Tuning the world
「……なかなか、面倒だな」
外部の者がその存在を知ることのない、夜想教団 の拠点の一つ。窓もなく、掃除が行き届いていないのか埃が宙を舞う小さな部屋にて、レガートは全身から流れる血を止めるための処置を一人淡々と行っていた。常人であれば恐慌状態に陥るほどに彼の肌は赤く染まっているが、彼は眉一つ動かすことなく、ただ煩わしさだけを感じながら包帯を手に取る。
「レガート」
少女の声と共に外界とこの空間を隔てる扉が開かれる。その声に、レガートは慌てて作業を止めて立ち上がった。
「……ディエス様」
右側で一つに結んだ銀の髪と、光のない深紅の瞳。この夜想教団の崇拝対象として君臨する存在。今は公の場での紫紺のドレスではなく動きやすい普段着を着ていたが、彼女の存在は自然と周囲の空気を張り詰めさせる。
「今はシーナリエで構いません。……それよりも、またこんな傷だらけになって……座りなさい。わたしがやりましょう」
「な……シーナリエ様の手を煩わせるわけには……! この程度、おれが一人で……」
「いいから、貸してください」
少女――シーナリエはベッドの上、レガートの隣に腰掛けて手を差し出す。レガートは包帯を持った己の手と彼女が差し出した手を交互に見やり、やがて包帯をシーナリエの手に置く。
「ありがとう。……今回の敵は、あなたほどの優秀な戦士がこんな傷を負うほどの相手ではなかったはずです。また、自分の身を蔑ろにしましたね」
「……しかし、おれはもう痛みを感じません。それにおれは竜です。多少の怪我など取るに足らないもの。であれば、無意味な防御をするより攻撃に手を回した方が効率的に敵を排除できます」
「無意味? 痛みがなければ傷ついてもいいのですか? あなたを見ているだけで自分の身体が痛むようです……お願いだから、もっと自分を大切にして。わたしはあなたが……あなたまで いなくなってしまったら、耐えられない……」
「……申し訳、ございません」
シーナリエはレガートの指先から肩まで、丁寧に包帯を巻いていく。レガートの身体にもはや痛覚は残っていないことを理解しながらも、きつくならないように注意を払いながら。
「……なんだか、不思議な気分です。わたしはいつも、包帯を巻いてもらう側だったから」
「いつも……?」
「……なんてことのない話です。人間に生まれ変わって、全てを忘れていた頃……幼いわたしは家にいるよりも外で遊ぶ方が好きで、走り回ったり、木に登ったりしてはよく怪我をしました。そんなわたしに呆れながらも誰よりも心配してくれたのが、双子の姉でした」
「姉君が……いたのですね」
「ええ。隠すつもりはありませんでしたが、話すのは初めてですね。……姉は少し無愛想だけれど、優しい心を持つ人で、わたしの自慢であり、憧れでした。わたしが消えた……いえ、姉にとっては死んだ今、どうしているのかはわかりません。悲しんでくれているのか、前を向いて生きているのか……むしろ、不出来な妹がいなくなって、喜んでいるかもしれませんね」
「……それは、違います。あなたの姉君は心優しいお方だったのでしょう。ならば、あなたがいなくなって……喜ぶなど、ありえない」
自嘲と共に放たれた最後の言葉に、レガートはそう返した。根拠のない言葉だった。彼はシーナリエの姉のことなど何も知らない。存在すら今知ったばかりで、その言葉に説得力など皆無だった。レガート自身、気休めにすらなれない言葉だろうと理解していながらも、そう言わずにはいられなかった。
「……ありがとう。でもいいのです。きっと、もう二度と会うことはありません。会うとしても、それはきっと敵として……そうと決まっているなら、余計な感情など思い出さない方が……」
「……シーナリエ、様?」
包帯を巻く手が止まる。やがてその手は彼女自身の目元に添えられ、その双眸からは涙がこぼれていた。
「……っ、ごめんなさい……こんな、見苦しい姿を見せて……」
「……おれは、立ち去るべきですか」
「待って……! 行かないで、ここにいて……お願い……」
「……は」
レガートの隣、シーナリエはただ声を押し殺して泣き続ける。レガートはしばし黙っていたが、ひたすらに空間を打つ声を頭の中で処理しながら、おずおずと口を開く。
「……今のあなたは、シーナリエという一人の人間です。何も取り繕う必要はありません」
「……ありが、とう……」
シーナリエはその言葉に従い、そっとレガートの肩にもたれかかる。
「わたしは……姉さんに会いたい。それだけじゃない、今のわたしを見て失望しないでほしい。怒らないでほしい。受け入れてほしい。抱きしめてほしい。……あの女どもへの復讐に巻き込みたくないからと自分から遠ざかったというのに、わたしはなんて矛盾まみれで、強欲な女なのでしょう」
「……いいえ。大切な存在に受け入れてほしいと願うのは、当然の感情です。恥じることではありません」
「ふふ……本当に、あなたは優しい人」
涙で濡れたシーナリエの顔がにわかに綻ぶ。それは闇の中に僅かに残った光のようにか細く、弱々しく、しかし美しいものだった。
「……あなたと話をして、少し気が紛れました。……これからもこうして、シーナリエという一人の人間として……あなたと語らいたい。構いませんか?」
「もちろん……おれなどでよければ」
「むしろ、あなたでなければいけません。……では、わたしはそろそろ行きます。あなたの分の役目は他の者に回すよう、ヴィルトゥールに頼んでおきますから……くれぐれも安静にしているのですよ」
「……はい」
首領に掛け合うと言われたらさすがに受け入れざるを得ず、レガートは内心で生まれた抗議の言葉を飲み込んで、扉の先へと消えていくシーナリエを見送った。
外部の者がその存在を知ることのない、
「レガート」
少女の声と共に外界とこの空間を隔てる扉が開かれる。その声に、レガートは慌てて作業を止めて立ち上がった。
「……ディエス様」
右側で一つに結んだ銀の髪と、光のない深紅の瞳。この夜想教団の崇拝対象として君臨する存在。今は公の場での紫紺のドレスではなく動きやすい普段着を着ていたが、彼女の存在は自然と周囲の空気を張り詰めさせる。
「今はシーナリエで構いません。……それよりも、またこんな傷だらけになって……座りなさい。わたしがやりましょう」
「な……シーナリエ様の手を煩わせるわけには……! この程度、おれが一人で……」
「いいから、貸してください」
少女――シーナリエはベッドの上、レガートの隣に腰掛けて手を差し出す。レガートは包帯を持った己の手と彼女が差し出した手を交互に見やり、やがて包帯をシーナリエの手に置く。
「ありがとう。……今回の敵は、あなたほどの優秀な戦士がこんな傷を負うほどの相手ではなかったはずです。また、自分の身を蔑ろにしましたね」
「……しかし、おれはもう痛みを感じません。それにおれは竜です。多少の怪我など取るに足らないもの。であれば、無意味な防御をするより攻撃に手を回した方が効率的に敵を排除できます」
「無意味? 痛みがなければ傷ついてもいいのですか? あなたを見ているだけで自分の身体が痛むようです……お願いだから、もっと自分を大切にして。わたしはあなたが……あなた
「……申し訳、ございません」
シーナリエはレガートの指先から肩まで、丁寧に包帯を巻いていく。レガートの身体にもはや痛覚は残っていないことを理解しながらも、きつくならないように注意を払いながら。
「……なんだか、不思議な気分です。わたしはいつも、包帯を巻いてもらう側だったから」
「いつも……?」
「……なんてことのない話です。人間に生まれ変わって、全てを忘れていた頃……幼いわたしは家にいるよりも外で遊ぶ方が好きで、走り回ったり、木に登ったりしてはよく怪我をしました。そんなわたしに呆れながらも誰よりも心配してくれたのが、双子の姉でした」
「姉君が……いたのですね」
「ええ。隠すつもりはありませんでしたが、話すのは初めてですね。……姉は少し無愛想だけれど、優しい心を持つ人で、わたしの自慢であり、憧れでした。わたしが消えた……いえ、姉にとっては死んだ今、どうしているのかはわかりません。悲しんでくれているのか、前を向いて生きているのか……むしろ、不出来な妹がいなくなって、喜んでいるかもしれませんね」
「……それは、違います。あなたの姉君は心優しいお方だったのでしょう。ならば、あなたがいなくなって……喜ぶなど、ありえない」
自嘲と共に放たれた最後の言葉に、レガートはそう返した。根拠のない言葉だった。彼はシーナリエの姉のことなど何も知らない。存在すら今知ったばかりで、その言葉に説得力など皆無だった。レガート自身、気休めにすらなれない言葉だろうと理解していながらも、そう言わずにはいられなかった。
「……ありがとう。でもいいのです。きっと、もう二度と会うことはありません。会うとしても、それはきっと敵として……そうと決まっているなら、余計な感情など思い出さない方が……」
「……シーナリエ、様?」
包帯を巻く手が止まる。やがてその手は彼女自身の目元に添えられ、その双眸からは涙がこぼれていた。
「……っ、ごめんなさい……こんな、見苦しい姿を見せて……」
「……おれは、立ち去るべきですか」
「待って……! 行かないで、ここにいて……お願い……」
「……は」
レガートの隣、シーナリエはただ声を押し殺して泣き続ける。レガートはしばし黙っていたが、ひたすらに空間を打つ声を頭の中で処理しながら、おずおずと口を開く。
「……今のあなたは、シーナリエという一人の人間です。何も取り繕う必要はありません」
「……ありが、とう……」
シーナリエはその言葉に従い、そっとレガートの肩にもたれかかる。
「わたしは……姉さんに会いたい。それだけじゃない、今のわたしを見て失望しないでほしい。怒らないでほしい。受け入れてほしい。抱きしめてほしい。……あの女どもへの復讐に巻き込みたくないからと自分から遠ざかったというのに、わたしはなんて矛盾まみれで、強欲な女なのでしょう」
「……いいえ。大切な存在に受け入れてほしいと願うのは、当然の感情です。恥じることではありません」
「ふふ……本当に、あなたは優しい人」
涙で濡れたシーナリエの顔がにわかに綻ぶ。それは闇の中に僅かに残った光のようにか細く、弱々しく、しかし美しいものだった。
「……あなたと話をして、少し気が紛れました。……これからもこうして、シーナリエという一人の人間として……あなたと語らいたい。構いませんか?」
「もちろん……おれなどでよければ」
「むしろ、あなたでなければいけません。……では、わたしはそろそろ行きます。あなたの分の役目は他の者に回すよう、ヴィルトゥールに頼んでおきますから……くれぐれも安静にしているのですよ」
「……はい」
首領に掛け合うと言われたらさすがに受け入れざるを得ず、レガートは内心で生まれた抗議の言葉を飲み込んで、扉の先へと消えていくシーナリエを見送った。