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地区予選も無事勝ち抜き、都大会まで少し日のある青春学園男子テニス部の空気が幾らか穏やかなものになっていた火曜日の朝。いつも通りに練習メニューをこなす部員達。その周りをせっせと行き来するあかりが合間にそっと溜め息を零す姿に気付き、声を掛ける者がいた。

伊吹さん大丈夫?ちょっと元気がないみたいだけど……」

こっそりと溜め息を吐いた彼女に合わせ、声を潜めて窺ってきたのは不二だった。



第3.5話 マネージャーの憂鬱




「体調悪い?」

隠すようにしていた筈が気付かれてしまったためか、僅かに肩を揺らして顔を上げたあかりに不二が再び尋ねると、彼女は「いえ」と短く答えて首を横に振った。そして、すぐに笑顔を作ると力こぶを見せる動作をした。

「元気ですよ!」

笑ってみせたあかりの顔は確かにいつもの可愛らしい笑顔のようではあった。だが、それを作っているという雰囲気を不二には隠しおおせず、納得はしきれないという表情を一瞬だけ見せた彼は「無理はダメだよ?」と優しく言った。

「はい。ありがとうございます」

そう言って、記録を手伝うよう乾に呼ばれたあかりはその場から駆け足で去っていった。



朝練が終わり、着替えなど済ませた部員達が教室へ向かっていく中、不二は乾に声を掛けた。

「ねえ、乾。今日、伊吹さんに変わった様子ってなかったかな」
「変わった様子?特には……いや、しいて言うなら、頼まれ事の断り方を聞かれたな」
「頼まれ事の、断り方?」
「ああ」

筆記用具を鞄に仕舞い終えファスナーを閉めたところで手を止め、思い出す仕草を見せた後「相手を傷付けずに断る効果的な方法、とかなんとか……」そう言いながら乾は鞄を肩に掛けた。

「それで、乾はなんて答えたの?」
「そりゃ、相手によって手段は変わるからね。どんな相手でどういった頼まれ事なのかによる……って言ったら、変なこと聞いてごめんなさいって謝られた」

乾らしい回答を前にあかりが引き下がる様子がありありと想像できてしまい、不二は「そっか」と小さく笑った。


「二人とも、そろそろ鍵をかけたいんだが」

声のした方を見れば、そこには部室の鍵をチラつかせた大石が開いた扉の外側で立っていた。彼の言葉を受けて不二が部室を見回すと、いつの間にやら他の部員達の姿はなくなっていた。

「ごめん、今出るよ」

不二は鞄を持って先に出て行く乾の後を追った。もう残っている者は居ないなと大石が部室を覗いて確認してから鍵をかけると、HRの予鈴が鳴り響いたので三人はそれぞれの教室へ向け駆け出していった。


*****


昼休みも半分を過ぎた頃、飲み物を買いに行こうと不二は廊下を歩いていた。すると、向かいから菓子パンを咥えた菊丸がやってくる。

「あれ、不二どこ行くの?」
「ちょっと、自販機までね」
「あ、じゃあ、俺も行く!」

不二の答えを聞きそう返した菊丸は、咥えていた菓子パンを口に詰め込むと隣に並び元来た道を戻り始めた。昼休みが始まってすぐだと並ぶことも少なくない自販機前も、半分を過ぎた時間になれば待つ必要もなく買うことが出来る。それぞれ好みのドリンクを買って教室へ戻る途中、隣を歩いていた菊丸が突然声を上げると窓際へ駆け寄った。

「ねえ、アレ、伊吹さんじゃない?」

そう言って菊丸が指し示した先を不二が見ると、確かにあかりらしき後ろ姿が見えたので「そうみたいだね」とだけ言って教室へ戻ろうとすると、菊丸は呼び止めた。

「あっちって校舎裏だよね?」
「そうだね?」

菊丸の言う通り、あかりが去っていった方向は校舎裏だった。それも、何か倉庫があるとか広場になってるとか、そういったものは何もない。本当にただの日当たりも悪い校舎裏。

「走ってたよね?」
「そう、だったかな」
「なんもない校舎裏に?何で?」
「僕に聞かれても」

もう、この次に言い出しそうなことが想像が出来た不二の期待を、漏れなく裏切らずに菊丸は言う。「呼び出しなんじゃないか」と。何のと聞けば、人の好い彼女に難癖を付けるような奴が居るかもしれないだろ、と駆け出してしまった菊丸。

「英二の中には、告白の呼び出しって可能性はないのかな?」その場に残された不二はそんな呟きを零すと、きっと早合点してるだろう友人の後を追った。



あかりを追って校舎裏までやってきた二人は辺りを見回す。すると、木の幹から少しだけ姿を見せる後ろ姿があった。その姿はしゃがみ込んでいて、菊丸は思わず駆け寄り肩に手を置いた。

「大丈夫っ?」

突然の呼び掛けと肩に置かれた手に小さな悲鳴を上げるとあかりは尻餅をついた。そして、それと同時に一枚の紙が地面に滑り落ちる。

「ご、ごめんっ、驚かせようとしたわけじゃなくて!」
「こっちへ行く伊吹さんが見えたから、ちょっと声を掛けたんだ」

簡単に説明した不二が「大丈夫かい?」とあかりの手を取り優しく立たせてやると、「大丈夫です。大袈裟な声を上げてしまってすみません」と言って、あかりはスカートについた砂を払った。

「そうだ、伊吹さん、コレ、落とした……よ」

あかりに怪我がないことを確認すると、恐らく彼女の手から落ちていっただろう紙を拾う菊丸。しかし、それを手にした瞬間ピタリと動きを止めてしまった。それに気が付き、菊丸の手から慌てて紙を抜き取るあかり。その顔は少し赤く染まっている。

「……み、見ちゃいました?」
「い、いや、読んではない!読んではないけど……ごめん!」

そう言うと菊丸は乾いた音を響かせ顔の前で手を打って頭を下げた。勢いよく謝り出す先輩を見て「不可抗力、ですから……」と、あかりは肩を落とした。二人のやり取りから大体どういう事態なのか予測はついていたが、このタイミングであればあかりも溜め息の理由を話せるかもしれないと不二は口を開いた。

「二人ともどうしたの?」
「えっ、あ、いや……」

自分から話して良いものかと窺う菊丸の視線を受けたあかりは「もう、見られちゃいましたしね」と眉尻を下げて微笑むと、溜め息の原因、悩みの種について話した。

「あの、これ、手紙なんですけど……」
「ラブレター?」
「は、はいっ」

歯切れの悪いあかりに不二が言うと、彼女はほんのり染めていた頬を真っ赤にした。そして何故か、話を聞いている菊丸も顔を赤らめている。

「す、すみません。こういうの初めてで…」
「その手紙が、伊吹さんの溜め息の理由?」
「……はい。実は、この手紙の人、全然知らない人で」

そして、あかりは今日の朝の出来事を思い出すようにして話した。朝、校門の前で知らない他校の生徒に呼び止められたこと。地区予選の時に見て気になっていた、この手紙を読んで欲しいと渡されたこと。そして、その返事を木曜日に聞かせてほしいと言われたこと。

「そ、それって一目惚れってこと!?」

自分で言いながら顔を赤くする菊丸の言葉に、あかりも同様の反応で小さく肯定した。

「でも、相手は地区予選の時に伊吹さんを見かけただけ……なんだよね?」
「はい」
「学校はともかく、どうやって名前とか調べたのかな」
「あ、それが、手紙には貴方とだけ書かれていて。今朝、渡された時に名前を聞かれました」
「ええー!名前も知らないのに告白してきたのっ?」
「はい。しかも、書き忘れたのかその人の名前も書いてなくて……」

「困りました」と肩を落とすあかり。そんな彼女の姿を見ながら不二は呆れていた。一目見ただけの相手を学校前で待ち伏せて、自分は名乗りもせず告白し、その返事を要求する男に。そして同時に、そんな相手にも精神を割いている人の好いあかりにも。

「それで、伊吹さんは付き合っちゃうの?そしたら部活はっ?」
「待ってください、菊丸先輩。相手の方には申し訳ないですけど、全然知らない人とお付き合いなんて出来ませんよ」

もし付き合ったらと心配する菊丸を落ち着かせるように言うあかりの言葉を聞いて、「そっか、だよね!」とはにかむ。そしてそれを聞いた不二は、乾が言っていた「頼まれ事の断り方」と噛み合ったことを感じていた。

「それで、返事をするのに場所が指定されてて」

「ここなんですけど」と言いながらあかりは、びっしりと文字が詰められた手紙の一文を指さした。不二と菊丸は文字を目で追い、その場所を思い浮かべた。

「ああ、この公園ならそこまで遠くないよ」
「でも、住所的にはギリギリ隣町って感じじゃない?」

一応存在する公園なのだと安心したあかりは、細かい場所は後で携帯で調べることにして二人に礼を言った。

「あの、ありがとうございました」
「え、何がっ?」
「なんだか先輩達に話を聞いてもらったら、気持ちが楽になったので」
「状況的に言わせるようになっちゃったけど、それなら良かったよ」
「うん、良かった良かった!」

さっきまでの動揺など無かったように胸を張る菊丸にあかりは微笑むと、折り目正しく手紙を畳んで封筒へ戻し、校舎の方へ帰って行った。

「んじゃ、俺らも戻りますか」
「そうだね」

憂いも晴れたと歩き出す菊丸の隣に並んで、果たして本当に大丈夫なんだろうかと、不二には僅かな疑問が残った。


*****


あかりが教室に戻ると、隣の席の海堂は既に次の授業の教科書を机の上に出していた。壁にかけられた時計を見れば、昼休みも後5分も無いところだったのであかりも机の中に手を入れ教科書を探る。教科書を取り出しながらあかりは、海堂にも乾に聞いた質問をしてみることにした。しっかりと自分を持ち、きっぱりと断りを入れそうな彼なら、何かヒントを貰えるのではないだろうかという思いからだ。

「ねえ、海堂くん」
「……なんだ」
「もし、もしだよ?海堂くんがどうしても出来ない頼み事をされた時って」
「断るだろ」
「……ですよね」

教科書をペラペラと捲りながら答えた海堂はその手を止めると、「お前、まさか」と言ってあかりの方へ顔を向けた。

「無茶苦茶な仕事とか押し付けられてんじゃねえだろうな」
「え?」

どうなんだ、という視線を向ける海堂にあかりは慌てて首を振った。

「ち、違う違う!そういうのじゃないんだけど、その、例えばの話で……海堂くんならどういう風に断るのかなって」

一息でそう言った後、呼吸を整えてから「突然変なこと聞いてごめんね」と蚊の鳴くような声で言い肩を竦ませた。あかりの様子を見て、どうやら仕事を押し付けられているとかそういう類ではないと分かり、一つ溜め息を吐いた海堂が質問に答える。

「本当に無理ならきっぱり断る。適当なこと言って期待させてもしょうがないだろ」

教科書へ視線を落としていたあかりが海堂の言葉で顔を上げると、今度は彼がスッと顔を逸らしてしまった。そして、あかりは腑に落ちた表情で「そっか、そうだよね」と呟いた。質問に対する自分の答えに納得した様子のあかりを横目で確認した海堂は、チャイムと同時に教室に入ってきた教師に視線を移した。周りの生徒達がバタバタと席に着いたり授業の支度をする中、あかりは再び海堂に話しかけた。

「海堂くん海堂くん」
「なんだ」
「ありがとうね」

微笑みながらそれだけ言うとあかりは教科書を開いた。


*****


不二と菊丸に事情を打ち明けることが出来て、海堂からはきっちりと断りを入れる大事さを教えられたあかり。それからは幾分か楽になった心持ちで、告白の件について考えられるようになった。

そして翌日、水曜日。部活も終わり部員達がいなくなった部室で、あかりは記録などをノートに書き写す作業をしながら、明日に迫った告白の返事について思いを巡らせていた。しかし、考えがまとまらない内に作業は終わってしまい、パタリとノートを閉じる。どうしたものかと、ふと部室の高い位置に細く横長にある窓を見ると思いの外、空が暗くなっていたことに気が付く。慌てて携帯電話を取り出し時間を確認すると、普段より少し遅い時間を表示していた。

「いけない、ちょっとゆっくりし過ぎた」

手早く荷物をまとめ戸締まりをし部室を後にする。学校の敷地内を足早に通り抜け、校門まで着たところであかりの足は止まった。




「ああ、よかった。もう帰っちゃったのかと思ったよ」
「え、あの、どうして……」

そこには、昨日の朝と同じようにあの他校生が立っていた。返事は明日のはずと動揺を見せるあかりに気付かないのか、はたまた気に留めるつもりがないのか。笑顔を浮かべた少年はあかりの前まで歩み寄った。

「いつもこんな時間まで残ってるの?他の部員は先に帰って行ったみたいだけど」
「な、なんで」
「もしかしたら見逃しちゃったのかなって焦ったよ」
「あの、どうして」

あかりの言葉など聞こえないように話し続ける少年に不安な表情を見せると、漸く考えが伝わったのか「ああ、ごめんごめん」と言って突然、あかりの左手を取った。驚き手を引っ込めようとするあかりの力など打ち消して、少年は握る力を強めた。

「今日はさ、伊吹さんに僕のこと知ってもらいたくてさ」

そう言ってあかりの左手をグイと引き寄せようとする少年。あかりは反射的に足に力を入れ、その場に留まるよう踏ん張った。

「だから、少し話さない?」
「あの、今日はもう、ちょっと遅いので……」
「でも、今日しか時間ないし。ちょっと話すだけだからさ」
「こ、困ります!」

力むあかりを更に強く引き、自分の方へ寄せようとする少年。その顔は変わらず笑顔のままで、あかりにはそれがそこはかとない恐怖となって迫っていた。完全に拒絶されるほど無理強いをしたくはないのか、互いに一歩も譲らず膠着状態に陥っていると、その場に低く落ち着いた声が響いた。

伊吹か、まだ残っていたのか」

その声が届いた瞬間ずっと左手に加えられていた力がなくなり、あかりは反動から一歩二歩と後退りした。そして、反動の力のまま声のした方へ振り返ると、そこには手塚が立っていた。

あかりの隣までやってきた彼は、身長差を感じさせる見下ろすような視線で「うちの生徒になにか用か」と低音でゆっくりと発した。威圧感にか、自分の行いの後ろめたさにか、少年は短く「いいえ」とだけ言って逃げるようにその場を去る。

少年の姿が完全に見えなくなったところで手塚はあかりに向き直ると、目線だけを向けた時とは違い顔もこちらへ向けるようにして視線を寄越し「家まで送ろう」と言った。つい断る言葉が頭に浮かんだあかりだったが、その言葉が声となることはなく小さく頷く形で受け入れていた。



「あの、手塚部長はどうして……」
「ああ。部活の後、生徒会のことで少し先生に呼び止められてな」

先に部室を去っていった手塚がどうして、最後に帰る自分と殆ど同じ時間で下校に至ったのかあかりが聞こうとすれば、すぐに汲み取り手塚は答えた。

「そうだったんですか」
伊吹はこの時間まで部室に残っていたのか?」
「あ、はい。でも、今日はいつもよりちょっと遅くなってしまったんですけど」

あくまで通常は今日ほど遅くはないという意味を含ませてあかりが言うと、帰り時間をちゃんと考えて行動するようにとやんわり釘を刺された。

「ところで、さっきの他校生は知り合いだったのか?」

一応形式的にそう尋ねる手塚だがその言葉には、つい数週間前まで日本にさえ居なかったあかりに、他校の知り合いがそう居るだろうかという疑問が含まれたものと言ってもいい。「それが、えーと……」とはっきりしない様子で答え始めたあかりは逡巡した後、掻い摘まんで事情を説明した。一通り話し終え、手塚が「そうか」と返事をしたところで二人は越前宅前に到着した。向き直ったあかりが礼を言ってから門扉に手をかけ中へ入る。そして、もう一度お辞儀をして玄関へ向かおうとしたところで、手塚はあかりを呼び止めた。

伊吹
「はい」
「誠実に向き合うことだ」
「誠実に?」
「ああ。相手に対しても、自分の心に対しても。その上で出した答えを伝えればいい」

恋愛指南というよりは、もっと大きな意味合いでの人間関係におけるアドバイスでもあるような手塚の言葉は、確かな説得力があった。そして、パッと表情を明るいものに変えた彼女は「はい、ありがとうございます!」と元気よく答え、手塚と別れた。


*****


その夜。風呂へ入ろうとしていたあかりを、入れ替わりで出たリョーマが怪我をしている瞼に薬を塗ってくれと呼び止めた。ベッドに腰掛けるリョーマの高さに合わせ、少し屈むようにして左目の瞼に優しく薬を塗り、ガーゼをあててテープでとめる。すると、怪我をしていない右目が無遠慮に視線を送っていることに気付くあかり

「どうしたの?」
「今日、帰ってくるの遅かったね」
「え?あ、そうだね。ノートに記録を写してたら少し遅くなっちゃった」

「心配してくれたの?」とあかりが嬉しそうに尋ねれば「別に」と視線を逸らされる。その反応さえポジティブに捉えた彼女はニコニコしながら治療を続け、「はい、完了。お行儀よく寝るように!」と言葉を残してリョーマの部屋から出て行った。ガーゼがちゃんととめられていることを指先でそっと触れ確認したリョーマは、そのままベッドへ身体を倒した。そして「ふーん、部長と帰ってルンルンって感じ?」と呟きを零して右目を閉じた。


*****


そして、あかりにとっては決戦とでも言える心持ちの木曜日。一日中どことなくソワソワとしながらも朝練、授業、昼休みの間の図書委員の仕事、部活とをこなしたあかり。いつもなら最後の方まで残るが片付けを終えて、後は部員達も着替えて帰るだけとなった辺りで鍵を管理する大石に声を掛け下校へと足を進めた。互いにテニス部であることから会うのは部活の後にしようとあったが、あんまり遅くなっては相手に申し訳ないし、何より昨日のこともあって遅い時間は避けたかった。


携帯電話で調べた地図とにらめっこをしながら、まだ歩いたことのない道を進んでいくと指定された公園に辿り着く。相手の少年はまだ来ていないのか姿は見当たらなくて、あかりは少し安堵してひとつ息を吐いた。ひとまずはベンチに座って気持ちを落ち着かせようと辺りを見回す。公園と言っても大きな遊具があるわけではなくて、ベンチが幾つかと水道があるだけの一休みをしたり散歩で通り抜けるような雰囲気の場所だった。

特に気を紛らわせるものも、どういう風に言葉にしようと想像しては公園の入り口や時間を確認するばかり。そんなことを三十分ほど繰り返していると、少しテンポの早い足音が近付いてきてあかりは思わず背筋を伸ばした。

「よかった。来てくれたんだね」

そう言った声の方を見れば急いで来たのか、うっすらと額に汗を滲ませた少年が微笑んでいた。あかりがベンチから立とうとすると、それを制して少年は隣に座った。

「あ、あの、私」
「ごめん、ちょっとだけ待ってくれる?」

今にも返事をしようとするあかりを少年は片手を上げて止めると、呼吸を整える様子を見せた。そして呼吸が整ったサインを示すように胸に手をあて、一つ深呼吸をすると「お待たせ」とあかりの方を見た。落ち着いた少年とは反対に、あかりは緊張から息が上がりそうになるのを何とか抑えながら口を開いた。

「……お手紙、読みました」
「うん」
「それで、私の返事なんですけど」
「うん」
「……ごめんなさい。あなたとはお付き合い、できません」

聞き間違いなどないように、はっきりとした言葉をしっかりとした声で伝えあかりは頭を下げた。相槌を打っていた声は途切れ、少年が今どんな感情でどんな顔をしているのかは分からない。ただ、すぐに顔を合わせることが怖くて、あかりは俯いたまま膝の上に組んだ手を見つめた。

「もしかして、彼氏いた?」

最初に返ってきた言葉はそれだった。今更そんな告白の前に確認されるようなことを聞かれ、反射的に「いえ、いません」と返してしまうあかり。すると、少年がグッと座っていた距離を縮めてきた。

「じゃあ、誰か好きな人がいるの?」

あからさまに距離を取るわけにもいかず、肩を竦めることで自分のテリトリーを守るようにしながら「いません」とあかりは返した。それを聞いた少年は更に距離を詰め遂には膝が触れた。驚いたあかりが咄嗟に身を退こうとすると、膝の上に組まれた両手に自分の手を重ねる少年。

「じゃあ、どうしてダメなの?」
「あ……」

弾くように拒絶してしまいそうになるのを堪えるあかり。それに気付かない少年は自分がどれだけ想っているか、自分はあかりを分かってあげられる、幸せにできる、そんなことを一頻り語ってから「きっと振り向かせてみせるから」と付き合ってみることを勧め出した。少年の言葉に、彼の中に居るのは自分であって自分ではないんだとあかりは気付いた。彼の中で育まれた彼の求めるあかりという少女に自分はなれない。きっぱりと断らなくてはいけない。

自分の手に重ねられた少年の手からすり抜け、鞄を持ってベンチを立ったあかりはしっかりと目を見て言った。

「あなたとはお付き合いできません。あなたに対して恋愛的な好意は無いから、です」

少年は一瞬なにを言われているのか分かっていないような顔で止まったかと思うと、勢いよく立ち上がって歩み寄り昨日よりも強くあかりの手を取った。

「やっぱり昨日、ちょっと強引でも連れて行けば良かったんだ」
「……え?」
「そうしたら僕のことを分かってもらえたし、きっと伊吹さんの考えだって……」

ブツブツと零す少年の言葉を全ては聞き取れないままあかりが固まっていると、腕だけではなく身体ごと連れられるほど強い力で引かれ、その勢いのまま少年の胸に収まりそうになる。それを、ほとんど反射に近い感覚でなんとか腕を突き出し拒むと、衝突の反動で弾かれるようにしてあかりは尻餅をついた。

「痛っ、あ……」

座り込んだまま顔を上げたあかりが見た少年の顔は、決定的な拒絶に驚きを隠せないといったものだった。

伊吹さん、なんでっ……」

こちらへ歩み寄って来ようとする少年にもはや緊張など通り越して恐怖を感じたあかり。立ち上がろうと地面に手を着けるも上手く力が伝えられず、砂利の上を滑った。少年の手が再びあかりを捕らえようとしたその時、「ねえ」と聞き慣れた声がその場に響いた。


「アンタさ、フられてるの分からないわけ?」


張り詰めた空気を一瞬にして打ち消したその声の主は、つかつかと歩いてくるとあかりを背にして少年との間に入った。

「リ、リョーマくん?」

それは、この場に居るはずもないリョーマだった。

「お前、確か青学の」
「リョーマくん、なんで……?」

戸惑っていた表情から怒りの色を滲ませた少年を気にする素振りも見せずに、あかりの方へ振り向いたリョーマは呆れたと言いたげな顔をしていた。

「なんでって……ここ数日、挙動不審すぎ。今日だって普段なら有り得ないくらいさっさと、しかもコソコソ帰ってるし」

「だから、勝手に後つけて来たってこと」あかりが自分から話をしたわけではないことを少年に伝わるよう言って、尻餅をついたままのあかりの腕を掴み立ち上がらせたリョーマ。

「お前には関係ないだろ」
「そ、関係ない」
「ならっ……」

出しゃばってくるなと敵意を露わにする少年に向かってわざとらしく溜め息を吐いてみせると、「アンタが人の話、全然聞かないみたいだからね」と両肩を上げてみせた。そして、あかりの方を一度短く見やってから少年に鋭い視線を向ける。

「で、アンタはフられたわけだけど。まだなんか用なの?」

最初に言われた言葉を再度突きつけられ頭に血が上ったように顔を赤くした少年が口を開くよりも先に、リョーマは畳み掛けた。

「アンタは『好き』で『分かってあげられる』のに、今その相手が震えてることも見えないし、そのワケも理解できないの?」

その言葉を聞いて初めてあかりは、自分の身体が僅かにだが震えていることに気が付いた。そして、それを何とか抑え込むべく拳を握った。

「僕はただっ」
「自分が欲しい返事以外は聞かないつもり?」

食い下がろうとした少年だったが、リョーマがピシャリと言い放ったそれにたじろぐと返す言葉もなくただ睨みつける。すると、リョーマの後ろに立っていたあかりがスッと隣に並んだ。

「私はあなたとは付き合いません」
「……伊吹さん」
「私は貴方の名前も知りません。どんな人なのかも知りません。そんな人と付き合う気は、ありません」
「あ……」

しっかりと目を合わせながらそう言われ、少年の肩からは見る見る力が抜けていった。あかりは一瞬、考えるように視線を外してから再び少年を視界に捉えて続けた。

「それと……取り敢えず付き合ってみる、という考え方は私にはありません。本当に好きな人と想いが重なって、初めて成立する関係だと思うから」

「これが私の返事です」そう言ってあかりは頭を下げた。少年は、自分の思い描いてきた少女とは異なるあかりの答えに呆然と立ち尽くした後、「……そう」とだけ呟いてトボトボと公園を去っていった。


拍子抜けしてしまうような少年の退場を見届けると、あかりはストンとその場にしゃがみ込んで盛大な溜め息を零した。そして「リョーマくん、ありがとう……」とか細い声で礼を言った。そんなあかりの頭に手を乗せ「まあ、頑張ったんじゃない?」と軽く労うと、リョーマは信じられない言葉を最後に付けた。

「ですよね?先輩達」

その声に反応してまるで漫画のように近くのツツジの木が揺れ、そこから見知った顔が現れた。

「にゃにっ?おチビいつから気付いてたのさ!」
「き、菊丸先輩っ?」
「いや、気付くッス普通に」

当然のように知っていたと言うリョーマをあかりが目を点にして見つめると、菊丸に続いて不二も姿を現した。

「ごめんね、伊吹さん。英二がどうしても気になるって聞かなかったから」
「って、おい!不二だって心配だっただろ!」

ナチュラルに擦り付けられそうになった菊丸が異論を唱えると不二は曖昧に微笑み、今度は「笑って誤魔化すなー!」と怒られた。

「ねえ……私、どの段階から見られてたの?」

しゃがみ込んだ状態で縋るような眼差しをあかりから向けられたリョーマは、口元に笑みを浮かべると悪戯っぽく「最初から」と言った。


*****


その日の晩。
すっかり今回の一件に翻弄させられてしまい気力体力共に削られたあかりが、部活の後に出来なかったデータを書き写す作業をしていると携帯が短く振動してメールの着信を知らせた。手にしていたペンを携帯に持ち替えて確認すると、液晶には「手塚部長」と表示されていた。

「手塚部長っ?」

何か緊急の連絡でもあるのだろうかとメールを開くと、「夜分にすまない」という書き出しの後「その後、問題はないか」と記されていた。

「問題はないか?」

首を傾げながら少し考えた後、それが今日の出来事を指していることが分かってあかりは急いで指を滑らせた。

「えーっと……お陰様で、なんとか大丈夫でした、と」

メールを送信しながらまさか手塚からこんな風に心配されるとは、申し訳ないような嬉しいようなと気持ちでいると、数分後に把握した旨と明日の部活の確認をする内容が送られてきた。メールの最後には後輩に気を遣わせない為にか「また明日」とやり取りを切り上げる文言があって、あかりは最後に「おやすみなさい」と返して携帯を机の上に戻した。

「手塚部長、メールの時も大人だ」

改めて手塚の同世代らしからぬ対応に唸りながらノートに向かうあかり。しかし、少し進めるともう返信は来ないだろう携帯をまた手に取り、メールを読み返した。飾りはなく、句読点や改行のしっかりしたそれは、もしかしたら事務的や冷たいという印象を持たれることもあるのかもしれない。でも、あかりにはそのメールの文字を追うだけで、手塚の落ち着いた声で言葉が再現され、決められたフォントの文字列でさえ何故か安心を得ることができた。


*****


翌朝。
教室で一限目の授業の準備をしていると不意に視線を感じて、窓際最後列であるあかりは自然と窓とは反対の右側へ顔を向けた。すると、視線を送っていたらしい右隣の席の海堂は、一瞬目を剥くとすぐに逸らした。そして、ペンケースからシャーペンを取り出しながら低く抑えた声で「厄介事は済んだらしいな」と言った。

「……え?」

思い掛けないその言葉に首を傾げるあかり。気の抜けたその顔を見ると、海堂は「何でもねえ」と言って椅子に背を預けてあかりから顔を背けた。その態度にあかりはもう一度首を傾けるも昨晩の手塚のメールを思い出し、彼もまた気に掛けてくれていたのだと気付く。そして、外方を向いている彼に声を掛けた。

「海堂くん海堂くん」
「……なんだ」
「ありがとうね。海堂くんがアドバイスくれて助かった」

あかりが礼を言えばアドバイスなんてしただろうかという表情を見せた後、「そうか」とだけ答えて机の上に視線を落とした。隣の席の彼の不器用な気遣いが嬉しくて、思わず緩んでしまう頬の筋肉をなんとか堪えてあかりは授業開始のチャイムを待った。チャイムと同時に教室へ入ってきた教師を見てクラスメイト達がバタバタと席に着く中、既に着席し準備も済ませていたあかりはふと窓の外、青く晴れ渡った空を見上げた。

「すっきり青空だ」

視界に捉える限り雲ひとつないその青に、すっかりと晴れた自身の憂鬱を重ねながらあかりは目を細めた。



第3.5話 マネージャーの憂鬱……晴れる 終


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