Tuning the world
「みゅ……」
ぱちり、と目が覚める。眠る前についていた火は消えていて、辺りは暗闇に包まれていた。ラトレイアの小さな身体は身を丸めたリオンの腕にしっかりと収まっており、それほど寒さは感じない。外にいるのだろうか、祭壇の上にラグナはいなかった。ラトレイアはリオンを起こさないよう慎重に腕から脱出し、祠の外に出る。ラグナは聖域の外に出ることはない、それに居場所の目星はついていた。夜風に吹かれながら、乾いた景色の中にぽつぽつとある緑を追っていけば、目的地に辿り着く。
『ラグナさま!』
ラトレイアの予想通り、ラグナはそこにいた。乾いた世界の中、美しい青を湛える場所。幻霊湖ラグニエム――里の人間がラグナと共に祀る、星屑を映す湖。聖域の中も殆どは荒れた地が剥き出しになっているのに、この湖の周りだけはいつも緑に満ち溢れている。その穏やかな湖面の上に、ラグナは立っていた 。金の髪を夜風に遊ばせ、蛍のように輝き放ち宙を舞う幻蟲の群れに手を伸ばし、慈しむように微笑んでいる。
『ラグナさま……』
ラグナはラトレイアに気づいていないようだった。もっと近づけば気づいてくれるだろうか。この世のものならざる神秘的な光景に強く心を奪われ、ラトレイアは一歩、また一歩と進む。
「……みゅっ!?」
「……ラト? ラト!」
自分もこの湖面を歩いて、ラグナのところへ行けるかもしれない。そんな淡い期待は容易に打ち砕かれた。背後から聞こえるばしゃばしゃという水の音に反射的に振り返ったラグナは、慌てて小さな白い影を救出する。
『ラグナさまぁ……冷たい……』
「ああ……ずぶ濡れだな」
苦笑いしつつ、湖のほとりに腰掛けてラトレイアを膝に乗せる。たった今湖面を歩いていたラグナの足は水中に浸かり、それが当たり前の光景であるにもかかわらずラトレイアは首を傾げた。
『……?』
「不思議かい?」
『うん……どうやってるの?』
「どうやっている、か……少し難しい質問だな。私にとっては意識を向けるまでもなく……例えば手足を動かすように……それくらい当たり前のことだから」
でもきっと、私以外では難しいかな。湖面を歩くラグナの姿は神秘的で、あわよくば真似をしてみたいと思ったラトレイアだが、ラグナの言葉を聞いて「そういうものなのか」と早々に諦める。
『……ねえ、この湖の名前。ラグニエムって、ラグナさまの名前を真似してつけられたの?』
ラトレイアはここに来てからずっと気になっていたことを、いい機会だと思いラグナに尋ねる。ラグナ、ラグニエム。似た名前を持つもの同士、何か関係があるのはラトレイアにもわかった。疑問を聞いたラグナは一瞬目を丸めて、くすりと柔らかく笑う。
「いいや、逆なんだ。このラグニエムという湖の名が先にあり、それにちなんで私がラグナと名付けられたんだよ」
『そうなの……? ラグナさまは、最初からラグナさまじゃなかったの?』
「そうだね……これまで何度姿形を変えても、ラグナという名はずっと変わらない。だが、私も最初はラグナではなかった」
細い手がラトレイアの頭を撫でる。あたたかく、優しい手。ラトレイアはこの手が大好きだった。ラグナは遠くを――視界の先の、その更に奥にある思い出を見据えて、白縹の目を細める。
「私は、この湖から生まれたんだ」
『湖から……?』
話しながら、ラグナは指先をくるくると回す。その指の動きに合わせて湖面から水の糸が伸びては沈み、時には空に浮かぶ星座を模る。ラグナがこの湖を支配しているように見えるのに、しかしこの湖はラグナを生み出した根源なのだという。
「……私はかつて、災厄と呼ばれた存在だった。意思も何もなく、ただ破壊と死を撒き散らすだけの無形の災。だが、あの子が……イリヤという少女がこの湖に身を投げたことで、私はイリヤの姿と自我を得た」
『イリヤ?』
「ああ。優しく、清らかな心の持ち主だった。何も知らない私に様々なことを教えてくれた。春の暖かい風、夏の星座、秋の紅葉……冬の冷たくやわらかな雪。そして、名前すら持たない私にラグナという名前をくれた。姿も自我も借り物でしかない私が唯一持つ、私だけのものだ」
『ラグナさまは……そのイリヤって人が好き?』
「ああ。五百年経った今も変わらない」
『じゃあ、その人はラトにとってのラグナさまとリオンだね!』
「……どういうことだい?」
首を傾げるラグナに向かって、ラトレイアは得意げに笑う。
『ラトはラグナさまに助けてもらって、リオンに名前をつけてもらったから……ラグナさまにとってのその人と同じ! ラトもラグナさまとリオンのこと、大好き!』
「……そう、か。そうか……私も、イリヤやリオンのように……誰かに何かを与えられる存在になった……ということなのかな……」
いつのまにか湖面の指揮は終わっていた。ラトレイアの頭を撫でる手も止まり、ラグナは内に生まれる様々な感情を噛み締める。
「ありがとう。私も、そしてリオンも……ラトのことが大好きだよ。……さあ、そろそろ戻ろうか。もしかしたらリオンが起きて寂しがっているかもしれない」
『うん!』
ラトレイアは、ラグナの目が潤んでいるのが見えた。だが、それはラグナ自身が自覚していることだろう。だからラトレイアは何も言わずに、彼のあたたかい細腕に身を預けた。
ぱちり、と目が覚める。眠る前についていた火は消えていて、辺りは暗闇に包まれていた。ラトレイアの小さな身体は身を丸めたリオンの腕にしっかりと収まっており、それほど寒さは感じない。外にいるのだろうか、祭壇の上にラグナはいなかった。ラトレイアはリオンを起こさないよう慎重に腕から脱出し、祠の外に出る。ラグナは聖域の外に出ることはない、それに居場所の目星はついていた。夜風に吹かれながら、乾いた景色の中にぽつぽつとある緑を追っていけば、目的地に辿り着く。
『ラグナさま!』
ラトレイアの予想通り、ラグナはそこにいた。乾いた世界の中、美しい青を湛える場所。幻霊湖ラグニエム――里の人間がラグナと共に祀る、星屑を映す湖。聖域の中も殆どは荒れた地が剥き出しになっているのに、この湖の周りだけはいつも緑に満ち溢れている。その穏やかな湖面の上に、ラグナは
『ラグナさま……』
ラグナはラトレイアに気づいていないようだった。もっと近づけば気づいてくれるだろうか。この世のものならざる神秘的な光景に強く心を奪われ、ラトレイアは一歩、また一歩と進む。
「……みゅっ!?」
「……ラト? ラト!」
自分もこの湖面を歩いて、ラグナのところへ行けるかもしれない。そんな淡い期待は容易に打ち砕かれた。背後から聞こえるばしゃばしゃという水の音に反射的に振り返ったラグナは、慌てて小さな白い影を救出する。
『ラグナさまぁ……冷たい……』
「ああ……ずぶ濡れだな」
苦笑いしつつ、湖のほとりに腰掛けてラトレイアを膝に乗せる。たった今湖面を歩いていたラグナの足は水中に浸かり、それが当たり前の光景であるにもかかわらずラトレイアは首を傾げた。
『……?』
「不思議かい?」
『うん……どうやってるの?』
「どうやっている、か……少し難しい質問だな。私にとっては意識を向けるまでもなく……例えば手足を動かすように……それくらい当たり前のことだから」
でもきっと、私以外では難しいかな。湖面を歩くラグナの姿は神秘的で、あわよくば真似をしてみたいと思ったラトレイアだが、ラグナの言葉を聞いて「そういうものなのか」と早々に諦める。
『……ねえ、この湖の名前。ラグニエムって、ラグナさまの名前を真似してつけられたの?』
ラトレイアはここに来てからずっと気になっていたことを、いい機会だと思いラグナに尋ねる。ラグナ、ラグニエム。似た名前を持つもの同士、何か関係があるのはラトレイアにもわかった。疑問を聞いたラグナは一瞬目を丸めて、くすりと柔らかく笑う。
「いいや、逆なんだ。このラグニエムという湖の名が先にあり、それにちなんで私がラグナと名付けられたんだよ」
『そうなの……? ラグナさまは、最初からラグナさまじゃなかったの?』
「そうだね……これまで何度姿形を変えても、ラグナという名はずっと変わらない。だが、私も最初はラグナではなかった」
細い手がラトレイアの頭を撫でる。あたたかく、優しい手。ラトレイアはこの手が大好きだった。ラグナは遠くを――視界の先の、その更に奥にある思い出を見据えて、白縹の目を細める。
「私は、この湖から生まれたんだ」
『湖から……?』
話しながら、ラグナは指先をくるくると回す。その指の動きに合わせて湖面から水の糸が伸びては沈み、時には空に浮かぶ星座を模る。ラグナがこの湖を支配しているように見えるのに、しかしこの湖はラグナを生み出した根源なのだという。
「……私はかつて、災厄と呼ばれた存在だった。意思も何もなく、ただ破壊と死を撒き散らすだけの無形の災。だが、あの子が……イリヤという少女がこの湖に身を投げたことで、私はイリヤの姿と自我を得た」
『イリヤ?』
「ああ。優しく、清らかな心の持ち主だった。何も知らない私に様々なことを教えてくれた。春の暖かい風、夏の星座、秋の紅葉……冬の冷たくやわらかな雪。そして、名前すら持たない私にラグナという名前をくれた。姿も自我も借り物でしかない私が唯一持つ、私だけのものだ」
『ラグナさまは……そのイリヤって人が好き?』
「ああ。五百年経った今も変わらない」
『じゃあ、その人はラトにとってのラグナさまとリオンだね!』
「……どういうことだい?」
首を傾げるラグナに向かって、ラトレイアは得意げに笑う。
『ラトはラグナさまに助けてもらって、リオンに名前をつけてもらったから……ラグナさまにとってのその人と同じ! ラトもラグナさまとリオンのこと、大好き!』
「……そう、か。そうか……私も、イリヤやリオンのように……誰かに何かを与えられる存在になった……ということなのかな……」
いつのまにか湖面の指揮は終わっていた。ラトレイアの頭を撫でる手も止まり、ラグナは内に生まれる様々な感情を噛み締める。
「ありがとう。私も、そしてリオンも……ラトのことが大好きだよ。……さあ、そろそろ戻ろうか。もしかしたらリオンが起きて寂しがっているかもしれない」
『うん!』
ラトレイアは、ラグナの目が潤んでいるのが見えた。だが、それはラグナ自身が自覚していることだろう。だからラトレイアは何も言わずに、彼のあたたかい細腕に身を預けた。