拒絶

 ――それはきっと、彼の中で想いが留めきれなかった結果であったのだろう。
 彼は自分のマスターを尊敬できる相手と捉えていた。
 召喚され、契約し、数多の戦いと死線をくぐり抜けて、そうやって同じ時間を過ごしているうちに、その感情は忠義心から敬愛へ、敬愛から慕情へ、そして今は恋情へ変容してしまっている。
 想いは、抑えきれないほどに膨れ上がり、やがて彼はマスターを恋愛対象と捉えるようになった。
 その想いを伝えたところ、主も彼を受け入れてくれたことに、蘭陵王は歓喜した。
 その勝因がたとえ自分の厭う美貌のせいでも構わない。
 マスターの寵愛を注いでもらえるならば、なりふり構わなかった。
 ――ただ、蘭陵王とマスターの間には男女間のちょっとしたズレがあった。

 その夜はマスターの部屋でカフェインレスのフルーツティーを入れて、二人で談笑していた。
 マスターが寝る前の習慣のようなものだった。
 彼女が眠くなるまで、一緒にお茶を飲みながら他愛もない話をして、彼女の欠伸が増えて目をこするようになって、初めてベッドに入るように促し、彼女が暖かく眠れるように毛布を丁寧にかけて、蘭陵王も自分の部屋に帰る。蘭陵王がマスターとの絆を深めていくうちに、これが毎日のようになっていた。

 ――ただ。
 マスターが寝るための準備をしているというのに、それでもマスターが部屋を出ざるを得ない状況というものはどうしてもある。本当に今にも眠りそうなトロトロした目をした彼女が、ほかのサーヴァントに呼ばれて寝ぼけ眼で部屋を出ていくのは、蘭陵王にとっては純粋に心配であると同時に、持っていてはいけない感情すらも湧いてきてしまう。

 ――マスターが私だけのマスターだったら良かったのに。
 無論、このカルデアでは不可能な願いだ。
 そもそも、この身は人類史の危機という非常事態で戦うために喚ばれたものだ。
 たとえマスターがほかのサーヴァントとの契約を打ち切ったとしても、蘭陵王ひとりとマスター、マシュだけでマトモに戦えるかも怪しい。さすがのマスターでもマシュとの契約は切らないはずなのに、それにすら嫉妬している己が醜い。

「今夜は桃のお茶にしましょうか」

「お、いいね。美味しそう」

 耐熱ガラスで出来た無色透明のティーポットの中で、お茶が色づくのを眺めながら、マスターと蘭陵王は世間話を始める。戦いのための兵器であると己を定義している自分でも楽しいと思ってしまう。ずっと、ずっとこんな穏やかで楽しい時間を享受できればいいのに、それを申し訳ないと思ってしまう自分もいる。蘭陵王はその矛盾が苦しい。

「そうだ、どうせならマシュも誘ってさ、三人でティーパーティーしようよ」

「…………え?」

 ぼうっとしていてその発言が一瞬理解できなかった。
 マシュ殿を、ここに呼ぶ?

 蘭陵王は石のように動けなかった。
 ただでさえサーヴァントが多くて、マスターと二人きりになれる、この貴重な時間すらも、誰かに侵食されてしまう。

 いやだ、と思った。

「早速マシュを呼んでくるね」

 弾むような足取りでドアに歩いて行くマスターを、思わず引き止めていた。
 背後から包み込むように抱きしめて、その体を軽く押さえつける。

「待ってください」

 蘭陵王の口から出る声は、いつもの滑舌がハッキリしたものではなく、苦しげでかすれたものだった。

「いかないで、ください」

「――蘭陵王?」

 マスターは驚いたように目をぱちぱちさせている。
 それはそうであろう、普段蘭陵王がマスターに触れる時は、最大限でも彼女の小さい手を両手で包むくらいだ。

「マシュ殿は、呼ばないでください」

「え? ほかのサーヴァントのほうが良かった?」

「そうでは、なく」

 蘭陵王はマスターを抱きすくめたまま、耳に口を寄せる。

「私を、……私だけを見てほしいのです」

 マスターの耳は真っ赤に染まっていたが、蘭陵王も顔が熱いのを感じていた。
 蘭陵王の人生は三十三年だ。若くしての死ではあったが、それでもマスターよりは長く生きていた。
 そんな歳上の自分が、まだ少女といえるような主に、恋情をこじらせているなどと言ったら、彼女はなんというだろう。それでも、衝動的に抱きついた手は力を増していくばかりだ。

「ら、蘭陵王、苦しい……」

 さすがに蘭陵王の様子がおかしいと気付いたのか、腕の中のマスターは身をよじる。

「接吻してもいいですか?」

「はい!?」

 蘭陵王の提案にぎょっとする。

「蘭陵王、なんか様子おかしくない……?」

「私は、マスターが望むならば、キスでもハグでもそれ以上でも――」

「待って待って、落ち着いて?」

 蘭陵王の悪癖として、忠義心が一周回って空回りするところがあった。この場合は忠義心ではなく恋愛感情だったが。
 しかし、蘭陵王はすでに息が荒くなっており、マスターは身の危険を感じていた。

「お慕いしております、愛しています、マスター……」

 そのままベッドまでマスターを引きずり移動すると、彼女はますます身を固くする。

「ら、蘭陵王! それはダメ! 令呪切るよ!」

 マスターが慌てて蘭陵王の束縛を振り解き、蘭陵王に向かい合って両肩を掴んだ。
 令呪を、切る。
 マスターにとってはサーヴァントを従わせる強制力を持った、最後の切り札とも言える令呪を使うほど、私が受け入れられないのか。
 脳天をガンと殴られたような、有り体に言えばショックを受けた蘭陵王に、マスターは優しい口調で「今夜はもうお開きにしよう。マシュは呼ばないから、明日の夜、またお茶を飲もう」と声をかけるが、蘭陵王の耳にはほとんど残らなかった。
 なによりショックだったのが、無意識とはいえ、自分がマスターの体を暴こうなどと一瞬でも考えたことだった。
 蘭陵王には経験がないわけではない。民話やら演劇やら、創作の世界では本妻がいながら、ほかの美女とラブロマンスを繰り広げたという逸話が作られている。
 だが、このマスターは己が汚すべきではない。カルデアの電力のおかげでサーヴァントは現界を保っていられる。この少女がわざわざ魔力供給などする必要は無い。
 そんな少女を、我欲で汚そうとした。それだけで英霊の座に還りたくなるほどの罪悪感があった。
 とはいえ、戦いのために喚びだされた自分が勝手に座に還るわけにいかない。

「…………申し訳ございませんでした。今夜はこれで失礼いたします」

 蘭陵王はその場にいることすら耐えられず、霊体化して部屋を出た。

 それから、マスターは蘭陵王をしばらく見ることが叶わなかった。
 マスターが自分の部屋で「蘭陵王、いるんでしょ? 一緒にお茶飲もうよ」と声をかけても、本当に誰もいないのか、空虚に広がっていくだけだった。

 虞美人にそのことを相談すると、「あら、そんなの簡単じゃない。ちょっと廊下に出なさいよ」と返ってきた。
 マスターは不思議に思いながら虞美人と共に廊下に出ると、虞美人にいきなり突き飛ばされた。そのまま、床に尻もちをつく。

「な、何するんですかぐっさん先輩!」

「黙れ、よくも蘭陵王を拒絶したわね! お前の旅はここまでよ!」

 虞美人は宝具を発動させようとする。つまりは廊下ごと爆発して、マスターを殺そうとしているのだ。

「ちょちょちょ、大袈裟だしやり過ぎですって!」

「問答無用! 死ね!」

「お、お待ちください!」

 虞美人が宝具を発動させる瞬間、彼女とマスターの間に割り込んだものがあった。
 その英霊は虞美人の宝具を自身の宝具によって無力化した。
 無論、その正体は蘭陵王である。

「フン、思ってたより簡単に霊体化、解くじゃない」

「今、本気でマスターを殺すつもりで宝具を放ちましたよね!?」

「そのくらいしないと出てこないでしょう、お前」

 虞美人は途端に興味をなくしたように、「じゃあ、あとは二人で話し合いなさい」と立ち去ってしまった。

「……あの、マスター……」

「私の部屋で話そう」

 そう言われてしまうと蘭陵王はついていくしかないのであった。
 実のところ、彼はずっと霊体化してマスターの行動についてきていた。
 自分のした事は自分でも許し難いことではあったが、彼はそれでもマスターの傍を離れられなかったのだ。

 マスターの部屋に入ると、ベッドの端に座るように促される。いつもお茶を飲んで語らう時にこうしていた。

「蘭陵王は、私のこと好きなん……だよね?」

 マスターの口調には自信のなさが伺えた。

「はい、お慕いしております」

 蘭陵王はあの夜に言ったことを繰り返す。

「そ、そっかぁ……」

 マスターはソワソワと自分の指を組んだり離したりしている。

「でも、ごめんね。私、サーヴァントに魔力供給は出来ない」

「ええ、今は理解しております」

「でも、でもさ、もし私が魔力が枯渇して、どうしても誰かから魔力をもらわなきゃならなくなったときは、」

 マスターは一度言葉を切り、蘭陵王を見て恥ずかしそうに笑った。

「そのときの相手は、君がいいなあ」

「――」

 蘭陵王はマスターのいじらしさにしばらく悶絶する羽目になったのだった。

〈了〉
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