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ふたりぐらし

「マスター。……マスター、起きてください」

 男の声がして、藤丸立香はうっすらと目を開く。
 チチ、と鳴く雀の声と、ブロロ……と車のエンジン音が遠くに聞こえた。
 天井に設置された円形の蛍光灯は夜の役目を終えて消灯している。薄いピンク色のカーテンからは朝の光が爽やかな風とともに差し込んできていた。その光が、声をかけてきた男の銀髪を反射してキラキラと輝いている。寝ぼけたままの頭で綺麗だな、と思った。

「ごみ捨ては済ませておきました。朝食ももうできていますよ」

「何から何までごめんね、蘭陵王。ゴミ出し、私が当番だったのに」

「おかまいなく。私はマスターとともにいられるだけで幸せなのですから」

「その、マスターっていうの、やめない? もう主従関係じゃないし……」

 蘭陵王は、きょとんとしたあと、目を細め、とても優しい微笑みを浮かべる。

「……ええ。立香。ですが、私が貴女にお仕えする身であるのは変わりません。たとえ、聖杯戦争が終わったとしても」

「じゃあ、私も蘭陵王の呼び名変えようか? 日本に馴染みやすい名前……蘭太郎とか?」

「い、いえ、今まで通り、蘭陵王とお呼びくだされば」

 彼は立香に着替えを用意すると「お召し替えを」と言い残して部屋を出た。きっとキッチンで朝食を温め直すのだろう。立香に用意された着替えは、もうあのカルデアの礼装ではない。

 藤丸立香は、人類最後のマスターとして過酷な戦いに身を投じ、そして地球白紙化を阻止した――というのが、彼女の記憶の中にある。
 彼女の故郷である日本も2025年を迎えて、人類は何事もなかったかのように元の暮らしに戻っていた。
 そんな平和な日常に戻った立香の傍らには蘭陵王がいる。
 彼は立香から聖杯を与えられ、受肉して一緒に日本にやってきた。
 そして、2人は立香の家で、家族のように寄り添って暮らしている。
 2人の生活は穏やかで優しく、まるであの激しく厳しい冒険の数々が悪い夢のようだった。

 だが、そんな平和な日常にも、徐々に綻びが出始める。

「今日天気いいからさ、洗濯物乾くといいよね」

「そうですね。それにしても、立香は留守番なさっていてもよろしかったのですが」

「蘭陵王にだけ一方的に家事を押し付けるのはよくないと思う。荷物半分持つくらいはさせて」

「ふふ、立香は変わりませんね」

 蘭陵王はいつでも立香に優しい目を向けていた。
 愛おしい子供を見守るような、慈愛に満ちた目をしている。

「貴女には、ずっと変わらないでいてほしいものです」

「家事の手伝いしたくらいで大げさだなあ」

 2人で談笑しながら歩く、買い物の帰り道。
 不意に、曲がり角から何かが勢いよく飛び出した。

「わっ! びっくりした――え?」

「マスター!」

 蘭陵王が立香をかばうように前へ。その手にはいつの間にか、彼の愛用の剣が握られている。
 立香が驚いたのは、突然曲がり角から出てきた、ありえないものだった。
 ――ケルベロス。3つの巨大な黒犬の首が、空中に浮かび上がりながら、蘭陵王に噛みつこうと襲いかかる。
 それに向かって、蘭陵王は剣を構え、立香を守るために懸命に戦っていた。

「ら、蘭陵王! 一旦逃げよう!」

「承知しました。私だけでは勝ち目が薄い。マスター、失礼いたします」

 蘭陵王はケルベロスの頭の1つに斬りかかり、目を狙って横一閃。
 怯んだ隙を突いて、立香を抱えて駆け出す。
 立香は、こうして横抱きにされてサーヴァントに運ばれるのは慣れていたが、ふと疑問が湧いた。

 ――どうして受肉して人間になったはずの蘭陵王がこんなに強いんだろう……?

 蘭陵王を見上げると、彼は走りながら唇を噛んでいる。
 たった1人でエネミーに太刀打ちできないことが口惜しいのだろうか。
 ……いや、それよりも、なにかに焦っているような気がした。

 2人は急いで近くの喫茶店に逃げ込む。
 エネミーが襲ってきたら焼け石に水程度であろうが、避難先でひとまず一息ついた。

「急にエネミーが出てくるなんて……白紙化の影響がまだ出ているのかな」

「そうですね……とはいえ、通常、現代日本にケルベロスが出てくるなど……」

 蘭陵王は目を伏せる。考え事をしているようだ。

「それに、私もなんかおかしくて。日本に戻ってくるまでの記憶が曖昧なの。まるで、ずっとカルデアっていう夢を見てたみたい……」

 蘭陵王が返答する前に、サイレンの音が鳴り響く。
 それは救急車やパトカーのものではなく、街の警報のような、けたたましいもの。
 遠くからは、黒煙が見えた。

「なんだろう……行ってみよう、蘭陵王」

「し、しかし……」

「蘭陵王、戦えるんでしょ。私もまだ令呪がある。街の人を助けなきゃ」

 喫茶店を飛び出して街に駆けつけた2人の前に飛び込んだのは、炎に包まれた光景。

「まるで、特異点Fみたい……」

 そして、炎の中を、イフリータなどのエネミーが闊歩している。

「お下がりください、マスター。こうなったのも私の責任。なんとしてもマスターだけはお守りします」

 立香は右手の令呪をかざしながら、蘭陵王とともにその場のエネミーを制圧した。
 しかし、その程度では街に溢れたエネミーの群れが抑えられない。
 立香はハッとする。

「あの煙の上がってる方向……私たちの家だ。戻らないと」

「お、お待ち下さい、マスター!」

「でも! 家に戻らないと、お父さんとお母さん……が……?」

 家の方向を指差していた、立香の腕がだらりと下がった。

「……いない。最初から、蘭陵王と暮らしてた頃から、お父さんもお母さんも、いなかった」

 蘭陵王の顔が、目に見えて青ざめる。

「蘭陵王。私に、何を隠していたの」

 立香の目を、蘭陵王はまっすぐに見られない。
 苦悶の表情を浮かべた後、彼は降参した。

「……申し訳ありません、マスター。私は、貴女が壊れていくのを見ていられなかった」

 蘭陵王は知っている。
 立香は毎晩のように悪夢にうなされていた。
 どこかで聞いた話では、「失意の庭」というものがきっかけで、彼女は悪夢から逃れられなくなったと。
 激しい戦い。増えていくアンプル剤。もはや、この少女は平和な世界では生きていけないのではないか。そんな言い知れない恐怖が、蘭陵王の心に確かに燻っていた。

 蘭陵王は受肉していないし、立香の聖杯戦争は終わっていない。もちろん、地球白紙化も止まっていない。
 蘭陵王は己の独断で、聖杯を使ってしまった。現代日本、主人の故郷に限りなく近い微小特異点を構築。そこに立香を連れて一緒に逃げ込み、カルデアとは連絡を絶って2人きりで暮らそうと企てたのである。

「私は……愚かです。こんなことをしても解決にならないのはわかっていました。聖杯で作った特異点も、こうして綻びが出て崩壊しかけている。私はただ、貴女との穏やかな暮らしを享受したかっただけなのに」

「蘭陵王……」

 立香の蘭陵王を見る目は優しい。

「私のためを思ってこうしたのはわかった。まさか蘭陵王が聖杯保管室から持ち出してくるとは思わなかったけど……」

 立香は静かに蘭陵王に歩み寄り、そっと彼の手を握った。

「これ以上は無理だって、蘭陵王ならわかるよね。特異点、消滅させよう」

「しかし……マスターはまた、争いに身を投じてしまう」

「私は大丈夫だよ。蘭陵王やみんなが守ってくれるから。一緒に虞美人先輩に怒られに行こう」

 蘭陵王はぎゅっと固く目を閉じる。苦渋の決断を迫られている顔だった。
 やがて、観念したように聖杯を取り出す。

 微小特異点は消滅した。そして、蘭陵王と立香は仲良く並んで正座して、虞美人の説教を受けることになる。

〈了〉
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