間の身体になる時に痛くても大丈夫だよ。だって、2人が作ってくれた私の願いを叶えるための薬だもん」

 そう言って笑うと、キルケーもアスクレピオスも「まあ、そうだよね」っていう感じに笑った。

「これでやはりやめると言うようなら、最初の説得で諦めてるな」

 アスクレピオスは痛み止めの瓶の蓋を開けると、私に手渡してきた。

「薬を調合した僕とキルケーが見届ける。痛み止めを飲んで、その次に人間になる薬だ」
「うん」

 瓶を受け取ると痛み止めを飲み、次に差し出された人間になる薬を口に流し込んだ。
 ごくり、と薬を飲み込む。すると、薬が喉を通り過ぎた瞬間にどくりっと心臓が大きく脈を打った。

「いたっ、いたたっ」

 身体の骨が軋み、思わず声が漏れ座っていた床に倒れて蹲る。

(痛い痛い!何これ!?体が凄いミシミシする……!)

 本当に、自分の身体が作り替えられているのだという感覚。
 特に下半身の変化が激しい。
 茜色の鱗が禿げ落ち、尾鰭が先端から避けた。
 思わず伸ばした手を、キルケーが握ってくれる。

「頑張るんだピグレット!もう少しだから!」

 キルケーの手を握り締め、痛みに耐える。
 全身の鱗が剥がれ落ち、尾鰭が完全に別れた辺りで、アスクレピオスが衣を上から掛けてくれた。

「……よく、頑張った」

 軋む様な感覚が治まり、呼吸を整える。
 痛みに堪えて蹲るようにしていた体を起こし、自分の下半身に目を向ける。

 ……そこにあったのは、生まれてから慣れ親しんだ尾鰭ではなく、紛れも無い人間の足だった。

「あ……」

 生まれつき持っていた、海を泳ぐ為の尾鰭が無くなった不安と寂しさは勿論あった。
 けれど、それ以上に大好きな友達と並び立って踊れる足が自分にあることが泣き出しそうなくらい嬉しかった。

「キルケー!アスクレピオス!」

 手を握ってくれていたキルケーにぎゅうっと抱き着く。

「ありがとう……!本当に、ありがとう!」
「……ふふっ!大魔女サマの私の手に掛かれば人魚の君を人間にするくらい簡単なのさ」
「調合はほぼ僕がやったけどな」
「調合中の呪文詠唱は全部私だ!」

 キルケーはアスクレピオスと話しながら私の背中に手を回してそっと抱き返してくれた。

「……黄昏の女神の祝福を受けた、愛しい人魚の子。どうか、君の夢が叶いますように。……あと、陸で暮らす事を選んでも偶には私の島に遊びに来るんだぞ?」
「うん!もちろん!」
「あと、人間として陸で生きていくのに限界を感じたらキルケーの所か僕の診療所に来い。人魚に戻る薬を処方してやる」

 アスクレピオスの言葉に、目を丸くする。

「人魚に戻る薬も作ってくれるの?」
「今回はお前の『友人と舞踏会でダンスを踊りたい』という理由で人間にしたが、そのまま人間として生活するか、海に帰ってくるかはまた別に考えることだからな。」

 私が陸を選んでも海を選んでも良いように、気にかけてくれることに、感謝しかない……。本当に頭が下がってしまう……。

「何から何までありがとう……」
「礼には及ばない。人魚から人間になった事例はまだ貴重だからな。どちらで生きることを選んでも定期検診には来るように」

 さすが医神と呼ばれるだけあって、患者の状態に対しては関心が強いようだ。どこまでもアスクレピオスはお医者さんなんだなぁ……と思いながら「はーい」と返事をする。

「それに、お前が本当に大変なのはここからだぞ」

 「立ち上がれるか?」とアスクレピオスが差し出してくれた手を取り、キルケーに支えられながら床に立ち上がった。
 ……今まで『立つ』という事をしたことなんて無かったから、まだ1人では安定して立つのは難しそうだ。

「……私、ダンス踊れる様になるかな……」

 アスクレピオスに手を掴んでもらい、キルケーに支えられる事でようやく立っていられる程度の自分に、不安を覚える。
 だか、アスクレピオスは「心配するな」と言って頭を軽く撫でてくれる。

「お前がきちんと友達のオベロンとやらと踊れる様に、こちらでも手配済みだ」
「え、それって……」

 アスクレピオスに手配とは何かを聞こうとしたらコンコンコン。と医務室のドアがノックされた。「どうぞ」とアスクレピオスが入室を促すと「失礼します。」と言ってケイローンが入ってきた。そして、2人に支えられて立っている私を見て目元を緩ませた。

「ああ、無事に人間に慣れたようですね。リツカ。体調はいかがですか?」
「体調は今のところ大丈夫です!ただ……やっぱり、足に慣れるまで少しかかりそうで……」

そう、不安を告げると「そうでしょうね」とケイローンは頷く。

「元々、貴女は尾鰭で海の中を泳いでいる生活をしていたのですから、陸の上で地に足を付き歩くことはすぐには難しいでしょう。ですがリツカ、貴女はあと半年で歩くだけでなく完璧なダンスを踊れる様にならなければならない」

ぽん、と肩に手を置かれ、にっこりとケイローンは笑った。

「さあ、リツカ。今日から猛特訓の始まりですよ。ビシバシ、指導しますからね。」
「………………えっ!?」
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