Tuning the world

 午前六時に見知らぬ部屋で目覚めてから、ユベルはベッドの中で状況を分析していた。ツノ狩りを撒いたはいいが、怪我と疲労で気を失う前、慌てた様子の男女と少女の声が聞こえた気がする。ツノ狩りから受けた傷は応急処置が施されており、まだ痛みはするがひとまず命を繋ぎ止められた感覚があった。部屋は薄暗い牢獄ではなく、ありふれた庶民の家の寝室に見える。そして、額のツノは傷一つなく輝きを放ち続けており、彼は何よりもその事実に安堵した。

「あ、やっと起きた! おはよう! ……じゃなくて、こんにちは? こんにちは!」
「……」

 時刻は正午を過ぎていた。一時間毎に部屋に入ってきては起きているかを確認しにくる少女に対して寝たふりを敢行し続けるのも疲れて、ユベルはついに起きている姿を少女に晒した。少女は十二歳のユベルより少し幼い。八歳くらいだろうか。子供とはいえ警戒は一切緩めなかった。人間は卑劣だ。一角獣のツノを手に入れるためならありとあらゆる手段を使う。傷を治し、暖かい寝所を提供し、子供を餌に油断させた隙にツノを狙う。そんな疑念がユベルの心を支配していたために、彼は返事をしなかった。――しかし、彼女が纏う魔力の気がそれを許さなかった。

「……お前、一角獣の魔力を」
「よく眠れた? お腹空いてない? 怪我は大丈夫?」
「聞けよ……」
「だって、心配なんだもん!」
「……眠れた、空いてない、大丈夫」

 実際のところ睡眠はともかく、お腹は空いていたし怪我もまだ痛む。だが早く少女が纏う同胞の魔力のことを知りたくて、適当に話を進める。

「それで……なんで人間のお前が一角獣の魔力を纏っている?」
「うん。私ね、前はすっごく難しい病気だったの。有名なお医者さんでも治せないって。でもキリエって名前の一角獣のおじさんがツノをくれて、それで病気が治ったんだ」
「は……? ツノを、くれた? 一角獣が自らツノを……? そんなはずない、無理矢理奪ったんだろ……!」
「違うよ! 本当にキリエおじさんがくれたの! 新聞だってあるよ、ほら!」

 少女が持ってきた新聞に目を通す。礼も求めず、難病に侵された少女を救った英雄。「苦しむ人を助けるのは普通のこと」という言葉。ユベルにとっては信じ難いものだが、捏造と言い張るにはさすがに無理がありそうだった。

「……それで? 味をしめたから今度は僕のツノも欲しいのか」
「そんなのじゃないよ! 困ってる人を助けるのは当たり前のことだもん!」

 奇しくも、新聞の中のキリエとやらの言葉と似ていた。親切なキリエに救われたから、自分も人を救う存在になりたいということなのだろうか。

「……それはどうも。おかげで命を救われたよ、ありがとう。僕は行く」
「だめ! まだ安静にしてないと!」

 嫌味たっぷりに言い放ってから立ち上がろうとするユベルを少女が慌てて止める。

「朝から何も食べてないでしょ? お昼、グラタン作ったから一緒に食べよう?」
「……わかったよ、食べる……でも、一人で食べたい」
「……うん! すぐ持ってくるね!」

 ぱあっと顔を明るくした少女はすぐに部屋の外へ駆けていく。――今のは作戦だった。一人で食べたいと言って少女が食事を用意している間に部屋を出て逃げ出す。だがいざ実行に移そうとすると心が揺れ動く。痛む身体、虫が鳴き始めんとする腹、温かいのであろうグラタン。部屋にも匂いが入り込んでいる。

「……食べてからに、するか……」

 これは機をうかがっているのだ。そう自分に言い聞かせる。

「はい! おかわりもあるけど、無理して完食しなくていいからね。また一時間後に取りにくるね!」

 戻ってきた少女はグラタンと水が置かれたトレーをベッドの横の小棚に乗せて、一人で食べたいというユベルのためすぐに部屋を出て行った。お節介に感じていたが、こちらの意思はなるべく尊重してくれるらしい。

「……いただきます」

 スプーンで掬い、息を吹きかけて冷ましてから口に運ぶ。冷えた身に優しくじんわりと染み込む温かさ。美味しい、と素直に感じた。不思議と亡き母の手料理を思い出して胸が締め付けられるが、それでも手は止まらなかった。

「……あ、全部食べてくれたんだね。おかわりはいい?」
「……いい」

 一時間後、再び部屋に来た少女にユベルは相変わらず冷たい態度をとり続ける。直接礼を言うには、まだ彼の心は閉ざされたままだった。

「……ねえ。私、キーラっていうの。あなたの名前は?」
「……」
「……じゃあ、お兄さんって呼ぶね。……そうだ、手洗いとお風呂! 両方階段を降りてすぐのところにあるから、いつでも使ってね。着替えは……お父さんのはちょっと大きいかな?」

 ――気づけば、二週間ほどその家にいた。まだ傷が痛むから、今は気付かれそうだから。言い訳を探しては温かい料理を口にして、温かい布団の中で眠る。雨風をしのげるだけで十分なのに、これでは贅沢すぎる。

「ねえ、お兄さん! 今日学校で面白いことがあってね……」
「全然面白くない」
「ええ!? 人間と感覚が違うのかな……」
「お前の感覚が独特すぎるだけだろ……」

 最初は疎ましく思っていた少女――キーラがいない時間を、ほんの少し寂しく感じるようになっていた。キーラも、ユベルが少しだけ心を開いてくれたのを感じ取ったのか、ある日彼の身体の包帯を取り替えながら真剣な表情でユベルに尋ねる。

「……ねえ、お兄さん。あの日何があったのか、聞いてもいい?」
「……ツノ狩りに襲われた」

 思い出したくもないことを聞かれ、途端に顔を顰める。

「ツノ狩り……? ツノを、無理矢理奪うってこと?」
「ああそうだよ、お前たちと同じ人間だ……父さんも母さんも、奴らに殺された!」
「……!」

 話したくないと言えばすぐに引いてくれる相手だとは理解しつつあったが、ユベルは自ら嫌な記憶を掘り返して、怒りをぶつけた。キーラは絶句しているが、それさえも上辺だけの同情にしか見えず更に苛立ちが募る。否、きっとキーラがどのような態度をとっても同じだっただろう。

「わかってるんだよ、今まで何回も何回も同じ目に遭ってきた! ツノが欲しいならそう言えよ、変に優しくするな!」
「そんなこと考えてない! お父さんもお母さんも、あなたを助けたいと思って……」
「聞き飽きたんだよそんな言葉も! 僕にツノが無かったら見捨てたくせに、誰も……誰も、僕自身なんて見て……っ」

 包帯を巻くため自分の腕に触れたままだったキーラの手を振り払うと、痛みが走る。腕は特に酷い怪我を負った部分であり、思わず腕を押さえた。

「大丈夫!?」
「……っ触るな!」

 キーラが手を伸ばすが、ユベルは反射的にその手を跳ね除ける。さらに増す痛みはキーラを拒絶した罰なのか。

「……ご、ごめんなさい……」
「あ……」

 キーラの顔が曇る。太陽のような明るい少女が、初めて。それも自分が覆い隠したのだ。――部屋は沈黙し、ユベルはキーラから逃げるように部屋を出る。

「お兄さん?」
「もう動けるから、出ていく」
「そんな急に……! まだ怪我が痛むでしょう、それに今日は土砂降りの雨で……!」

 追いかけてくるキーラの言葉も、一階にいたキーラの両親も無視して玄関の扉を開けて外に出る。キーラの言った通り、バケツをひっくり返したような雨が途端にユベルに襲いかかる。エーミルは水の都として知られる活気ある街だが、辺りには誰もいない。ざあざあと地を叩きつける雨の世界には、ユベルだけしかいなかった。

「……っく……うっ……」

 ――冷たい。寒い。すぐに後悔した。虚勢を張って外に出て、五分も経たないうちにこのザマだ。だがあの家に戻るなんて無様なことはできず、ユベルは屋根も探さずそこに立ち尽くした。――だから、背後から走ってくる音を、内心で雨雲から差し込む光のように感じた。

「はあ、はあ……いた……! 見つけた! こんな雨の中にいたら風邪ひいちゃうよ!」
「……そんなに息切らして……馬鹿じゃないのか。こんな奴のためになんでそこまで……やっぱり、僕のツノが欲しいだけなんだろ」

 捨てかけていた疑念を掘り起こしてキーラにぶつける。背を向けているせいで、キーラの顔が悲しみに染められたことにユベルは気づかない。

「違うよ! そんなひどいことするわけない! ただあなたが心配で……」
「僕のツノを欲しがる奴はみんなそう言ったよ! 心が醜いくせに耳触りの良い言葉を考えることだけは上手くて、今度こそはって信じても結局同じで、それをずっと……」

 ユベルはその場に崩れ落ちた。ぱしゃりという水音の後、降りしきる雨音に嗚咽が混じる。傷口に雨が染み込むが、それ以上に心の痛みに悶えた。

「もう、疲れた……誰も信じられない、信じたくない……頼むから……もう誰も、僕に優しくしないでくれ……」

 キーラは用意していた言葉を発することができなかった。口を開いては閉じ、それを繰り返して――そっと、少しずつ、壊れてしまわないように、ユベルに近寄る。そして、自分が濡れることも厭わず彼に傘を傾けた。

「……ごめんね。でも、風邪ひいちゃうとよくないから、傘……」
「……君が濡れる」
「私は風邪ひかないから、平気」
「……そうじゃなくても、雨は冷たい」
「そんなの、気にしなくていいんだよ」
「……なんだよ、なんなんだよ。なんで、そんなに優しいんだよ……それで何も企んでない方が、怖いよ……」

 ようやく振り返ったユベルの顔は雨と涙でぐちゃぐちゃに歪み、それでもなお希望を求める瞳がキーラを離さないように捉えていた。

「キーラ……」
「……家、戻る?」
「戻りたい……君のご両親のご飯を食べたい……あたたかい部屋にいたい……」

 そっと、差し伸べられた手を掴む。立ち上がり、傘の中に二人一緒に入り、来た道を戻る。

「……名前。やっとキーラって呼んでくれたね」
「……呼びかける時にお前じゃ、変でしょ」

 水分を含んだ尻尾が揺れ、水滴が跳ねる。

「ねえ、お兄さんの名前も教えて? ずっとお兄さんやあなたじゃ不便だもん」

 先程は衝動的に名前を呼び、結局家に戻ることになったが、落ち着くと途端に羞恥の感情が押し寄せてくる。

「……ユベル」
「そんな小さい声じゃ聞こえないよ!」

 意地悪ではなく、本当に聞こえていなかった。ユベルの小さな小さな声は容易く雨に溶け、キーラの耳には入ってこない。

「っ……ユベル……ユベル・レミナス……!」
「ユベル・レミナス……綺麗で素敵な名前だね!」

 雨に濡れていながらも、曇りのない笑顔。それを見れば自然に頬が緩む。キーラが見たそれが、ユベルの何ヶ月ぶりかの笑顔だったことを、彼女は知らない。
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