Tuning the world
「……失礼いたします、シーナリエ様」
「……レガートですか。用があるならば手短にお願いします」
シーナリエの部屋にレガートが入室する。シーナリエはレガートの方を見ることもなく、椅子に座りながら窓の向こうを眺めていた。その声はいつも以上に重く、暗い。
「昨日の戦い、お怪我の方は……」
「平気です。すぐに治りますから」
無関心が見て取れる空返事。普段レガートを気にかけ親身に接する彼女が、問答さえ煩わしいと言うような態度をとっていた。レガートは少し考えた後、口を開く。
「あの少女は……あなたの姉君ですか」
「……」
真紅の瞳がレガートを見据える。そこには泣き腫らした痕跡があり、それだけにこの話題を出して良かったのかという葛藤がレガートの中に生まれる。
「……ええ、そうです。前に一度話したことがありましたね」
教団の前に現れた集団の中に、シーナリエと瓜二つの金髪の少女がいた。レガートがシーナリエの元に駆けつけた時、大怪我をした少女とそれを見下ろすシーナリエがいて、レガートは促されるままにシーナリエを背に乗せてその場を飛び去った。その時から何も言葉を発さないシーナリエを案じて、レガートはここに訪れた。
「……わたしは姉を傷つけました。身体も……心も」
シーナリエは己の手を見つめる。この手から放った力で姉を――エレシアを傷つけた。でもこの手は返り血一つ付いていない。エレシアは血塗れになって、痛みに悶え苦しんでいたのに。
「……あの子を奪ったあの女に罰を降す。それなのになぜ、わたしは姉を傷つけているのでしょう」
そこにあるのはただただ空虚な感情だった。姉を傷つけた自分に失望して怒り、姉が自分の前に立ちはだかる運命を嘆く。
「……苦しいの。……いいえ、わたしがこんなことを言う資格などない。一番苦しいのは、姉さんなのだから」
「……あなたも、苦しみを吐露していい」
「……ならば、あなたはその苦しみを理解してくれますか? ……誰も理解できない苦しみを吐露しようと、虚しいだけです。耳触りだけがいい無責任な同情など、聞きたくもない」
「無責任などと……おれは、そのようなことは決して」
「……あなたに何がわかるのですか」
「……シーナリエ様」
シーナリエの瞳から温度が失われ、レガートを射抜く。
「あなたにはわかりますか? 姉さんのことだけじゃない、愛した人に先立たれた悲しみも、信じていた者に裏切られた苦しみも、この身を刺し貫く刃の痛みも……娘が理不尽に殺されるのを、ただ見ていることしかできなかった無念も……! あなたにはわからない、わかるはずもない!」
彼の人の面影を強く残すレガートが、今だけは憎いとさえ思った。記憶も人格も違うのに姿だけは残酷にも同じで、それゆえに彼 に"彼 "を重ねては、二人が違う存在であることを突きつけられる。
「あなたは……"彼"ではない。わたしを愛してくれた彼は、もういない。わたしを理解してくれる存在など、もうどこにも……」
「……おれは、あなたを理解したいと思っています」
「……じゃあ、"彼"に戻ってよ……今すぐに全部思い出してよ、私のように! 彼を返して……! わたしからこれ以上奪うな! 返してよ、返して……! 返せ……!」
レガートの胸ぐらを掴んで、叶いもしない願いを口にした。やがて無力な手で彼の胸元を殴りつけ、嗚咽する。自分が放つ言葉、行為。全てが無意味で、虚しかった。否、レガートを傷つけている分、無意味よりも愚かしい。遣る瀬の無い悲しみと怒り、自己嫌悪がシーナリエを喰らい尽くす。
「……申し訳ございません、シーナリエ様。おれは、あなたが言う"彼"にはなれない。だから、どれだけあなたを理解したいと思っても、あなたの頭の天辺から爪先までの全てを理解することなどできなければ、あなたが抱えるものを共に背負うこともできません。おれは……無力です。でも……」
シーナリエの両肩にレガートの手が触れる。自分を見上げるシーナリエの双眸からとめどなく流れる涙を、そっと拭った。
「何もできなくても、せめて、あなたの涙を拭ってあげられるおれでありたい。……そう思うことは、罪ですか」
「……レガート」
反射的に、その名前が口から漏れ出る。彼の魂に染みついた紅がシーナリエを見つめていた。痛みを与えないよう慎重に、しかし頑ななまでに真っ直ぐに。自分の痛みには気づくことさえできないのに、他者の痛みには聡く、その手はいつも繊細だった。
「……ひどい人。あなたはそうやって……いつも……」
その先の言葉が紡がれることはなかった。シーナリエは黙ってレガートの胸に身を預け、彼もまたシーナリエの身をそっと抱き寄せる。――「いつも」。その言葉は、どこまで前の時間を指しているのだろうか。聞く勇気はない。だが、自分が立つ場所、その先ごと指した言葉ではない――そうあって欲しいと、心の中で願った。たとえ真実を示す天秤が、もう片方の解に傾いていようとも。
「……レガートですか。用があるならば手短にお願いします」
シーナリエの部屋にレガートが入室する。シーナリエはレガートの方を見ることもなく、椅子に座りながら窓の向こうを眺めていた。その声はいつも以上に重く、暗い。
「昨日の戦い、お怪我の方は……」
「平気です。すぐに治りますから」
無関心が見て取れる空返事。普段レガートを気にかけ親身に接する彼女が、問答さえ煩わしいと言うような態度をとっていた。レガートは少し考えた後、口を開く。
「あの少女は……あなたの姉君ですか」
「……」
真紅の瞳がレガートを見据える。そこには泣き腫らした痕跡があり、それだけにこの話題を出して良かったのかという葛藤がレガートの中に生まれる。
「……ええ、そうです。前に一度話したことがありましたね」
教団の前に現れた集団の中に、シーナリエと瓜二つの金髪の少女がいた。レガートがシーナリエの元に駆けつけた時、大怪我をした少女とそれを見下ろすシーナリエがいて、レガートは促されるままにシーナリエを背に乗せてその場を飛び去った。その時から何も言葉を発さないシーナリエを案じて、レガートはここに訪れた。
「……わたしは姉を傷つけました。身体も……心も」
シーナリエは己の手を見つめる。この手から放った力で姉を――エレシアを傷つけた。でもこの手は返り血一つ付いていない。エレシアは血塗れになって、痛みに悶え苦しんでいたのに。
「……あの子を奪ったあの女に罰を降す。それなのになぜ、わたしは姉を傷つけているのでしょう」
そこにあるのはただただ空虚な感情だった。姉を傷つけた自分に失望して怒り、姉が自分の前に立ちはだかる運命を嘆く。
「……苦しいの。……いいえ、わたしがこんなことを言う資格などない。一番苦しいのは、姉さんなのだから」
「……あなたも、苦しみを吐露していい」
「……ならば、あなたはその苦しみを理解してくれますか? ……誰も理解できない苦しみを吐露しようと、虚しいだけです。耳触りだけがいい無責任な同情など、聞きたくもない」
「無責任などと……おれは、そのようなことは決して」
「……あなたに何がわかるのですか」
「……シーナリエ様」
シーナリエの瞳から温度が失われ、レガートを射抜く。
「あなたにはわかりますか? 姉さんのことだけじゃない、愛した人に先立たれた悲しみも、信じていた者に裏切られた苦しみも、この身を刺し貫く刃の痛みも……娘が理不尽に殺されるのを、ただ見ていることしかできなかった無念も……! あなたにはわからない、わかるはずもない!」
彼の人の面影を強く残すレガートが、今だけは憎いとさえ思った。記憶も人格も違うのに姿だけは残酷にも同じで、それゆえに
「あなたは……"彼"ではない。わたしを愛してくれた彼は、もういない。わたしを理解してくれる存在など、もうどこにも……」
「……おれは、あなたを理解したいと思っています」
「……じゃあ、"彼"に戻ってよ……今すぐに全部思い出してよ、私のように! 彼を返して……! わたしからこれ以上奪うな! 返してよ、返して……! 返せ……!」
レガートの胸ぐらを掴んで、叶いもしない願いを口にした。やがて無力な手で彼の胸元を殴りつけ、嗚咽する。自分が放つ言葉、行為。全てが無意味で、虚しかった。否、レガートを傷つけている分、無意味よりも愚かしい。遣る瀬の無い悲しみと怒り、自己嫌悪がシーナリエを喰らい尽くす。
「……申し訳ございません、シーナリエ様。おれは、あなたが言う"彼"にはなれない。だから、どれだけあなたを理解したいと思っても、あなたの頭の天辺から爪先までの全てを理解することなどできなければ、あなたが抱えるものを共に背負うこともできません。おれは……無力です。でも……」
シーナリエの両肩にレガートの手が触れる。自分を見上げるシーナリエの双眸からとめどなく流れる涙を、そっと拭った。
「何もできなくても、せめて、あなたの涙を拭ってあげられるおれでありたい。……そう思うことは、罪ですか」
「……レガート」
反射的に、その名前が口から漏れ出る。彼の魂に染みついた紅がシーナリエを見つめていた。痛みを与えないよう慎重に、しかし頑ななまでに真っ直ぐに。自分の痛みには気づくことさえできないのに、他者の痛みには聡く、その手はいつも繊細だった。
「……ひどい人。あなたはそうやって……いつも……」
その先の言葉が紡がれることはなかった。シーナリエは黙ってレガートの胸に身を預け、彼もまたシーナリエの身をそっと抱き寄せる。――「いつも」。その言葉は、どこまで前の時間を指しているのだろうか。聞く勇気はない。だが、自分が立つ場所、その先ごと指した言葉ではない――そうあって欲しいと、心の中で願った。たとえ真実を示す天秤が、もう片方の解に傾いていようとも。