Tuning the world
「ったく……俺にどうしろってんだよ……」
狭い宿の簡素な椅子に座り項垂れるセドリクを、ベッドに座らされた淡紫の髪の少女が虚ろな瞳で見つめていた。少女は呼吸こそしているが瞬きは一切しておらず、喋ることもしない。あえて相応しい言葉を探すとすれば「生きた人形」だろう。実際、この少女を抱き抱えて宿に現れたセドリクは宿の主人に奇異の目で見られた。幸いすぐに誤解は解けたが、セドリクの少女への悪感情は強まるばかりだった。
「しかし……派手にやってくれたな」
窓に映るセドリクの顔。その中央には切り傷が付いている。それは少女につけられたものだった。
「お前は何者なんだ? 俺がこの本を破ろうとしたら、お前が現れて……」
まさか焼け野原になった故郷に置いていくわけにもいかず、持ち去ってしまった本。紙はところどころ擦り切れ、文字は褪せてまともに読むこともできない。いや、それ以前に、セドリクはこのような文字を見たことがない。レブラエではない外国の文字にしては異質な形をしている。この奇妙な本は、セドリクの故郷で祀られていたものだった。由来はよく知らないが、歴史ある物品であることくらいはわかる。そして、幼い頃に「この書が私達を守ってくれる」と母が言っていたことも、覚えていた。
――守ってくれる? 逆じゃないか。こんな古ぼけた本さえ無ければ、故郷が襲われることはなかった。誰も死ななかった。こんな、物の役にも立たない紙とインクの集合体が、自分から全てを。八つ当たりであることは自覚しながらも、衝動的にこの本を引き裂いてやろうとしたら、周囲が光に包まれこの少女が現れて――セドリクを攻撃した。顔の傷一つで済んだのはむしろ幸運だろう。
「どうする……どこか適当な孤児院に預けるか……? いや、それで何かあったらさすがにな……第一、こんな明らかに普通じゃない奴を受け入れてくれる場所があるのか……」
頭の中の考えをひたすら口に出して、気付く。――なぜ自分は真っ先にこんな得体の知れない存在の心配をする? 故郷も、家族も失った自分の今後の方が何倍も重要だろう。
「……馬鹿馬鹿しい。やめだやめ。お前がどうなろうが俺の知ったことじゃねえ。本は置いておくから好きにしろ。俺は……」
少女の膝に本を放り投げ、宣告をする。しかし少女は相変わらず言葉を発さず、身動きもしない。セドリクはそれを見て盛大なため息をつく。少女に対してではなく、自分に呆れてのものだった。――自分がこの少女を置いていけばどうなる? 言葉も発さず動きもしない少女は宿から追い出され、外で立ち尽くしているところを何かよからぬ考えを持つ輩に捕まるかもしれない。そんな想像が頭を支配するのだ。どう考えても関わらない方がいい、なのになまじ少女が少女の形をしているせいで、余計な庇護欲を掻き立てられる。放っておけない、どうにかしてやらなければ、と。
「この本の力か……自分を守るよう仕向けてるのか、それともくだらねえ父性ってやつか……」
もしそうだとしたらどう考えても一大事だというのに、セドリクは前者であることを願った。逃げ道が欲しい。自分がこんなに少女に入れ込むのは、本の魔性のせいなのだと。だから自分はおかしくないのだと。本当にそうだとして、その影響に抗おうとしない時点でおかしいのに。
「……名前がいるか」
――観念して、この少女に付き合うと決める。まず必要なのは名前だ。ずっとお前では不便極まりない。
「お前の名前は……エスティリカだ。今適当に考えた」
「…………え、りか」
「な……お前、喋れたのか?」
どうせ返事は来ないと思っていただけに、少女からの返答に驚く。一転してこちらの言葉を認識しているかのような振る舞いを見せられ混乱するが、その一方で期待も生まれる。
「え、りか」
「……言えてねえ、エスティリカだ。エス、ティリ、カ」
「えす、てり、か」
「はあ、惜しいけど違う。さすがに言いにくいか……何か言いやすい呼び名を……エスティリカだから……エリー」
「えりー」
「……言えたな」
こうしていると、本当に子供を相手にしているようだ。過度な馴れ合いはよくないと己を咎めつつも、少女の状況の変化に期待は膨らむ。
「……まあ、なんだ。死なないように生きていこうぜ、二人で」
「……ん……」
おそらくは長い付き合いになる。少女――エスティリカへの奇妙な感情を持て余しながらも、セドリクの心にはほんの少しの光が灯されていた。
狭い宿の簡素な椅子に座り項垂れるセドリクを、ベッドに座らされた淡紫の髪の少女が虚ろな瞳で見つめていた。少女は呼吸こそしているが瞬きは一切しておらず、喋ることもしない。あえて相応しい言葉を探すとすれば「生きた人形」だろう。実際、この少女を抱き抱えて宿に現れたセドリクは宿の主人に奇異の目で見られた。幸いすぐに誤解は解けたが、セドリクの少女への悪感情は強まるばかりだった。
「しかし……派手にやってくれたな」
窓に映るセドリクの顔。その中央には切り傷が付いている。それは少女につけられたものだった。
「お前は何者なんだ? 俺がこの本を破ろうとしたら、お前が現れて……」
まさか焼け野原になった故郷に置いていくわけにもいかず、持ち去ってしまった本。紙はところどころ擦り切れ、文字は褪せてまともに読むこともできない。いや、それ以前に、セドリクはこのような文字を見たことがない。レブラエではない外国の文字にしては異質な形をしている。この奇妙な本は、セドリクの故郷で祀られていたものだった。由来はよく知らないが、歴史ある物品であることくらいはわかる。そして、幼い頃に「この書が私達を守ってくれる」と母が言っていたことも、覚えていた。
――守ってくれる? 逆じゃないか。こんな古ぼけた本さえ無ければ、故郷が襲われることはなかった。誰も死ななかった。こんな、物の役にも立たない紙とインクの集合体が、自分から全てを。八つ当たりであることは自覚しながらも、衝動的にこの本を引き裂いてやろうとしたら、周囲が光に包まれこの少女が現れて――セドリクを攻撃した。顔の傷一つで済んだのはむしろ幸運だろう。
「どうする……どこか適当な孤児院に預けるか……? いや、それで何かあったらさすがにな……第一、こんな明らかに普通じゃない奴を受け入れてくれる場所があるのか……」
頭の中の考えをひたすら口に出して、気付く。――なぜ自分は真っ先にこんな得体の知れない存在の心配をする? 故郷も、家族も失った自分の今後の方が何倍も重要だろう。
「……馬鹿馬鹿しい。やめだやめ。お前がどうなろうが俺の知ったことじゃねえ。本は置いておくから好きにしろ。俺は……」
少女の膝に本を放り投げ、宣告をする。しかし少女は相変わらず言葉を発さず、身動きもしない。セドリクはそれを見て盛大なため息をつく。少女に対してではなく、自分に呆れてのものだった。――自分がこの少女を置いていけばどうなる? 言葉も発さず動きもしない少女は宿から追い出され、外で立ち尽くしているところを何かよからぬ考えを持つ輩に捕まるかもしれない。そんな想像が頭を支配するのだ。どう考えても関わらない方がいい、なのになまじ少女が少女の形をしているせいで、余計な庇護欲を掻き立てられる。放っておけない、どうにかしてやらなければ、と。
「この本の力か……自分を守るよう仕向けてるのか、それともくだらねえ父性ってやつか……」
もしそうだとしたらどう考えても一大事だというのに、セドリクは前者であることを願った。逃げ道が欲しい。自分がこんなに少女に入れ込むのは、本の魔性のせいなのだと。だから自分はおかしくないのだと。本当にそうだとして、その影響に抗おうとしない時点でおかしいのに。
「……名前がいるか」
――観念して、この少女に付き合うと決める。まず必要なのは名前だ。ずっとお前では不便極まりない。
「お前の名前は……エスティリカだ。今適当に考えた」
「…………え、りか」
「な……お前、喋れたのか?」
どうせ返事は来ないと思っていただけに、少女からの返答に驚く。一転してこちらの言葉を認識しているかのような振る舞いを見せられ混乱するが、その一方で期待も生まれる。
「え、りか」
「……言えてねえ、エスティリカだ。エス、ティリ、カ」
「えす、てり、か」
「はあ、惜しいけど違う。さすがに言いにくいか……何か言いやすい呼び名を……エスティリカだから……エリー」
「えりー」
「……言えたな」
こうしていると、本当に子供を相手にしているようだ。過度な馴れ合いはよくないと己を咎めつつも、少女の状況の変化に期待は膨らむ。
「……まあ、なんだ。死なないように生きていこうぜ、二人で」
「……ん……」
おそらくは長い付き合いになる。少女――エスティリカへの奇妙な感情を持て余しながらも、セドリクの心にはほんの少しの光が灯されていた。