紅の月下美人(蘭陵王&虞美人)

 キィン、カキィンと、金属のぶつかり合う音が森の中に響く。
 それは剣戟の音であった。
 そこは、北斉は蘭陵王高長恭の領地である、鬱蒼とした森の中。
 戦っているのは蘭陵王と、怪異――周辺の民は『鬼女』と呼んでいる、美しくも恐ろしい女性の姿をした何かである。

 ――この場面に至った経緯を説明せねばなるまい。
 仮面で顔を隠している武将、蘭陵王の統治している領地の森に、最近になって、見たこともないような美しい女性が現れるのだという。
 しかし、ある若者が不用意に彼女に声をかけると、その女は牙を剥いて威嚇してきた――とても人間のする表情ではなかったという。そして、その若者は女に殺されたというのだ。一緒にいた別の若者が逃げ帰ってその話を広め、警告したが、その男もその後、何者かに殺されているのが発見された。
 それ以来、その森には鬼女が棲み着いていると噂が立ち、誰も近寄らなくなった。鬼女に遭遇したら殺される。熊や猪を相手にする狩人ですら怖気づき、森に入れず生活が成り立たない。
 噂が気になった蘭陵王は、真相を確かめるべく、家臣たちには何も告げずに、独りで森に向かったのである。

 月の綺麗な夜だった。森に入ると、月の光が木漏れ日のように、木々の隙間に差し込んでいた。蘭陵王は帰り道を見失わないように気をつけながら、幻想的な森の中を進んでいく。
 その『鬼女』は、森の奥深く、大樹の下に立っていた。その姿は、鬼女というよりも仙女のようだ、と蘭陵王は思った。女は森のエネルギーを吸っているかのように、深く息を吸い、目を閉じている。
 しかし、蘭陵王が進み出ると、「――ッ誰だ!」と、その美しい顔が怒りで歪む。
「私が気持ちよく森林浴してるところを邪魔するな、人間風情が!」
「たいへん失礼いたしました。貴女がとても美しいものですから、つい挨拶をしたくなってしまったのです」
「人間なんぞの挨拶など不要。それに、そのキザったらしい台詞はなんだ、ナンパのつもりか?」
「い、いえ、そんなつもりでは……。お気に障ったならお許しください」
「問答無用。私の正体を知った者はことごとく殺し尽くす」
 女はどこからか二振りの剣を抜き、両手に一振りずつ握って蘭陵王に襲いかかった。

 ――そして、冒頭の戦闘シーンに戻るのである。
 女は二振りの剣を振り回し、男性である蘭陵王を圧倒する。それは人間のか弱い女には到底出来ない芸当だ。
 蘭陵王は剣を一振りしか持っていないが、剣の鞘を防御に使うことでなんとか攻撃をしのいでいた。
 しかし、それも限界である。『鬼女』と呼ばれているだけあって、猛将と呼ばれてはいても、ただの人間である蘭陵王では太刀打ちできない相手だ。だんだん蘭陵王の側が人外の強さに圧されていき、追い詰められる。

「私の正体を暴いた者はすべて殺す……!」

 鬼女の剣が閃き、蘭陵王の顔をめがけて振り下ろされる。

「くっ……!」

 脳天を叩き割られそうなところを、かろうじて避けたが、蘭陵王の顔を隠す仮面が割られてしまった。
 しかし、思いがけないことが起こってしまった。蘭陵王の仮面が割られたことで、彼の輝く素顔があらわになったのである。
 それを見た鬼女は、「なんだ、お前、人間じゃないわね」と、あっさりと剣をしまったのだ。

「え、いえ、私は人間ですが……?」
「嘘おっしゃい、人間の顔が物理的に輝くわけないじゃないの。アンタ、どんな怪異?」

 自分の顔のせいで怪異と間違えられたことには思うところがないでもないが、ひとまず鬼女の戦意を失わせることは出来た。蘭陵王はほっと胸をなでおろす。

 蘭陵王は鬼女に自分の身の上を話した。
 自分は侍女を母親に持つ皇族の一人であること。
 皇族でありながら、武将として蘭陵の地を預けられていること。
 そして、今回の鬼女騒動で部下もつけず、彼女に会いに来たこと。

「ふーん、そう」

 鬼女はさして興味もない様子だった。俗世のことにはあまり関わりたくないようだ。

「ひとつ、お尋ねしたいことがあるのですが、貴女が人間を殺しているのですか?」
「私の正体を知った者は、噂が広がる前に食い止めなければならない。まあ、今回は殺しそこねたやつがいたせいで、私はまた移動する必要があるのだけど」
「移動? 私の領民を殺しておいて、貴女が逃げるのをこのまま見逃すとでも?」
「なによ、アンタの血族だって鳥人間コンテストしてるじゃないの。私の耳にまで届くなんて相当のものなんでしょう?」

 それを言われると弱い。自らの一族の悪趣味ぶりには蘭陵王も辟易していた。

「それでも、です。貴女が人の命を奪ってしまったことには変わりない。何らかの形で償いはしていただきます」
「償いってなによ、何させるつもり?」

 胡散臭い目を向ける鬼女に、蘭陵王は言葉を紡ぐ。

「この北斉で暮らしていただきたい。貴女ほどの美しさならば、北斉の皇帝の目にとまるのは時間の問題。今、私の功績をたたえて、二十人の美女を募集しているそうです。しかし、私は美女になど興味はない。そこで、貴女ひとりだけを選ぶのでその二十人の中に紛れ込んでいただきたいのです」
「で、アンタが私を選べば正式にアンタの屋敷に住み込めるってわけね。いいだろう。お前には興味がある。この北斉とかいう地獄のような国で、アンタの行く末を見守ってあげるわ」
「ありがとうございます。申し遅れました、私は蘭陵王高長恭と申す者です」
「私は……そうね、虞妃とでも呼んでちょうだい。本来の名前は虞美人だけど、その名は有名すぎるから」
「虞美人!? 貴女がですか!?」

 蘭陵王は驚愕した。虞美人といえば、項羽の愛人として有名である。項羽の死後、後を追ったと伝えられているが、まさか人外として生きていたとは。

「……こほん、失礼。それでは、虞妃殿、手筈通りに」
「わかってるわよ」

 こうして、蘭陵王は虞妃――虞美人と知り合った。
 この鬼女とも仙女ともとれる女と、奇妙な友情のようなものが芽生え始めていたのである。

 そして、蘭陵王の思惑通り、戦果の報奨として二十人の美女を賜った。彼はその中にしれっと紛れ込んでいた虞美人を指名して、侍女として傍に置いた。

「まさか、この私が人間ごときの侍女なんてね」
「ええ、もったいない話です。貴女は本来、もっと高貴なお方。私の侍女にするなど恐れ多い」
「アンタが言い出したんだけどね……。まあいいわ。言っとくけど、侍女としての役割には期待しないでね。私は本来、項羽様以外の誰かに仕えるのは向いていないしやりたくない」
「それでは、お願いがあるのですが」

 蘭陵王は優しい微笑みを浮かべて、ある提案をした。

「貴女が長い間、この大陸をさまよっていたのは聞きました。その間にあったこと、他の国のこと、私は色々なことを知りたいのです」
「それは、将軍として他の国の実情が知りたいってこと?」
「いえ、純粋な私個人としての興味です。貴女は誰にも受け入れられず、最愛の人も喪った。その旅路は私には想像もつきません。ただ、貴女のことを知りたいのです」

 不思議なものを見るような目で蘭陵王を見つめる虞美人であったが、その日から毎日のように、蘭陵王に自分の見たもの聞いたもの感じたものをありのまま語って聞かせた。彼は虞美人にお茶を淹れながら、その言葉に耳を傾けた。
 それは恋愛感情ではなかった。お互い、相手に好感は抱いていたものの、それは恋愛的なものとはまったくの別物だ。
 蘭陵王は虞美人の自由さに憧れた。人々に虐げられ、正体を隠して人の世に紛れ込んでいたが、それでも自由に振る舞う彼女こそが、血族のしがらみに囚われている自分なんかよりよほど美しい生き方のように感じられた。
 しかし、そんな貴重な話を聞いている間にも、蘭陵王の周りには相次いで不幸なことが起こっていた。
 兄弟を殺されたり。無能な皇帝の嫉妬を受けたり。このままでは自分も処刑される、と怯えて戦利品を貪ってしまったこともある。それを虞美人は眺めることしか、彼に自分の体験談を語って聞かせるしかない。

 そうして、蘭陵王は皇帝から毒杯を賜った。
 彼は既にこの国に生きることに疲れていた。だから、妻の言葉に耳を傾けることなく、毒を飲んで人生を終わらせる決意をした。
 人にお金を貸していた証書は全て燃やした。自分の死後も妻だけは無事で生きられるよう、手を回した。
 やるべきことはすべてやった。蘭陵王は黒々とした、杯の中の毒酒を見つめる。
 虞美人にはもちろん、最期に会った。彼女に「お前が望むなら皇帝をぶち殺すが?」と聞かれたが、静かに首を横に振った。

「これが私にふさわしい生と死だったと、今となっては思ってしまうのですよ」

 蘭陵王は領民を殺した虞美人を責めたが、自分だって将軍として多くの命を奪ってきた。自分の血族たちの暴挙を止められなかった。
 これが、その報い、なのだろう。
 蘭陵王は顔につけていた仮面をそっと机に置き、虞美人に最期の別れを告げた。

「虞妃……いや、虞美人よ。貴女に会えて良かった。またひとりの人間が貴女を置いていってしまうこと、お許しください」

 虞美人は何も言わなかった。
 蘭陵王は杯を手に持ち、ゆっくりと毒酒を呷った。
 それから、長椅子に横たわり、目を閉じる。
 本当は、毒は痛く、苦しく、蘭陵王の身体をあっという間に蝕んでいった。
 それでも、彼の死に顔はやはり綺麗だと、虞美人は思っていた。
 彼の死を見届けた虞美人は、北斉を出て、また永い永い放浪の旅へと去っていったのであった。

 ――このふたりが再び出逢うのは、ずっと先の未来の話である。

〈了〉
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