Tuning the world

「イリヤ……イリヤ、起きて」
「……ラグナ?」

 イリヤがラグナに起こされるのは、それが初めてだった。身を揺すられる感覚と、ただならぬ様子のラグナの声で、イリヤが慌てて起き上がる。イリヤと瓜二つ――否、全く同じ顔のラグナは、今にも泣き出しそうな顔でイリヤの手を握る。

「どうしたの?」
「外……」

 ラグナが洞窟の外、一夜にして雪の積もった銀世界を震える手で指差す。

「真っ白……なに?」
「……もしかして、雪のこと?」
「ゆき……?」

 一瞬混乱するが、すぐに合点がいった。ラグナは雪を見たことがない。そもそも彼女が今の姿になってから、まだそう時間は経っていない。見慣れた乾いた色の世界が、目覚めたら真っ白に染まっていたのだ。不安に思うのも無理はない。ラグナにとっては笑い事ではないのを理解しつつも、イリヤは思わず笑みをこぼす。

「雪は、寒い日に空から降ってくるものよ。何も怖いことはないわ。安心して」
「……本当?」
「ええ。むしろ雪は楽しいものよ」

 イリヤはそう言って、靴を脱いだまま外の銀世界に足を踏み入れる。最初の一歩はさすがに冷たく身を震わせるが、すぐに二歩、三歩と歩みを進める。

「ほら、ラグナも」
「……うん」

 微笑み、手を差し出す。ラグナはその手と雪を交互に見て、やがて意を決して雪の絨毯に足を伸ばす。さく、と雪の音が響いて、じんわりとした冷たさがラグナの身に侵入する。

「……冷たい」
「そうね。でも、こうすると……」
「……っ!?」

 イリヤはラグナを抱きしめて、そのまま雪の絨毯に身を投げる。二人の身体は一瞬で冷たさに支配されるが、イリヤの方はそれ以上に楽しさで心が温まっていた。

「ねっ、気持ちいいでしょ?」
「……うん」

 どこか気が抜けた様子のラグナは、少し考えて頷く。冷たいが、ただの寒い日とは違って心は晴れやかになっている。おそらくそれがイリヤの言いたいことなのだろうと解釈してのものだった。

「ふふ……自分と同じ顔に言うのも変だけど、初めてのものに触れる時のラグナは、とても可愛いわ。小さな動物みたいで」
「……そう?」
「ええ。だから、もっとあなたの知らないこと、教えてあげるね。春の暖かい風、夏の星座に、秋の紅葉……雪以外にも、たくさんあるから」
「……ありがとう。楽しみ」

 ラグナは柔らかな笑顔を浮かべる。――彼女は、かつて破壊と死を撒き散らした災厄だ。それについて、イリヤは完全に割り切れたわけではない。今でも災厄に殺された人々のことを思っては胸が苦しくなることもある。――だが、それでも。ラグナに対する想いは真実だった。妹のように初々しく愛らしいこの子の、そばにいてあげたい。一緒にいたい。ラグナを見て湧き上がるこのあたたかな感情に、イリヤは改めて己のラグナへの想いを自覚した。



「ラグナ……ラグナ! 起きて!」
「……なんだ」

 怠惰に眠りを貪っていたラグナは、ネイのただならぬ様子の声に目を開ける。目の前には慌てた様子のネイがいた。

「なんか……起きたら世界が白いの! 何これ!? 終末!?」
「ただの雪だろう。騒ぐな」
「ゆき……? ゆきって何?」
「は……? お前はそんなことも……」

 言いかけて、止まる。銀世界と結び付けられた記憶、初めて雪を見て、あまりの恐ろしさに慌ててイリヤを起こして彼女に笑われ、共に戯れた日のことを思い出したから。雪というものはもはやラグナの中では常識となっていたが、ネイは外の世界に出てからまだ一年も経っておらず、雪を見るのは初めてなのだろう。奇しくも、あの日のラグナと同じだった。そして今度は、ラグナがあの日のイリヤの立場となっていた。

「……雪は、寒い日に時折降るものだ。害はない」
「ああ、そうなの? よかったあ……触ると死んじゃうものだったらどうしようって考えて、怖かったの」
「みゅ……? みゅっ! みゅう!」

 ネイの声が騒がしかったか、ラグナの膝で眠っていたラトレイアが目覚める。ラトレイアは視界に飛び込んできた一面の銀世界に目を輝かせ、一目散に雪の絨毯に飛び込んでいく。ぼふ、とラトレイアの身体が埋もり、元々白毛なのもあって見事に雪の白と馴染んでいた。

「……お前もやったらどうだ。なかなか気持ちがいいぞ、あれは」
「……? あんたがそんなこと言うの、珍しい。でも……うん!」

 ラトレイアが無邪気に遊ぶ姿に警戒心や恐怖心も解けたようで、ネイは雪の絨毯に近づき、思いっきり身を投げる。

「きゃっ……! すごい! 冷たくてふわふわ!」
「みぃ!」
「あははっ! くすぐったいよラト……!」

 ラトレイアがネイの首元に乗り、冷えた頭を彼女の顔に擦り付け、ネイの無邪気な笑い声が銀世界に熱を灯す。

「みっ!」
「なに、追いかけっこ? ……っとと……待てー!」
「雪と間違えて踏むなよ」
「わかってるー!」

 慣れない雪に足を掬われながら、ネイは軽やかに雪の上を走るラトレイアを追いかけ始める。辺りをくるくると、輪のように走り回る。ネイの声が騒がしい反面、ラグナは思わず彼女らを目で追う。姉妹のような微笑ましいやり取りを見て己の頬が微かに緩んでいることに、彼は気づいていなかった。
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