Tuning the world
「メルリーチェ、待ってたよ」
「……ああ」
濃紺の夜空にくっきりと彫られた月を映す湖のほとり、人間の足音を認識した巨大な狼――クラレンスは、起き上がって足音の主に声をかける。視線の先、長い桃色の髪の少女――メルリーチェは一言返事をする。クラレンスはその一言だけで異変を察知した。そして、こちらに近寄るメルリーチェのどこか覚束ない足取りを見て、それを確信に変える。
「っ……」
メルリーチェは半ば倒れ伏すように、クラレンスの身にもたれかかり、荒い呼吸を繰り返す。肩は上下し、普段の十四という肉体の年齢に似合わぬ凛とした顔つきは影も形もなく、額には汗が伝っていた。そこにいたのはただのか弱く儚い少女だった。
「メルリーチェ……体調が悪いのか?」
「……少し、熱があるだけだ」
「"だけ"なんかじゃないだろ……! 酷い熱だ……外にいたら悪化する、近くの宿に送るから」
「いい……この程度すぐ治る……」
「こんな寒い場所にいたら治るものも治らないんだよ! ……いいから乗れ」
「……クラレンス、私は」
「いい加減にしろ! 過信してるのか知らないけど、人は簡単に死ぬんだぞ!? 今のアンタはただの十四歳の人間で……」
メルリーチェは用意していた言葉を飲み込む。図星と言ってよかった。"メルリーチェ・エルヴェン"の一つ前、"リュケイオス・テーヌ"からさらにその前――これまでの経験として、ただの発熱はそれほど大した問題ではなかった。だから今回も自身の体調よりも月に一度のクラレンスとの合流及び情報交換を優先して、ここに来た。だが異星の超文明の機体 と比較して、この人間としての肉体は脆弱すぎる。無理をして長い距離を移動してきたせいで本来大事ではない熱もじわじわとメルリーチェの身を蝕んでいた。
「頼むから、もっと自分を大切にしてくれ……オレはただでさえアンタのご両親を騙してる立場なのに……アンタの身に何かあったら、オレはあの人たちに顔向けできない。アンタ一人の命じゃないんだ、アンタには帰りを待ってくれている人たちがいる……その人たちの想いを、無下にしないでくれ」
お願いだから。想いを重ねるその言葉は、普段の彼のものとは大きく異なっていた。余裕を失った、悲しいほどに切実な願い。メルリーチェはこれ以上言葉を連ねる気にはなれなかった。病によって友も家族も失った彼は自分の姿を見てどれほどの不安を抱いているのだろう。自分一人の命じゃない――その言葉が、メルリーチェに重くのしかかる。帰りを待つ両親と、自分の身を案じてくれているクラレンス。――メルリーチェはクラレンスの言葉に従いそっと彼の背に乗り、身体を横たわらせる。この姿の彼の背はいっそう大きく逞しい。伝わる体温が、自分が孤独ではないことを教えてくれる。こんな独りよがりの自分さえ包み込んでくれる温もり。歩き出す獣の背に、身を委ねた。
♢
「……クラレンス」
翌日。宿屋のベッドでメルリーチェが目覚めると、傍にはクラレンスがいた。夜中に彼女を宿に送った後、人の姿に戻ってから改めてここに来たのだろう。ベッドの横の棚の上にはリンゴが置かれている。
「大丈夫……?」
クラレンスの表情は未だ浮かない。見慣れた普段の表情とは全く異なる不安一色の顔だった。
「昨日よりは幾分かマシになったと思う。……すまなかった。お前には迷惑をかけてばかりだな……」
「迷惑だなんて思ってない。オレが好きでやってることだし」
なんてことのないないように、クラレンスは微笑む。――聖女を葬るためにメルリーチェを助けるのではなく、メルリーチェを助けるため結果的に 聖女を葬る。それがクラレンスだった。そんな彼が言うからこそ、その言葉にはより一層の重みと真実味があった。
「リンゴ、食べる?」
「……頼めるか」
「もちろん」
クラレンスは棚のリンゴと果物ナイフを手に取る。あまり手慣れていないのか、苦戦している様子が見て取れた。
「……どうしたのさ、そんなじろじろと見て」
「何でもない。ただ、お前のその姿を見ること自体久しぶりだから……せっかくだから目に焼き付けておこうかと思ってな」
「……熱にやられたのかと心配になるな」
「案外そうかもしれない」
メルリーチェが悪戯っぽく笑い、クラレンスは苦笑いする。熱にやられて、今の自分はただの子供なのだと改めて思い知らされ、それにかこつけたという意味では、メルリーチェの言葉は間違いではないとも言える。
「どうぞ」
「……これは、兎か?」
「あー、やっぱり下手?」
クラレンスが差し出したリンゴは、Vの形に切ってあり兎を表現したいのであろうことは伝わってくるが、お世辞にも上手くできているとは言い難い。そこは彼も自覚しているようだった。
「……昔、カナタがよくやってくれたんだ。でもそのカナタも下手くそだった。下手なものを真似たらそりゃあ下手になるよね」
自分の分のリンゴを口にしながら、クラレンスは目を細める。その瞳に遠き日の思い出を映して。
「……形は大した問題じゃない。気持ちだけで十分嬉しいよ。……少々子供扱いが過ぎる気もするが」
そう言いながら、差し出されたリンゴを口にする。甘く瑞々しい味が口いっぱいに広がり、身体が活気づくような感覚がした。
「……美味しい」
「よかった」
皿の上には、赤と黄色の兎の群れができていた。揃いも揃って不恰好だが、それがかえって妙な愛らしさを醸し出している。
「……本当はここにいたいけど、エレシアたちと合流する予定がある。だから行かないと。……ちゃんと安静にしてなよ。本当に」
「……ああ」
「じゃあ……また、次の満月に」
扉を閉めるその時まで、互いから目を離さずに。名残惜しさを強く感じながらも、クラレンスは部屋を去っていった。
(……一人なのは、いつものことなのに)
――彼が光となり、孤独という闇をより強める。それがひどく苦しくて、しかし拒絶する気にはなれない。
(早く、終わらせないと)
あの女を始末し、全てを終わらせる。それがエルシャと同じ魂を宿す自分の義務。――だが、いつしかその目的を果たす理由の中に、彼が存在していた。あらゆる敵の目に怯えることなく、一緒にいられるようになりたいと。魂が関与する余地のない、今世の"メルリーチェ・エルヴェン"としての純粋な願い。そこに、他の誰でもない自分自身が確かに存在している――そう信じている。彼が自分の中に深く根差す心のよすがであることを、身を蝕む熱に教えられた。
「……ああ」
濃紺の夜空にくっきりと彫られた月を映す湖のほとり、人間の足音を認識した巨大な狼――クラレンスは、起き上がって足音の主に声をかける。視線の先、長い桃色の髪の少女――メルリーチェは一言返事をする。クラレンスはその一言だけで異変を察知した。そして、こちらに近寄るメルリーチェのどこか覚束ない足取りを見て、それを確信に変える。
「っ……」
メルリーチェは半ば倒れ伏すように、クラレンスの身にもたれかかり、荒い呼吸を繰り返す。肩は上下し、普段の十四という肉体の年齢に似合わぬ凛とした顔つきは影も形もなく、額には汗が伝っていた。そこにいたのはただのか弱く儚い少女だった。
「メルリーチェ……体調が悪いのか?」
「……少し、熱があるだけだ」
「"だけ"なんかじゃないだろ……! 酷い熱だ……外にいたら悪化する、近くの宿に送るから」
「いい……この程度すぐ治る……」
「こんな寒い場所にいたら治るものも治らないんだよ! ……いいから乗れ」
「……クラレンス、私は」
「いい加減にしろ! 過信してるのか知らないけど、人は簡単に死ぬんだぞ!? 今のアンタはただの十四歳の人間で……」
メルリーチェは用意していた言葉を飲み込む。図星と言ってよかった。"メルリーチェ・エルヴェン"の一つ前、"リュケイオス・テーヌ"からさらにその前――これまでの経験として、ただの発熱はそれほど大した問題ではなかった。だから今回も自身の体調よりも月に一度のクラレンスとの合流及び情報交換を優先して、ここに来た。だが
「頼むから、もっと自分を大切にしてくれ……オレはただでさえアンタのご両親を騙してる立場なのに……アンタの身に何かあったら、オレはあの人たちに顔向けできない。アンタ一人の命じゃないんだ、アンタには帰りを待ってくれている人たちがいる……その人たちの想いを、無下にしないでくれ」
お願いだから。想いを重ねるその言葉は、普段の彼のものとは大きく異なっていた。余裕を失った、悲しいほどに切実な願い。メルリーチェはこれ以上言葉を連ねる気にはなれなかった。病によって友も家族も失った彼は自分の姿を見てどれほどの不安を抱いているのだろう。自分一人の命じゃない――その言葉が、メルリーチェに重くのしかかる。帰りを待つ両親と、自分の身を案じてくれているクラレンス。――メルリーチェはクラレンスの言葉に従いそっと彼の背に乗り、身体を横たわらせる。この姿の彼の背はいっそう大きく逞しい。伝わる体温が、自分が孤独ではないことを教えてくれる。こんな独りよがりの自分さえ包み込んでくれる温もり。歩き出す獣の背に、身を委ねた。
♢
「……クラレンス」
翌日。宿屋のベッドでメルリーチェが目覚めると、傍にはクラレンスがいた。夜中に彼女を宿に送った後、人の姿に戻ってから改めてここに来たのだろう。ベッドの横の棚の上にはリンゴが置かれている。
「大丈夫……?」
クラレンスの表情は未だ浮かない。見慣れた普段の表情とは全く異なる不安一色の顔だった。
「昨日よりは幾分かマシになったと思う。……すまなかった。お前には迷惑をかけてばかりだな……」
「迷惑だなんて思ってない。オレが好きでやってることだし」
なんてことのないないように、クラレンスは微笑む。――聖女を葬るためにメルリーチェを助けるのではなく、メルリーチェを助けるため
「リンゴ、食べる?」
「……頼めるか」
「もちろん」
クラレンスは棚のリンゴと果物ナイフを手に取る。あまり手慣れていないのか、苦戦している様子が見て取れた。
「……どうしたのさ、そんなじろじろと見て」
「何でもない。ただ、お前のその姿を見ること自体久しぶりだから……せっかくだから目に焼き付けておこうかと思ってな」
「……熱にやられたのかと心配になるな」
「案外そうかもしれない」
メルリーチェが悪戯っぽく笑い、クラレンスは苦笑いする。熱にやられて、今の自分はただの子供なのだと改めて思い知らされ、それにかこつけたという意味では、メルリーチェの言葉は間違いではないとも言える。
「どうぞ」
「……これは、兎か?」
「あー、やっぱり下手?」
クラレンスが差し出したリンゴは、Vの形に切ってあり兎を表現したいのであろうことは伝わってくるが、お世辞にも上手くできているとは言い難い。そこは彼も自覚しているようだった。
「……昔、カナタがよくやってくれたんだ。でもそのカナタも下手くそだった。下手なものを真似たらそりゃあ下手になるよね」
自分の分のリンゴを口にしながら、クラレンスは目を細める。その瞳に遠き日の思い出を映して。
「……形は大した問題じゃない。気持ちだけで十分嬉しいよ。……少々子供扱いが過ぎる気もするが」
そう言いながら、差し出されたリンゴを口にする。甘く瑞々しい味が口いっぱいに広がり、身体が活気づくような感覚がした。
「……美味しい」
「よかった」
皿の上には、赤と黄色の兎の群れができていた。揃いも揃って不恰好だが、それがかえって妙な愛らしさを醸し出している。
「……本当はここにいたいけど、エレシアたちと合流する予定がある。だから行かないと。……ちゃんと安静にしてなよ。本当に」
「……ああ」
「じゃあ……また、次の満月に」
扉を閉めるその時まで、互いから目を離さずに。名残惜しさを強く感じながらも、クラレンスは部屋を去っていった。
(……一人なのは、いつものことなのに)
――彼が光となり、孤独という闇をより強める。それがひどく苦しくて、しかし拒絶する気にはなれない。
(早く、終わらせないと)
あの女を始末し、全てを終わらせる。それがエルシャと同じ魂を宿す自分の義務。――だが、いつしかその目的を果たす理由の中に、彼が存在していた。あらゆる敵の目に怯えることなく、一緒にいられるようになりたいと。魂が関与する余地のない、今世の"メルリーチェ・エルヴェン"としての純粋な願い。そこに、他の誰でもない自分自身が確かに存在している――そう信じている。彼が自分の中に深く根差す心のよすがであることを、身を蝕む熱に教えられた。