Tuning the world
静寂が支配する部屋。ラグナは縋り付くように、ベッドの上で眠る青年を見つめていた。青年の容姿は髪が短いことを除けばラグナと全く同じで、双子どころか同じ人間が二人いるように見える。枕元ではラトレイアが青年に寄り添い、時折頬ずりをしているが、青年が目覚める様子はない。
「……大丈夫だよ、ラト。リオンは必ず目覚めるから」
「みゅ……」
ラトレイアだけではなく、自分自身にも言い聞かせるように、そう言った。
――千年に渡り聖教会を支配していた魔女イスカリアは、双子の姉妹らとの激闘の末に消滅した。それに伴い、イスカリアが魂のみの存在となり生き続けるための動力源として彼女の内に囚われていたリオンの魂も解放された。その後、聖遺物の化身の少女の力を借り、器となる肉体を用意することはできたが、彼は一向に目覚めない。何か異常があるわけではなく、魂が器に定着するのに時間を要しているだけだというが、日が進むにつれて不安は募っていくばかりで、この三日間ラグナはひたすらにリオンの傍で彼の目覚めを待ち続けていた。
「……リオン」
全て、彼のためだった。メルリーチェに手を貸していたのは、封印から解き放たれた借りを返すためなどではない。あの女狐に囚われたリオンを救うためには、彼女と手を組むのが最善の道。だからそうしただけのこと。そうして全てを終えた今、ラグナの思考は全てリオンに割かれていた。
「……みゅう」
「……ラト」
ラトレイアは力なく、しかし懸命にリオンに呼びかけていた。――ラトレイアにとって、大切な人の目覚めを待つのは二度目のこと。一度目はラグナだった。封印され眠り続けるラグナの傍で、千年もの間彼の目覚めを待ち続けた。目覚めてすぐに見て聞いた、喜びや安堵が入り混じったラトレイアの表情と鳴き声は今もラグナの記憶に焼きついている。そしてラトレイアは再び、あの時の不安に支配されていた。すぐそこに大切な人がいて、触れることさえできるのに、その瞼は頑なに開かれない。
(この子は……ずっと、こんな気持ちで)
まだ三日しか経っていない今ですら、不安に押し潰されそうだった。ならば、あの時のラトレイアの不安はどれほどのものだったのだろう。――ラグナはラトレイアを少しでも安心させようと、その小さな身体をそっと撫でる。
「……リオン、ラトも寂しがっているよ。だから、早く……お願いだから……」
弱々しく、しかし切実な声。象徴に向かって罪を告解する信徒のように、痛ましく、ひたむきな姿だった。
♢
――数日後。予兆は、彼の瞼の僅かな動きだった。その微小な変化を、ラグナは見逃さなかった。
「……リオン?」
「みゅ……!?」
名前以外の言葉が出ないまま、リオンの手を握りしめる。離れないよう、繋ぎ止めるように。眠っていたラトレイアも慌てて飛び起き、リオンをじっと見つめる。
「……っ」
――千年ぶりの蒼が、ラグナを見据えた。夢の中で揺蕩っていた彼の意識が徐々に現実へと引き戻され、その瞳に光が灯されていく。
「……ラグナ、さま……?」
「……!」
その声を聞いた瞬間、覆い被さるように、彼を抱きしめた。その白縹の双眸からは彼のためだけの涙が溢れ、やがて部屋には嗚咽が響く。
「リオン……おかえり、本当に……やっと……おかえり……!」
「ラグナ様……俺は……」
「みぃ……! みっ! みゅうっ!」
「ラト……君も……」
まだ呆然とした様子のリオンは、これが現実であるという確証を得ようと、ラグナの背に手をやる。最初は添えられただけのその手にやがて力が入り、伝わるラグナの体温が、これは現実なのだとリオンを安堵させる。それはラグナやラトレイアにとっても同じで、互いの温度が互いの存在を浮き彫りにする。
「……ラグナ様。俺……ずっと、痛くて、苦しかった。もう身体もないのに全身が痛むようで……意識を失うことすらできなくて……」
「……ああ。もう大丈夫だから……遅くなってすまなかった……」
彼の身に起こっていたことを聞けば、自分のことのように胸が痛んだ。今はただリオンが心配で、彼をそんな風にしたイスカリアに憎悪を抱く余裕さえもない。
「……ラグナ様が、あの女を倒したのか……?」
「私だけの力じゃない。……仲間や、それ以外にも……多くの者が力を合わせたからこそだ」
「……仲間?」
ラグナのその言葉に引っかかった。リオンは己の身に起きたことを振り返り、ゆっくりと思考する。
「……人間は、悪だった。俺たちを守ってくれていたラグナ様をあんな風に罵って……俺のことも、道具としか思ってなかったんだ。……なのに、なんで」
「……みゅ」
ラトレイアが小さな鳴き声をあげる。そしてラグナは彼の怨嗟をそっと受け止め、自分の中で処理しながら言葉を探していく。――リオンは、負の感情を知らなかった。生まれたその時からラグナの依代としての運命を決定づけられ、里の大人たちによって洗脳に等しい教育を施されてきた。全ては、幻魔鏡 という無形の災厄を鎮め続けるために。彼が負の感情を知ることがないよう、徹底的に。しかし、あの日里の人々の醜悪な本性を見て、彼らによって魔女の贄として捧げられたことで、彼は負の情念に支配された。病に触れてこなかった人間は病に対する抵抗を一切持たないように、リオンは容易に怒りや憎悪に染められてしまった。そして今、それらの感情の矛先は、人間全てに向けられている。彼にとって、あの小さな集落が世界の全てだったから。
「……リオン。私は君を助けに行くまでに、世界中を旅した。そして、様々な人間と出会った。自分のことしか頭にない利己的な人間もいれば、逆に自分のことなどまるで考えずに他者に尽くしてばかりの人間……様々な人間たちが、数えきれないほどいた」
「……ラグナ様?」
ラグナは鏡像。鏡像はただ相対する者の心をあるがままに映すのみ。オリジナルが目を閉じたまま、鏡像だけが目を開くことはない。――そのはずなのに。
「『人間全てが悪だなんてありえない』……私といつも共にいた少女が言っていた。彼らは一人一人違う心を持ち、違う生き方をする。だから、それら全てが同じであるはずがない、と」
「……ラグナ様は、それを信じるのか。俺……何が正解なのか、わからないよ」
「……私にもわからない。私が今まで出会った善い人間も、里の人間たちのように醜悪な本性を隠しているだけかもしれない。……私一人では、とても答えを出せそうにないよ。……だから。一人で見つからない答えは、一緒に探そう。二人で見つけにいこう。あの里の向こうにも、世界は広がっている。たくさんの世界と人を見て、考えて……答えを出すのはそれからでも、遅くないんじゃないかな」
「せかい……」
ラグナ自身も、リオンを縛り付ける鎖の一つだった。だからこそ、共に答えを探したかった。彼を、あの狭い世界の外に出してあげたかった。
「……みっ!」
「……ありがとう。ラグナ様、ラト」
二つの温もりがリオンに寄り添う。千年をかけて彼の心を固く覆った氷が解ける兆しは、すぐそこにあった。
「……大丈夫だよ、ラト。リオンは必ず目覚めるから」
「みゅ……」
ラトレイアだけではなく、自分自身にも言い聞かせるように、そう言った。
――千年に渡り聖教会を支配していた魔女イスカリアは、双子の姉妹らとの激闘の末に消滅した。それに伴い、イスカリアが魂のみの存在となり生き続けるための動力源として彼女の内に囚われていたリオンの魂も解放された。その後、聖遺物の化身の少女の力を借り、器となる肉体を用意することはできたが、彼は一向に目覚めない。何か異常があるわけではなく、魂が器に定着するのに時間を要しているだけだというが、日が進むにつれて不安は募っていくばかりで、この三日間ラグナはひたすらにリオンの傍で彼の目覚めを待ち続けていた。
「……リオン」
全て、彼のためだった。メルリーチェに手を貸していたのは、封印から解き放たれた借りを返すためなどではない。あの女狐に囚われたリオンを救うためには、彼女と手を組むのが最善の道。だからそうしただけのこと。そうして全てを終えた今、ラグナの思考は全てリオンに割かれていた。
「……みゅう」
「……ラト」
ラトレイアは力なく、しかし懸命にリオンに呼びかけていた。――ラトレイアにとって、大切な人の目覚めを待つのは二度目のこと。一度目はラグナだった。封印され眠り続けるラグナの傍で、千年もの間彼の目覚めを待ち続けた。目覚めてすぐに見て聞いた、喜びや安堵が入り混じったラトレイアの表情と鳴き声は今もラグナの記憶に焼きついている。そしてラトレイアは再び、あの時の不安に支配されていた。すぐそこに大切な人がいて、触れることさえできるのに、その瞼は頑なに開かれない。
(この子は……ずっと、こんな気持ちで)
まだ三日しか経っていない今ですら、不安に押し潰されそうだった。ならば、あの時のラトレイアの不安はどれほどのものだったのだろう。――ラグナはラトレイアを少しでも安心させようと、その小さな身体をそっと撫でる。
「……リオン、ラトも寂しがっているよ。だから、早く……お願いだから……」
弱々しく、しかし切実な声。象徴に向かって罪を告解する信徒のように、痛ましく、ひたむきな姿だった。
♢
――数日後。予兆は、彼の瞼の僅かな動きだった。その微小な変化を、ラグナは見逃さなかった。
「……リオン?」
「みゅ……!?」
名前以外の言葉が出ないまま、リオンの手を握りしめる。離れないよう、繋ぎ止めるように。眠っていたラトレイアも慌てて飛び起き、リオンをじっと見つめる。
「……っ」
――千年ぶりの蒼が、ラグナを見据えた。夢の中で揺蕩っていた彼の意識が徐々に現実へと引き戻され、その瞳に光が灯されていく。
「……ラグナ、さま……?」
「……!」
その声を聞いた瞬間、覆い被さるように、彼を抱きしめた。その白縹の双眸からは彼のためだけの涙が溢れ、やがて部屋には嗚咽が響く。
「リオン……おかえり、本当に……やっと……おかえり……!」
「ラグナ様……俺は……」
「みぃ……! みっ! みゅうっ!」
「ラト……君も……」
まだ呆然とした様子のリオンは、これが現実であるという確証を得ようと、ラグナの背に手をやる。最初は添えられただけのその手にやがて力が入り、伝わるラグナの体温が、これは現実なのだとリオンを安堵させる。それはラグナやラトレイアにとっても同じで、互いの温度が互いの存在を浮き彫りにする。
「……ラグナ様。俺……ずっと、痛くて、苦しかった。もう身体もないのに全身が痛むようで……意識を失うことすらできなくて……」
「……ああ。もう大丈夫だから……遅くなってすまなかった……」
彼の身に起こっていたことを聞けば、自分のことのように胸が痛んだ。今はただリオンが心配で、彼をそんな風にしたイスカリアに憎悪を抱く余裕さえもない。
「……ラグナ様が、あの女を倒したのか……?」
「私だけの力じゃない。……仲間や、それ以外にも……多くの者が力を合わせたからこそだ」
「……仲間?」
ラグナのその言葉に引っかかった。リオンは己の身に起きたことを振り返り、ゆっくりと思考する。
「……人間は、悪だった。俺たちを守ってくれていたラグナ様をあんな風に罵って……俺のことも、道具としか思ってなかったんだ。……なのに、なんで」
「……みゅ」
ラトレイアが小さな鳴き声をあげる。そしてラグナは彼の怨嗟をそっと受け止め、自分の中で処理しながら言葉を探していく。――リオンは、負の感情を知らなかった。生まれたその時からラグナの依代としての運命を決定づけられ、里の大人たちによって洗脳に等しい教育を施されてきた。全ては、
「……リオン。私は君を助けに行くまでに、世界中を旅した。そして、様々な人間と出会った。自分のことしか頭にない利己的な人間もいれば、逆に自分のことなどまるで考えずに他者に尽くしてばかりの人間……様々な人間たちが、数えきれないほどいた」
「……ラグナ様?」
ラグナは鏡像。鏡像はただ相対する者の心をあるがままに映すのみ。オリジナルが目を閉じたまま、鏡像だけが目を開くことはない。――そのはずなのに。
「『人間全てが悪だなんてありえない』……私といつも共にいた少女が言っていた。彼らは一人一人違う心を持ち、違う生き方をする。だから、それら全てが同じであるはずがない、と」
「……ラグナ様は、それを信じるのか。俺……何が正解なのか、わからないよ」
「……私にもわからない。私が今まで出会った善い人間も、里の人間たちのように醜悪な本性を隠しているだけかもしれない。……私一人では、とても答えを出せそうにないよ。……だから。一人で見つからない答えは、一緒に探そう。二人で見つけにいこう。あの里の向こうにも、世界は広がっている。たくさんの世界と人を見て、考えて……答えを出すのはそれからでも、遅くないんじゃないかな」
「せかい……」
ラグナ自身も、リオンを縛り付ける鎖の一つだった。だからこそ、共に答えを探したかった。彼を、あの狭い世界の外に出してあげたかった。
「……みっ!」
「……ありがとう。ラグナ様、ラト」
二つの温もりがリオンに寄り添う。千年をかけて彼の心を固く覆った氷が解ける兆しは、すぐそこにあった。