Tuning the world
「ディエス」
「ルブラム……」
静かな空間を打つ声。洞穴の中で横たわっていたディエスは慌てて身体を起こそうとするが、それを声の主――ルブラムが止める。
「無理をするな。まだ身体が弱っているのだから」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はない」
客人が来たのに自分が横たわったままなのは失礼だという意識があるのだろうか。――人に恐れられる、人ならざる存在。それがディエス・イレという神である。だというのに、彼の在り方はどこまでも穏やかで慎ましく、彼が邪悪な存在なのだと言い聞かされてきたルブラムは、伝え聞いた話と実際の彼のあまりにかけ離れた様に戸惑う部分もあった。
「……ルブラム。あなたがこうして毎日のように訪ねて来てくれるのは、とても嬉しいです。しかし……あなたには人としての人生がある。あなたに無理をさせていないか……」
「……そんなことはない。俺が好きでやっていることだ。それに……」
「……?」
ルブラムは周囲を眺める。この小さな洞穴の中で、ディエスは日々を過ごしていた。暗く、冷たく、寒い場所。食糧や焚き火などの生活の痕跡は皆無で、彼が人ならざるものであることを実感させられる。この空間が、彼の日常。それをとても哀しく感じた。
「……ここは暗く、冷たく、寒い。お前がずっとここに一人でいて……寂しい思いをしていないかと不安になる、という言い方では……おこがましいだろうが……」
自分で言っておきながら、羞恥がじわじわと内から己を覆う。自分たちは一ヶ月前まで互いの姿すら見たことがなく、今だってこちらが一方的に彼の元へ通っているだけ。迷惑だと思われても仕方のない立場だ。そんな自分が、「お前が寂しくないようにここに来ている」などと。言わない方がよかったか――そんな考えが頭をよぎるが、それはすぐに隅に追いやられる。
「……ディエス?」
ディエスの紅い双眸からは、涙がこぼれ落ちていた。ただ、その表情は悲しみではなく、驚き、そしてどこか戸惑った様子のものだった。
「どうした……? どこか……」
「……いいえ。何でもないのです……ただ、驚いて……でもそれと同じくらいに、嬉しくて……こんな私のために……」
「……」
自分たちの出会い。衰弱しきったディエス。きっかけは、一ヶ月前に星を襲った隕石だった。あの日、黒い翼を広げて飛び立ち、黒い力を放って隕石を砕いた彼を見た。まさしく神と呼ぶに相応しい人智を超えた力には恐怖も感じた。だが、力を使い果たして地に堕ちる彼の姿は天からこぼれ落ちた涙にも、あるいは流星にも思えて。一転して、儚く感じた。今の彼もそうだ。あのような圧倒的な力を持ちながら、同時に儚さも感じさせる姿。
(――美しいとさえ、思ってしまう)
儚さゆえの美しさ。触れたら壊れてしまうような、か細く脆い姿。――我ながら、不謹慎すぎる。それでもその考えを捨てる気にはなれないほどに、彼は美しかった。
「……ルブラム。あなたがいなかったら、私はどうなっていたか……」
「ディエス……」
村の者たちは彼を悪神と言い、自分もそれを信じていた。だが、こうして彼と交流していればそんなものは戯言だと言い切れる。自分の押し付けがましい行為にさえ優しさを見出し、涙を流す彼が悪のはずがない。彼の清廉な姿を前に、直接見たわけでもない彼を悪と断じていた己の愚かさを思い知らされる。
「でも……そう、寂しい……たしかに、あなたがいない時間は空虚で、退屈に感じてしまう……これが、寂しいという感情なのですね。……あなたの温もりを感じて、初めて理解しました。私は……ずっと"孤独"だった」
「……!」
その言葉に、様々な感情が混ざり合う。ディエスはずっと一人だった。だがそれを孤独とは感じていなかった。なぜなら、彼は人と触れ合ったことがなかったから。まともに言葉を交わしたことさえない。彼の力を見て、人は勝手に恐れをなして離れていく。最初から一人だけの世界にいれば、他者を知らなければ、孤独を感じることはない。独りの悲しみ、苦しみ、虚しさ。それは自分以外の存在がいて初めて成立する概念。
(――俺、は)
自分は、彼の世界に踏み入ってしまった。温もりを与えた。だが同時に、孤独さえも与えてしまった。その戸惑いが現れていたのだろう、彼の表情を見たディエスの顔が陰る。
「そんな顔をしないで……私はあなたに出会えて本当に良かったと思っています。私を助けてくれた優しい人……孤独があるからこそ、あなたといられる喜びがある……私は、そう思います。だから……」
「……なぜ、お前は……そんなにも」
ただ強大な力を持つというだけで恐れられてきた存在。彼は人を恨む権利がある。憎む権利も、蔑む権利もある。だと言うのに、彼の方こそ、悲しいくらいに優しい。――だからこそ、報いたいと思った。自分がいることで彼の孤独が少しでも癒えるならば、いくらでもここにいたいと。そう思った。
「……ディエス。お前にとって、俺はまだ非日常なのだと思う。だから先程のように気を遣わせてしまうし、そもそも俺がやっていることはただのお節介なのかもしれない。でも……」
ルブラムはディエスの細い手に、そっと己の手を重ねる。冷たい手に、熱がともる。
「俺は……お前の日常でありたい。命の恩人や客人などではなく、神と人でもなく、対等な友として」
「……ルブラム」
少しの沈黙。ディエスはゆっくり、ゆっくりとその言葉を噛み締めて、自分も言葉を探しながら、ゆっくりと声にする。
「私も……あなたの、日常の中にいたい。あなたの人生の中に……私を入れてほしい。一人は……寂しいから」
「……ああ。もちろん」
ディエスがルブラムの手に指を絡める。――もしかしたら、この日常もそう長くは続かないのかもしれない。――そして実際に、長くは続かなかった。月に魅入られ、友を傷つけることを拒んだ男は彼の元を去った。だが――二人が紡いだ日常は消えることなく、国 として、絆の糸として、確かにこの星に根付いていた。
「ルブラム……」
静かな空間を打つ声。洞穴の中で横たわっていたディエスは慌てて身体を起こそうとするが、それを声の主――ルブラムが止める。
「無理をするな。まだ身体が弱っているのだから」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はない」
客人が来たのに自分が横たわったままなのは失礼だという意識があるのだろうか。――人に恐れられる、人ならざる存在。それがディエス・イレという神である。だというのに、彼の在り方はどこまでも穏やかで慎ましく、彼が邪悪な存在なのだと言い聞かされてきたルブラムは、伝え聞いた話と実際の彼のあまりにかけ離れた様に戸惑う部分もあった。
「……ルブラム。あなたがこうして毎日のように訪ねて来てくれるのは、とても嬉しいです。しかし……あなたには人としての人生がある。あなたに無理をさせていないか……」
「……そんなことはない。俺が好きでやっていることだ。それに……」
「……?」
ルブラムは周囲を眺める。この小さな洞穴の中で、ディエスは日々を過ごしていた。暗く、冷たく、寒い場所。食糧や焚き火などの生活の痕跡は皆無で、彼が人ならざるものであることを実感させられる。この空間が、彼の日常。それをとても哀しく感じた。
「……ここは暗く、冷たく、寒い。お前がずっとここに一人でいて……寂しい思いをしていないかと不安になる、という言い方では……おこがましいだろうが……」
自分で言っておきながら、羞恥がじわじわと内から己を覆う。自分たちは一ヶ月前まで互いの姿すら見たことがなく、今だってこちらが一方的に彼の元へ通っているだけ。迷惑だと思われても仕方のない立場だ。そんな自分が、「お前が寂しくないようにここに来ている」などと。言わない方がよかったか――そんな考えが頭をよぎるが、それはすぐに隅に追いやられる。
「……ディエス?」
ディエスの紅い双眸からは、涙がこぼれ落ちていた。ただ、その表情は悲しみではなく、驚き、そしてどこか戸惑った様子のものだった。
「どうした……? どこか……」
「……いいえ。何でもないのです……ただ、驚いて……でもそれと同じくらいに、嬉しくて……こんな私のために……」
「……」
自分たちの出会い。衰弱しきったディエス。きっかけは、一ヶ月前に星を襲った隕石だった。あの日、黒い翼を広げて飛び立ち、黒い力を放って隕石を砕いた彼を見た。まさしく神と呼ぶに相応しい人智を超えた力には恐怖も感じた。だが、力を使い果たして地に堕ちる彼の姿は天からこぼれ落ちた涙にも、あるいは流星にも思えて。一転して、儚く感じた。今の彼もそうだ。あのような圧倒的な力を持ちながら、同時に儚さも感じさせる姿。
(――美しいとさえ、思ってしまう)
儚さゆえの美しさ。触れたら壊れてしまうような、か細く脆い姿。――我ながら、不謹慎すぎる。それでもその考えを捨てる気にはなれないほどに、彼は美しかった。
「……ルブラム。あなたがいなかったら、私はどうなっていたか……」
「ディエス……」
村の者たちは彼を悪神と言い、自分もそれを信じていた。だが、こうして彼と交流していればそんなものは戯言だと言い切れる。自分の押し付けがましい行為にさえ優しさを見出し、涙を流す彼が悪のはずがない。彼の清廉な姿を前に、直接見たわけでもない彼を悪と断じていた己の愚かさを思い知らされる。
「でも……そう、寂しい……たしかに、あなたがいない時間は空虚で、退屈に感じてしまう……これが、寂しいという感情なのですね。……あなたの温もりを感じて、初めて理解しました。私は……ずっと"孤独"だった」
「……!」
その言葉に、様々な感情が混ざり合う。ディエスはずっと一人だった。だがそれを孤独とは感じていなかった。なぜなら、彼は人と触れ合ったことがなかったから。まともに言葉を交わしたことさえない。彼の力を見て、人は勝手に恐れをなして離れていく。最初から一人だけの世界にいれば、他者を知らなければ、孤独を感じることはない。独りの悲しみ、苦しみ、虚しさ。それは自分以外の存在がいて初めて成立する概念。
(――俺、は)
自分は、彼の世界に踏み入ってしまった。温もりを与えた。だが同時に、孤独さえも与えてしまった。その戸惑いが現れていたのだろう、彼の表情を見たディエスの顔が陰る。
「そんな顔をしないで……私はあなたに出会えて本当に良かったと思っています。私を助けてくれた優しい人……孤独があるからこそ、あなたといられる喜びがある……私は、そう思います。だから……」
「……なぜ、お前は……そんなにも」
ただ強大な力を持つというだけで恐れられてきた存在。彼は人を恨む権利がある。憎む権利も、蔑む権利もある。だと言うのに、彼の方こそ、悲しいくらいに優しい。――だからこそ、報いたいと思った。自分がいることで彼の孤独が少しでも癒えるならば、いくらでもここにいたいと。そう思った。
「……ディエス。お前にとって、俺はまだ非日常なのだと思う。だから先程のように気を遣わせてしまうし、そもそも俺がやっていることはただのお節介なのかもしれない。でも……」
ルブラムはディエスの細い手に、そっと己の手を重ねる。冷たい手に、熱がともる。
「俺は……お前の日常でありたい。命の恩人や客人などではなく、神と人でもなく、対等な友として」
「……ルブラム」
少しの沈黙。ディエスはゆっくり、ゆっくりとその言葉を噛み締めて、自分も言葉を探しながら、ゆっくりと声にする。
「私も……あなたの、日常の中にいたい。あなたの人生の中に……私を入れてほしい。一人は……寂しいから」
「……ああ。もちろん」
ディエスがルブラムの手に指を絡める。――もしかしたら、この日常もそう長くは続かないのかもしれない。――そして実際に、長くは続かなかった。月に魅入られ、友を傷つけることを拒んだ男は彼の元を去った。だが――二人が紡いだ日常は消えることなく、