Tuning the world

 いつからこうなったのだろう。始まりは、最愛の娘ヨナの死。彼女がたった五年でその儚い命を散らし、彼の世界は色を失った。それでも最早存在しない娘の影は彼の前から消えることはなく、彼もまたその影を追うことを諦められなかった。――だから、蘇らせようとした。

「違う……違う、違う!」

 心許ないランプの灯火だけに照らされた薄暗い部屋に怒声が響き、フラスコや瓶が床に叩きつけられ割れる音がそれに続いた。最後には、荒れた呼吸。そしてくぐもった唸り声。少女が無理やり水中に頭を突っ込まれ、もがいているような――否、それ以上に悍ましい声だった。黒髪の男――ヴィルトゥール・フィガロは荒い呼吸で肩を上下させ、室内に響きわたる唸り声をじっくりと耳に招き入れた末に、笑った。

「は……はっははははは! ヨナ? これが? こんな……こんな、形すら覚束ない泥が? そんなはずが……そんなはずが、ない……」

 机に置かれた、一際大きなフラスコ。その中から這い出でる黒い不定形の何か。泥、と例えるのが適当だろう。重力を無視して盛り上がり肥大化するそれにはいくつもの目玉があり、やがて複数の腕とも足ともつかぬ部位を形成する。ヴィルトゥールは笑みをこぼしながら後ずさるが、そこに目の前の異形に対する恐怖はない。彼は今、己に巣食う絶望にこそ抗っていた。

『パ……パ……』
「黙れ……黙れ! 違う! お前などヨナではない! それが半端にヨナを騙るな! こんな醜い泥の分際で……!」
『パ……パァ……ア……ボ……ヨ……ソボ……!』

 支離滅裂と言い捨てるには残酷なその呻きも無視して、ヴィルトゥールは側に置いていた斧を手に取る。――最初の頃は「万が一のため」と、心を痛めながらこの斧を置いていた。そして例外なく、この斧を振るう羽目になった。それでも、今度こそはこの斧が必要にならないで欲しいという思いで研究を繰り返していた。だが今やこの斧は「必需品」となった。振るう際に心は痛まなくなり、涙もとうに枯れ果てた。

『パパ……パパァ……! ……ッギィィ……!』

 叩く。潰す。感慨はない。彼の関心は既に異形には向いておらず、掃除が面倒だと他人事のように考えながら、慣れた作業を行う。

「……はあ」

 生命と呼べるかも分からないモノを完全に沈黙させる。己の溜息の冷淡さに驚く程度の心はまだ残っているらしいと、彼は自嘲した。そして、黒く汚れた床に目を向ける。

「……ヨナ」

 泥をかき分けた先にあった、白く輝く炎。それはヨナの魂に他ならない。肉体という器を持たないためにそれ自体に意思は無く、呼びかけてもヨナが返事をしてくれるわけではない。だが、この真っ白で無垢な輝きが、ヨナの全てだった。ヨナがヨナとして生きた五年分の記憶、感情が詰まった情報の塊。本来ならば輪廻に還り、全てを洗い流した後に新たな肉体を得て生まれるべきもの。ヴィルトゥールはそれを無理やり現世に繋ぎ止め、この悍ましい研究を繰り返していた。

「……もう少し、待っていてくれ」

 今まで六百以上処分し続けてきたあれらは、ヨナの魂を借りてヨナを騙る紛い物。それがヴィルトゥールの認識だった。肉体という器と魂が完璧に調和した時に、ヨナは完璧なヨナとして蘇る。それが最終目的だった。

(進歩はしている……)

 一番最初は、先程の泥以上に醜く悍ましいモノだった。絶え間なく金切り声をあげ、知性も理性もなく周囲を破壊するソレを見て、きっとすぐに成功するなどという甘い幻想は簡単に崩れ去った。――手順、否そもそもの方法自体が間違いなのか? 何度も思考し検証しては、実験を繰り返した。二百回目まではほぼ何も変わらなかった。しかしその後に生まれてくるモノは徐々にヨナと同じ声を発し始め、やがてヴィルトゥールに対し「パパ」と呼びかけることさえあった。今回も同じだった。

(あの頃に比べれば、確実にあの子ヨナに近づいている。だが……)

 声と記憶。部分的にヨナと一致している。だが、あんなバケモノがヨナであるはずがない。ヨナでいいはずがない。あのバケモノがあの子の声をして、あの子の記憶を持っているという事実は最初は真っ当な希望として機能していた。だが、今やそれは中途半端な希望と成り果て、逆に彼を苦しめている。沼で溺れる中、差し出される手。だが決して掴むことは叶わない。
 ――それならば、最初からそんな希望など無ければいいのに。なまじゼロを一に引き上げることに成功したばかりに、十に辿り着けるという希望を抱き続けてしまう。――何度繰り返しても、どうせ同じこと。そんな諦念が彼を支配していた。だというのに彼の思考は更なる研究に割かれ、身体は机へと向かう。
 そして、六百と二十八回目の実験にて。今回も期待はしていなかった。ただ、いつも通り失敗だったら処分すればいいだけの話。そんな諦念で己を武装しているから、これまでと大して変わらない黒い異形が己を見下ろしていても、彼の心が動くことはなかった。

『パ、パ……』
「……」

 百足よろしく過剰なまでに備えつけられた腕か足かの一つが、ヴィルトゥールの頬に触れる。そして、牙があることでかろうじて口だと認識でき、よって頭部であると定義できるような部位がヴィルトゥールの顔に寄せられる。ヴィルトゥールと同じ紫紺の目玉。過剰に貼り付けられたそれらが一斉にギョロリと彼を捉えた。

『パパ……ご、め……ね……』
「……お前は」

 彼にとってはもはや支離滅裂な音の羅列。だが、何かが違うという感覚があった。そんな期待が、口から漏れた。

『ご……めんね……こんな、の、ヨナじゃないよね……ヨナに、なれなくてごめ、なさい……ず……と、ずっと……こんな……醜い姿で……ごめんなさい……』

 今までのあれらと比べれば十分に主張として成立する音の羅列。無数の目玉から流れ落ちる涙。

「ヨ、ナ……?」
『違う……わたしなんかヨナじゃない……パパが、世界で一番かわいいって言ってくれたのに……こんな姿、ヨナなんか、じゃ……』

 奇妙なことに、今度は異形自身がヴィルトゥールと同じことを言い始めた。そうだ、これの言う通り、こんなものがヨナのはずがないだろう。だが、いつものように彼の手は斧を掴もうとはしなかった。これはなんだ? 流暢になったとはいえ、所詮は声や記憶と同じ過程の一つに過ぎない。人の形すら成さない以上、これはヨナではない。そうであるはずなのに。――目に入ったのは、机上の紙。様々な術式や計算を書き込んだそれには、六百二十八という数字が君臨していた。

(――もう、疲れた)

 希望が見えない。ずっと沼の中でもがき続けているようだった。十には辿り着けない。ならば、それを決して届かぬ頂だと見切りをつけ、二や三に甘んじるのも、一つの選択肢なのではないか。――一度その発想に至ってしまえば、じわじわと彼の思考を塗り替えていく。ヨナの魂と記憶と声と意思を持つならば、それは以前とは姿が違うだけで同じヨナと言えるのではないか。――そういうことにしてしまえばいい。所詮完全な答えなど用意されていない概念。己がそう定義すれば、それが解となる。

「……もういい。もういいんだ。お前はヨナだ……ヨナでいいんだ……」
『パパ……?』

 頭部に触れ、そっと撫でる。――最初からこうするべきだったのだろうか。今まで手にかけた六百二十七の命も、全てヨナだったのだろうか。亡き娘を蘇らせたい、ただそれだけだったのに、気づけば六百二十七回も娘を殺めた。許されざる罪だ。地獄の炎に千年焼かれようとも、この罪は消えないだろう。

「おかえり……ヨナ」

 全てを飲み込んで、笑う。父親の慈愛に満ちた笑み。咎人の罪に塗れた醜悪な笑み。それが久方ぶりの、彼の心からの笑顔だった。
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