魔核奪還編
油断していた訳では無い。ただの力不足だ。そう痛感したのは魔物に囲まれてから。
今更気付いたって遅い。自分はそれなりに戦えると、そう思っていた。だって外の世界の事なんて何も知らなかった。誰も、教えてくれなかった。護身術を習っている時、本を読んで覚えた術をやって見せたら驚いた先生の顔。本で読んだ世界の情景。それが全てだった。
だから、今更気付いた。外の世界の怖さに。
情けなく足が震える。相棒とも呼べる大きな杖をギュッと握りしめて何とか立っていた。こんな所で、終わるのだろうか。意気込んで城を飛び出してきたと言うのに、こんなにもあっさりと。威嚇を表す呻きは言葉としてこちらに届くことはない。意思の疎通を測る気がないということだ。
土を踏みしめる音に肩が跳ねる。それを合図のように目の前の魔物は一気に距離を詰めてきた。襲ってくるであろう痛みから目をそらすように、グッと視界を閉じた。
しかし、いつまで経っても恐れていた痛みも、衝撃も来ることはなかった。そっと目を開いたそこに居たのは、短刀を銜えた1匹の犬。
「ワフッ」
その犬はこちらを一瞥して、直ぐにまたその短刀を構えて魔物の中に突っ込んでいく。いったい、何が。
だが確かにこちらの安否を確認する彼の言葉はこちらに届いていた。
次いで耳に届いた足音に、そちらに顔を向ければ人が2人、こちらへと駆けてくる。
「ラピード! …っと、そういうことか。行けるか、エステル」
「はい!」
長い黒髪の男の人と、ピンクの髪の女の人。2人は各々武器を構えて先程の犬に続く。
自身の周りを囲っていた魔物達は、その2人と1匹によってあっという間に一掃されてしまった。
呆気に取られたままその光景を見ていれば、長髪の男の人がこちらへと体を翻す。その表情は不思議そうに自身を見ていた。
「こんなとこで1人でなにやってんだ。ハルルから来た……訳じゃなさそうだな」
「大丈夫です? 怪我はありませんか?」
視線を合わせるようにピンク髪の女性がこちらの顔を覗き込んでくる。その顔を、自分は知っていた。遠くからしか見たことはなかったが。
「あ……、大丈夫、です……。ありがと……ございました……」
「礼ならあいつに言いな。あんたに真っ先に気付いたのはあいつだ」
「ラピードが急に街を飛び出すからビックリしました。でも間に合って良かったです」
あいつ、と言った男性の視線の先には先程の大きな犬。戦闘中に咥えていた短刀を器用に鞘へと仕舞い、その口には変わりにキセルが咥えられている。
「あ、ありがとう、ございました……」
「ワフ」
「え? あ…べ、別に……そういう訳じゃ……なくて……、……あ……」
投げられた〝言葉〟に思わず返事を返してしまった。気付いた時には遅くて、驚いたような、不思議な物を見るような、そんな視線が2つ、自分に突き刺さる。
「あんた、ラピードが何言ってるのか分かるのか?」
「…ッ、あの、僕…ッ」
やってしまった。気を付けていたのに。外の世界に出たからと言って周りの目が変わるはずもないのに。
足を半歩、下げる。逃げてしまおうか。そんな思考と、助けてもらったのに、という思考が絡まって動けずにいれば、唐突に視界にピンクが映る。
「すごいです!ラピードとお話出来るなんて…!」
「…ぁ…、え…?」
「世の中には色んなやつがいるもんだな」
落とされた言葉を理解するのに時間がかかった。だって誰も、そんなこと言ってくれなかった。本当の事を言ってるのに、後ろ指刺されて囁かれる言葉はいつだって心無い悪意ばかり。
「…嘘だとか…思わないの…?」
「こいつが嘘じゃねぇって証明してるからな」
こいつ、と親指を向けた先にはラピード、と呼ばれてた犬。彼は堂々とした立ち振る舞いでこちらを見ていた。
「でも…、動物と話すなんて…普通じゃ、ないし…」
「とても素敵ですよね。わたしもラピードとお話してみたいです」
「エステルはまず触る所から始めねぇとな」
「む、ユーリは意地悪です…」
何も変わらないと思ってた。両親と違うこの見目も、人とは違うこの特異体質も、普通とは違う。だから何処に行ったとしても、きっと自身の周りは変わらないのだと。受け入れられる事は、難しいのだと。
でもそれを、目の前の人達はあっさりと崩してしまった。初めての反応、初めての言葉。それをなかなか飲み込めずにいれば、ピンク髪の女性がこちらの手をそっと取った。
「わたし、エステリーゼと言います。エステルって呼んでください。こちらがユーリ。そしてこの子はラピードです。あなたのお名前も聞いても?」
「あ……、ニルヴィス、です……」
「ニルヴィスね。長いからニルでいいか?」
「ニル! 素敵なお名前です! ……ところで、ニルはどうしてこんな所に?」
ニル。呼ばれなれぬその音を口の中でそっと反芻して、目を瞬かせる。距離感の近付き方も、不思議と嫌じゃなかった。
「……母様、探しに……」
「お母様を?」
「ずっと、母様と会ってなくて……父様に聞いても何も教えてくれない……。だから、自分で探すの」
「そりゃまた随分思い切ったな」
少しばかり呆れたような色を含んだ声色だった。でも今ならそれでさえ素直に受け入れられる。外の世界は、思っていた以上に大きくて、怖かった。
「で、宛は?何処に行くつもりだったんだ?」
「それ、は……」
宛、と言えるような物は何も無くて。ただポケットに仕舞い込んだ、たった一つの手紙だけが頼みの綱だった。
「……とにかくこのままここに居てもしょうがねぇ。ハルルに戻ろうぜ」
「そうですね。樹の様子も気になりますし……。ニル、わたしたちと一緒に1度ハルルの街へ行きましょう? 1人では危ないですから」
「……うん」
優しく手を引いてくれるエステル。それに今はとても安心出来た。このまま1人で先に進む勇気は、今の自分には無かった。だからそのまま、少しの悔しさと共に彼らと共に歩き出した。