Tuning the world

 流れ出る冷や汗とは裏腹に、全身の血が沸き立ち神経が研ぎ澄まされていくのを感じる。――さすがに見立てが甘かったか。そんな人らしい言葉を内で紡げることさえも不思議なくらいだった。そんなクラレンスを見下ろすシーナリエの瞳はどこまでも暗く、冷たい。光も無ければ感情も無いその瞳に、明るく朗らかな"シーナ"の面影を見出すことはできないだろう。

「……月の光に宿る我が力は、ただの残滓。それがこうして直に力を注がれること……その意味は分かりますね」
「ああ……身を、もってな……!」

 人狼は、満月の光に宿る月神の魔力に影響され姿を獣へと変える。あくまで必要なのは月光ではなく、そこに宿る魔力。であれば、月神そのものに直に魔力を注がれれば、同じように獣化するのは道理。――月神の魂を宿すシーナリエ・リブレイスと対峙する以上、それ自体は想定の範囲内ではあった。だが、さすがに神を人と同じ尺度で測るのは間違いだったらしい。ある程度の覚悟はしていたが、神の力はこちらの想定を倍以上に上回っていた。

「はぁ……っ……ッく……!」

 ――肉体だけでなく、心も獣へと堕ちていく。普段の獣化の比ではないその感覚が恐ろしい反面、どこか心地良いとも感じる自分を、否定しきれなかった。

「何を取り繕っているの? ……傷つけたくない? 殺したくない? 理性を捨てたくない? それを悪いことだと……恥ずべきことだと思っている? ……そんなもの、人間が勝手に作ったルールに過ぎない。獣であるあなたには何の関係もない。そのようなくだらない枷など、その牙で噛みちぎってしまえばいい。……ああ、それとも……」

 徐々に近づくヒールの音が、通常の何倍にも大きく聞こえる。シーナリエは膝をつき、そっと慈しむようにクラレンスの顎を持ち上げ、瞳に宿る紅で彼を刺す。

「――自分は人間だとでも思っているの?」

 間違えた子ども眷属を諭す母親のような、穏やかな笑み。悪魔が天使の顔をしていた。

「あなたは獣なの。肉体から魂、存在の髄まで全て、何もかも。倫理を、道徳を、束縛を厭い、その爪と牙でそれらを嘲り蹂躙する。あなたはそういう存在。今のあなたはもはや名残りに過ぎない己の姿に惑わされ、人の真似事をしているだけ」

 シーナリエは剥かれた牙に指を走らせる。そこから流れる血を舌に垂らされ、クラレンスの心臓はドクンと跳ね上がった。――やがてその口は三日月がごとく、歪む。

「は……ははは……ッはははははは……!!」

 ぐるりと、己が反転する。――ああ、そうだ。たった一度、それを受け入れるだけで身体が羽のように軽くなるのを感じた。解き放たれるとは、まさにこのことなのだろう。

「……ああそうだよ、全て正解だよ……! オレは結局そういう存在だ、九年前のあの日から! オレは、オレたちを救わず見捨てた聖教会の奴らを全員この爪と牙でズタズタに引き裂いて喰い殺してやりたい、その悶え苦しむ姿を見て悦に浸りたい、復讐ですらない、オレ自身の快楽のためだけに!」

 獣が吼える。己の醜い本質を、惜しげもなく曝け出す。――身に宿った獣性が今この瞬間彼を喰らい尽くし、彼もまたそれを受け入れる。

「なら、そうすればいい。敵も味方も関係なく、ただ己の快楽のためだけに、全てを破壊すればいい」
「――それができたら、楽なんだけどな」

 不意に、黒い爪状の魔力が放たれる。シーナリエはそれをひらりと躱し、後退した。

「……正義も倫理も全て踏み躙って、何もかも滅茶苦茶にしてやりたい。そう思ってるよ。でも……そうすれば彼女がどんな顔をするか。分からないほど、オレは馬鹿じゃない」
「……結局、お前もあの女か」

 吐き捨てる。クラレンスと同じように、恥も外聞もかなぐり捨てて、忌々しげに。

「要するに、自分が本当にやりたいことをやれって話だろ? 素晴らしいアドバイスだ、ぜひそうさせてもらう」

 ――本来であれば身を呑み込むはずの影を、己が力として纏い従える。月の寵愛の証たる紅を瞳に宿し、今この瞬間だけは重荷にしかならない得物の剣を放り捨て、立ち上がる。

「――アンタが救われたら、あの子の心からの笑顔が見られる。ただそれだけの理由で、アンタを救う」

 そこに正義も悪も、聖も邪もなく。あるのは奔放な我欲のみ。本能に従い全てを踏み躙るよりも、ただ愛する者が笑ってくれる――それだけでいい。それが一番心地が良い。ゆえに、その我欲のため主すらも喰い潰す救う。――本能に堕ちることも、理性で己を律することもせず。人と獣の狭間で醜く吼える"人狼"が、そこにいた。
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