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短編集



「ねぇ、あなたの誓約って今どうなってるの」

 先日、海路を使う探索をそれとなく断ったノーアを見て、思ったことをふと口に出す。彼はこちらを一瞥して、少し考え込むように視線を虚空に投げた。少しの沈黙。彼が自身に誓約を課したのはどれ程前だろう。忘れてしまいそうなくらいに昔。それほどまでに長い時間、当たり前のように縛られて生きていた。彼も、ワタシも。

「……考えたことなかったな……」

 返って来た答えは拍子抜けするもので、だが予想通りのものでもあった。言葉をこぼした後、彼は再び考えるように黙り込む。彼が自身に誓約を科して作り上げたレイフォルクの領域。ここティル・ナ・ノーグにレイフォルクと同じような場所はあれど、そこに彼の領域までも具現化されているとは限らない。ここはそういう世界だから。そんな当たり前の事にすら思い至らないくらいには、この世界に来てから慌ただしい日が続いていた。

「違和感はないの?」
「不思議なことに全く。エンコードの影響かもな」

 やっかいなのか、そうじゃないのか。自身の領域の有無など普通はわかって当たり前だ。そうでなければ、なんの為の領域なのか。役目を果たさない誓約など、それこそただの悪害でしかない。

「ねぇ」
「ん?」
「……試してみる?」

 彼は目を丸くしてこちらを見やる。驚きと、戸惑い。そして、その中にほんの少しだけ覗いた想望。

「いや、けどな……」
「あなたの悪い癖よ。そうやってまた答えを先延ばしにしようとする」

 自覚があるから困ったものだ。慎重と臆病は違う。その裏に何を思っているか、わからない訳では無いが、彼とてワタシが譲らないのを分かっているだろう。

「ミリーナに言えば小船くらい手配してくれるでしょ」
「そういう問題じゃなくてな……」
「なら何が問題なの」

 言いづらそうに、目を逸らす。迷子の子供のような、何とも情けない表情。

「言っておくけれど、ワタシは引く気はないから」
「……だよなぁ……」
「それに、ワタシだって無意味に提案してる訳じゃないわ。少し前にお兄ちゃんから手紙が来たのよ」
「アイゼンから……?」

 ワタシが頼んでいた情報。この地のレイフォルクが今どうなっているのか。兄も他人に仮を作りたくない性格だ。例え未来の話であっても、ノーアに借りがあることには変わりない。頑固で融通の聞かない兄が協力してくれるのも道理だ。

「この世界のレイフォルクには領域は〝存在しなかった〟」

 小さく息を呑む音が聞こえた。それは朧気だったただの可能性が、小さな希望へと変わった音のようだった。彼と兄は確かに相反する思考の持ち主で、互いを良くは思っていない。だがその分、互いを良く知っている。だからこそ彼がこの言葉を疑う理由はなかった。

「……だが誓約は生きてる可能性もある。どういうことかわかるだろ?」
「しつこい。ワタシは譲らないわよ。いい加減覚悟なさい」
「……わかったよ……」

 しぶしぶ、と言った風に言葉を零す彼。もう少し嬉しそうな顔しなさいよ、と言う言葉は飲み込んで替わりに傘をくるりと回す。ここまで言わないと彼はその重い腰をあげないことは、よく分かっていた。どうせ万が一の時にワタシを巻き込みたくない、なんて思っているのだろう。だからこそ今動かなければ彼はまた勝手に一人で終わらせようとするのだ。そのくらい手に取るように分かる。

「まぁ、実はもう船は手配しているんだけど」
「そりゃ用意周到なこって」
「逃げないように退路を絶って引っ張ってでも連れて来いってお兄ちゃんに言われたから」
「くそ、あの野郎……」
「伊達に何年もあなたを見てないわ。ワタシも、お兄ちゃんも、ね。逃げられると思った?」

 してやったり。そんな意味を込めて笑えば彼は降参、と肩を竦める。これ以上は往生際が悪いと思ったのだろう。彼は少し困ったように、だが緩やかに笑った。

「ヤバいと思ったらすぐに引き返すからな」
「あら、何かあってもあなたがどうにかしてくれるでしょう?」
「信頼してくれるのは嬉しいがなぁ。まぁ何も起きないことを祈ろうや」

 腹を括ったのかいつもの調子で彼は軽口を零す。どちらからともなく踏み出した足並みは綺麗に揃っていて、彼がワタシに合わせてくれているのがよく分かった。そっと盗み見た彼の瞳だけは、まだやはり少し揺れていた。


――――――…


「エドナ様、ノーアさん、こっちよ」

 港でミリーナがこちらに手を振っている。その脇にはカーリャの姿も。

「悪いな、ミリーナ。わざわざ手間を取らせた」
「いいえ、大丈夫ですよ。話は聞いてます。さっきまでアイゼンさんもいたんですけど……」
「は? アイツ、向こうはどうしたよ」
「報告ついでに、って言ってました。でもきっとノーアさんとエドナ様が心配だったんじゃないかしら」
「素直じゃないですよねー、アイゼン様」
「心配してるのはエドナの事だけだろうがなぁ」

 始終楽しそうにミリーナは話す。一通り兄には報告していたが、まさか本人がわざわざ来るとは思ってなかった。しかも丁寧に彼とは顔合わせないようにまでして。

「操船は大丈夫かしら。アイゼンさんは必要ないだろうって言っていたけれど……。必要であれば誰か手の空いてる人に声をかけましょうか?」
「いいよ、大丈夫。あいつの言う通りなのも癪だが、覚えてるさ」

 懐かしむように、確かめるように、自身の手を見てから顔を上げた。どれだけ時が経とうが、彼の中には未だに鮮やかな海が広がっているのだろう。

「わかりました。では私はここで待ってますから、何かあったら直ぐに魔鏡通信で呼んでくださいね」
「おー、ありがとな」
「カーリャも直ぐに飛んで行きますよ!」
「頼りにしてるよ。……んじゃ、行きますか」

 いってらっしゃい。そんな言葉を背に船へと乗り込む。そこまで大きくない、漁業をする為の船。甲板に先に上がった彼は、慣れたようにこちらに手を伸ばした。

「揺れるから気をつけろよ」
「そんなに心配されるほどヤワじゃないわ」

 そう言いながらもその手を取る。ワタシが船に乗ったのを確認して、慣れた手つきで帆を張る。一度潮風を感じるかのように目を閉じて、彼は水平線へと視線を移した。帆が風を受けてゆっくりと港を離れる。ゆらり、波を受け止めるように船体が揺れた。
 離れる港と、そこで手を振るミリーナとカーリャ。二人の表情が見えなくなった頃に、ワタシはそっと彼を見た。彼もまた、遠くなっていくミリーナたちを見ている。二人の影が見えなくなるまでそうしていた彼は、ひとつ大きな深呼吸をしてから船の進む先へと視線を移す。

「綺麗ね。水面が陽の光を反射して眩しいくらい」

 そう彼の背に話しかける。答えは返ってこない。そこには波の音と、海を渡る鳥の鳴き声だけが響く。それ以外何も無い。それは彼の誓約がここでは作用しない事を意味していた。

「未練なんて無いと思ってたんだがなぁ……」

 ようやく絞り出したような声は少しばかり震えている。その双眼から零れ落ちる感情は、今まで見た中で何よりも彼を表しているようにさえ思えた。

「ねぇ、覚えてる? あなたがいつか船で旅に連れていってくれるって言ったこと」
「あぁ、そんなこともあったな。あの頃はお前をレイフォルクから連れ出すことばかり考えてた」
「けれどワタシはあそこでお兄ちゃんの帰りを待つって決めていたもの。あの場所を離れるなんて思ってもなかったわ」
「それでも俺はお前にあの場所以外の風景をみせてやりたかったんだ。……あいつも、そう望んでいたから」

 思い返すのはもう随分前の話。彼がまだ、兄からの手紙をワタシの元に届けに来てくれていた時。楽しそうに外の話をする彼と、旅の話を綴った兄の手紙。外に憧れがなかったかと言えば嘘になる。それでも、あそこはワタシにとって、兄と繋がる唯一だと思っていた。だから何度誘われようと、ワタシは首を縦に振ることはなかった。兄がドラゴンになってからは、尚更だ。ワタシはあの場から、もう離れられなくなっていた。そうしていつからか、彼は海の話をしなくなった。だからきっと、海への未練を絶たせてしまったのはワタシではないかと。彼から海を奪ったのはワタシではないのかと。その感情はずっと心の中にあった。そうして互いにしがらみの中でずっと生きてきたんだろう。だが、それも今日まで。やっと彼に、海を返せる。それならば。

「今ならどこへだって行ける。あなたも、ワタシも。そうでしょう?」

 あの頃話してくれた場所とは違うだろう。それでもここではワタシたちを縛るものは何も無い。そして、ここはこれからワタシたちが生きていく世界でもある。

「あぁ。一緒に来てくれるか?〝早咲きのエドナハクディム=ユーバ〟」
「今更よ。何処へだって着いていくわ。〝凪のノーアラムール=ビア〟」

 この世界でしか選べない道を。随分遠回りをしてきたけれど、あの時踏み出せなかった未来への続きを今、ここから。これは、未来へと踏み出したワタシたちの新たな船出だ。



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