Tuning the world

 そこは荘厳な空気で満たされていた。その場に在る者を圧倒させるが、しかし息苦しさは感じさせない。強大ではあるが、決して冷酷ではない。――この空気を生み出している、銀髪に紅の瞳の神はそのような存在だった。ディエスは岩に腰掛け、跪くダンテの話に耳を傾ける。

「……そうですか。集落の者たちも息災ならば何よりです」
「身に余るお言葉……それもあなた様の庇護の賜物でございます」
「……私など、何もしていません。互いに支え合い、手を取り合う。あなたたちはそれが当たり前にできるからこそ、この寂れた地でも逞しく生きている」
「……は」

 ダンテがディエスを讃えるような言葉を口にすれば、ディエスは必ずと言っていいほど否定した。それは自分ではなくあなたたちの力だ、自分はそのような大それた存在ではない、と。人ならざる自分と違い、飢えや寒さに苦しみながら必死になって生きる者たちを見て、負い目を感じているのかもしれないと、ダンテは内心想像していた。返す言葉には常に迷っており、今回も曖昧な返事で濁す。

「ディエスさまー!」
「……!?」

 荘厳な空気を揺らす明るい少女の声、ぱたぱたと土を蹴る音。風のごとく唐突に現れた少女はダンテには目もくれずディエスの膝にぴょこんと乗っかる。ダンテにとっては信じ難い光景だった。五か六くらいだろうか、こんな幼い子どもが月神に気安く触れるなど。

「ディエスさま!」
「な……何をしている無礼者! 何処の誰だか知らんが、月神にそうも馴れ馴れしく……不敬にも程があるぞ!」

 少女はそこでようやくダンテの存在に気がつく。険しい顔で自分を叱りつけるダンテを見て、少女の顔はみるみる怯えに染まり――縋るようにディエスを見上げた。

「ディエスさま……この人、だあれ……?」
「近くの集落に住む者です。……大丈夫、悪い人ではありません。それよりも、マグダレア。今は大事なお話があるから、ゼルティオスと遊んでいなさいと言ったでしょう」
「だって……ディエスさまもいっしょじゃなきゃやだもん!」

 目の前で繰り広げられる微笑ましいやりとり。それに反してダンテの心は少女を必要以上に怖がらせてしまった罪悪感に、脳内はひたすら困惑に埋め尽くされていく。突然現れた少女は明らかにディエスと見知った様子で、考えが追いつかない。

「……ディエス様、その子どもはいったい……?」
「ああ……あなたが会うのは初めてですね。この子は私の娘です。……ほら、挨拶をなさい」
「……マグダレア、です」
「むす、め……!?」

 ディエスに対する無邪気な様子は一変して、自分を叱りつけたダンテへの恐怖や人見知りを発揮したのだろう、ディエスの胸に身体を預けながら恐る恐る名乗った。そしてダンテは己の行動を振り返り、顔面蒼白になる。

「……これは、とんだご無礼を……! あなた様の愛し子を叱りつけるなど……」
「そう慌てる必要はありません。……ダンテ、顔を上げてください」

 不敬なのはいったいどちらなのか。ダンテは冷や汗を垂らして頭を下げるが、ディエスは先程からの穏やかな声色を一切変えることはしなかった。

「……慈悲に、感謝いたします……」

 ――それが月神の信奉者と、月神の愛し子の出会いだった。今となっては立派な笑い話である。



「ダンテと初めて会ったときにね、こんなことがあったんだよ! ねっ!」
「え、ええ……お恥ずかしい限りです」
「……っははははは! それは傑作だ……! その時のおぬしの顔、容易に想像できるぞ!」

 過去の醜態を暴露され縮こまるダンテを尻目に、竜の姿をとるゼルティオスは大袈裟なまでの笑い声をあげる。彼の頭に乗っているマグダレアも慣れているのか、揺れる頭から振り落とされる気配はない。

「……俺はそうやってあなたに笑われることを容易に想像できたぞ、守護者殿」
「当然であろう、これで笑うななどとは無理な相談だ」

 ダンテはバツが悪そうに頭を掻く。知らなかったとはいえ月神の愛し子を叱りつけ怖がらせてしまったことについては弁明する気はないが、それはそれとしてこうも笑われていい気はしない。

「……あ、ディエスさまだ! ディエスさまー!」

 その時、マグダレアは外から戻ってきたディエスの姿を見つけた。ゼルティオスが頭を地面に近づけマグダレアを降ろせば、一目散に駆けていく。

「そろそろ日が暮れるな……俺も戻らなければ」
「待て」

 ダンテの背後、呼び止めるゼルティオスの声。振り返った先にいたのは竜の巨体ではなく、しかしそれと同じ二本のツノと尻尾を生やした精悍な顔つきの男だった。

「守護者殿? どうした……ぐっ!?」

 問いには答えず、男――姿を変えたゼルティオスは突然ダンテの腹に拳を叩き込む。人の姿とはいえ、竜の強靭な肉体から繰り出される一撃を叩き込まれたダンテはたまらず腹を押さえ悶絶するしかなかった。

「先の話の中で娘を怖がらせた仕置きだ」
「はは……十分すぎる罰だな」

 苦笑して、痛みを落ち着かせてからなんとか姿勢を正す。

「……俺に対する気は済んだか?」
「ああ。また来るといい、マグダレアも喜ぶ」
「はは、それは光栄なことだ。次はカノンも連れて来る」

 ダンテが軽く会釈すれば、ゼルティオスもそれに応える。そうして、幼く無邪気な笑い声が次第に遠ざかっていくのに名残惜しさを感じながら、ダンテは帰路についた。
24/28ページ
スキ