短編集
「お兄ちゃん」
呼ばれなれぬそれは確かに自身に向けられていて、少しばかり思考が止まる。
何気ない日常に落とされた1つの言葉。それがこんなにも痛いとは思わなかった。その言葉を心の片隅で求めていたはずなのに。その真意を俺はきっと理解していなかったのだろう。
口に出したのは自分だというのに、彼女は酷く驚き瞠目していた。だが、彼女が求めていたのは最初からそれだ。理解していた。理解していて尚、代用品としてでも彼女の心の隙間を埋めてあげられたらと思っていた。そして今、それはただの独り善がりだったと彼女の表情を見て思い知る。
「――ごめんなさい、忘れてちょうだい」
伏せられたその瞼の隙間から見えた寂しさも。眉間に寄せられた皺が物語る憂憤も。何ひとつとして拭ってやれない自分にこの日ほど苛立ったことはないだろう。
なぁ、アイゼン。やっぱり俺はお前の代わりにはなれやしないんだよ。
何も言うことすら出来ずに、俺はただその背を見つめ返すのが精一杯だった。