雑多 短篇
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懐かしい記憶を辿る夢を見た。
小学生の頃の俺は親父に料理を教わっては、自分でそれを作れる喜びでいっぱいの日々だった。そしてその頃、ウチの店には毎日のようにやってくる、一つ年上の女の子がいた。
「美味いか、あかりちゃん!」
「はい、とっても美味しいです!」
「あかり、俺が作ったのも食べろよ!」
「うん!」
両親が共働きで夕食時も一人であることが多かったあかりは、よくウチの店に来て晩ご飯を食べていた。
「創真っ、あかりちゃんかお姉ちゃんだって何度言ったらわかんだ!」
「いってーな!暴力親父!……で、どうだよ。あかり……姉ちゃん」
「うん、美味しい!創真くんは本当に料理が上手だね」
「おうよ」
美味しい美味しいと自分の作った料理を頬張るあかりの笑顔は眩しくて、俺はつい張り切ってしまう。
「そうだ。今日はね、マドレーヌを焼いてきたよ!」
そう言って、ご飯を食べ終えたあかりは鞄からタッパーを取り出した。あかりはこうしてウチへ来る度に何かしらのお菓子を作って持ってくる。
「お、マドレーヌか!」
俺の頭上から腕が伸びるとタッパーからマドレーヌを一つ取った親父が、ぽいと口に放り込む。先を越されたのが少し悔しくて、俺も急いで一つ取ると口に入れた。さっくりとした表面にふんわりとした内側。甘味は控えめで同時に柑橘系の風味が口の中に広がる。
「おお、オレンジピールが入ってるのか!やるなああかりちゃん」
「はい。この前作ったので入れてみました!」
料理人である親父に褒められ嬉しそうにするあかりは、笑顔のまま俺の反応を窺った。
「創真くんは、どう?」
「ああ、美味い。でもなんだって、菓子はこんなに美味く作れるのに料理はダメダメなんだ?」
「そ、それは言わないでよ」
そう。あかりの作るお菓子は何でも美味しい。でも、何故だか料理の腕だけはからっきしだった。最初、ウチに夕飯を食べに来始めた頃に自分でも作ってみたいと言うので、一緒に親父に教わったことがあったが同じ行程を辿ったはずなのにまるで違う代物が出来上がったのだ。それからというものあかりは、店のメニューではない俺の料理に対してお菓子を作ってお返しをするという形に落ち着き、これが俺達お決まりの関係になったのだった。あかりがウチへ足を運び、俺が料理を振る舞い、あかりがお菓子を持ってくる。こんな日々がずっと続いていくのだと俺は疑いもなく思っていた。しかし、それはある日突然、呆気なく終わりを告げた。
あかりの両親が事故に遭って亡くなり、彼女は遠い縁を持つという男に引き取られることになったのだ。
「それじゃあ、あかりちゃん。元気でな」
「はい。おじさん、今までいっぱいありがとうございました」
「ほら、創真、お前もちゃんと挨拶しろ」
「……」
「創真くん……」
俺は別れの挨拶をちゃんとすることが出来なかった。
小学生が一人で生きていくことが出来ないことは俺にだって分かっていた。それでも、ウチでご飯を食べればいいじゃないか、イサンってやつが結構あるってことを大人達が話しているのだって聞いた。そういう思いがあって、サヨナラなんて言えなかった。まともな別れも言わずにその場から逃げた俺が部屋の窓から外の様子を覗くと、子供の自分でも分かるような高そうなスーツを着た見知らぬ男があかりの手を取り歩いていく後ろ姿があった。
ジッとそれを見つめていると、突然振り向いたあかりが真っ直ぐに俺の部屋の方へ視線を寄越して、バッチリと目が合ってしまった。思わず逸らしてしまいそうになったが、あかりの表情がとても寂しそうなもので俺は目を離せなかった。##NAME2##はゆっくりと力無く微笑んで繋いでいない方の手を控えめに振った。そして、小さく口が動いたのが見えた。しかし、あかりがなんて言ったのかは俺には分からなかった。
別れ際の問いと再会による解
「……そりゃあ、夢、だよな……」
夢なら良い思い出のところで覚めてくれれば良いのにと思いながら、俺は見慣れてきた寮の自室の天井を眺めた。
「なんで今更……」
今に至るまであかりと再会することは無かった。俺はずっとあの家に居たのに、手紙も電話も一度たりとも彼女は寄越してこなかった。存在を忘れるなんてことは勿論ないが、それでも日々の生活の中で寂しさに襲われるようなことはすっかり無くなっていた。
*****
「やあ、創真くんおはよう!爽やかな朝だね!」
「あー……おはようございます、一色先輩……」
食堂へ降りると、驚くこともなくなった褌一丁の姿の先輩に挨拶をして席に着き朝食を食べる。すると、先に来ていた寮生達が何やら盛り上がっているようで隣に座る田所に尋ねると「今日、あかり先輩が帰ってくるんだって!」と笑顔で言われた。
「あかり……?」
ついさっき夢で会った思い出の彼女と同じ名前に反応して首を傾げると、田所は「そうだ、創真くんはまだ会ったことないよね」と言って言葉を続けた。
「#向島#あかり先輩。一色先輩と同じ二年生で、パティシエのお父さんの手伝いでフランスに行ってたんだ。それで、予定では今日帰ってくるの!」
「#向島#あかり……」
違う名字だった。そりゃあ、夢見たからって正夢よろしくそんな都合の良い展開はないか。そう受け止めながら残念に思う気持ちも僅かに抱いて、俺は寮生達が華を咲かせる知らない先輩の話を聞き流した。
*****
生徒達が授業を受け静まり返っている廊下を歩く薙切えりなと新戸緋沙子。すると、その前からキャリーバッグをガラガラと転がしながらフラフラと歩いてくる女子生徒に気が付く。
「あ、えりなちゃん、緋沙子ちゃん久し振りでただいまー」
「あかり先輩、到着した連絡を下されば校門まで車を回しましたのに」
「お持ちします!」
「え、ああ、大丈夫大丈夫。もう、総帥に報告も済んだし寮に戻るだけだから」
キャリーバッグを持とうとする緋沙子を制してありがとうと微笑むと、あかりは「あ、そうだ」と声を上げて肩に掛けていた鞄を漁りだした。
「はい。これ、お土産。これがえりなちゃんで、こっちが緋沙子ちゃん」
小さな色違いの包みを二人に手渡すと、「じゃあ、今日のところは帰ります」と再びガラガラと音を立てながらあかりは歩き出した。
「あかり先輩」
「うん?えりなちゃんどうしたの?」
二人を通り越し少し歩いたところで呼び止められたあかりが振り返ると、えりなは幾らか真剣な表情で立っていた。
「先輩なら専用の部屋を持てます。生活できるようにだって作って構わないんですよ?」
「えりなちゃん…」
小さな怒りというか不機嫌さを含みながら言うえりなに、あかりは弱ったという様子で一層眉尻を下げて微笑んだ。
「えりなちゃんがそれ言うの久し振りだね。私のこと考えて言ってくれてるんだよね、ありがとう」
「ならっ……」
「うん、ありがとう。でも、あの寮での暮らし、楽しいんだ」
「だから、ごめんね」そう言ってあかりはフラフラと歩いて廊下の角を曲がっていった。
*****
今日も今日とて畑仕事に精を出し、授業に出席していなかった一色慧は一通りの作業を終えて昼食にしようと食堂へ向かっていた。すると、寮の扉を開けたところで直ぐに辺りを包む甘い香りに気付く。それは、自分も含めた寮生達が待ち望んだ彼女の帰りを知らせるものだった。逸る気持ちを抑えながら食堂を覗くと、そこには久し振りに見た彼女の後ろ姿があった。
「おかえり、あかりちゃん」
「あ、ただいま、慧くん……って相変わらず授業はサボってるしその格好なんだね」
振り返りながら返事をしたあかりは、一色の格好を見ると少し呆れを含んだ笑みを向けた。しかし、振り返った彼女の手にあるものを見ると、一色も呆れた様子で溜め息を吐いてみせた。
「また、そんなもの食べて……」
「そんなものって……ただのカップめんだよ」
「言ってくれれば何か作るのに」
「いや、普通ならみんな居ない時間だし」
あかりの手からカップめんを取り上げると、既に麺は食べきってしまっていることが分かり、一色はもう一度溜め息を吐いてスープを流してしまった。
「ああ、酷いよ慧くん!」
「酷くない。スープが飲みたいなら僕が作るから」
「いや、そこまでしてくれなくてもいいんだけど……」
そんな風に言い合っているとオーブンが焼き上がりを告げる音を鳴らし、あかりは一色の横を通り抜けそちらへ向かう。
「うん。ちゃんと出来た」
「お、マドレーヌだね」
オーブンを開けて仕上がりに納得しているあかりの後ろまで一色はやってくると、熱々の天板の上から焼き上がったばかりのマドレーヌを取り口に含んだ。
「あ、熱いよっ?」
「折角だ、出来立てを逃す手はないだろう?」
そう言って、熱を逃がすように何度か息を吐きながら一色は味わう。「やっぱり、君の作るお菓子は良いね」と微笑んだ。
「あ、ありがとう」
一色はこうして良いものは恥ずかしいくらい真正面から褒める。寮生のそれぞれも大概素直なものだが、彼のそれはこうして受け取るとどこか照れ臭いものがあって、あかりは視線を逸らした。それから、あかりは久し振りだからと言って寮生達のため、お菓子を焼き続けた。一色もそれを手伝いながら、互いに近況などを話す。
「ふ、ふぁぁ…」
「時差ボケかな?」
「うん、それもあるけど……分刻みでスケジュール組まれてていいように使われたと思ったら、観光する時間もなく飛行機に乗せられて帰ってきたから。連続稼働時間40時間は過ぎてる……」
あかりはもう一度あくびを零して、少し涙の浮かんだ目元を擦った。
「ここは僕が片付けておくから休んできなよ」
「え、でも……」
「片付けまでが調理、って言いたいのは分かるけど焼き時間に片付けたりもしてたし多くはないから」
一色の申し出に納得しきれてはいないものの、追い込みをかけるように零れ出したあくびにあかりも限界を感じて、有り難く受け入れることにして自室へ戻った。
*****
一日の授業も終わり田所と一緒に寮へ帰ると、扉を開けた途端の甘い香りに驚いた。隣を歩いていた田所もそれに気付いたのか、瞬間、目を輝かせて「先輩、帰ってきたんだ!」と言って匂いにつられるようにして食堂の方へ駆けていった。俺もまだ見ぬ先輩に挨拶をした方がいいだろうと食堂へ向かうことにする。食堂には既に俺以外の寮生が帰ってきていて、テーブルの上の甘い匂いの元を頬張っていた。しかし、肝心のあかり先輩とやらの姿は見当たらない。
貪るように食べられていく皿の上のものを見ると、クッキーやマフィンに並んでマドレーヌがあることに気が付く。
「あ、マドレーヌ」
そう漏らせば、朝からその格好のままなのか一色先輩がマドレーヌを一つ手に取り華麗にターンを決めながら俺の口にそれを押し込んだ。文句を言おうとマドレーヌを手に取ろうとしたが、含んだ瞬間に口に広がった懐かしい味に思わず全部頬張る。
「一色先輩、これ作ったのって」
「ああ、創真くんはまだ会っていないんだっけ。この寮の最後の一人、#向島#あかりちゃんだよ」
その名字はやっぱり知らないものだった。でも、この味を間違うわけがない。俺にはその確信があった。
「その人、今どこにっ……」
「え?あかりちゃんなら部屋で休んでると思うけど」
「ありがとうございます!」
「あ、創真くんっ?」
この寮に居る、あかりが。そう思うと俺の足は自然と駆け出していた。後ろでどうしたのかと声を上げる先輩や田所達に振り返りもせず部屋の並ぶ廊下を進む。住人が減り部屋数の余っているこの寮には空き部屋が多くある。でも、人が使っている部屋なら扉にプレートが掛かっている。それを頼りに進んでいくと、廊下の突き当たりの部屋に行き当たった。『あかり』と書かれたプレートの下がる扉を前に、今になって遅れて緊張が追いついてきて呼吸を整える。そして、軽く拳を作ってノックをした。
返事はない。休んでいると言っていたから寝ているのかもしれない。そう思って今度は少し強めに叩く。やはり返事はない。それをもう何度か繰り返した後、俺は意を決してゆっくりと扉を開けた。特別女の子らしいものが見当たらない、というか、寧ろ飾り気がないとさえ言えるような部屋の奥。窓のすぐ近くに置かれたロッキングチェアにその人は腰掛け、小さな寝息を立てていた。
「……あかり?」
声を掛けて起こした方がいいのかもしれないが、あの頃よりずっと大人っぽくなったその姿に一瞬、本当に彼女だろうかと感じてしまい恐る恐る近付く。彼女の目の前まで来てジッとその寝顔を見つめるとその不安は無くなった。背も髪も伸び、体つきはすっかり女性そのものの彼女。しかし、その寝顔にはあの頃の面影が確かにあった。
「あかり?」
もう一度その名前を呟いて肩に手を置こうとすると、彼女は小さく唸りながら身を捩らせた。思わず伸ばしていた手を引っ込める。何度か身体を動かしてから落ち着くと、今まで静かに寝息を零していた口が開いた。
「創真くん……ごめんね」
「えっ……?」
聞き間違いだろうかという気持ちと、いや、間違いなく言ったはずだという気持ちとに揺らされた俺は、もう一度彼女が口を開いてくれないかと見つめる。しかし、その機会は一向に訪れる様子がなく、俺は痺れを切らしてあかりの身体を揺すった。
「あかり?」
身体を揺すられ流石に目を覚ましたのか眉根を寄せる表情をした後、閉じていた瞼がゆっくりと上がった。そして、夢から帰ってくるように何度か瞬きをすると、俺の目をジッと見つめ返してきた。
「そう、ま……くん。……創真、くん?」
「ああ、あかり」
途端、目を見開いたかと思えば夢なんじゃないだろうかと疑うようにパチパチと瞬きを繰り返すあかり。それを何度か続けると、また目を見開いた。
「創真くん?」
「ああ」
「創真くん、創真くん、創真くん!」
名前を呼んだ俺が返事をするのを確かめると、あかりは勢い良く椅子から立ち上がり飛びかかるようにして抱きついてきた。突然のことに受け止めようにも難しく、バランスの崩れた俺達はすぐ後ろにあったベッドへ倒れ込んだ。
「ちょ、ちょっと、あかりっ?」
「創真くん創真くん創真くんっ」
「わ、分かったから取り敢えず離れてくれ!」
倒れ込んだ状態で俺の上に乗ったまま離れないあかりの身体の柔らかさに驚きながら、何とか引き剥がそうとする。すると、抱きついた状態からは解放されたものの、俺の上に跨がったままポカンとした表情でいた。
「あかり……?」
「ゆ、夢じゃない?」
そう言うと、今度は両手で俺の顔を包んでしげしげと観察し始める。
「創真くん?」
「ああ」
「幸平、創真くん?」
「そうだよ、あかり」
あかりの目を見てはっきりそう返すと、大きな瞳に段々と水分がこみ上げてきて、大粒の滴が俺の頬に落ちた。そしてまた、俺の名前を何度も呼びながら抱きついてきた。一体、この状況をどうしたものかと困っていると、開けっ放しにしていた扉の方から叫び声が上がった。
「そそそ、創真くんなにしてるのっ?」
「いや、してるっていうかされてる方なんだけど……」
そこにはこれ以上染まりようがないほど顔を真っ赤にした田所と、頬を染めながらも楽しげに窺う寮生達、そして褌一丁で突進してくる一色先輩がいた。
「もしや、あかりちゃんと創真くんは知り合いだったのかいっ?」
「ええ、まあ」
「二人の世界の邪魔をしてはいけません」なんて寮生に止められながら言う一色先輩に返事をして、俺はなんとか身体を起こした。相変わらずあかりは抱きついたままだ。
それから、あかりとの関係の説明を求められ、洗いざらい話をさせたれた俺は、未だに夢かと疑うあかりに時折ツッコミを入れていた。
「まさか、二人が幼い頃に親しい仲だったとはね」
「あれ?でも、創真くん、今朝はあかり先輩の名前聞いた時、何も言わなかったよね?」
「ああ。だって、あの時は伊吹って名字だったし」
だから他人だろうと思ったと言うと、隣で漸く落ち着いてきたあかりが付け足した。
「そうそう、私、昔は伊吹って名字だったの。創真くんとはその頃に仲良くしてて……。今の#向島#は引き取ってくれた家の名字なんだ」
そうあっけらかんとしているあかりに、どこまで踏み込んでいいものかと少し戸惑う寮生達を余所に「まさか、遠月で再会できるなんて」と喜び微笑むあかり。そう言うあかりを見ていたら、俺の中に一つの疑問が浮かんだ。
「本当にな。つーか、あかりはここの学生やれてるってことは、料理が出来るようになったのか?」
俺の一言にその場にいた全員が黙り込んだ。ほんの数秒前まであかりの部屋でみんな揃ってワイワイしていたのが嘘のように無音になる。どうしたんだと田所の方へ視線を向けると凄い勢いで逸らされた。すると、「いやあ、面目ない」とあかりが照れ臭そうに喋り出した。
「実は、料理は未だにからっきしで…」
それでよくこの学園に居られるなと言おうとしたところで、一色先輩が言葉を繋いだ。
「つまり、あかりちゃんは料理の腕が壊滅的であることを差し引いても余りあるくらい、お菓子作りに秀でているんだよ」
「ね、あかりちゃん」と微笑む一色先輩に「それほどでも……っていうか言い方」と照れ臭いやら恥ずかしいやらといった顔のあかり。自分の知らない間にそんな凄い人間になっていたことも、自分の知らない人間と親しくなっていることも、当たり前のはずなのに何故だか心をざわつかせた。
*****
その日は俺がやってきた時のようにどんちゃん騒ぎの宴会となった。例のごとく場所は丸井の部屋で、散らかり放題となったそこには潰れた寮生達が転がっていた。俺もベッドに凭れ掛かってうつらうつらしていたが、誰かが動く気配を感じて目を覚ます。すると、もはや一日この格好だったであろう一色先輩がお米のジュースを煽っていた。そして、目の覚めた俺に気が付くと「あかりちゃんなら水を飲んでくるって食堂に行ったよ」と言われた。
「そうッスか」
俺はさして気に留めていないような返事をして部屋を出た。何故そんな言い方をしたのかは自分でもよく分からない。
暗い廊下に明かりが漏れている食堂へ入ると一色先輩の言った通り、あかりがグラスに注いだ水を飲んでいた。視界の端にでも捉えたのか、グラスをテーブルの上に置くと「起こしちゃった?」と言われた。
「いや、そんなしっかり寝てたわけじゃないから。あと、俺も水飲みにきた」
「そっか」
グラスを出すのも面倒だった俺があかりの使っていたそれに水を注いで飲むが、彼女に気にする様子は見られない。きっと俺はあの頃の幸平創真くんのままなんだろう。俺は飲み終えたグラスをテーブルに置き、皿の上にあと何個か残っていったマドレーヌを口に入れた。
「これ、あの時のと一緒だよな」
「うん。覚えててくれたんだね」
そう、このマドレーヌはあの時と同じ味がするんだ。口に入れた瞬間に広がるオレンジの風味。最後に食べたあかりのお菓子の味。
「張り切った時はさ、つい、これを作っちゃうんだ」
彼女も自分と同じ時を思い出しているのか、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「なんで……」
「ん?」
「なんで、なんの連絡も寄越さなかったんだよ」
再会できた喜びを伝えるよりも先に、そんな言葉が口をついて出てしまった。あかりはスッと視線を落とすとゆっくり語り始めた。
「うん。それについては、ごめん。私、引っ越したじゃない?それが初めての引っ越しだったっていうのもあるし、同時に調理の学校にも通うことになって……」
手を組んで指をクルクルとさせていたのを止めると「私、料理はダメダメでしょ?」と笑った。
「それで、落ちこぼれみたいな感じ……というかまさしくそれになって。でも、ある日、創真くんとおじさんが美味しいって言ってくれたの思い出しながら、このマドレーヌを作ったの。そしたら、お父さん……あ、今のお父さんね?一口食べたらなんか固まっちゃって。すぐに調理の学校は退学して、お父さんの仕事について来るように言われたの」
「そして、気付いたらこの学校よ」とおどけた調子で締めくくったあかり。
「それでも、電話なり手紙なり一回くらい出来ただろ?」
そう俺が言えば、あかりは脈絡なく「最後の日のこと覚えてる?」と言ってきた。
「創真くん、あの時ちゃんとさよならしてくれなかった」
「それは……悪かった」
「私、結構ショックだったんだよ?創真くん家に入っちゃうし」
「悪かったって」
「……創真くんさ、最後に私がなんて言ったか…分かった?」
あかりは真っ直ぐに俺を見て言った。俺は今朝見た夢のお陰もあってその光景を鮮明に思い出せたが、あの時でさえ分からなかったものが記憶から引っ張り出せるはずもない。黙り込む俺にあかりは溜め息を吐く。
「まあ、創真くんのことだから、そんなことだろうとは思ったよ」
「わ、悪かったな……」
「あの時、さよならなんて言う気、私だってなかった」
「え?」
新しい父に連れられ知らない土地へ行くあの時に、別れの言葉を言うつもりが無かったというあかりに驚いて弾かれたように顔を上げる。すると、あかりは食堂の出口の方へ歩を進めていく。
「子供だったし、もう簡単には会えなくなっちゃうけど……創真くんは料理を、私はお菓子作りを続けていれば、いつかまた会えるって。どうしてかな、あの時の私はそう信じ切ってたんだ」
食堂と廊下の境界線まで進んだあかりが振り返る。
「しょうがないからもう一度だけ言ってあげる」
そう言ったあかりはあの時と同じようにゆっくりと微笑み、片手を上げると控えめに手を振った。そして、小さく口を開いて言う。
『またね』
「またね」とそれだけ言って食堂から駆けていってしまったあかり。
「またね……って、そんなの分かるかよ」
残された俺は、ずっと解けることの無かった『別れ際の再会を願う言葉』に思わず額に手をあてた。そして、次の瞬間にはあの頃の俺には出来なかった行動に移った。
食堂を飛び出し廊下を駆け抜ける。どちらへ行ったのかと辺りを見渡すと階段を駆け上がる足音が聞こえて、俺はすぐさま後を追った。もっと早くに追い付くかと思ったが存外あかりの足は速かったらしく、やっと捕まえることが出来たと思ったら二人ともテラスに身体が出ていた。強く掴んだ手に逃すまいと更に力を入れたら自然と引くような形になって、あかりの走る力もあってか反動で俺の胸に飛び込んできた。ぶつかった衝撃で倒れてしまわないように腕を回し抱き竦める。
「はっ……足、速えーよ……」
「全力疾走……しちゃった、からっ」
「もし、俺が追いかけて、来なかったらどうしたんだよ」
「……いじけてた、かも」
互いに上がった息を整える間もなく話しているとなんだか無性に可笑しく思えて、どちらからともなく笑いが漏れた。腕の力を幾らか弱めながらも離すつもりはなく抱き留めたままでいると、あかりがもじもじとした後こちらを見上げてきた。再会した直後は自分から飛びついてきていたのに何だこの反応は。
「創真くん、背……伸びたね」
「そうか?高い方じゃねーけど」
「そ、それに、なんかこう……逞しくなったというか」
決して背が高いわけでも体格が良いわけでもない自分を見上げるあかりは、あの頃の年上の女の子という印象ではなくなっていた。自分の腕の中に収まってしまう小さくて柔らかい身体。それを意識した途端、俺はバッと腕を放した。あかりはそれに一瞬だけ驚いた様子を見せたが、すぐにはにかむと一歩後退した。
「創真くん」
「な、なんだよ……」
「追いかけてくれて……捕まえてくれて、ありがとうね」
ふわりと微笑んだその表情がさっきまで失っていた年上のそれを感じさせて、俺はギクリとする思いだった。
「あかりこそ……」
「うん?」
「また会えるって、信じてくれてて……ありがとな」
照れ臭さから目線を外して言ったのに、その視界に滑り込むようにして入ってくるとあかりは満面の笑みで「うん!」と答えた。
それから暫くテラスで別れてからの自分達のことを話していたが、ふとあかりが寝言で俺の名前を言っていたことを思い出して聞いてみた。
「そういえば、寝言で『創真くん、ごめんね』って言ってたけど、どんな夢見てたんだ?」
「え、私そんなこと言ってたの?」
そうだと肯定すればゆっくりと顔を背けるあかり。それを両手で挟み自分の方へ向かせると、視線を泳がせた後堪忍したのか口を開いた。
「夢を見てたの」
「だろうな」
「昔の。創真くん家のお店でご飯食べてたり、創真くんやおじさんに私の作ったお菓子を食べてもらったり……」
「それで?」
「それから、私が引っ越す日になって。部屋の窓からこっちを見る創真くんが、今にも泣きそうな顔してたから……ああ、悪いことしちゃったなあって思って」
「いや、いやいやいやっ、俺泣いてない。絶対泣いてない!」
「え?そうなの?私はてっきり涙ぐんでるものかと思って、それならちゃんとお別れを言ってあげた方が良かったのかなって。あの後、結構悩んだんだよ」
まさか自分と同じ日に同じような夢を見ていてくれたことや、別れてからも自分を心配してくれていたことは嬉しいと言えば嬉しい、が。
「おい、それ、また会えるって信じてねーじゃん!」
あかりは「そんなことないよ!それとこれとは別!」と言うものの、さっきのちょっとした感動や照れまくりながら絞り出した感謝のこともあって、俺は暫く文句を言い続けた。
終
_
小学生の頃の俺は親父に料理を教わっては、自分でそれを作れる喜びでいっぱいの日々だった。そしてその頃、ウチの店には毎日のようにやってくる、一つ年上の女の子がいた。
「美味いか、あかりちゃん!」
「はい、とっても美味しいです!」
「あかり、俺が作ったのも食べろよ!」
「うん!」
両親が共働きで夕食時も一人であることが多かったあかりは、よくウチの店に来て晩ご飯を食べていた。
「創真っ、あかりちゃんかお姉ちゃんだって何度言ったらわかんだ!」
「いってーな!暴力親父!……で、どうだよ。あかり……姉ちゃん」
「うん、美味しい!創真くんは本当に料理が上手だね」
「おうよ」
美味しい美味しいと自分の作った料理を頬張るあかりの笑顔は眩しくて、俺はつい張り切ってしまう。
「そうだ。今日はね、マドレーヌを焼いてきたよ!」
そう言って、ご飯を食べ終えたあかりは鞄からタッパーを取り出した。あかりはこうしてウチへ来る度に何かしらのお菓子を作って持ってくる。
「お、マドレーヌか!」
俺の頭上から腕が伸びるとタッパーからマドレーヌを一つ取った親父が、ぽいと口に放り込む。先を越されたのが少し悔しくて、俺も急いで一つ取ると口に入れた。さっくりとした表面にふんわりとした内側。甘味は控えめで同時に柑橘系の風味が口の中に広がる。
「おお、オレンジピールが入ってるのか!やるなああかりちゃん」
「はい。この前作ったので入れてみました!」
料理人である親父に褒められ嬉しそうにするあかりは、笑顔のまま俺の反応を窺った。
「創真くんは、どう?」
「ああ、美味い。でもなんだって、菓子はこんなに美味く作れるのに料理はダメダメなんだ?」
「そ、それは言わないでよ」
そう。あかりの作るお菓子は何でも美味しい。でも、何故だか料理の腕だけはからっきしだった。最初、ウチに夕飯を食べに来始めた頃に自分でも作ってみたいと言うので、一緒に親父に教わったことがあったが同じ行程を辿ったはずなのにまるで違う代物が出来上がったのだ。それからというものあかりは、店のメニューではない俺の料理に対してお菓子を作ってお返しをするという形に落ち着き、これが俺達お決まりの関係になったのだった。あかりがウチへ足を運び、俺が料理を振る舞い、あかりがお菓子を持ってくる。こんな日々がずっと続いていくのだと俺は疑いもなく思っていた。しかし、それはある日突然、呆気なく終わりを告げた。
あかりの両親が事故に遭って亡くなり、彼女は遠い縁を持つという男に引き取られることになったのだ。
「それじゃあ、あかりちゃん。元気でな」
「はい。おじさん、今までいっぱいありがとうございました」
「ほら、創真、お前もちゃんと挨拶しろ」
「……」
「創真くん……」
俺は別れの挨拶をちゃんとすることが出来なかった。
小学生が一人で生きていくことが出来ないことは俺にだって分かっていた。それでも、ウチでご飯を食べればいいじゃないか、イサンってやつが結構あるってことを大人達が話しているのだって聞いた。そういう思いがあって、サヨナラなんて言えなかった。まともな別れも言わずにその場から逃げた俺が部屋の窓から外の様子を覗くと、子供の自分でも分かるような高そうなスーツを着た見知らぬ男があかりの手を取り歩いていく後ろ姿があった。
ジッとそれを見つめていると、突然振り向いたあかりが真っ直ぐに俺の部屋の方へ視線を寄越して、バッチリと目が合ってしまった。思わず逸らしてしまいそうになったが、あかりの表情がとても寂しそうなもので俺は目を離せなかった。##NAME2##はゆっくりと力無く微笑んで繋いでいない方の手を控えめに振った。そして、小さく口が動いたのが見えた。しかし、あかりがなんて言ったのかは俺には分からなかった。
別れ際の問いと再会による解
「……そりゃあ、夢、だよな……」
夢なら良い思い出のところで覚めてくれれば良いのにと思いながら、俺は見慣れてきた寮の自室の天井を眺めた。
「なんで今更……」
今に至るまであかりと再会することは無かった。俺はずっとあの家に居たのに、手紙も電話も一度たりとも彼女は寄越してこなかった。存在を忘れるなんてことは勿論ないが、それでも日々の生活の中で寂しさに襲われるようなことはすっかり無くなっていた。
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「やあ、創真くんおはよう!爽やかな朝だね!」
「あー……おはようございます、一色先輩……」
食堂へ降りると、驚くこともなくなった褌一丁の姿の先輩に挨拶をして席に着き朝食を食べる。すると、先に来ていた寮生達が何やら盛り上がっているようで隣に座る田所に尋ねると「今日、あかり先輩が帰ってくるんだって!」と笑顔で言われた。
「あかり……?」
ついさっき夢で会った思い出の彼女と同じ名前に反応して首を傾げると、田所は「そうだ、創真くんはまだ会ったことないよね」と言って言葉を続けた。
「#向島#あかり先輩。一色先輩と同じ二年生で、パティシエのお父さんの手伝いでフランスに行ってたんだ。それで、予定では今日帰ってくるの!」
「#向島#あかり……」
違う名字だった。そりゃあ、夢見たからって正夢よろしくそんな都合の良い展開はないか。そう受け止めながら残念に思う気持ちも僅かに抱いて、俺は寮生達が華を咲かせる知らない先輩の話を聞き流した。
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生徒達が授業を受け静まり返っている廊下を歩く薙切えりなと新戸緋沙子。すると、その前からキャリーバッグをガラガラと転がしながらフラフラと歩いてくる女子生徒に気が付く。
「あ、えりなちゃん、緋沙子ちゃん久し振りでただいまー」
「あかり先輩、到着した連絡を下されば校門まで車を回しましたのに」
「お持ちします!」
「え、ああ、大丈夫大丈夫。もう、総帥に報告も済んだし寮に戻るだけだから」
キャリーバッグを持とうとする緋沙子を制してありがとうと微笑むと、あかりは「あ、そうだ」と声を上げて肩に掛けていた鞄を漁りだした。
「はい。これ、お土産。これがえりなちゃんで、こっちが緋沙子ちゃん」
小さな色違いの包みを二人に手渡すと、「じゃあ、今日のところは帰ります」と再びガラガラと音を立てながらあかりは歩き出した。
「あかり先輩」
「うん?えりなちゃんどうしたの?」
二人を通り越し少し歩いたところで呼び止められたあかりが振り返ると、えりなは幾らか真剣な表情で立っていた。
「先輩なら専用の部屋を持てます。生活できるようにだって作って構わないんですよ?」
「えりなちゃん…」
小さな怒りというか不機嫌さを含みながら言うえりなに、あかりは弱ったという様子で一層眉尻を下げて微笑んだ。
「えりなちゃんがそれ言うの久し振りだね。私のこと考えて言ってくれてるんだよね、ありがとう」
「ならっ……」
「うん、ありがとう。でも、あの寮での暮らし、楽しいんだ」
「だから、ごめんね」そう言ってあかりはフラフラと歩いて廊下の角を曲がっていった。
*****
今日も今日とて畑仕事に精を出し、授業に出席していなかった一色慧は一通りの作業を終えて昼食にしようと食堂へ向かっていた。すると、寮の扉を開けたところで直ぐに辺りを包む甘い香りに気付く。それは、自分も含めた寮生達が待ち望んだ彼女の帰りを知らせるものだった。逸る気持ちを抑えながら食堂を覗くと、そこには久し振りに見た彼女の後ろ姿があった。
「おかえり、あかりちゃん」
「あ、ただいま、慧くん……って相変わらず授業はサボってるしその格好なんだね」
振り返りながら返事をしたあかりは、一色の格好を見ると少し呆れを含んだ笑みを向けた。しかし、振り返った彼女の手にあるものを見ると、一色も呆れた様子で溜め息を吐いてみせた。
「また、そんなもの食べて……」
「そんなものって……ただのカップめんだよ」
「言ってくれれば何か作るのに」
「いや、普通ならみんな居ない時間だし」
あかりの手からカップめんを取り上げると、既に麺は食べきってしまっていることが分かり、一色はもう一度溜め息を吐いてスープを流してしまった。
「ああ、酷いよ慧くん!」
「酷くない。スープが飲みたいなら僕が作るから」
「いや、そこまでしてくれなくてもいいんだけど……」
そんな風に言い合っているとオーブンが焼き上がりを告げる音を鳴らし、あかりは一色の横を通り抜けそちらへ向かう。
「うん。ちゃんと出来た」
「お、マドレーヌだね」
オーブンを開けて仕上がりに納得しているあかりの後ろまで一色はやってくると、熱々の天板の上から焼き上がったばかりのマドレーヌを取り口に含んだ。
「あ、熱いよっ?」
「折角だ、出来立てを逃す手はないだろう?」
そう言って、熱を逃がすように何度か息を吐きながら一色は味わう。「やっぱり、君の作るお菓子は良いね」と微笑んだ。
「あ、ありがとう」
一色はこうして良いものは恥ずかしいくらい真正面から褒める。寮生のそれぞれも大概素直なものだが、彼のそれはこうして受け取るとどこか照れ臭いものがあって、あかりは視線を逸らした。それから、あかりは久し振りだからと言って寮生達のため、お菓子を焼き続けた。一色もそれを手伝いながら、互いに近況などを話す。
「ふ、ふぁぁ…」
「時差ボケかな?」
「うん、それもあるけど……分刻みでスケジュール組まれてていいように使われたと思ったら、観光する時間もなく飛行機に乗せられて帰ってきたから。連続稼働時間40時間は過ぎてる……」
あかりはもう一度あくびを零して、少し涙の浮かんだ目元を擦った。
「ここは僕が片付けておくから休んできなよ」
「え、でも……」
「片付けまでが調理、って言いたいのは分かるけど焼き時間に片付けたりもしてたし多くはないから」
一色の申し出に納得しきれてはいないものの、追い込みをかけるように零れ出したあくびにあかりも限界を感じて、有り難く受け入れることにして自室へ戻った。
*****
一日の授業も終わり田所と一緒に寮へ帰ると、扉を開けた途端の甘い香りに驚いた。隣を歩いていた田所もそれに気付いたのか、瞬間、目を輝かせて「先輩、帰ってきたんだ!」と言って匂いにつられるようにして食堂の方へ駆けていった。俺もまだ見ぬ先輩に挨拶をした方がいいだろうと食堂へ向かうことにする。食堂には既に俺以外の寮生が帰ってきていて、テーブルの上の甘い匂いの元を頬張っていた。しかし、肝心のあかり先輩とやらの姿は見当たらない。
貪るように食べられていく皿の上のものを見ると、クッキーやマフィンに並んでマドレーヌがあることに気が付く。
「あ、マドレーヌ」
そう漏らせば、朝からその格好のままなのか一色先輩がマドレーヌを一つ手に取り華麗にターンを決めながら俺の口にそれを押し込んだ。文句を言おうとマドレーヌを手に取ろうとしたが、含んだ瞬間に口に広がった懐かしい味に思わず全部頬張る。
「一色先輩、これ作ったのって」
「ああ、創真くんはまだ会っていないんだっけ。この寮の最後の一人、#向島#あかりちゃんだよ」
その名字はやっぱり知らないものだった。でも、この味を間違うわけがない。俺にはその確信があった。
「その人、今どこにっ……」
「え?あかりちゃんなら部屋で休んでると思うけど」
「ありがとうございます!」
「あ、創真くんっ?」
この寮に居る、あかりが。そう思うと俺の足は自然と駆け出していた。後ろでどうしたのかと声を上げる先輩や田所達に振り返りもせず部屋の並ぶ廊下を進む。住人が減り部屋数の余っているこの寮には空き部屋が多くある。でも、人が使っている部屋なら扉にプレートが掛かっている。それを頼りに進んでいくと、廊下の突き当たりの部屋に行き当たった。『あかり』と書かれたプレートの下がる扉を前に、今になって遅れて緊張が追いついてきて呼吸を整える。そして、軽く拳を作ってノックをした。
返事はない。休んでいると言っていたから寝ているのかもしれない。そう思って今度は少し強めに叩く。やはり返事はない。それをもう何度か繰り返した後、俺は意を決してゆっくりと扉を開けた。特別女の子らしいものが見当たらない、というか、寧ろ飾り気がないとさえ言えるような部屋の奥。窓のすぐ近くに置かれたロッキングチェアにその人は腰掛け、小さな寝息を立てていた。
「……あかり?」
声を掛けて起こした方がいいのかもしれないが、あの頃よりずっと大人っぽくなったその姿に一瞬、本当に彼女だろうかと感じてしまい恐る恐る近付く。彼女の目の前まで来てジッとその寝顔を見つめるとその不安は無くなった。背も髪も伸び、体つきはすっかり女性そのものの彼女。しかし、その寝顔にはあの頃の面影が確かにあった。
「あかり?」
もう一度その名前を呟いて肩に手を置こうとすると、彼女は小さく唸りながら身を捩らせた。思わず伸ばしていた手を引っ込める。何度か身体を動かしてから落ち着くと、今まで静かに寝息を零していた口が開いた。
「創真くん……ごめんね」
「えっ……?」
聞き間違いだろうかという気持ちと、いや、間違いなく言ったはずだという気持ちとに揺らされた俺は、もう一度彼女が口を開いてくれないかと見つめる。しかし、その機会は一向に訪れる様子がなく、俺は痺れを切らしてあかりの身体を揺すった。
「あかり?」
身体を揺すられ流石に目を覚ましたのか眉根を寄せる表情をした後、閉じていた瞼がゆっくりと上がった。そして、夢から帰ってくるように何度か瞬きをすると、俺の目をジッと見つめ返してきた。
「そう、ま……くん。……創真、くん?」
「ああ、あかり」
途端、目を見開いたかと思えば夢なんじゃないだろうかと疑うようにパチパチと瞬きを繰り返すあかり。それを何度か続けると、また目を見開いた。
「創真くん?」
「ああ」
「創真くん、創真くん、創真くん!」
名前を呼んだ俺が返事をするのを確かめると、あかりは勢い良く椅子から立ち上がり飛びかかるようにして抱きついてきた。突然のことに受け止めようにも難しく、バランスの崩れた俺達はすぐ後ろにあったベッドへ倒れ込んだ。
「ちょ、ちょっと、あかりっ?」
「創真くん創真くん創真くんっ」
「わ、分かったから取り敢えず離れてくれ!」
倒れ込んだ状態で俺の上に乗ったまま離れないあかりの身体の柔らかさに驚きながら、何とか引き剥がそうとする。すると、抱きついた状態からは解放されたものの、俺の上に跨がったままポカンとした表情でいた。
「あかり……?」
「ゆ、夢じゃない?」
そう言うと、今度は両手で俺の顔を包んでしげしげと観察し始める。
「創真くん?」
「ああ」
「幸平、創真くん?」
「そうだよ、あかり」
あかりの目を見てはっきりそう返すと、大きな瞳に段々と水分がこみ上げてきて、大粒の滴が俺の頬に落ちた。そしてまた、俺の名前を何度も呼びながら抱きついてきた。一体、この状況をどうしたものかと困っていると、開けっ放しにしていた扉の方から叫び声が上がった。
「そそそ、創真くんなにしてるのっ?」
「いや、してるっていうかされてる方なんだけど……」
そこにはこれ以上染まりようがないほど顔を真っ赤にした田所と、頬を染めながらも楽しげに窺う寮生達、そして褌一丁で突進してくる一色先輩がいた。
「もしや、あかりちゃんと創真くんは知り合いだったのかいっ?」
「ええ、まあ」
「二人の世界の邪魔をしてはいけません」なんて寮生に止められながら言う一色先輩に返事をして、俺はなんとか身体を起こした。相変わらずあかりは抱きついたままだ。
それから、あかりとの関係の説明を求められ、洗いざらい話をさせたれた俺は、未だに夢かと疑うあかりに時折ツッコミを入れていた。
「まさか、二人が幼い頃に親しい仲だったとはね」
「あれ?でも、創真くん、今朝はあかり先輩の名前聞いた時、何も言わなかったよね?」
「ああ。だって、あの時は伊吹って名字だったし」
だから他人だろうと思ったと言うと、隣で漸く落ち着いてきたあかりが付け足した。
「そうそう、私、昔は伊吹って名字だったの。創真くんとはその頃に仲良くしてて……。今の#向島#は引き取ってくれた家の名字なんだ」
そうあっけらかんとしているあかりに、どこまで踏み込んでいいものかと少し戸惑う寮生達を余所に「まさか、遠月で再会できるなんて」と喜び微笑むあかり。そう言うあかりを見ていたら、俺の中に一つの疑問が浮かんだ。
「本当にな。つーか、あかりはここの学生やれてるってことは、料理が出来るようになったのか?」
俺の一言にその場にいた全員が黙り込んだ。ほんの数秒前まであかりの部屋でみんな揃ってワイワイしていたのが嘘のように無音になる。どうしたんだと田所の方へ視線を向けると凄い勢いで逸らされた。すると、「いやあ、面目ない」とあかりが照れ臭そうに喋り出した。
「実は、料理は未だにからっきしで…」
それでよくこの学園に居られるなと言おうとしたところで、一色先輩が言葉を繋いだ。
「つまり、あかりちゃんは料理の腕が壊滅的であることを差し引いても余りあるくらい、お菓子作りに秀でているんだよ」
「ね、あかりちゃん」と微笑む一色先輩に「それほどでも……っていうか言い方」と照れ臭いやら恥ずかしいやらといった顔のあかり。自分の知らない間にそんな凄い人間になっていたことも、自分の知らない人間と親しくなっていることも、当たり前のはずなのに何故だか心をざわつかせた。
*****
その日は俺がやってきた時のようにどんちゃん騒ぎの宴会となった。例のごとく場所は丸井の部屋で、散らかり放題となったそこには潰れた寮生達が転がっていた。俺もベッドに凭れ掛かってうつらうつらしていたが、誰かが動く気配を感じて目を覚ます。すると、もはや一日この格好だったであろう一色先輩がお米のジュースを煽っていた。そして、目の覚めた俺に気が付くと「あかりちゃんなら水を飲んでくるって食堂に行ったよ」と言われた。
「そうッスか」
俺はさして気に留めていないような返事をして部屋を出た。何故そんな言い方をしたのかは自分でもよく分からない。
暗い廊下に明かりが漏れている食堂へ入ると一色先輩の言った通り、あかりがグラスに注いだ水を飲んでいた。視界の端にでも捉えたのか、グラスをテーブルの上に置くと「起こしちゃった?」と言われた。
「いや、そんなしっかり寝てたわけじゃないから。あと、俺も水飲みにきた」
「そっか」
グラスを出すのも面倒だった俺があかりの使っていたそれに水を注いで飲むが、彼女に気にする様子は見られない。きっと俺はあの頃の幸平創真くんのままなんだろう。俺は飲み終えたグラスをテーブルに置き、皿の上にあと何個か残っていったマドレーヌを口に入れた。
「これ、あの時のと一緒だよな」
「うん。覚えててくれたんだね」
そう、このマドレーヌはあの時と同じ味がするんだ。口に入れた瞬間に広がるオレンジの風味。最後に食べたあかりのお菓子の味。
「張り切った時はさ、つい、これを作っちゃうんだ」
彼女も自分と同じ時を思い出しているのか、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「なんで……」
「ん?」
「なんで、なんの連絡も寄越さなかったんだよ」
再会できた喜びを伝えるよりも先に、そんな言葉が口をついて出てしまった。あかりはスッと視線を落とすとゆっくり語り始めた。
「うん。それについては、ごめん。私、引っ越したじゃない?それが初めての引っ越しだったっていうのもあるし、同時に調理の学校にも通うことになって……」
手を組んで指をクルクルとさせていたのを止めると「私、料理はダメダメでしょ?」と笑った。
「それで、落ちこぼれみたいな感じ……というかまさしくそれになって。でも、ある日、創真くんとおじさんが美味しいって言ってくれたの思い出しながら、このマドレーヌを作ったの。そしたら、お父さん……あ、今のお父さんね?一口食べたらなんか固まっちゃって。すぐに調理の学校は退学して、お父さんの仕事について来るように言われたの」
「そして、気付いたらこの学校よ」とおどけた調子で締めくくったあかり。
「それでも、電話なり手紙なり一回くらい出来ただろ?」
そう俺が言えば、あかりは脈絡なく「最後の日のこと覚えてる?」と言ってきた。
「創真くん、あの時ちゃんとさよならしてくれなかった」
「それは……悪かった」
「私、結構ショックだったんだよ?創真くん家に入っちゃうし」
「悪かったって」
「……創真くんさ、最後に私がなんて言ったか…分かった?」
あかりは真っ直ぐに俺を見て言った。俺は今朝見た夢のお陰もあってその光景を鮮明に思い出せたが、あの時でさえ分からなかったものが記憶から引っ張り出せるはずもない。黙り込む俺にあかりは溜め息を吐く。
「まあ、創真くんのことだから、そんなことだろうとは思ったよ」
「わ、悪かったな……」
「あの時、さよならなんて言う気、私だってなかった」
「え?」
新しい父に連れられ知らない土地へ行くあの時に、別れの言葉を言うつもりが無かったというあかりに驚いて弾かれたように顔を上げる。すると、あかりは食堂の出口の方へ歩を進めていく。
「子供だったし、もう簡単には会えなくなっちゃうけど……創真くんは料理を、私はお菓子作りを続けていれば、いつかまた会えるって。どうしてかな、あの時の私はそう信じ切ってたんだ」
食堂と廊下の境界線まで進んだあかりが振り返る。
「しょうがないからもう一度だけ言ってあげる」
そう言ったあかりはあの時と同じようにゆっくりと微笑み、片手を上げると控えめに手を振った。そして、小さく口を開いて言う。
『またね』
「またね」とそれだけ言って食堂から駆けていってしまったあかり。
「またね……って、そんなの分かるかよ」
残された俺は、ずっと解けることの無かった『別れ際の再会を願う言葉』に思わず額に手をあてた。そして、次の瞬間にはあの頃の俺には出来なかった行動に移った。
食堂を飛び出し廊下を駆け抜ける。どちらへ行ったのかと辺りを見渡すと階段を駆け上がる足音が聞こえて、俺はすぐさま後を追った。もっと早くに追い付くかと思ったが存外あかりの足は速かったらしく、やっと捕まえることが出来たと思ったら二人ともテラスに身体が出ていた。強く掴んだ手に逃すまいと更に力を入れたら自然と引くような形になって、あかりの走る力もあってか反動で俺の胸に飛び込んできた。ぶつかった衝撃で倒れてしまわないように腕を回し抱き竦める。
「はっ……足、速えーよ……」
「全力疾走……しちゃった、からっ」
「もし、俺が追いかけて、来なかったらどうしたんだよ」
「……いじけてた、かも」
互いに上がった息を整える間もなく話しているとなんだか無性に可笑しく思えて、どちらからともなく笑いが漏れた。腕の力を幾らか弱めながらも離すつもりはなく抱き留めたままでいると、あかりがもじもじとした後こちらを見上げてきた。再会した直後は自分から飛びついてきていたのに何だこの反応は。
「創真くん、背……伸びたね」
「そうか?高い方じゃねーけど」
「そ、それに、なんかこう……逞しくなったというか」
決して背が高いわけでも体格が良いわけでもない自分を見上げるあかりは、あの頃の年上の女の子という印象ではなくなっていた。自分の腕の中に収まってしまう小さくて柔らかい身体。それを意識した途端、俺はバッと腕を放した。あかりはそれに一瞬だけ驚いた様子を見せたが、すぐにはにかむと一歩後退した。
「創真くん」
「な、なんだよ……」
「追いかけてくれて……捕まえてくれて、ありがとうね」
ふわりと微笑んだその表情がさっきまで失っていた年上のそれを感じさせて、俺はギクリとする思いだった。
「あかりこそ……」
「うん?」
「また会えるって、信じてくれてて……ありがとな」
照れ臭さから目線を外して言ったのに、その視界に滑り込むようにして入ってくるとあかりは満面の笑みで「うん!」と答えた。
それから暫くテラスで別れてからの自分達のことを話していたが、ふとあかりが寝言で俺の名前を言っていたことを思い出して聞いてみた。
「そういえば、寝言で『創真くん、ごめんね』って言ってたけど、どんな夢見てたんだ?」
「え、私そんなこと言ってたの?」
そうだと肯定すればゆっくりと顔を背けるあかり。それを両手で挟み自分の方へ向かせると、視線を泳がせた後堪忍したのか口を開いた。
「夢を見てたの」
「だろうな」
「昔の。創真くん家のお店でご飯食べてたり、創真くんやおじさんに私の作ったお菓子を食べてもらったり……」
「それで?」
「それから、私が引っ越す日になって。部屋の窓からこっちを見る創真くんが、今にも泣きそうな顔してたから……ああ、悪いことしちゃったなあって思って」
「いや、いやいやいやっ、俺泣いてない。絶対泣いてない!」
「え?そうなの?私はてっきり涙ぐんでるものかと思って、それならちゃんとお別れを言ってあげた方が良かったのかなって。あの後、結構悩んだんだよ」
まさか自分と同じ日に同じような夢を見ていてくれたことや、別れてからも自分を心配してくれていたことは嬉しいと言えば嬉しい、が。
「おい、それ、また会えるって信じてねーじゃん!」
あかりは「そんなことないよ!それとこれとは別!」と言うものの、さっきのちょっとした感動や照れまくりながら絞り出した感謝のこともあって、俺は暫く文句を言い続けた。
終
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