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「え?あの、今……なんて」
あかりははっきりと耳にすることが出来たはずのその言葉を、思わず目の前に居る二人に聞き返した。
第4話 向かう、都大会へ
最早、それが普通となりつつある部活後の居残り作業をこなすあかりと大石。そこへ、一度は部室を後にした手塚が戻ってきた。どうしたのかと僅かに驚くあかりとは反対に、大石はその理由を知っているのかあかりの反応を見てから手塚に視線を送った。そして、それを受けた手塚は真っ直ぐにあかりの方を見て口を開いた。
「明日、越前と試合をする」
聞き間違うことも出来ない程にはっきりと伝えられたそれに、あかりは首を傾げ最初の言葉になったのだ。
「明日、俺と越前で試合をする」
未だ疑問符が浮かんでいる様子のあかりを見て、手塚はもう一度しかも丁寧に言い直した。
「明日……手塚部長と、リョーマくんが試合?」
自分の中で噛み砕くように言ったあかりの言葉に手塚は頷き、大石は溜め息を零した。そして、大石により細かい説明を受けたあかりは何とか状況を受け止めた様子でこくこくと頷いた。
「つまり、部活の練習などとは関係なく、ということなんですね」
あかりが再確認という具合に窺うと手塚にそうだと頷かれ、大石にその様子を見に行くかと聞かれる。すると、試合のことを聞かされた時とは正反対にあかりはすぐさま答えを返した。
「いえ、やめておきます」
「どうしてだい?」
見に来るものだとばかり思っていた大石は、予想に反した返事の真意を尋ねた。あかりは理由を考えるというよりは、言うかどうかを考える様子を見せてから口を開いた。
「リョーマくんから、なにも聞いていないので」
そう言うとあかりはへらりと笑う。互いの予定や、リョーマの怪我の治り具合もあったろうから、昨日今日で決まったことではないのだろう。それをあかりはリョーマから何も聞いてはいなかったのだ。元より見に来てなんて言うようなタイプでないことは承知だが、それを感じさせもしないということはきっとそういうことなのだとあかりは考えた。
帰り際に二人が試合をする場所だけでもと大石が言おうとするも、あかりは「聞いたらきっと行きたくなってしまうので」と断った。オレンジ色に染まる街並みを眺めながらあかりはゆっくりゆっくり歩く。試合の結果はきっともう明らかなんだろうという思いが、何故か確信めいてあった。そして、それでも今この時期に行う理由が両者にはあるのだということも何となく理解は出来た。
「なんというか、男の子なんだあ」
「男の子がどうしたの?」
しみじみと零れ出していた言葉に返事があったことに驚き、あかりが慌てて辺りを見回すとすぐ後ろから「ビビりすぎ」と声がして、振り返れば笑いを堪えきれなかったのか俯き肩を小刻みに揺らすリョーマの姿があった。
「リョーマくんっ」
「どうしてここに」とあかりが尋ねれば、リョーマは手に提げていたビニール袋を顔の辺りまで持ち上げ少し不服そうな表情をしてみせ、おつかいに駆り出されたことを表した。
「私がもう少し早く帰っていれば良かったね」
「まあ、すぐそこだったけど」
「そっか」
取り留めもないことを話しながら並んで歩いていると、隣にいたはずのリョーマの姿が視界の端から消えていたことに気付きあかりは立ち止まる。
「リョーマくん?」
「……明日、」
「ん?」
数歩離れたところから辛うじて聞こえる声が届いたかと思えば、「やっぱ何でもない」と言ってあかりを追い抜いていったリョーマ。明日という言葉の先にもしかしたらという期待を感じながらも、言いかけて止めたリョーマの心情を考えると聞き出す気は起こらず後を追った。
「待ってよ。あ、ねえ、今日の晩ご飯なに?」
「さあね」
「そのおつかいだったんじゃないの?」
「まあ、そうだけど」
なら、頼まれて買い足した袋の中身がヒントになるかもしれないとあかりが覗き込もうとすれば、リョーマは袋を持つ手をサッと替えた。「あ、意地悪」とあかりが回り込むも、リョーマは身を翻して容易くすり抜けてしまう。家までの道程をそんな風にしていると、お寺の方から戻ってきた南次郎に目撃され「おうおう、青春だねえ」と茶化された。
*****
翌日。
普段と変わらない風を装いながらも瞳の奥に揺らめく闘志を隠しきれないリョーマに、何も知らない風を演じながらあかりは送り出した。そして、久し振りである休みを有効に使おうと考え、部屋の掃除を始めるのだったが。
「だ、だめだ……気になる」
掃除くらいでは無心になることが出来ず、つい、リョーマと手塚の試合の行方に意識が行ってしまう。自室の掃除も時間を潰す程にはならず、すぐに手持ち無沙汰になってしまう。
「もっと考える隙も与えてくれないようなことじゃないと駄目ね」
そう結論に至り、取り敢えず身体を動かそうと外へ出ることにした。しかし、街並みや路面店には目もくれず、ずんずんと競歩のように進んでいくあかり。30分程そんな具合で歩き続けていると、不意にポケットから振動が伝わり立ち止まる。振動の元である携帯電話を取り出し、液晶画面を確認すると道の端に寄って着信を受ける。
「もしもし、杏ちゃん?」
電話の相手は地区予選の時に知り合った不動峰の部長、橘の妹である杏だった。電話口の彼女は外に居るのか声を張っている。
『ああ、良かった、出てくれた。ごめんなさい、何だか怖い顔して歩いていたから急ぎかとも思ったんだけど』
「えっ、ううん、全然!寧ろ暇だよ!」
怖い顔をして歩いてたという言葉に慌てて自分の頬に手をあてながら返すあかり。しかし、はたと気が付く。どうして今現在の自分の様子を杏が知っているのかと。ざっと辺りを見回してみても杏の姿は見当たらない。すると、そんなあかりの様子が見えているのか杏は『こっちこっち』と声を上げた。
「え、どこどこ?」
『あなたの後ろ、階段の上よ』
「上?」
言われた方へ振り返り階段を登るように視線を動かせば、彼女は言葉通りの場所でこちらに手を振っていた。そして、耳元から携帯電話を離すと階段を駆け降りてくる。あかりも同じようにして杏の元へと階段を上がっていくと、長い階段の丁度踊り場になっているところで二人の距離は無くなった。そのまま踊り場の隅で近況を話し合っていると、杏は先程のあかりの表情について尋ねてきた。
「ところで、さっきはどうしてあんな怖……真剣な顔して歩いてたの?」
「杏ちゃん、もうさっき怖いって言っちゃってたから」
「そうだったかしら?」
笑って誤魔化す杏に、再びそんなに怖い顔をしていただろうかと両手で頬をマッサージするあかり。そして、朝からずっと落ち着かないことを話そうとして思いとどまる。
「えっと……」
「うん」
「……なんだか今日は身体を動かしたい気分なの!」
そう言って拳を握ったあかりを見て杏は小さく驚いた後、「なら打って付けがあるわ」と微笑んで階段を登り始めた。杏の後について階段を登り切ると、そこにはテニスコートがあった。
「わあ、こんなところにテニスコートがあったんだね!」
知らなかったとはしゃいでキョロキョロと見回すあかりに杏も嬉しそうな顔でいると、コートの方から杏を呼ぶ声がした。
「杏ちゃん居なくなったと思ったらどこに……って、アレ?」
コートの方からやってきた明るい茶髪の少年は、戻ってきた杏の隣に居るあかりを見ると首を傾げた。あかりもその人物にどこか見覚えがあって、顔を見合わせ同じように首を傾げた。すると戻って来ない少年の元へもう一人やってきて声を掛ける。二人並んだその姿を見てあかりははっとして声を上げた。
「あっ、玉林の!……えーっと、布川さんと泉さん」
間違っていないだろうかと二人の様子を窺いながらあかりが言うと、どうして俺達のこと知ってるんだ?という表情。すかさず杏が「彼女、青学のマネージャーよ」と言うと、はっきりとは覚えていないがそういえばマネージャーが居たような、という具合に二人は納得した。
「伊吹あかりです。その節はお世話になりました」
あかりがぺこりと頭を下げれば、二人もつられるようにして会釈をして改めて名乗った。挨拶が交わされるのを確認すると、杏は仕切り直すように手を打った。
「さ、自己紹介も済んだことだし、始めましょ」
「え、始めるってなにを?」
「なにって…あかりさん。あなた、身体を動かしたい気分なんでしょう?」
そう言って、杏はいつの間に手にしていたのか二つ抱えたラケットの内の一つをあかりに押し当てた。
「む、無理無理。いきなり出来ないよ!」
必死に首を横に振るあかりが立たされているのはテニスコート。同じコートの自陣には泉が居て、ネットを挟んだ向かいには杏と布川が居る。
「あら、ルールは分かっているんでしょ?」
「い、一応分かってるつもりだけど……私、プレーヤーじゃないよ?」
身体を動かしたいならこれしかないとラケットを握らされ、コートに立たされたあかり。しかも、ここのコートはダブルス限定とのことで、当然その形式に則らなければならない。しかし、布川と泉というダブルスに特化したペアを相手にするのはフェアじゃない。なら、その二人を互いのパートナーにしてするしかない。そんな所までを淀みなく説明した杏により、まともにテニスをしたこともないあかりは、人生初のダブルスをすることとなった。
「あ、あのっ、足を引っ張ってしまうかとは思いますが、よろしくお願いします!」
「まあまあ、遊びなんだし。そんなに緊張しないでいいから」
「は、はい!」
既に足手纏いが目に見えていたあかりが謝罪でもする勢いで頭を下げると泉は笑顔で気遣いの言葉をかけ、「俺も普段は組めない可愛い女の子とダブルス出来てラッキーだし」と言って頭を掻いた。
「泉さん、鼻の下伸びてますねー」
「泉にいい格好させないようにしねーと」
「ですね」
コートの向かいでされる杏と布川の会話に泉が割り込もうとすると、それを遮るようにして布川のサーブが繰り出されゲームが始まった。
*****
数十分後、そこにはコートにへたり込むあかりと泉の姿があった。結果から言えば、惜敗というには一歩及ばずの敗北であった。即席ダブルスでド素人のあかりはなんとか形になるよう声を出して連携へ繋ぎ、泉は技術の面で劣るあかりのフォローに駆け回った。
「泉さん、助けてもらってばかりですみません。ありがとうございました」
「いやいや、こっちこそ声出してもらったから、ぶつかったりフォロー入れなくていいとこが分かったし。結構やりやすかったぜ」
「全然出来ない、みたいに言っていた割りには動き良かったじゃない」
「ああ、意外とコントロールも良かったよな」
コートに座り込み息を整えながら居る二人の元に杏と布川がやってくる。杏から差し出された手を取り引っ張り上げてもらうあかり。泉も同じように布川からの手を取った。
「モモシロくん達よりもあかりさんの方がよっぽどダブルスしてたと思うわよ?」
悪戯っぽく微笑んだ杏に間、髪を入れず「同感だ」と口を揃えた布川と泉。あかりはリョーマと桃城のダブルスを思い出し苦笑いを浮かべるしかなかった。
*****
また、いつでも来てくれて構わないという嬉しい言葉を受けた後、杏達と別れたあかりが家へ向かって歩いていると再びポケットから知らせが伝わった。歩みを止めて画面を見れば、そこには気を揉む一因となっている手塚の文字が表示されていてあかりは慌てて電話を受けた。
「もしもしっ、伊吹です!」
『手塚だ。今し方、越前との試合が終わった』
「は、はいっ」
『越前のことよろしく頼む。いや、特別なにかをしてほしいという訳でも無いのだが……』
「はい」
手塚の言葉を聞き試合がどういった結果になったのか理解できたあかりは、もう一つの案じていた事柄を尋ねようとした。
「あの、手塚部長は……」
どんな試合だったか、二人の力量にどれだけの差があったのかは分からない。それでも、リョーマの強さを思えば手塚が手を抜いて相手を出来たとも思えない。
「その……」
はっきりとしない様子で言い淀むあかりの考えが伝わったのか、耳に当てた電話の向こうに居る手塚から小さく笑いが零れた。
『念のため、掛かり付けの病院へ向かっているところだ』
「病院ですかっ?」
『念のため、だ』
顔も見えないあかりの様子が分かってでもいるみたいに、手塚は落ち着いた声で念のためと繰り返した。それから幾つか言葉を交わしてから電話を切ったあかりは、家へ戻ればもうリョーマが帰っているかもしれないと振る舞いを考えながら帰路に就いた。
あれこれと考えながら帰宅するとテニスコートのある寺の方からラリーをする音が聞こえ、あかりはそちらへ足を進ませた。そこには南次郎と打ち合うリョーマの姿があった。しかし、見慣れたはずのその光景が今日はどこか違う空気に包まれている。まるで、南次郎越しに別の人物と試合をしているかのように打球は重く鋭い。その様子を少し離れたところから見つめていたあかりは、リョーマが家に戻る時も声を掛けることができずにその場に立ち尽くしていた。
「おう、おかえり、あかりちゃん」
「あ、南次郎さん。ただいまです」
コートからあかりの姿を見つけた南次郎は、リョーマの変化を嬉しそうに口にした後「アイツのことよろしくな」と言ってタバコに火を着け、あかりはそんな南次郎に大きく頷いた。
*****
他の地区からの出場校も出揃い、他校からの偵察も増え、練習にも熱が入る都大会2週間前の青学テニス部。その日、リョーマとあかりは図書委員会の作業で部活に遅れていた。
「じゃあ、これ持って行ってそのまま部活行くから」
「あ、待ってリョーマくん。私の方ももうすぐ終わるから一緒に運ぶよ」
焼却処分となる本を抱えて先に行こうとするリョーマを止めるも、「このくらい一人で持てる」と断られてしまったあかりはリョーマの背中を見送った後、自分も早く部活へ向かうべく書類整理の作業を再開させた。そして、リョーマから遅れること10分程。作業と報告を終えたあかりが駆け足でテニスコートへ向かっていると、通りがけの女子テニス部のコート近くであたふたしている桜乃と朋香、そのすぐ側で倒れている他校の男子生徒を見かける。
「何があったのっ?」
「あっ、伊吹先輩!」
駆け寄れば倒れて目を回している少年の額には赤い痕があり、傍らにはストローク練習に使うゴム紐のついたテニスボール。
「……当たっちゃったのね」
状況を察したあかりに縋るような眼差しを送る桜乃。そんな彼女の後ろでは女子テニス部に号令がかかり部員達が集まってきている。ひとまず少年のことは任せてもらい桜乃には部活へ戻るよう言うと、このタイミングを逃してなるものかと朋香も用事を思い出したと言ってこの場を去った。
「取り敢えず移動……は、ちょっと一人じゃできないか」
依然として倒れたままでいる少年の隣に膝をつき容態を窺う。額に触れると赤くなってこそいるが腫れ上がる様子はなく一安心するあかり。鞄から取り出したタオルを丸めて頭の下に差し込み、額には濡らしてきたタオルを当てて様子を見る。
「うーん……酷い目に遭った」
「だ、大丈夫ですか?」
それから5分程して少年は呻き声を漏らしながら目を覚ました。そして、心配そうに覗き込むあかりを見ると虚ろな様子で開いた目を瞬きさせ、次の瞬間には目を見開き勢い良く身体を起こした。
「あ、あの。気分が悪かったりはしませんか?」
その身のこなしに驚きながらも改めて具合の悪いところはないかと尋ねれば、少年はあかりの手を取り真っ直ぐ見つめ返した。
「キミ、可愛いね……じゃなかった。うん、全然平気」
「ボールが当たったところ以外で痛む場所とか」
倒れた時に頭を打ったりしていないか、念のため病院で診てもらった方が……など聞いても少年は大丈夫を繰り返し、そして握った手も離さない。
「え、えーと、手……」
「俺、千石清純。キミの名前は?」
聞くまでは離さないとでもいうようにしっかりと包まれた手と視線を送る千石とを交互に見て、あかりは諦めの気持ちで名乗った。
「伊吹さんか。一年生?」
「いえ、二年です」
「そっかー。俺は山吹中、三年ね」
「は、はあ……」
大事無い様子の千石に安堵したことでそれならば早く部活へ向かいたいと思い、あかりは握られた手をやんわりと解いて立ち上がった。そして、部活へ向かうところだったことを説明して立ち去ろうとすると、再び手を取られた。
「これ、ありがとうね」
額にあてていたタオルと枕にしていたタオルとをあかりの手にしっかりと握らせ、千石は優しく微笑む。
「いえ。大丈夫そうで良かったです。それじゃあ」
小走りで男子テニス部の方へ向かう途中、一度振り返ると千石はその場で笑って手を振っていた。あかりはそれに小さく会釈をして別れた。
「俺ってやっぱりラッキー」
あかりの去ったその場所で、千石は暫し締まりのない顔でゆるゆると手を振り続けるのだった。
*****
「すみません、遅くなりました!」
「あ、伊吹さん、委員会ご苦労様」
急いで来た様子のあかりに気付いた河村が事情は把握しているから大丈夫だよと声を掛けてくれる。練習は勿論始まっていて、リョーマも合流できているようだった。あかりは手塚や竜崎、他の部員たちとも挨拶を交わしてから辺りを見回し、自分のするべき作業を探す。すると、あることに気付いた。
「あれ、桃城くんは居ないんですか?池田くんも」
練習をするレギュラー陣や部員たちの中に見慣れた姿が無いことに気付いたあかりがそう言うと、側に居た菊丸が「桃と池田なら買い出しに行ったよー」と答えた。
「えっ、そうなんですか?」
買い出しならマネージャーである自分が行った方が良かったのではと慌てたあかりを見て、「まあ、量もあったからね」と不二。
「でも、荷物が多いにしてもなんか遅くない?」
「そうだね、ちょっと遅いかも」
「なにかあったんでしょうか?」
トラブルでもあったのではと今にも迎えに行きそうなあかりに、もうすぐ戻ってくるだろうし行き違いになるかもしれないからと止める不二。すると、丁度そこへ買い出しから戻ってきた池田の姿をあかりは視界の端に捉えた。しかし、一緒に出たはずの桃城の姿は続かず、池田一人が大量の荷物を両手に抱えてこちらへ向かってきている。
「池田くんおかえり、私も持つよ」
「ありがとう伊吹さん」
池田の元へ駆け寄り荷物を分けてもらう。受け取る時に見た彼の指は持ち手を掛けたところが少し赤くなっていて、この荷物を一人で持ち続けていたことを物語っていた。
「桃城くんも一緒だって聞いたんだけど」
「桃の奴、店を出たとこで居合わせたひったくりを追いかけて行っちまってさあ……」
「ひったくりっ?」
犯人を追いかけるだなんてとあたふたし出すあかりに、「一応、大丈夫っぽいんだけど」と言って池田は歩き出しながらその先を続けた。
「追いかける為に強引に借りた自転車が不動峰の神尾ので、なんか二人でそのまま走ってった……」
「な、なにその状況」
一体どういう状況なんだと首を傾げるあかりに、俺も分からんと池田も首を傾げる。
「とにかく、池田くんがこの大荷物を一人で運んできたってことね」
「それだけは確かだよ」
荷物を部室まで運ぶとやっと重りから解放されたと両手をひらひらと振ったのであかりが冷やそうかと尋ねれば、池田は大丈夫と微笑んで練習へ向かっていった。それから、部室に残ったあかりが買い出しのリストと荷物とを確認し、整理していると買い出しを放っていた桃城が顔を覗かせた。
「あ、桃城くん」
「おう、マサやん戻ってたか」
「両手いっぱいの荷物を一人で持って戻ってきたよ」
「悪かったって」
既に中身は取り出され畳まれた紙袋を指差してあかりが言うと、桃城は片手で謝罪の仕草をした。
「それで、桃城くんは大丈夫だったの?」
「なにが?」
「ひったくりを追いかけたんでしょ?」
「あ?ああ、そういやそうだったな。見ての通り大丈夫だぜ」
「不動峰の神尾くんも?」
「なんで神尾?」
「一緒にひったくりを追いかけたって」
厳密に言えば、神尾はひったくりを追いかけていた訳じゃなくて自分を追いかけていたんだが……と思いながらも、桃城は大丈夫だと返した。
「怪我がなくてよかったけど、もし犯人が刃物とか危ない物を持ってたら……って桃城くん聞いてる?」
「え?ああ、聞いてる聞いてる」
どこか上の空で別のことを考えている様子の桃城の顔をあかりが覗き込むと、「じゃ、俺も練習戻るわ」と桃城は部室を出て行った。コートの方へ駆けて行った桃城は、遅かったことを言及されているのか先輩達に軽く頭を下げている。そんな場面を眺めながらあかりは、先程の桃城の様子を思い出して何かあったのだろうかと首を傾げた。
備品の整理も終えていつも通りのマネージャー業務に戻ったあかりがコートの周りを忙しなく行き来していると不意に声が掛かり、そちらを振り返ると青学のものではない制服を纏った男子生徒が二人立っていた。
「君、もしかしてテニス部のマネージャー?」
「え?あ、はい。そうですけど……」
あかりが答えると二人は背を向け何やらヒソヒソと話し始めた。所々で「まさか」だとか「やっぱり」という声が漏れる。
「あの」
「ああ、ごめん!えーと、僕達は、僕達はー……」
「僕達はっ、都大会出場校の取材をして回っている新聞部員なんだ!」
「そう!新聞部員!」
思い出したような様子で新聞部員だと言うと首から提げていたカメラが持ち上げる男子生徒。隣のもう一人も頻りに頷く。そして、取材の一環として君の写真を撮ってもいいかと言うのであかりが了承すると手早く一回シャッターを切り、その直後に一瞬怯えた表情を見せぎこちなくお礼を言いそそくさと去っていった。
「取材、できたのかな?」
自分が聞いていなかっただけで竜崎や手塚にはちゃんと話がいっていたのかもしれないとあかりが納得していると、今度は聞き馴染んだ声に呼ばれた。
「おい」
「あ、海堂くん」
振り返るとそこには海堂が立っていた。
「何だ、今の奴ら」
「都大会に出る学校を回っている新聞部員、って言ってたけど……取材の話とか聞いてた?」
「いや」
「そっか、じゃあ今回は取材じゃなくてその約束をしに来たとかだったのかな?」
折角、選手である部員が来たのだから引き留めた方が良かっただろうかと首を傾げるあかりに、偵察だとは気付いていないのかと思いながらもわざわざ言う必要もないだろうと考えた海堂は「戻るぞ」と言ってコートの方へ向かっていった。
その後は変わったこともなく部活を終えたあかりが早めに仕事を終えて帰ろうとすると、桃城、リョーマ、池田の三人が校門の近くで何やら話していた。桃城が両手を合わせ軽く頭を下げている姿から、買い出しを放り出したことを池田に謝っているのだと分かる。そして、許しの言葉でも貰ったのかバッと顔を上げた桃城はあかりの存在に気が付き手を振った。
「お、伊吹さんも一緒に行くかーっ?」
そう言われたあかりは「どこに行くの?」と三人に駆け寄った。するとリョーマが「桃先輩がハンバーガー奢ってくれるんだって」と言ってあかりも来るように誘う。
「え、そうなの?桃城くん太っ腹ー!」
「おい、待て越前。お前に奢るなんて一言も言ってねーぞ!マサやんだけだ!」
ケチだなんだと言い合うリョーマと桃城を見ながら、あかりが池田に尋ねると彼は笑って答えた。
「なるほど、買い出しを池田くんに押し付けたお詫びってことね」
「つっても、奢るのもハンバーガー食べに行く桃のついでだろうけどね」
池田が行きたいと言った訳ではなく自分が行くハンバーガー店に誘ったという桃城らしさにあかりも笑うと、「じゃあ、私もご馳走になろうかな」と冗談めかして誘いに乗った。
「って、伊吹さんまで!」
「桃先輩、ご馳走様でーす」
*****
「桃城くん、それ本当に一人で食べきれるの?」
「余裕余裕。ってか、伊吹さんはそれだけでよかったのかよ」
「帰ったら晩ご飯もあるしね。桃城くん、いただきます」
「おう。って、越前はいただきますくらい言え!」
現在、本当に全員分の支払いをしてくれた桃城の目の前には山盛りのハンバーガーがあった。そして、あかりの前にはシェイクとポテト。リョーマと池田の前にはハンバーガーのセットが並んでいた。あかりが目の前の山が見る見る消えていくのを眺めながら雑談を楽しんでいるとふと桃城の手が止まった。
「しっかし、最近多くなったとは思ってたけどよ、今日の偵察の数は凄かったな」
「ああ、あの全然隠れ切れてない人達ッスか」
「コソコソ見られてるとやりにくいッス」と続けたリョーマに共感の声を上げる桃城。そんな二人を見てあかりが首を傾げると、「伊吹さん気付いてなかったのっ?」と池田が驚きの声を上げて説明をしてくれた。
「え、嘘。じゃあ、新聞部員で取材をしてるって言ってったあの人達も偵察で来てたのかな」
部活中に会った他校生二人の姿を思い浮かべながら話すあかりに、そこは気付いて然るべきだろうと三人は心の中で呟いた。
*****
ハンバーガー店を後にし、リョーマとあかりの二人になった帰り道。偵察に来ている他校生の話で思い出したもう一人のことについて、あかりはリョーマに尋ねてみることにした。
「ねえ、リョーマくん」
「なに?」
「今日さ、委員会終わって部活に行く途中で、白い制服の男の子が倒れているのに遭遇しなかった?」
あかりの言葉に一瞬だけ小さく肩を揺らしたリョーマは、ややあってから「知らない」とだけ発した。
「そっか。じゃあ、リョーマくんが部活へ行ったのより後で、私が通る前だったのか」
思い返すように斜め上を見て呟くあかりを横目に、リョーマは余計なことは言わなかろうと話題が終わるのを静かに待っていた。
「なんかね、テニスボールが当たっちゃったみたいで倒れていた人がいたの。放っておくわけにもいかないから少し様子をみて……あ、そしたらすぐ気が付いたんだけど。あの後、大丈夫だったかな」
「偵察なら選手かもしれないよね、怪我とか無いといいんだけど」と独り言のように言うあかりに「まあ、大丈夫なんじゃない?」とだけ答えて、リョーマは話題を夕飯のメニューに変えた。
*****
都大会まで後9日となったある日、いつもの様に他の部員達と一緒にボール運びなどの準備を始めようとしたあかりに乾から声が掛かる。
「伊吹さんにはちょっと別の仕事をしてもらいたいんだけど」
「はい、分かりました」
乾の後に着いてあかりが部室に入ると、なぜかそこには沢山の野菜やミキサー、小鍋などが並んでいた。
「えーと、乾先輩……?」
「レシピはここに書いてあるから、これ通りに作ってね」
そう言って机の上にあったノートを渡されるあかり。開けられたページを見れば、確かに野菜の切り方や混ぜるタイミングまで細かに記されたレシピがある。
「じゃあ、俺は練習の方に行くからよろしくね」
「えっ?……は、はい!」
なぜこれを作るのかなど聞く暇もなく練習へ戻っていく乾に、了解の返事だけしてあかりは再びレシピに視線を落とした。
「取り敢えずレシピ通りに作ればいいんだよね」
作り始める前に一通りの行程を確認して、野菜を切り始める。レシピ通りにという言葉もあったので調味料などの計量も済ませ机に並べる。そして、全て揃った材料を眺めてあかりは思った。
「コレ、絶対美味しくならないよ」
乾の言いつけに則ってレシピ通りに作った謎の液体、それを大きな容器に移し替えてあかりはまじまじと見つめた。
「何かとんでもないものを作り上げてしまった気分だわ……」
今までに見たこともない色のもったりと揺れる液体を前に味見をした方がいいのだろうかと考えるも、自分では正解も分からないしとあっさり取りやめてあかりは液体とコップを持って部室を出た。お盆に乗せたそれらに注意を払ってコートへ向かうと「丁度良かった」と手招きをされる。
「乾先輩、一応レシピ通りに作ったんですけど」
「うん、ありがとう」
お盆に乗せられた液体を見て一度大きく頷くとそれをコップに注いでレギュラーメンバーに見せる乾。
「ってことで、負けたらこの乾特製……厳密に言えば乾特製野菜汁のレシピを元に作ってもらった伊吹さん特製の野菜汁を一気に飲まなくてはならない」
乾の手に握られたコップの中、怪しく揺らめく液体を見せられ顔を引きつらせる一同。作ったあかりさえ、本当にこれを飲ませるのかと固まる。そして、そのコートの周りではあかりが来る前に説明があったのか、「レギュラー対決だ!」と盛り上がる部員達の姿があった。
*****
あかりが禍々しい飲み物を作っていた間に説明されていたのは、レギュラーメンバーをプレイスタイルで分け、5ラリーの間に半面が攻撃し全面が守備をするという内容の練習メニューであった。そして、最大でも5ラリーの間に決着がつくとあって勝敗が決するのは早い。まずコートに入った半面で攻撃をする河村と全面で守備をする海堂では、海堂が押し負けてしまった。
「伊吹さんコップを」
「あ、はい!」
乾に促されたっぷりと注いだそれを持って行くと、眼鏡のレンズを光らせ表情の読めない乾から受け取った海堂は一息に飲み干し叫びながらその場を後にした。短い静寂の後、次にコートに入る大石と桃城には緊張の色が滲んだ。
互いに譲らぬラリーを繰り広げる中、桃城のダンクスマッシュによって弾かれる大石のラケット。そして、更に威力を増したと思われる桃城の成長に余韻を感じる暇もなく、大石は先程の海堂と同様にコートを走り去っていった。戻ってきた桃城が飲まずに済んだことを安堵しながらあかりに一体何が入っているのかと聞こうとしたその時、次の対戦をしていたコートから大きな歓声が上がる。手塚と不二の対決があっという間に決まってしまったらしい。そして、自ら進んで野菜汁を受け取りに来た不二はそれを顔色一つ変えずに飲み干し「お薦め」とまで言ってのけるのだった。
ラリー対決最後の一組は半面で攻撃をするリョーマと、全面で守備をする菊丸。しかし、守備側である菊丸は乾からの初球を受けるとすぐさまネット際に上がってきた。そんな菊丸をリョーマは左右のコーナーを狙って抜こうとするも、抜群の反射神経を持つ菊丸に意図も容易く返されて後方へ押されてしまう。
すると、3球目を返したところでリョーマもネット際に攻め入る。これで、半面にしか打ち返せない菊丸を封じたかと思ったその時、半面側がネットプレーに出た際はその段階からコートが全面対応になると明かされ、リョーマはガラ空きとなっている逆コーナーへ打たれてしまう。しかも、ボールが向かっていく先には球出しをする為に立っていた乾とボールの入ったカゴがあり、そこから体勢を整えて打ち返すことは困難だ。それでも、構うことなく突き進んでいったリョーマはバウンドするボールを跨ぐと身体の下で打ち抜いた。
大きな弧を描きネットを越えるボールを何とかラケットの端で打ち返す菊丸。そして、リョーマは緩やかに返ってくるボールで次こそ決めようとラケットを振り上げる、しかし。
「おチビちゃん……もう5球しのいだよ!」
という菊丸の声で決着がついていたことを知る。勝利と野菜汁を飲まなくて済むことに喜びはしゃぐ菊丸の頭に、リョーマがボールを当て怒られそうになったところで顧問の竜崎がやって来た。そして、ホワイトボードに貼り付けた都大会の組み合わせ表を見せ発破を掛ける。
「108校中、次の関東大会へ行けるのは5校だけ…」
ずらりと記された学校名を見てあかりは息を飲んだ。しかし、リョーマを始めレギュラーメンバーの表情は皆、怯む様子などまるでなく寧ろ試合を心待ちにするようなものだった。目に見える形としてはっきりした次の相手に闘志を燃やし、再び練習に戻る面々。
「って、おチビは野菜汁飲んでからだからな!」
コートに戻っていく面々とは反対にコソコソとその場を離れようとしたリョーマに気付くと、菊丸は指を差して引き留めた。うやむやにしようとしていたのが叶わなかったからか恨めしそうな顔で振り返るリョーマと一瞬目が合うも、あかりはご愁傷様という気持ちを込めた顔で返すしか出来なかった。
何人かの尊い犠牲を出しながらも今日も無事に部活を終え、あかりは特製野菜汁の後片付けをしていた。ミキサーや鍋、コップと洗っていく中で大きな容器の底に僅かに残った野菜汁に目が止まる。飲んだ殆どが悶絶した野菜汁、不二が結構美味いと評した野菜汁、これは一体どんな味だったのかという好奇心があかりの中で大きくなる。
「……」
容器の底の野菜汁を人差し指で掬い口元に近付ける。恐らく美味しいはずなんてないのにこれだけ少量なら大丈夫だろうと、もう口にすることを積極的に受け入れ始めている自分がいることに驚きながらあかりは葛藤した。指先を見つめること数十秒。意を決し口を開きかけたあかりの背中に突然、声が掛けられる。
「ねえ」
「はいっ………!!」
不意のそれに驚き思わず指を咥えてしまったあかりは、舌にその味を感じた瞬間に後悔を覚えた。その場で縮こまり悶絶するあかりに声の主は近付き、屈んで覗き込んだ。
「ちょっと、どうしたの」
「……うう、リョーマくん、ひどい」
顔を上げたあかりは目に涙を溜めていてリョーマは一瞬ギョッとすると、どこか苦しいのかと背中をさする。しかし、足下に転がった野菜汁の入っていた容器とあかりが発した「想像以上の不味さ……」という言葉に状況を理解し、鞄の中からスポーツドリンクを出した。
「ありがとう、死ぬかと思った……」
「どう致しまして。というか何で飲んだの」
「……好奇心の前に人間は無力だったのよ」
「何それ」
ぐったりとした様子で遠くを見るような眼差しのあかりに変なことを言い出したとでも言いたげな視線を向けると、「桃先輩と寄り道して帰るから」と言ってリョーマは去っていった。そして。
「もう二度と出会いたくない未知との遭遇だわ……」
あかりはもう暫しの間、放心状態でいた後なんとか仕事を終えて帰宅の途に就いたのだった。