長篇
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
地区予選、青学の第一戦が始まろうとしている。
ネットを挟んで向かい合う青学と玉林の選手達と読み上げられていくオーダーを聞いて、いよいよ始まるんだと息を飲むあかり。ダブルス2の試合がすぐに始まるため桃城とリョーマがコートに残り、戻っていくレギュラーの姿を追っているとベンチに座っていた手塚が視界に入る。
「手塚部長……」
大丈夫だとは聞いていてもこうして控えになっている姿を見るとやはり不安なもので、あかりは思わず見つめてしまう。すると、隣に立っていた乾が声を掛けた。
「ん?何か言ったかい?」
「あっ、い、いえ!」
口に出してしまっていたと気付いたあかりが慌てて取り繕うと乾はコートの方へ視線を戻し、「もめてるよ」と呟いた。フェンスの近くに居た不二もコートの様子を見てか「成る程、あれが原因ね」と微笑む。
「も、もめてるっ?」
一触即発な雰囲気なのだろうかとあかりも慌ててコートへ視線を移す。リョーマと桃城は確かに玉林の選手と何かを話しているようだったが、ガンを飛ばし合っている風でも今にも掴みかかりそうな様子でもなく一安心した。
「二人とも、玉林の選手と何かあったんでしょうか?」
「さあ……」
「なにかあったから、ダブルスをしたいなんて言い出したんでしょうけど」
あかりが率直に疑問を口にすると乾は首を傾げて、不二はいつもの穏やかな微笑みで返した。
「よし越前!阿吽戦法いくぞ!」
「ウイース」
ネットを挟んでの握手を済ませそれぞれのポジションに立とうかという時、桃城とリョーマはそう言って拳を合わせた。その声はベンチに、いや、あかりの立つフェンスの外まで聞こえており思わず首を傾げる。同じくその戦法に聞き覚えが無いのか、菊丸はあかりの隣でフェンスに肘を掛ける乾に尋ねた。
「阿吽戦法……?何だそれ。乾、知ってる?」
「いーや……」
乾が知らない戦法だと聞き、何か珍しいものか二人で開発した新しい戦い方なのかもと、あかりはノートを取り出してメモを取る。
「阿吽って、阿吽の呼吸の阿吽……でいいのかな?」
第3話 優しさはいつだって不器用
あかりが気になった「阿吽戦法」は試合開始直後、玉林のサーブを受ける際に見せられた。綺麗にコートの真ん中に打ち込まれたサーブを両サイドから追うリョーマと桃城。こういう場合はどちらが球を拾うんだろうと見ていると次の瞬間、桃城が大きな声で「阿」と叫び、それに応えるようにリョーマが「吽」と叫ぶ。そして、玉林のサーブは桃城が打ち返した。
シングルスでも強い二人はダブルスでも健在なのか、その後も順調にボールを返していく。真ん中に来た時は「阿吽」と叫んで見事に切り抜け、相手のサーブだというのに0ー40にまで追い詰めた。息は合っているけど掛け声が恥ずかしいという一年生達に心の中で僅かに同意しながら、それでも健闘する二人にあかりは感心していた。
「二人ともダブルスでの試合は初めてなんですよね?頑張ってますよね」
「そうだね。でも……」
試合の様子を冷静に分析しているような乾は何かに気付いている様子で言葉を途中で切った。すると、その直後に順調に得点を重ねていた二人がそれを奪われた。二人共がコート左に寄っていた時に打ち込まれた、コート右へのボール。それを拾おうと追いかけたリョーマと桃城は双方とも追い付き、ラケットがぶつかり合ってしまったのだ。
「あれ、どうして……」
今まで良い調子だったのにと首を傾げたあかりとは反対に、乾やベンチの面々は予期していたようにその事態を受け止めていた。
「……やりおった」
「真ん中以外は意志の疎通0だな」
竜崎の言葉に続けて手塚がそう言った後、不二も堪えきれないように笑いを零す。一年生達も何か感じ取ったのか「嫌な予感がする」と口にした。そして、相手の玉林の選手も何かを掴みかけているのか、言葉を交わしている。
引き続き玉林のサーブで再開される試合。しかし、相手の打ったサーブは試合の球とは思えないほど緩やかな速度で、なだらかな弧を描いてリョーマ達のコートの手前に飛んだ。なぜあんなサーブをとあかりが思っていると、玉林の選手が二人共ネット際まで上がってきた。どこからか「ダブルポーチ」という単語が聞こえ、一年生達からも「あれだけ二人で前につめられたら、打つとこないじゃん!」と声が上がる。
「あのサーブはこのために……」
ダブルスという点を活かした二人で作り出す壁で相手の打つ範囲を狭め、ボレーを落とす。無駄のない玉林ペアの動きに感心していると、あっという間に点が決まってしまった。その後も、リョーマと桃城がコートのどちらか一方に寄るようコントロールして、連携の取れない二人には取ることが難しいボールを打ち込む玉林ペア。ついに得点は40ー40と追い付かれてしまった。
「陣形が崩された」と指摘されたことを受け、堀尾がシングルスとダブルスの陣形の差について乾に尋ねた。あかりも頭の中で手塚から貰った本を思い出しながら、木の枝で地面にガリガリと記していく乾のレクチャーを聞く。二人の問題点は連携が上手く取れていないことは勿論、それに加えて守備範囲が広過ぎる余りにボールに追い付けてしまい、互いにボールを拾いに行って逆サイドに隙が出来てしまうという意外なものだった。
「出来てしまうことが徒になるなんて……」
試合の最中にもっと意志疎通を向上させろと言っても簡単にできるものではないだろうし、一体どうすればこの状況から抜け出せるのだろうと案じていると、また玉林の得点が決まり第1ゲームが終わった。
チェンジコートの際、ベンチへやってきた二人はすっきりしない顔で互いのタイミングの悪さなどを愚痴った。それをコートを移る玉林ペアが通り過ぎ様に挑発して去っていく。こんな挑発にわざわざ引っ掛からないだろうとあかりが竜崎同様に思っていると、リョーマと桃城は瞳をギラギラとさせて全力で乗っかっていた。
「人選間違えたかの、手塚」
「はい」
そんな竜崎と手塚のやり取りを聞くことなく、二人は試合へと戻っていく。
第2ゲームはサーブが青学に移り、桃城のサーブで始まった。と思ったら、その球は見事に前衛としてネットの前に立っていたリョーマの後頭部に直撃する。敢えて抗議をしないリョーマの静かな怒りに機嫌の悪さが窺える。
「リョーマくん……」
優勢と見て一層応援に力の入る玉林サイドにムッとした表情をしたかと思えば、リョーマがクロスで抜こうとした先に桃城が滑り込み、今度は桃城の後頭部に直撃する。
そんな具合に噛み合わないダブルスを続けて、第2ゲームも玉林に取られてしまったリョーマと桃城。「即席ダブルスじゃダメか……」と肩を落とす一年生達の声を聞きながらもあかりがコートを見つめていると、二人は予想外の行動を取り出した。なんと二人はコートの真ん中にラケットで境界線を引き、それぞれが担当する陣地に完全に分けてしまったのだ。そして、コートを二つに割ってからというもの、今までの動きにくさが嘘のように伸び伸びとプレーを始めた二人。相手に隙を与えることなくどんどん得点を決めていく。
「それにしたって、これは……ダブルスの試合としてアリなのかな?」
思わず笑顔が引きつってしまったあかりの後ろで乾の描いた図を見ていたカツオ。彼はリョーマ達が取った手段に気が付き声を上げた。
「そっか!!お互いにシングルスをやってんだ!」
「簡単に言えばね」
カツオの言葉を肯定すると、今の二人は自分のコートのもう一人の存在を気にしないよう境界を作って、相手にだけ集中していることを説明した。そして、これによって普段のプレーをできるようになったと。そして最後に「フツーは考えないけどね」とも付け足して。
それからはダブルポーチにも、コートの片方に寄せようとするボール運びにも崩されることなく得点を重ねていくリョーマと桃城。終いには「けっこう楽しいね、ダブルス!」なんて言って玉林ペアを呆れさせた。それでも、ルール上決して違反をしていない二人を止めることはできず、どちらのコートに打っても返される状況に苦しんだ玉林の選手は、コートのド真ん中へ打ち込んだ。
「あ、真ん中はっ」
コートに響きわたる「阿」「吽」の声と共にダブルス2は決着がついた。基本シングルス真ん中だけダブルスという珍妙なプレースタイルで。
「やっぱ男は……」
「ダブルスでしょう!!」
勝利を手にしたリョーマと桃城は、互いの健闘を讃え合うようにラケットを軽くぶつけ合った。
*****
「バカモノ」
勝利を持ってベンチへ戻ったリョーマと桃城に待っていたのは、竜崎のお説教と頬抓り、そして正座だった。勝ったのに地面に正座をさせられる姿に観客から笑いが起こる中、フェンス越しではあるがあかりは二人のすぐ後ろまで来て労いの言葉を掛けた。
「リョーマくん、桃城くん、お疲れさま。真ん中だけだったけどそこはちゃんとダブルスだったし、コートを半分にしてからの二人はすっごく楽しそうで……格好良かったよ!」
あんまり開けっぴろげに褒めると竜崎に怒られてしまう気がして、こっそりと伝えたあかり。その言葉に二人は驚いた様子で振り向くと「……だろっ?」「……とーぜん」とそれぞれ答えて、また前を向いた。
その後のダブルス1の大石、菊丸ペア。シングルス3の海堂。シングルス2の河村。シングルス1の不二と。どの試合も危なげなく勝利して、結果的に青学は第一試合を5勝、ストレートで勝利してしまった。
「やっぱり強いんだなあ、凄い」
初めて見たレギュラーメンバーの試合に圧倒されたあかりが誰にでもなく感嘆の気持ちを零していると、昼休憩に入ろうとする部員とは別にまだ試合中のコートの方へ向かっていく手塚と不二の姿が見えた。
「あの、まだ試合中なのは、鈴音山と柿ノ木でしたよね。ご一緒しても良いですか?」
会場のトーナメント表にまだ結果が書かれていなかった試合を思い出しながらあかりが尋ねると、手塚は「構わないが」と許可してくれたので二人の後をついて歩き出した。
*****
コートに着いた時には鈴音山対柿ノ木の試合はシングルス1の終盤となっていて、程なくして柿ノ木の選手が勝利した。柿ノ木も5勝、ストレートで勝ち抜いていて強い相手だということが窺える。
「お前は決して弱くない。オレが強かっただけの話だ!!」
シングルス1で勝利した柿ノ木の選手がそう言うと、隣に立っていた不二が「でた、名ゼリフ。絶好調だね、九鬼くん」と言った。その言葉に口癖みたいなものかなとあかりが考えていると、手塚が口を開いた。
「柿ノ木は神奈川代表の立海大附属中と、何度も練習試合をくんでたらしい」
「ああ、切原くんの……」
切原と聞き、つい先日その彼が青学へやって来た時のことを思い出すあかり。二年生でありながら全国大会を連覇する立海でレギュラーを務める彼の、ほんの一部分を見ただけで伝わってきたその凄さ。そんな彼の居る立海と練習試合を重ねてきた柿ノ木。練習試合などは双方にメリットを期待して行うことを思えば、柿ノ木の強さも推し量れる。
ここが決勝に来るのだろうか。そうあかりが二人に尋ねようとしたその瞬間、試合を終えたばかりの柿ノ木の九鬼が先に声を掛けてきた。
「よう、手塚、不二。そろって敵視察かよ。収穫はあったかなっ」
呼び捨てでこのように話し掛けてきたということは、九鬼は三年生で二人とは面識もあり話もあるだろうとあかりは黙って見守る。しかし、次に九鬼から続いた言葉は讃え合うライバルとは異なるものだった。
「そういや、手塚。玉林戦に出なかったらしいな。……いや、本当は出れなかったんじゃねぇのか」
口の端をつり上げて言う九鬼に一瞬ビクッと肩を揺らすあかり。すぐさま手塚の反応を見れば、彼は普段と変わらないポーカーフェイスでその場を去ろうとしていた。
「行くぞ。不二、伊吹」
「あ、はいっ」
手塚の後を追おうとあかりが足を踏み出すとその隣を九鬼が抜き去り、手塚の左肘を後ろからぐっと掴んだ。
「あっ……」
思わず声が上がってしまったあかりとは反対に、手塚はゆっくりと顔だけを九鬼に向ける形で振り返り「放せよ」とだけ言った。一瞬怯んだ九鬼の手から逃れた手塚は、すっと前を向くと何も言わずに歩き出す。
「大丈夫だよ。行こう、伊吹さん」
「は、はい」
突然のことと張り詰めた空気にあかりが助けを求めるように不二を見ると、彼は変わらない笑顔のまま優しくそう言って隣を歩いてくれた。後ろの方で九鬼が声を荒らげていたが、あかりは少し怖くて振り返って言葉を確かめることは出来なかった。
不二と二人で手塚の隣まで追い付いたあかりは、九鬼に強く握られていた手塚の左肘と彼の表情を心配そうに交互に見た。「大丈夫ですか?」と聞きたいがすぐに心配しては信頼していないようだし、肘のことを隠しているなら不二の居る前で聞くことが適切ではないかもしれない。あかりがまたぐるぐると考え始めていると小さな声で手塚に呼ばれる。
「伊吹」
「は、はいっ」
「問題ない」
ちらりと目線だけ送って手塚は言った。
「はい!」
手塚の言葉に安心し「午後も頑張りましょうね!」とガッツポーズをしたところで、あかりは大事なことを失念していたと気付く。
「あっ」
「どうしたんだい?」
「リョーマくんの分のお弁当も私が一緒に持ってきたの忘れてました!行ってきます!!」
視界の端々に昼食を取る人達が見えたことで思い出したあかりは、二人にお辞儀をするとリョーマを探して駆けていった。
「手塚、すっごく心配されてたね」
普段、部員達からは圧倒的な存在感のようなもので滅多矢鱈に心配などされない手塚を案ずるあかりと、それに応える手塚という珍しい光景を見た不二はくすくすと笑った。手塚は眉をピクリと動かすとその後は何事もなく歩みを進めた。再びくすくすと声を洩らした不二はそれから何も聞くことなく隣を歩いた。
****
「あ、リョーマくん居た!良かったー。遅くなってごめんね!」
「遅い」
「ごめんなさい」
一年生達がお弁当を囲んでいる輪の中で、リョーマはファンタを飲みながらムスッとした顔をしていた。
「わあっ、みんなのお弁当美味しそうだね!」
恐らくそれぞれお母さんが作ってくれただろうお弁当が見えて目を奪われていると、「いいから、早く」とリョーマに催促されるあかり。弁当を広げ自分も輪の中にタオルを敷いて座る
。
「え、一緒に食べるの?」
「え、一緒に食べないの?」
リョーマが一瞬嫌そうな顔を見せるも弁当は大きなものにまとめてしまっているし、一年生達もそれに食いついてくれたので同席することが出来た。
「うわーっ、豪華なお弁当ですね!」
「うん。ちょっとはりきっちゃった」
「伊吹先輩が作ったんですかっ?」
「うん」
口々に褒めてくれるのをあかりが照れ臭く受け止める中、リョーマは黙々と食べ進めていた。
「おい、越前!なんかねぇーのかよ。旨いとか美味しいとか!」
何を言うわけでもなくもぐもぐと頬張るリョーマを隣に座っていた堀尾が小突く。すると、口に含んでいた分を飲み込んだリョーマが弁当を数秒眺めた後 「……ん、ちょっと、多くない?」と言った。すかさず「そうじゃねぇーよ!」とツッコむ堀尾を気に留める様子もなく食事を再開するリョーマ。
「堀尾くん、ありがとう。でも、我ながら作り過ぎたとは思うよ。だから、まだ食べられそうだったら堀尾くん達も食べてくれる?」
あかりがそうお願いすると三人は「いいんですかっ!」と声を揃えて、残りのお弁当をかき込み出した。
*****
午後、最初の試合は対水ノ淵中戦。シードを貰っていた青学は早くもこの試合で準決勝だ。そして、準決勝からは5戦の内先に3勝した方が勝利となる先勝制となった。慣れることの無い緊張を胸にあかりが試合を待っていると、ノートを手にした乾がコートを離れていこうとしていた。
「あれ、乾先輩。試合見ないんですか?」
「うん、決勝で当たるところの試合を見ておこうと思って」
「なるほど」
「じゃあ、こっちは宜しくね」
「はいっ」
当たり前のことだが、こちらが準決勝戦をしているなら反対のブロックでも同じように準決勝戦が行われているというわけだ。しかし、それはつまり青学は当然決勝へ行くものと考えているということでもあって、乾の行動の自信に微笑みながらあかりは見送った。そして、その場に残ったあかりは水ノ淵との試合の様子をしっかりと見届けた。準決勝でも青学の強さ、勢いは止められることは無くシングルス3までを全て勝ち、ストレートで勝利した。これで、もう次は決勝戦だ。
コートから出て来る選手達。その中で一人つまらなそうに出て来るリョーマに、あかりは笑いが我慢できなくなっていた。
「リョーマくん、そんなにふてくされないで。決勝戦は出られるんでしょう?」
「でも、3勝したらお終いだから、シングルス2だったら下手したら出れないし……」
先輩を差し置いてシングルス2以上になる可能性の心配をするリョーマを生意気にも頼もしくも思いながらあかりが慰めていると、もう一つの準決勝の結果を聞いた部員達が驚きの声を上げた。なんでも柿ノ木中がノーシードで出場している不動峰中にストレートで敗れたというのだ。
「柿ノ木ってさっきの……」
立海と練習試合を重ねたという柿ノ木が負けるなんて……という思いと同時に、不動峰という名前で青学の試合前に見た凄いサーブを打つ選手を思い出したあかり。
不動峰に関する情報を部員達が各々口にする中、渦中の準決勝を見てきた乾が報告をする。選手は全て入れ替わり部長以外はみな二年生の、生まれ変わった不動峰。そして、その二年生があの柿ノ木の九鬼を圧倒したと。それが決勝の相手だった。予想に反する展開となった地区予選。青学メンバーの間に僅かながらの緊張が走ると、堀尾が新参者が相手なら優勝できるとおどける。すると、そのすぐ後ろに全身に黒を纏った集団が立っていた。
それは、今まさに話題になっていた不動峰の面々で、部員達を連れて先頭に立つ部長の橘は手塚の前に進む。
「手塚だな。俺は不動峰の部長、橘だ。いい試合をしよう」
「ああ」
橘から差し出された手に応え、握手をした手塚。その様子を見て周囲の雰囲気が和らぐ。握手を解いた橘は手塚の斜め後ろにあかりが立っていることに気が付くと、「朝はどうも」と言って軽く目線で会釈をした。橘から声を掛けられるとは思わなかったあかりは慌ててお辞儀で返した。
新生不動峰となった決勝の相手を興味津々で観察する青学の部員達の前で、列の一番後ろにいた少年がラケットのフレームの上でボールを転がしバウンドさせるというテクニックを見せ、静かなる挑発をしてきた。凄いサーブを打っていた人だとあかりも目を奪われていると、すぐ側のベンチに座ったリョーマが同じように手元を見ずにラケットのフレームでボールを弾ませていることを知る。負けず嫌いなその姿にあかりが笑みを堪えていると、静かにリョーマを見た橘は部員達を連れて去っていった。
彼らを前にして気持ちも引き締まった青学テニス部の面々に、竜崎から決勝戦のオーダーが発表される。ダブルス2に不二と河村。ダブルス1に大石と菊丸。シングルス3に海堂。シングルス2にリョーマ。そして、シングルス1に手塚。準決勝で補欠だったリョーマとは反対に、決勝では桃城が補欠となった。
ただならぬ気迫を纏う不動峰との試合を前にくるぶしに巻いたパワーアンクルを外す選手達。そして、部員達の応援へ向けた熱も留まることを知らず沸き上がっていった。
*****
青学対不動峰の地区予選決勝戦が始まった。
決勝までに敗れた学校の生徒達も加わり、一層増えた観客の注目が集まるコートでダブルス2の試合が展開されている。ノーシードの不動峰相手なら第一シードの青学が圧勝するだろうという声も、どこからか聞こえてくるコートの周辺。しかし、戦況は強烈なトップスピンで強い跳ね返りをみせるボールを繰り出し続ける不動峰が押していると見える状態だった。
「すごい気迫……」
あんな風にスピンを掛け続けるのは仕掛けている側としても負荷になるだろうに、それがラリーを繰り返す度にキレを増してさえいる。鬼気迫るその戦いぶりに手に力が入ってしまうあかり。このまま押された状態で展開されてしまうのだろうかと固唾を飲んで見守っていたその時。不二の返した球が一度相手コートに着いた後、弾まずに地面スレスレの空気の上を走るように転がっていった。
「不二の得意とする三種の返し球(トリプルカウンター)の内の一つ……つばめ返し!」
オーバーなリアクションこそ無いが驚いた様子でいたリョーマに菊丸がそう言うと、海堂が続けて技の仕組みを教えた。それをフェンスを挟んで聞いていたあかりは慌ててメモを取る。
「相手のトップスピンが強ければ強いほど、逆回転に磨きが掛かるつばめ返し、か。相手の力を利用する、これがカウンターなんだ……」
カウンターがどういうものかを知識としては知っていても、こうして目の前にするとその厄介さが理解できた。自分の力を利用されて相手から返されるなんて、技の威力が云々は元より気持ちの面でもダメージを受けそうだ。
そして、不二のカウンターを皮切りに青学が押し返し始める。ゲームカウントも4ー3。次に取れればブレイクポイントだ。青学サイドの応援が一層大きくなる中あかりは、不動峰の後衛である長身の選手が腕捲りをした仕草が目に入った。その後、ラリーが繰り返される中でその選手は、何度もベンチに座る部長の橘に目線を送っている。
「何かの……サインを待ってる?」
直後、ぐっと口角を上げて返ってくる球に備えて深く構える姿勢をとった。不動峰のベンチからは「いけ!石田!波動球!!」と声援が送られた。
石田と呼ばれたその選手が腰を低くして構え、力を全て球に乗せるようにして放った強烈な一撃が不二の方へ飛んでいく。あんな球を待ち構えるのではなく取りに行く状態から、しかもバックハンドではまともに返せるとは思えない。怪我をしてしまうことだって充分に考えられた。
それでも、このポイントが重要であることを押してか波動球を受けようとする不二。しかし、それを制止し不二の前に滑り込んだ河村が両手打ちで何とか相手コートに押し返した。ホッとした声と返されたというどよめきが混在する中、向かいのコートでは再び石田が波動球を繰り出そうと待ちかまえていた。それと同時にベンチの橘が声を上げて席を立つ。
「橘さん、止めさせようとしてる……?」
正確には聞き取れないが表情などから、もう一度波動球を打つことを止めているように見える。しかし、コートに立つ石田の構えは変わらず二発目の波動球を繰り出そうとしていた。
ぐっと引いたラケットを握る右腕の筋肉が盛り上がり返された球を迎え撃つ。だが次の瞬間、球はガットを抜けて過ぎ去ってしまった。ラケットに穴が開いたのだ。途端、緊張に縛られた青学サイドから安堵の溜め息が漏れた。相手のサーブで始まるゲームを勝ち取るブレイクで5ー3まできた青学。次は自分達に有利となるサーブ権を持つゲームであるため、これで決着が着くだろうと盛り上がる。
「伊吹先輩!次で決まりそうですね!」
「……うん。でも、河村先輩……」
きらきらと瞳を輝かせる一年生に曖昧に微笑みながら河村と不二の様子を見つめていると、不二がラケットを持つ河村の右手首を握ってその症状を確認した後、審判に棄権を申し入れた。辺りからも驚きの声が上がり、コートに立つ河村自身も食い下がる姿勢を見せたが説得を受け納得したようだった。
コートを離れる河村に冷却スプレーで応急処置を施しながら、念のため病院へ行くことを勧める乾。二年の林と池田と共にあかりも病院まで付き添おうするも、ラケットを手放したいつもの穏やかな河村に「この後、越前の試合もあるから見てあげて」と言われ、会場の入り口までに留まった。二人に付き添われ会場を後にする河村の後ろ姿を見送ったあかりは、空気が僅かに肌寒いものに変わったのを感じながら決勝戦の続くコートへと急いで戻った。
*****
「な、なにあれ……」
あかりがコートの近くまで戻ってきたところで目にしたのは、超至近距離でバウンドもさせずに二つのテニスボールを打ち合う不動峰の選手を前にして、明らかに虫の居所が悪そうな海堂の姿だった。そんな三人の後方では一年生達がヒヤヒヤとした様子でことの成り行きを見守っている。
試合前に喧嘩になるようなことはないとは思うが、ギロリと睨む海堂を見て声を掛けた方がいいだろうかとあかりが向かおうとする。すると、そこへすっと現れたリョーマがまるで何でもない所を歩くようにして、往復するボールの間をラケットで幾つか受け流しながら通り抜けていった。それには流石にやっていた本人達も驚いたようでラリーを止める。気にかけない素振りで水道の水に口をつけると「まだまだだね」と言って、顔を上げたリョーマ。
「……ねえ、球もう一つ増やしてみる?」
更には相手を挑発し返すようなリョーマにより冷静さを得られたのか、それとも馬鹿らしくなったのか海堂は去って行き、リョーマもその場を離れた。そして、そんなリョーマを追って一年生達も駆け足でコートの方へ戻って行く。大きな衝突無く済んで良かったとあかりが胸を撫で下ろしていると、その場に残された不動峰の選手がふっと空を仰いで「ひと雨来そうだな」と言って去って行った。
その場に一人となったあかりがゆっくりと顔を上げると、頬にぽつりと冷たい雫が弾かれてつうっと伝った。
「本当だ、雨」
確かめるように次に落ちてくるのを待っていると、あっという間に至る所に降り注ぎ足元の色を濃くしていき、粒は大きくなっていった。あかりは慌てて背負っていたリュックから大きなタオルを取り出し頭から被ると、雨が降ったら試合はどうなるのだろうと早足でコートへ向かった。
*****
「雨でも試合は続行するものなんですか?」
定位置に戻るようにあかりが隣に立つと乾は、「おかえり」と言ってからチラリと空模様を窺った。
「酷ければ中断したり、中止になることもあるけど……このくらいなら大丈夫かな。すぐに止みそうだし」
「そうなんですか。足場が悪くなりますね」
青学、不動峰、双方の選手が駆け回るコートの上は足が乗る度にぐずぐずと形を歪に変化させ、踏み込めば抉れ、飛び上がれば泥が跳ねていた。雨を吸い衝撃で変形していく土をもろともせず自由に跳ね回る菊丸の姿、そしてそんな菊丸に動揺の一つも見せず全てを理解しているように後衛を務める大石との見事な連携にあかりが魅せられていると、程なくして決着が着いた。これで、一勝一敗。まだまだ先は分からない。
労いの言葉を掛けられる大石、菊丸ペアの向こうでゆらりとベンチを立つ海堂の姿が見えて、あかりはフェンス越しではあるがすぐ後ろに立てるところまで駆け寄った。
すぐに声を掛けようとしたが、隣に座っていたリョーマと何か言葉を交わしていたようでタイミングを計っていると海堂はふっと空を見上げた。つられてあかりも空を仰ぐと雨はすっかり止んでいて、雲間から光が射していた。
「雨、止んだね!海堂くん頑張って!!」
もうコートへ向かってしまうと思い急いで言葉を贈ると、振り返った海堂は一瞬驚いた後、いつも通りの低い声で「ああ」と返した。良い試合ができるようにとあかりがその背中に願っていると、不意に声を掛けられた。
「ねえ、先輩と仲良いの?」
声のした方を向くとそれはリョーマで、膝に肘を掛け頬杖をついてこちらを見上げていた。突然の質問にあかりが「海堂くん?」と首を傾げれば「そう」と頷かれる。『海堂と仲が良いか』という問いに真剣に考え出すあかり。海堂は出会った時に助けてくれて、その後も同じクラスで隣の席となり日々助けてくれる存在だった。それは率先してだとか好意的にという訳ではなく仕方がないからというものに近いとは思うが、それでも決して不仲であるとは思えない。というより思いたくはなかった。
「え、もしかして……嫌われてるっ?」
あれこれと考えた末に顔色を変えながら逆に尋ねてきたあかりに、リョーマは視線をコートへ戻し「その逆だから聞いたんじゃん」と言って短く息を吐いた。
「リ、リョーマくんっ?」
「どうしよう」という具合になったあかりに「大丈夫、嫌ってはないよ。多分ね」と適当に返して、ネットを挟んで不動峰の選手神尾と向かい合う海堂を見たリョーマ。あかりも心配そうな顔色を残しながらコートの様子を見ていると、相手選手の神尾が口を開いた。
「よっ、お前マムシってあだ名らしいな。ピッタリじゃねぇか」
その一言に海堂が眉を吊り上げ目を剥くと、なんと神尾目掛けてラケットを振った。ベンチに座る大石の咄嗟の制止は届かずラケットは振り切られたが、反射神経の良さか神尾はそれを足捌きだけで避けてみせた。それから審判からの注意の後、手塚と橘、双方の部長が言葉を交わしてそれ以上事態が悪化することなく試合は始まった。
「海堂くんってマムシって呼ばれてるんだ。初めて聞いた」
ハラハラと見守る部員達の中であかりがそんな言葉を零すと、ギョッとした視線が一身に注がれた。
「え、なに?」
流石に周りの反応に驚いたあかりが助けを求めてリョーマに視線を送ると、「本人は好きじゃないみたいだけどね」と補足をしてくれた。そして、そうなんだと納得したあかりは「でも、蛇でしょ?格好良いと思うけどなあ」と呟いて試合に目を向けた。
*****
試合開始早々に見せられた神尾の圧倒的なスピード。それは角度のきつい球で相手を左右に奔走させる海堂のスネイクにとって、追い付かれて更に角度を強めて打ち返されてしまう最悪の相性となる特性だった。水を吸い重くなった球はスネイクの威力を弱め、濡れて柔らかくなった足場は海堂の足を滑らせ土に伏せさせる。同じコートの状態でありながらそのスピードを落とさない事実が神尾の力を痛感させる。
返されてしまうスネイクを尚も打ち続ける海堂が再びそれを繰り出そうとした時、彼の足はぬかるんだ地面に取られて体勢を大きく崩す。誰もがこの一点でゲームを取られると思っただろう中、崩れ落ちていく中で振り抜いた海堂のラケットから放たれたスネイク。それは今まで見たことのない軌道を描いて相手のコートに突き刺さった。
驚く声の中からポールの横を回りまるでブーメランのように戻ってきたことから「ブーメランスネイク」という言葉が出てきた。そして、それは彼の隠し持っていた大技なのだろうかと一気に会場が沸き立つ。
「乾先輩、今のは?」
「ポールの外側を通って戻ってくる『ポール回し』歴とした技だよ。でもあんなスゴイのは初めて見たな」
部員達の視線を受けて簡単に説明した乾はすかさずメモを取った。
40ー15と土壇場で空気を変えたに思われた海堂であったが、直後の神尾による低く上げたボールを素早く打つサーブで不意を突かれ、1ゲーム目を落としてしまった。その後、幾度となく先程のブーメランスネイクを試みるが始めの一発以降それが成功することは無く、3ゲームを連続で取られてしまった。
「海堂くん……」
ブーメランスネイクという、まだ完璧に会得していない技に頼らなければ勝てない試合なのだろうか。一発逆転の大技に縋るような海堂の姿はなんだか見ていて苦しくて。でも、自分にできるアドバイスなんてものは無くて、あかりはただチェンジコートでベンチに戻ってきた海堂の背中を見つめた。
すると、今まで試合を静観していた竜崎が口を開き、海堂に自身のテニスと向き合えるよう言葉を掛けた。それに一瞬だけ小さく身体を揺らした海堂はゆっくりと立ち上がる。コートへ向かう瞬間にほんの少しだけ視線がベンチの方へ送られて、あかりは小さなガッツポーズを両手で作り言葉にできない思いを応援にした。
それに応える様子はなかったので、あかりの応援が目に入ったのかは分からない。ただ、竜崎の言葉により海堂に変化があったのは確かだった。コートに戻った海堂はブーメランスネイクを打つことは一切なく、ただただコートの上を駆け回りボールを拾い続け、一進一退の攻防を繰り広げることで3ー5にまで追い付いていた。
「海堂くん、すごい……」
泥まみれで食らいつくその姿は、もがき苦しんでいた時とは比べ物にならないくらい生き生きとしていた。海堂の特性とも言える粘り強さにあかりが引き込まれていると、河村を病院へ送ってきた林と池田が戻ってきた。
「あ、林くん、池田くん!」
「おーう、林、マサやん。タカさんのケガは!?」
「大丈夫。骨に異常ないって。頑丈頑丈」
二人の存在に気付いた桃城がフェンスから身を乗り出して尋ねると、大きな怪我にはなっていないことが伝えられた。そして、それを聞いた桃城は病院へ様子を見に行くとフェンスを飛び越える。聞かれた試合の状況に「面白くなてきたぜ」と答えるともう病院へ向かおうというところだったので、あかりは慌てて桃城に声を掛けた。
「様子なら私が見に行くよっ?」
選手の桃城はこの場に居た方がいいんじゃないかと思いあかりが声を掛けると、「んー?」と試合の様子を遠目に見てから首を左右に振った。
「いんや。そろそろ決着も着くだろうし、伊吹さんがここに居た方がいいんじゃねーかな」
「そ、そうなの?」
よく分からない桃城の発言を受けてあかりが首を傾げていると、「んじゃ、ちょっくら行ってくるぜー」と言いながら駆けていってしまった。
「あ、行っちゃった」
どんどんと小さくなっていく桃城の背中を見送ってあかりが戻ると、ノートを広げた乾が海堂が日々こなす膨大な量の練習メニューを読み上げていた。部活の練習量だってそれなりのものなのにと驚く部員達をよそに、あかりは一人腑に落ちたような心持ちでいた。繰り返されるデュースにも呼吸を乱すことなく戦い続ける体力は、不完全な大技なんかよりも余程彼の強みであるように感じて、もう不安や苦しさは感じない。
デュースの末に積み重ねていったゲームにより6ー5と逆転までし、再びデュースにもつれ込む海堂と神尾の戦い。圧倒的なスピードを見せつけていた神尾にも限界が来つつあるのか、サーブの直後にグッとネット際に迫って勝負を仕掛けてきた。体勢を崩されながらも振り抜いた海堂渾身のスネイクは鋭く相手コートに入る。ネット際の神尾がガットの縁、フレームにボールを当てながら何とか打ち返すとふらふらとした軌道を描いてネットにぶつかり越えていく。青学側から悲鳴のような声が出てくる中、スローモーションのように落ちていくボール。
味方でさえもう駄目かと思われたその球の下にラケットが差し込まれる。それは勿論海堂のもので、滑り込むようにして飛び込んだ彼の身体は打ち返すと同時に地に転がった。これで再び流れを取り戻そうとしていた神尾からしてみれば、これほど堪えることはない。
無尽蔵とも思える体力でもって圧倒的な粘り強さを維持する海堂は、その後も神尾にペースを譲ることなく試合を展開して7ー5という長い戦いを勝利で収めたのだった。
序盤の試合展開からは想像できなかった海堂の勝利に沸く青学と観客。あかりもその中で彼等に拍手を送った。
コートから戻った海堂は先輩達の労いに言葉短く返すと、ベンチには座らずフェンスへもたれるようにして一息吐いた。そんな彼にタオルとドリンクを渡そうと鞄を探ってから向かうと、乾が海堂に話し掛けていた。近くまで来た所で二人が試合中に生まれたブーメランスネイクを会得する為の練習について話していることが聞こえ、勝利の喜びに浸り続けることなく更に先へ向かう意志の強さに驚く。
「あれ、伊吹さん。海堂にかい?」
「あ、はい」
タオルとドリンクを手に立っているあかりを見て乾がそう言うと、その存在に気が付いた海堂はちらりとあかりを見た後、帽子を深く被るようにバンダナをぐっと下げた。
「海堂くんお疲れさま」
乾の隣に並びフェンス越しにタオルとドリンクを渡すと、海堂はジャージで軽く手を拭い「ああ」とそれらを受け取ったが汗や土で汚れた顔をすぐにタオルで拭うことはしなかった。受け取ったドリンクに口をつけ喉を潤す姿をあかりが見ていると、一瞬怪訝な顔をしてバンダナを外し顔を拭った。そこで漸く彼がタオルを泥で汚さないようにしていてくれていたことにあかりは気付いて、思わず頬の筋肉が緩んでしまう。
「海堂くんお疲れさま。ありがとう」
「お、おう……」
わざわざもう一度労いの言葉を掛けられ、更には柔和な笑みまで向けられて、訳が分からないと言いたげな表情であかりの隣に居る乾に視線を移す海堂。しかし、その乾は海堂の不器用な気遣いもあかりがそれに気が付いたことも見えていて、逆光し窺い知れないレンズの向こうで目尻を下げて笑った。
「……そろそろ越前の試合が始まっちまうぞ」
尚更分からなくなった海堂は眉間に皺を刻んでそう言うと二人から顔を逸らした。海堂の言葉を聞いたあかりが先程までリョーマが座っていたベンチを見るとそこにはもう姿がなくて、瞳を左右に揺らし選手達の合間から探すとコートの脇を歩いているリョーマを見つける。
「リョーマくん!」
リョーマに近い所まで駆けて呼び止めると、ラケットで肩をぽんぽんと叩きながら振り返った。
「応援してくれないのかと思ったよ」
「そんな訳ないじゃない、頑張ってね!」
「とーぜん」
緊張で固くなるどころか胸を踊らせいるようにも見える自信溢れるその顔が頼もしくて、あかりは大きく頷いて見送った。しかし、リョーマに続いて名前を呼ばれコートに入った不動峰の選手伊武を見て、全身に緊張が走り鳥肌がたった。
「あ、あの選手……」
不動峰が大五所と当たった試合で相手選手目掛けて跳ね上がるサーブを打っていた選手がリョーマの対戦相手だったのだ。あの危険なサーブを伝えたいと思っても時既に遅く、リョーマは伊武と相対し試合はもう始まる寸前。
「リョーマくん気をつけてっ……」
これを決めれば青学の優勝となるためか、周囲に捨て試合だと言われるリョーマの本当の強さを知っている自信からか、一層応援が盛り上がる部員達の中であかりはリョーマの身を案じた。
そして、シングルス2の試合が始まる。
*****
しかし、あかりの心配とは反対にその危険なサーブを先に繰り出したのはリョーマの方だった。しかも連続で放たれるそのサーブであっという間に1ゲーム目を取ってしまったのだ。あかりにとってそれは想定外の開幕で思わず乾の元まで駆け寄り、リョーマのあのサーブは何なのかと尋ねる。すると、あかりの声が聞こえたのかフェンスに手を掛け応援していた堀尾が振り返る。
「あれ。伊吹先輩は越前のツイストサーブ見たことなかったんですかっ?」
「うん。みんなは知ってたんだね」
「リョーマくんの得意技ですよ!」
「そうなんだ」
誇らしげに言う一年生達に教えてもらったあかりが声を抑えて「先輩、あの選手も……」と言うと、乾は一拍置いてから頷いた。
「伊吹さんも見たのかい?」
「はい。不動峰が一回戦の時に。先輩、あれって……」
「うん。次のゲームで返してくるだろうね」
2ゲーム目が始まるコートへ目線を移した乾に倣ってあかりもそちらを見ると、案の定、伊武は一発目のサーブでそれを繰り出した。ツイストサーブと同様に顔面目掛けて跳ね上がるボールはリョーマの帽子を宙に飛ばす。まさか同じ技で返されるなんてと驚く会場に「キックサーブ」というワードが不動峰から出てくる。リョーマと同じだと思っていたサーブが違う名称で呼ばれていることに疑問を持った堀尾がすかさず乾に尋ねる。
乾によると回転や威力に違いはあるものの原理は同様で、平たく言えば同じ技に時代別の名称がついているようなものだと教えてくれた。
こんな形で反撃されてリョーマは大丈夫かとあかりが見ると伊武に何かを言われた後、右手に持っていたラケットをポイと左手に持ち替えた。利き手でなかったのかとどよめく不動峰の選手達と観客、それに喜ぶ一年生達を見ながらあかりはまだ不安が消えずにいた。
「左手に持ち替えたってことは、リョーマくんはツイストサーブをもう打たない、ということ?」
勿論、それを一つ封印したからといってリョーマが試合に困るとは思わなかったが、利き手に持ち替えたということは一筋縄ではいかない相手であると思われるからだ。ラケットを左に持ち替えてからのリョーマはより攻撃に積極的で、ネット際にもどんどん上がっていった。どう見ても優勢を保っているリョーマに応援も盛り上がる。そんな中、後ろから聞いたことのある女の子の声がしてあかりが振り返ると、そこには杏と桜乃が立っていた。
「……ウソ。深司くんが押されてるなんて。それにあのボーシの子……左手で打ってる!どうなってるの!?」
「橘さん、桜乃ちゃんも」
あかりに気付いた杏が「これはどうなってるの?」と尋ねてきて、試合開始からの流れを大まかに説明するとどちらの意味かは分からないが「……信じられない」と呟いた。
「桜乃ちゃんは女子の方、大丈夫?」
「はい。一段落ついたので」
それから杏は不動峰の選手がいる方へ移動し、あかりは桜乃と並んでリョーマの試合を見守った。そして、二人のラリーを見ていく中であかりは小さな違和感に気付く。
「なんだか、変な感じ……」
「何がですか?」
「変、というか……規則的?」
「規則的、ですか?」
上手く説明できないあかりが身体で伊武の打ち方を表現する。
「さっきから不動峰の伊武さんはこういうのと、こういうので交互に打ってるの」
そう言って下から振り上げる打ち方と、上から振り下ろす打ち方とをしてみせる。
「えーと、二つの回転を交互に繰り出してるってことでしょうか?」
「そう!……なのかな?」
「え、えーと、私には何とも」
それの何がおかしいのかはあかりには説明できない。ただ、あまりにきっちりと打ち分けるからそれが気になってしまったのだ。気のせいであってほしいと願う気持ちで再び試合に目を戻して少しすると、抱いていた違和感は形となって現れた。普段のリョーマであれば抜かれないであろうポイントで綺麗に取られてしまったのだ。心なしかその際に一瞬だけリョーマの動きが止まったようにも見えて、あかりの握る手に力が入る。
そしてまた暫く打ち合う内にリョーマの動きに異変が起きる。バックハンドで振り下ろそうとしたリョーマがピタリと動きを止めたかと思うと、すぐさま身体を捻らせて振り抜いたのだ。
「やっぱりおかしい……リョーマくん」
強行的に打ちに行ったリョーマの手からラケットが抜けるとそれはポールにぶつかり、グリップ部分とフレーム部分で真っ二つに折れた。そして、ポールにぶつかった反動のままに勢いを保ったグリップ部分の、折れて鋭く尖った箇所がリョーマの顔面目掛けて飛んできた。それは左瞼の上をなぞり大きな傷口を作ってからコートの上に落ちる。傷口から溢れ出した血はどくどくと流れリョーマの頬を伝っていった。突然の出来事に慌てふためく桜乃の手を一度強く握って「大丈夫」と諭して、あかりはベンチ近くで様子を見る乾の隣に立った。
布をあてながら傷口を見る大石は瞼が大きく切られていることと、出血が止まらないことを確認する。病院で治療して戻ってきたばかりの河村は頭を抱えてふらふらとよろめき、他の部員達もリョーマを心配そうに見つめた。
リョーマが試合を続行できるかと窺う手塚に大石は不可能を告げるが、リョーマは止める気は無いようで桃城に予備のラケットを出すよう頼んだ。大石や乾、そして出血が止まらないのなら続行はできないと言う審判にも、ジャージの裾でゴシゴシと血を拭って問題ないと譲らないリョーマ。
ネットを挟んで向かい合う青学と玉林の選手達と読み上げられていくオーダーを聞いて、いよいよ始まるんだと息を飲むあかり。ダブルス2の試合がすぐに始まるため桃城とリョーマがコートに残り、戻っていくレギュラーの姿を追っているとベンチに座っていた手塚が視界に入る。
「手塚部長……」
大丈夫だとは聞いていてもこうして控えになっている姿を見るとやはり不安なもので、あかりは思わず見つめてしまう。すると、隣に立っていた乾が声を掛けた。
「ん?何か言ったかい?」
「あっ、い、いえ!」
口に出してしまっていたと気付いたあかりが慌てて取り繕うと乾はコートの方へ視線を戻し、「もめてるよ」と呟いた。フェンスの近くに居た不二もコートの様子を見てか「成る程、あれが原因ね」と微笑む。
「も、もめてるっ?」
一触即発な雰囲気なのだろうかとあかりも慌ててコートへ視線を移す。リョーマと桃城は確かに玉林の選手と何かを話しているようだったが、ガンを飛ばし合っている風でも今にも掴みかかりそうな様子でもなく一安心した。
「二人とも、玉林の選手と何かあったんでしょうか?」
「さあ……」
「なにかあったから、ダブルスをしたいなんて言い出したんでしょうけど」
あかりが率直に疑問を口にすると乾は首を傾げて、不二はいつもの穏やかな微笑みで返した。
「よし越前!阿吽戦法いくぞ!」
「ウイース」
ネットを挟んでの握手を済ませそれぞれのポジションに立とうかという時、桃城とリョーマはそう言って拳を合わせた。その声はベンチに、いや、あかりの立つフェンスの外まで聞こえており思わず首を傾げる。同じくその戦法に聞き覚えが無いのか、菊丸はあかりの隣でフェンスに肘を掛ける乾に尋ねた。
「阿吽戦法……?何だそれ。乾、知ってる?」
「いーや……」
乾が知らない戦法だと聞き、何か珍しいものか二人で開発した新しい戦い方なのかもと、あかりはノートを取り出してメモを取る。
「阿吽って、阿吽の呼吸の阿吽……でいいのかな?」
第3話 優しさはいつだって不器用
あかりが気になった「阿吽戦法」は試合開始直後、玉林のサーブを受ける際に見せられた。綺麗にコートの真ん中に打ち込まれたサーブを両サイドから追うリョーマと桃城。こういう場合はどちらが球を拾うんだろうと見ていると次の瞬間、桃城が大きな声で「阿」と叫び、それに応えるようにリョーマが「吽」と叫ぶ。そして、玉林のサーブは桃城が打ち返した。
シングルスでも強い二人はダブルスでも健在なのか、その後も順調にボールを返していく。真ん中に来た時は「阿吽」と叫んで見事に切り抜け、相手のサーブだというのに0ー40にまで追い詰めた。息は合っているけど掛け声が恥ずかしいという一年生達に心の中で僅かに同意しながら、それでも健闘する二人にあかりは感心していた。
「二人ともダブルスでの試合は初めてなんですよね?頑張ってますよね」
「そうだね。でも……」
試合の様子を冷静に分析しているような乾は何かに気付いている様子で言葉を途中で切った。すると、その直後に順調に得点を重ねていた二人がそれを奪われた。二人共がコート左に寄っていた時に打ち込まれた、コート右へのボール。それを拾おうと追いかけたリョーマと桃城は双方とも追い付き、ラケットがぶつかり合ってしまったのだ。
「あれ、どうして……」
今まで良い調子だったのにと首を傾げたあかりとは反対に、乾やベンチの面々は予期していたようにその事態を受け止めていた。
「……やりおった」
「真ん中以外は意志の疎通0だな」
竜崎の言葉に続けて手塚がそう言った後、不二も堪えきれないように笑いを零す。一年生達も何か感じ取ったのか「嫌な予感がする」と口にした。そして、相手の玉林の選手も何かを掴みかけているのか、言葉を交わしている。
引き続き玉林のサーブで再開される試合。しかし、相手の打ったサーブは試合の球とは思えないほど緩やかな速度で、なだらかな弧を描いてリョーマ達のコートの手前に飛んだ。なぜあんなサーブをとあかりが思っていると、玉林の選手が二人共ネット際まで上がってきた。どこからか「ダブルポーチ」という単語が聞こえ、一年生達からも「あれだけ二人で前につめられたら、打つとこないじゃん!」と声が上がる。
「あのサーブはこのために……」
ダブルスという点を活かした二人で作り出す壁で相手の打つ範囲を狭め、ボレーを落とす。無駄のない玉林ペアの動きに感心していると、あっという間に点が決まってしまった。その後も、リョーマと桃城がコートのどちらか一方に寄るようコントロールして、連携の取れない二人には取ることが難しいボールを打ち込む玉林ペア。ついに得点は40ー40と追い付かれてしまった。
「陣形が崩された」と指摘されたことを受け、堀尾がシングルスとダブルスの陣形の差について乾に尋ねた。あかりも頭の中で手塚から貰った本を思い出しながら、木の枝で地面にガリガリと記していく乾のレクチャーを聞く。二人の問題点は連携が上手く取れていないことは勿論、それに加えて守備範囲が広過ぎる余りにボールに追い付けてしまい、互いにボールを拾いに行って逆サイドに隙が出来てしまうという意外なものだった。
「出来てしまうことが徒になるなんて……」
試合の最中にもっと意志疎通を向上させろと言っても簡単にできるものではないだろうし、一体どうすればこの状況から抜け出せるのだろうと案じていると、また玉林の得点が決まり第1ゲームが終わった。
チェンジコートの際、ベンチへやってきた二人はすっきりしない顔で互いのタイミングの悪さなどを愚痴った。それをコートを移る玉林ペアが通り過ぎ様に挑発して去っていく。こんな挑発にわざわざ引っ掛からないだろうとあかりが竜崎同様に思っていると、リョーマと桃城は瞳をギラギラとさせて全力で乗っかっていた。
「人選間違えたかの、手塚」
「はい」
そんな竜崎と手塚のやり取りを聞くことなく、二人は試合へと戻っていく。
第2ゲームはサーブが青学に移り、桃城のサーブで始まった。と思ったら、その球は見事に前衛としてネットの前に立っていたリョーマの後頭部に直撃する。敢えて抗議をしないリョーマの静かな怒りに機嫌の悪さが窺える。
「リョーマくん……」
優勢と見て一層応援に力の入る玉林サイドにムッとした表情をしたかと思えば、リョーマがクロスで抜こうとした先に桃城が滑り込み、今度は桃城の後頭部に直撃する。
そんな具合に噛み合わないダブルスを続けて、第2ゲームも玉林に取られてしまったリョーマと桃城。「即席ダブルスじゃダメか……」と肩を落とす一年生達の声を聞きながらもあかりがコートを見つめていると、二人は予想外の行動を取り出した。なんと二人はコートの真ん中にラケットで境界線を引き、それぞれが担当する陣地に完全に分けてしまったのだ。そして、コートを二つに割ってからというもの、今までの動きにくさが嘘のように伸び伸びとプレーを始めた二人。相手に隙を与えることなくどんどん得点を決めていく。
「それにしたって、これは……ダブルスの試合としてアリなのかな?」
思わず笑顔が引きつってしまったあかりの後ろで乾の描いた図を見ていたカツオ。彼はリョーマ達が取った手段に気が付き声を上げた。
「そっか!!お互いにシングルスをやってんだ!」
「簡単に言えばね」
カツオの言葉を肯定すると、今の二人は自分のコートのもう一人の存在を気にしないよう境界を作って、相手にだけ集中していることを説明した。そして、これによって普段のプレーをできるようになったと。そして最後に「フツーは考えないけどね」とも付け足して。
それからはダブルポーチにも、コートの片方に寄せようとするボール運びにも崩されることなく得点を重ねていくリョーマと桃城。終いには「けっこう楽しいね、ダブルス!」なんて言って玉林ペアを呆れさせた。それでも、ルール上決して違反をしていない二人を止めることはできず、どちらのコートに打っても返される状況に苦しんだ玉林の選手は、コートのド真ん中へ打ち込んだ。
「あ、真ん中はっ」
コートに響きわたる「阿」「吽」の声と共にダブルス2は決着がついた。基本シングルス真ん中だけダブルスという珍妙なプレースタイルで。
「やっぱ男は……」
「ダブルスでしょう!!」
勝利を手にしたリョーマと桃城は、互いの健闘を讃え合うようにラケットを軽くぶつけ合った。
*****
「バカモノ」
勝利を持ってベンチへ戻ったリョーマと桃城に待っていたのは、竜崎のお説教と頬抓り、そして正座だった。勝ったのに地面に正座をさせられる姿に観客から笑いが起こる中、フェンス越しではあるがあかりは二人のすぐ後ろまで来て労いの言葉を掛けた。
「リョーマくん、桃城くん、お疲れさま。真ん中だけだったけどそこはちゃんとダブルスだったし、コートを半分にしてからの二人はすっごく楽しそうで……格好良かったよ!」
あんまり開けっぴろげに褒めると竜崎に怒られてしまう気がして、こっそりと伝えたあかり。その言葉に二人は驚いた様子で振り向くと「……だろっ?」「……とーぜん」とそれぞれ答えて、また前を向いた。
その後のダブルス1の大石、菊丸ペア。シングルス3の海堂。シングルス2の河村。シングルス1の不二と。どの試合も危なげなく勝利して、結果的に青学は第一試合を5勝、ストレートで勝利してしまった。
「やっぱり強いんだなあ、凄い」
初めて見たレギュラーメンバーの試合に圧倒されたあかりが誰にでもなく感嘆の気持ちを零していると、昼休憩に入ろうとする部員とは別にまだ試合中のコートの方へ向かっていく手塚と不二の姿が見えた。
「あの、まだ試合中なのは、鈴音山と柿ノ木でしたよね。ご一緒しても良いですか?」
会場のトーナメント表にまだ結果が書かれていなかった試合を思い出しながらあかりが尋ねると、手塚は「構わないが」と許可してくれたので二人の後をついて歩き出した。
*****
コートに着いた時には鈴音山対柿ノ木の試合はシングルス1の終盤となっていて、程なくして柿ノ木の選手が勝利した。柿ノ木も5勝、ストレートで勝ち抜いていて強い相手だということが窺える。
「お前は決して弱くない。オレが強かっただけの話だ!!」
シングルス1で勝利した柿ノ木の選手がそう言うと、隣に立っていた不二が「でた、名ゼリフ。絶好調だね、九鬼くん」と言った。その言葉に口癖みたいなものかなとあかりが考えていると、手塚が口を開いた。
「柿ノ木は神奈川代表の立海大附属中と、何度も練習試合をくんでたらしい」
「ああ、切原くんの……」
切原と聞き、つい先日その彼が青学へやって来た時のことを思い出すあかり。二年生でありながら全国大会を連覇する立海でレギュラーを務める彼の、ほんの一部分を見ただけで伝わってきたその凄さ。そんな彼の居る立海と練習試合を重ねてきた柿ノ木。練習試合などは双方にメリットを期待して行うことを思えば、柿ノ木の強さも推し量れる。
ここが決勝に来るのだろうか。そうあかりが二人に尋ねようとしたその瞬間、試合を終えたばかりの柿ノ木の九鬼が先に声を掛けてきた。
「よう、手塚、不二。そろって敵視察かよ。収穫はあったかなっ」
呼び捨てでこのように話し掛けてきたということは、九鬼は三年生で二人とは面識もあり話もあるだろうとあかりは黙って見守る。しかし、次に九鬼から続いた言葉は讃え合うライバルとは異なるものだった。
「そういや、手塚。玉林戦に出なかったらしいな。……いや、本当は出れなかったんじゃねぇのか」
口の端をつり上げて言う九鬼に一瞬ビクッと肩を揺らすあかり。すぐさま手塚の反応を見れば、彼は普段と変わらないポーカーフェイスでその場を去ろうとしていた。
「行くぞ。不二、伊吹」
「あ、はいっ」
手塚の後を追おうとあかりが足を踏み出すとその隣を九鬼が抜き去り、手塚の左肘を後ろからぐっと掴んだ。
「あっ……」
思わず声が上がってしまったあかりとは反対に、手塚はゆっくりと顔だけを九鬼に向ける形で振り返り「放せよ」とだけ言った。一瞬怯んだ九鬼の手から逃れた手塚は、すっと前を向くと何も言わずに歩き出す。
「大丈夫だよ。行こう、伊吹さん」
「は、はい」
突然のことと張り詰めた空気にあかりが助けを求めるように不二を見ると、彼は変わらない笑顔のまま優しくそう言って隣を歩いてくれた。後ろの方で九鬼が声を荒らげていたが、あかりは少し怖くて振り返って言葉を確かめることは出来なかった。
不二と二人で手塚の隣まで追い付いたあかりは、九鬼に強く握られていた手塚の左肘と彼の表情を心配そうに交互に見た。「大丈夫ですか?」と聞きたいがすぐに心配しては信頼していないようだし、肘のことを隠しているなら不二の居る前で聞くことが適切ではないかもしれない。あかりがまたぐるぐると考え始めていると小さな声で手塚に呼ばれる。
「伊吹」
「は、はいっ」
「問題ない」
ちらりと目線だけ送って手塚は言った。
「はい!」
手塚の言葉に安心し「午後も頑張りましょうね!」とガッツポーズをしたところで、あかりは大事なことを失念していたと気付く。
「あっ」
「どうしたんだい?」
「リョーマくんの分のお弁当も私が一緒に持ってきたの忘れてました!行ってきます!!」
視界の端々に昼食を取る人達が見えたことで思い出したあかりは、二人にお辞儀をするとリョーマを探して駆けていった。
「手塚、すっごく心配されてたね」
普段、部員達からは圧倒的な存在感のようなもので滅多矢鱈に心配などされない手塚を案ずるあかりと、それに応える手塚という珍しい光景を見た不二はくすくすと笑った。手塚は眉をピクリと動かすとその後は何事もなく歩みを進めた。再びくすくすと声を洩らした不二はそれから何も聞くことなく隣を歩いた。
****
「あ、リョーマくん居た!良かったー。遅くなってごめんね!」
「遅い」
「ごめんなさい」
一年生達がお弁当を囲んでいる輪の中で、リョーマはファンタを飲みながらムスッとした顔をしていた。
「わあっ、みんなのお弁当美味しそうだね!」
恐らくそれぞれお母さんが作ってくれただろうお弁当が見えて目を奪われていると、「いいから、早く」とリョーマに催促されるあかり。弁当を広げ自分も輪の中にタオルを敷いて座る
。
「え、一緒に食べるの?」
「え、一緒に食べないの?」
リョーマが一瞬嫌そうな顔を見せるも弁当は大きなものにまとめてしまっているし、一年生達もそれに食いついてくれたので同席することが出来た。
「うわーっ、豪華なお弁当ですね!」
「うん。ちょっとはりきっちゃった」
「伊吹先輩が作ったんですかっ?」
「うん」
口々に褒めてくれるのをあかりが照れ臭く受け止める中、リョーマは黙々と食べ進めていた。
「おい、越前!なんかねぇーのかよ。旨いとか美味しいとか!」
何を言うわけでもなくもぐもぐと頬張るリョーマを隣に座っていた堀尾が小突く。すると、口に含んでいた分を飲み込んだリョーマが弁当を数秒眺めた後 「……ん、ちょっと、多くない?」と言った。すかさず「そうじゃねぇーよ!」とツッコむ堀尾を気に留める様子もなく食事を再開するリョーマ。
「堀尾くん、ありがとう。でも、我ながら作り過ぎたとは思うよ。だから、まだ食べられそうだったら堀尾くん達も食べてくれる?」
あかりがそうお願いすると三人は「いいんですかっ!」と声を揃えて、残りのお弁当をかき込み出した。
*****
午後、最初の試合は対水ノ淵中戦。シードを貰っていた青学は早くもこの試合で準決勝だ。そして、準決勝からは5戦の内先に3勝した方が勝利となる先勝制となった。慣れることの無い緊張を胸にあかりが試合を待っていると、ノートを手にした乾がコートを離れていこうとしていた。
「あれ、乾先輩。試合見ないんですか?」
「うん、決勝で当たるところの試合を見ておこうと思って」
「なるほど」
「じゃあ、こっちは宜しくね」
「はいっ」
当たり前のことだが、こちらが準決勝戦をしているなら反対のブロックでも同じように準決勝戦が行われているというわけだ。しかし、それはつまり青学は当然決勝へ行くものと考えているということでもあって、乾の行動の自信に微笑みながらあかりは見送った。そして、その場に残ったあかりは水ノ淵との試合の様子をしっかりと見届けた。準決勝でも青学の強さ、勢いは止められることは無くシングルス3までを全て勝ち、ストレートで勝利した。これで、もう次は決勝戦だ。
コートから出て来る選手達。その中で一人つまらなそうに出て来るリョーマに、あかりは笑いが我慢できなくなっていた。
「リョーマくん、そんなにふてくされないで。決勝戦は出られるんでしょう?」
「でも、3勝したらお終いだから、シングルス2だったら下手したら出れないし……」
先輩を差し置いてシングルス2以上になる可能性の心配をするリョーマを生意気にも頼もしくも思いながらあかりが慰めていると、もう一つの準決勝の結果を聞いた部員達が驚きの声を上げた。なんでも柿ノ木中がノーシードで出場している不動峰中にストレートで敗れたというのだ。
「柿ノ木ってさっきの……」
立海と練習試合を重ねたという柿ノ木が負けるなんて……という思いと同時に、不動峰という名前で青学の試合前に見た凄いサーブを打つ選手を思い出したあかり。
不動峰に関する情報を部員達が各々口にする中、渦中の準決勝を見てきた乾が報告をする。選手は全て入れ替わり部長以外はみな二年生の、生まれ変わった不動峰。そして、その二年生があの柿ノ木の九鬼を圧倒したと。それが決勝の相手だった。予想に反する展開となった地区予選。青学メンバーの間に僅かながらの緊張が走ると、堀尾が新参者が相手なら優勝できるとおどける。すると、そのすぐ後ろに全身に黒を纏った集団が立っていた。
それは、今まさに話題になっていた不動峰の面々で、部員達を連れて先頭に立つ部長の橘は手塚の前に進む。
「手塚だな。俺は不動峰の部長、橘だ。いい試合をしよう」
「ああ」
橘から差し出された手に応え、握手をした手塚。その様子を見て周囲の雰囲気が和らぐ。握手を解いた橘は手塚の斜め後ろにあかりが立っていることに気が付くと、「朝はどうも」と言って軽く目線で会釈をした。橘から声を掛けられるとは思わなかったあかりは慌ててお辞儀で返した。
新生不動峰となった決勝の相手を興味津々で観察する青学の部員達の前で、列の一番後ろにいた少年がラケットのフレームの上でボールを転がしバウンドさせるというテクニックを見せ、静かなる挑発をしてきた。凄いサーブを打っていた人だとあかりも目を奪われていると、すぐ側のベンチに座ったリョーマが同じように手元を見ずにラケットのフレームでボールを弾ませていることを知る。負けず嫌いなその姿にあかりが笑みを堪えていると、静かにリョーマを見た橘は部員達を連れて去っていった。
彼らを前にして気持ちも引き締まった青学テニス部の面々に、竜崎から決勝戦のオーダーが発表される。ダブルス2に不二と河村。ダブルス1に大石と菊丸。シングルス3に海堂。シングルス2にリョーマ。そして、シングルス1に手塚。準決勝で補欠だったリョーマとは反対に、決勝では桃城が補欠となった。
ただならぬ気迫を纏う不動峰との試合を前にくるぶしに巻いたパワーアンクルを外す選手達。そして、部員達の応援へ向けた熱も留まることを知らず沸き上がっていった。
*****
青学対不動峰の地区予選決勝戦が始まった。
決勝までに敗れた学校の生徒達も加わり、一層増えた観客の注目が集まるコートでダブルス2の試合が展開されている。ノーシードの不動峰相手なら第一シードの青学が圧勝するだろうという声も、どこからか聞こえてくるコートの周辺。しかし、戦況は強烈なトップスピンで強い跳ね返りをみせるボールを繰り出し続ける不動峰が押していると見える状態だった。
「すごい気迫……」
あんな風にスピンを掛け続けるのは仕掛けている側としても負荷になるだろうに、それがラリーを繰り返す度にキレを増してさえいる。鬼気迫るその戦いぶりに手に力が入ってしまうあかり。このまま押された状態で展開されてしまうのだろうかと固唾を飲んで見守っていたその時。不二の返した球が一度相手コートに着いた後、弾まずに地面スレスレの空気の上を走るように転がっていった。
「不二の得意とする三種の返し球(トリプルカウンター)の内の一つ……つばめ返し!」
オーバーなリアクションこそ無いが驚いた様子でいたリョーマに菊丸がそう言うと、海堂が続けて技の仕組みを教えた。それをフェンスを挟んで聞いていたあかりは慌ててメモを取る。
「相手のトップスピンが強ければ強いほど、逆回転に磨きが掛かるつばめ返し、か。相手の力を利用する、これがカウンターなんだ……」
カウンターがどういうものかを知識としては知っていても、こうして目の前にするとその厄介さが理解できた。自分の力を利用されて相手から返されるなんて、技の威力が云々は元より気持ちの面でもダメージを受けそうだ。
そして、不二のカウンターを皮切りに青学が押し返し始める。ゲームカウントも4ー3。次に取れればブレイクポイントだ。青学サイドの応援が一層大きくなる中あかりは、不動峰の後衛である長身の選手が腕捲りをした仕草が目に入った。その後、ラリーが繰り返される中でその選手は、何度もベンチに座る部長の橘に目線を送っている。
「何かの……サインを待ってる?」
直後、ぐっと口角を上げて返ってくる球に備えて深く構える姿勢をとった。不動峰のベンチからは「いけ!石田!波動球!!」と声援が送られた。
石田と呼ばれたその選手が腰を低くして構え、力を全て球に乗せるようにして放った強烈な一撃が不二の方へ飛んでいく。あんな球を待ち構えるのではなく取りに行く状態から、しかもバックハンドではまともに返せるとは思えない。怪我をしてしまうことだって充分に考えられた。
それでも、このポイントが重要であることを押してか波動球を受けようとする不二。しかし、それを制止し不二の前に滑り込んだ河村が両手打ちで何とか相手コートに押し返した。ホッとした声と返されたというどよめきが混在する中、向かいのコートでは再び石田が波動球を繰り出そうと待ちかまえていた。それと同時にベンチの橘が声を上げて席を立つ。
「橘さん、止めさせようとしてる……?」
正確には聞き取れないが表情などから、もう一度波動球を打つことを止めているように見える。しかし、コートに立つ石田の構えは変わらず二発目の波動球を繰り出そうとしていた。
ぐっと引いたラケットを握る右腕の筋肉が盛り上がり返された球を迎え撃つ。だが次の瞬間、球はガットを抜けて過ぎ去ってしまった。ラケットに穴が開いたのだ。途端、緊張に縛られた青学サイドから安堵の溜め息が漏れた。相手のサーブで始まるゲームを勝ち取るブレイクで5ー3まできた青学。次は自分達に有利となるサーブ権を持つゲームであるため、これで決着が着くだろうと盛り上がる。
「伊吹先輩!次で決まりそうですね!」
「……うん。でも、河村先輩……」
きらきらと瞳を輝かせる一年生に曖昧に微笑みながら河村と不二の様子を見つめていると、不二がラケットを持つ河村の右手首を握ってその症状を確認した後、審判に棄権を申し入れた。辺りからも驚きの声が上がり、コートに立つ河村自身も食い下がる姿勢を見せたが説得を受け納得したようだった。
コートを離れる河村に冷却スプレーで応急処置を施しながら、念のため病院へ行くことを勧める乾。二年の林と池田と共にあかりも病院まで付き添おうするも、ラケットを手放したいつもの穏やかな河村に「この後、越前の試合もあるから見てあげて」と言われ、会場の入り口までに留まった。二人に付き添われ会場を後にする河村の後ろ姿を見送ったあかりは、空気が僅かに肌寒いものに変わったのを感じながら決勝戦の続くコートへと急いで戻った。
*****
「な、なにあれ……」
あかりがコートの近くまで戻ってきたところで目にしたのは、超至近距離でバウンドもさせずに二つのテニスボールを打ち合う不動峰の選手を前にして、明らかに虫の居所が悪そうな海堂の姿だった。そんな三人の後方では一年生達がヒヤヒヤとした様子でことの成り行きを見守っている。
試合前に喧嘩になるようなことはないとは思うが、ギロリと睨む海堂を見て声を掛けた方がいいだろうかとあかりが向かおうとする。すると、そこへすっと現れたリョーマがまるで何でもない所を歩くようにして、往復するボールの間をラケットで幾つか受け流しながら通り抜けていった。それには流石にやっていた本人達も驚いたようでラリーを止める。気にかけない素振りで水道の水に口をつけると「まだまだだね」と言って、顔を上げたリョーマ。
「……ねえ、球もう一つ増やしてみる?」
更には相手を挑発し返すようなリョーマにより冷静さを得られたのか、それとも馬鹿らしくなったのか海堂は去って行き、リョーマもその場を離れた。そして、そんなリョーマを追って一年生達も駆け足でコートの方へ戻って行く。大きな衝突無く済んで良かったとあかりが胸を撫で下ろしていると、その場に残された不動峰の選手がふっと空を仰いで「ひと雨来そうだな」と言って去って行った。
その場に一人となったあかりがゆっくりと顔を上げると、頬にぽつりと冷たい雫が弾かれてつうっと伝った。
「本当だ、雨」
確かめるように次に落ちてくるのを待っていると、あっという間に至る所に降り注ぎ足元の色を濃くしていき、粒は大きくなっていった。あかりは慌てて背負っていたリュックから大きなタオルを取り出し頭から被ると、雨が降ったら試合はどうなるのだろうと早足でコートへ向かった。
*****
「雨でも試合は続行するものなんですか?」
定位置に戻るようにあかりが隣に立つと乾は、「おかえり」と言ってからチラリと空模様を窺った。
「酷ければ中断したり、中止になることもあるけど……このくらいなら大丈夫かな。すぐに止みそうだし」
「そうなんですか。足場が悪くなりますね」
青学、不動峰、双方の選手が駆け回るコートの上は足が乗る度にぐずぐずと形を歪に変化させ、踏み込めば抉れ、飛び上がれば泥が跳ねていた。雨を吸い衝撃で変形していく土をもろともせず自由に跳ね回る菊丸の姿、そしてそんな菊丸に動揺の一つも見せず全てを理解しているように後衛を務める大石との見事な連携にあかりが魅せられていると、程なくして決着が着いた。これで、一勝一敗。まだまだ先は分からない。
労いの言葉を掛けられる大石、菊丸ペアの向こうでゆらりとベンチを立つ海堂の姿が見えて、あかりはフェンス越しではあるがすぐ後ろに立てるところまで駆け寄った。
すぐに声を掛けようとしたが、隣に座っていたリョーマと何か言葉を交わしていたようでタイミングを計っていると海堂はふっと空を見上げた。つられてあかりも空を仰ぐと雨はすっかり止んでいて、雲間から光が射していた。
「雨、止んだね!海堂くん頑張って!!」
もうコートへ向かってしまうと思い急いで言葉を贈ると、振り返った海堂は一瞬驚いた後、いつも通りの低い声で「ああ」と返した。良い試合ができるようにとあかりがその背中に願っていると、不意に声を掛けられた。
「ねえ、先輩と仲良いの?」
声のした方を向くとそれはリョーマで、膝に肘を掛け頬杖をついてこちらを見上げていた。突然の質問にあかりが「海堂くん?」と首を傾げれば「そう」と頷かれる。『海堂と仲が良いか』という問いに真剣に考え出すあかり。海堂は出会った時に助けてくれて、その後も同じクラスで隣の席となり日々助けてくれる存在だった。それは率先してだとか好意的にという訳ではなく仕方がないからというものに近いとは思うが、それでも決して不仲であるとは思えない。というより思いたくはなかった。
「え、もしかして……嫌われてるっ?」
あれこれと考えた末に顔色を変えながら逆に尋ねてきたあかりに、リョーマは視線をコートへ戻し「その逆だから聞いたんじゃん」と言って短く息を吐いた。
「リ、リョーマくんっ?」
「どうしよう」という具合になったあかりに「大丈夫、嫌ってはないよ。多分ね」と適当に返して、ネットを挟んで不動峰の選手神尾と向かい合う海堂を見たリョーマ。あかりも心配そうな顔色を残しながらコートの様子を見ていると、相手選手の神尾が口を開いた。
「よっ、お前マムシってあだ名らしいな。ピッタリじゃねぇか」
その一言に海堂が眉を吊り上げ目を剥くと、なんと神尾目掛けてラケットを振った。ベンチに座る大石の咄嗟の制止は届かずラケットは振り切られたが、反射神経の良さか神尾はそれを足捌きだけで避けてみせた。それから審判からの注意の後、手塚と橘、双方の部長が言葉を交わしてそれ以上事態が悪化することなく試合は始まった。
「海堂くんってマムシって呼ばれてるんだ。初めて聞いた」
ハラハラと見守る部員達の中であかりがそんな言葉を零すと、ギョッとした視線が一身に注がれた。
「え、なに?」
流石に周りの反応に驚いたあかりが助けを求めてリョーマに視線を送ると、「本人は好きじゃないみたいだけどね」と補足をしてくれた。そして、そうなんだと納得したあかりは「でも、蛇でしょ?格好良いと思うけどなあ」と呟いて試合に目を向けた。
*****
試合開始早々に見せられた神尾の圧倒的なスピード。それは角度のきつい球で相手を左右に奔走させる海堂のスネイクにとって、追い付かれて更に角度を強めて打ち返されてしまう最悪の相性となる特性だった。水を吸い重くなった球はスネイクの威力を弱め、濡れて柔らかくなった足場は海堂の足を滑らせ土に伏せさせる。同じコートの状態でありながらそのスピードを落とさない事実が神尾の力を痛感させる。
返されてしまうスネイクを尚も打ち続ける海堂が再びそれを繰り出そうとした時、彼の足はぬかるんだ地面に取られて体勢を大きく崩す。誰もがこの一点でゲームを取られると思っただろう中、崩れ落ちていく中で振り抜いた海堂のラケットから放たれたスネイク。それは今まで見たことのない軌道を描いて相手のコートに突き刺さった。
驚く声の中からポールの横を回りまるでブーメランのように戻ってきたことから「ブーメランスネイク」という言葉が出てきた。そして、それは彼の隠し持っていた大技なのだろうかと一気に会場が沸き立つ。
「乾先輩、今のは?」
「ポールの外側を通って戻ってくる『ポール回し』歴とした技だよ。でもあんなスゴイのは初めて見たな」
部員達の視線を受けて簡単に説明した乾はすかさずメモを取った。
40ー15と土壇場で空気を変えたに思われた海堂であったが、直後の神尾による低く上げたボールを素早く打つサーブで不意を突かれ、1ゲーム目を落としてしまった。その後、幾度となく先程のブーメランスネイクを試みるが始めの一発以降それが成功することは無く、3ゲームを連続で取られてしまった。
「海堂くん……」
ブーメランスネイクという、まだ完璧に会得していない技に頼らなければ勝てない試合なのだろうか。一発逆転の大技に縋るような海堂の姿はなんだか見ていて苦しくて。でも、自分にできるアドバイスなんてものは無くて、あかりはただチェンジコートでベンチに戻ってきた海堂の背中を見つめた。
すると、今まで試合を静観していた竜崎が口を開き、海堂に自身のテニスと向き合えるよう言葉を掛けた。それに一瞬だけ小さく身体を揺らした海堂はゆっくりと立ち上がる。コートへ向かう瞬間にほんの少しだけ視線がベンチの方へ送られて、あかりは小さなガッツポーズを両手で作り言葉にできない思いを応援にした。
それに応える様子はなかったので、あかりの応援が目に入ったのかは分からない。ただ、竜崎の言葉により海堂に変化があったのは確かだった。コートに戻った海堂はブーメランスネイクを打つことは一切なく、ただただコートの上を駆け回りボールを拾い続け、一進一退の攻防を繰り広げることで3ー5にまで追い付いていた。
「海堂くん、すごい……」
泥まみれで食らいつくその姿は、もがき苦しんでいた時とは比べ物にならないくらい生き生きとしていた。海堂の特性とも言える粘り強さにあかりが引き込まれていると、河村を病院へ送ってきた林と池田が戻ってきた。
「あ、林くん、池田くん!」
「おーう、林、マサやん。タカさんのケガは!?」
「大丈夫。骨に異常ないって。頑丈頑丈」
二人の存在に気付いた桃城がフェンスから身を乗り出して尋ねると、大きな怪我にはなっていないことが伝えられた。そして、それを聞いた桃城は病院へ様子を見に行くとフェンスを飛び越える。聞かれた試合の状況に「面白くなてきたぜ」と答えるともう病院へ向かおうというところだったので、あかりは慌てて桃城に声を掛けた。
「様子なら私が見に行くよっ?」
選手の桃城はこの場に居た方がいいんじゃないかと思いあかりが声を掛けると、「んー?」と試合の様子を遠目に見てから首を左右に振った。
「いんや。そろそろ決着も着くだろうし、伊吹さんがここに居た方がいいんじゃねーかな」
「そ、そうなの?」
よく分からない桃城の発言を受けてあかりが首を傾げていると、「んじゃ、ちょっくら行ってくるぜー」と言いながら駆けていってしまった。
「あ、行っちゃった」
どんどんと小さくなっていく桃城の背中を見送ってあかりが戻ると、ノートを広げた乾が海堂が日々こなす膨大な量の練習メニューを読み上げていた。部活の練習量だってそれなりのものなのにと驚く部員達をよそに、あかりは一人腑に落ちたような心持ちでいた。繰り返されるデュースにも呼吸を乱すことなく戦い続ける体力は、不完全な大技なんかよりも余程彼の強みであるように感じて、もう不安や苦しさは感じない。
デュースの末に積み重ねていったゲームにより6ー5と逆転までし、再びデュースにもつれ込む海堂と神尾の戦い。圧倒的なスピードを見せつけていた神尾にも限界が来つつあるのか、サーブの直後にグッとネット際に迫って勝負を仕掛けてきた。体勢を崩されながらも振り抜いた海堂渾身のスネイクは鋭く相手コートに入る。ネット際の神尾がガットの縁、フレームにボールを当てながら何とか打ち返すとふらふらとした軌道を描いてネットにぶつかり越えていく。青学側から悲鳴のような声が出てくる中、スローモーションのように落ちていくボール。
味方でさえもう駄目かと思われたその球の下にラケットが差し込まれる。それは勿論海堂のもので、滑り込むようにして飛び込んだ彼の身体は打ち返すと同時に地に転がった。これで再び流れを取り戻そうとしていた神尾からしてみれば、これほど堪えることはない。
無尽蔵とも思える体力でもって圧倒的な粘り強さを維持する海堂は、その後も神尾にペースを譲ることなく試合を展開して7ー5という長い戦いを勝利で収めたのだった。
序盤の試合展開からは想像できなかった海堂の勝利に沸く青学と観客。あかりもその中で彼等に拍手を送った。
コートから戻った海堂は先輩達の労いに言葉短く返すと、ベンチには座らずフェンスへもたれるようにして一息吐いた。そんな彼にタオルとドリンクを渡そうと鞄を探ってから向かうと、乾が海堂に話し掛けていた。近くまで来た所で二人が試合中に生まれたブーメランスネイクを会得する為の練習について話していることが聞こえ、勝利の喜びに浸り続けることなく更に先へ向かう意志の強さに驚く。
「あれ、伊吹さん。海堂にかい?」
「あ、はい」
タオルとドリンクを手に立っているあかりを見て乾がそう言うと、その存在に気が付いた海堂はちらりとあかりを見た後、帽子を深く被るようにバンダナをぐっと下げた。
「海堂くんお疲れさま」
乾の隣に並びフェンス越しにタオルとドリンクを渡すと、海堂はジャージで軽く手を拭い「ああ」とそれらを受け取ったが汗や土で汚れた顔をすぐにタオルで拭うことはしなかった。受け取ったドリンクに口をつけ喉を潤す姿をあかりが見ていると、一瞬怪訝な顔をしてバンダナを外し顔を拭った。そこで漸く彼がタオルを泥で汚さないようにしていてくれていたことにあかりは気付いて、思わず頬の筋肉が緩んでしまう。
「海堂くんお疲れさま。ありがとう」
「お、おう……」
わざわざもう一度労いの言葉を掛けられ、更には柔和な笑みまで向けられて、訳が分からないと言いたげな表情であかりの隣に居る乾に視線を移す海堂。しかし、その乾は海堂の不器用な気遣いもあかりがそれに気が付いたことも見えていて、逆光し窺い知れないレンズの向こうで目尻を下げて笑った。
「……そろそろ越前の試合が始まっちまうぞ」
尚更分からなくなった海堂は眉間に皺を刻んでそう言うと二人から顔を逸らした。海堂の言葉を聞いたあかりが先程までリョーマが座っていたベンチを見るとそこにはもう姿がなくて、瞳を左右に揺らし選手達の合間から探すとコートの脇を歩いているリョーマを見つける。
「リョーマくん!」
リョーマに近い所まで駆けて呼び止めると、ラケットで肩をぽんぽんと叩きながら振り返った。
「応援してくれないのかと思ったよ」
「そんな訳ないじゃない、頑張ってね!」
「とーぜん」
緊張で固くなるどころか胸を踊らせいるようにも見える自信溢れるその顔が頼もしくて、あかりは大きく頷いて見送った。しかし、リョーマに続いて名前を呼ばれコートに入った不動峰の選手伊武を見て、全身に緊張が走り鳥肌がたった。
「あ、あの選手……」
不動峰が大五所と当たった試合で相手選手目掛けて跳ね上がるサーブを打っていた選手がリョーマの対戦相手だったのだ。あの危険なサーブを伝えたいと思っても時既に遅く、リョーマは伊武と相対し試合はもう始まる寸前。
「リョーマくん気をつけてっ……」
これを決めれば青学の優勝となるためか、周囲に捨て試合だと言われるリョーマの本当の強さを知っている自信からか、一層応援が盛り上がる部員達の中であかりはリョーマの身を案じた。
そして、シングルス2の試合が始まる。
*****
しかし、あかりの心配とは反対にその危険なサーブを先に繰り出したのはリョーマの方だった。しかも連続で放たれるそのサーブであっという間に1ゲーム目を取ってしまったのだ。あかりにとってそれは想定外の開幕で思わず乾の元まで駆け寄り、リョーマのあのサーブは何なのかと尋ねる。すると、あかりの声が聞こえたのかフェンスに手を掛け応援していた堀尾が振り返る。
「あれ。伊吹先輩は越前のツイストサーブ見たことなかったんですかっ?」
「うん。みんなは知ってたんだね」
「リョーマくんの得意技ですよ!」
「そうなんだ」
誇らしげに言う一年生達に教えてもらったあかりが声を抑えて「先輩、あの選手も……」と言うと、乾は一拍置いてから頷いた。
「伊吹さんも見たのかい?」
「はい。不動峰が一回戦の時に。先輩、あれって……」
「うん。次のゲームで返してくるだろうね」
2ゲーム目が始まるコートへ目線を移した乾に倣ってあかりもそちらを見ると、案の定、伊武は一発目のサーブでそれを繰り出した。ツイストサーブと同様に顔面目掛けて跳ね上がるボールはリョーマの帽子を宙に飛ばす。まさか同じ技で返されるなんてと驚く会場に「キックサーブ」というワードが不動峰から出てくる。リョーマと同じだと思っていたサーブが違う名称で呼ばれていることに疑問を持った堀尾がすかさず乾に尋ねる。
乾によると回転や威力に違いはあるものの原理は同様で、平たく言えば同じ技に時代別の名称がついているようなものだと教えてくれた。
こんな形で反撃されてリョーマは大丈夫かとあかりが見ると伊武に何かを言われた後、右手に持っていたラケットをポイと左手に持ち替えた。利き手でなかったのかとどよめく不動峰の選手達と観客、それに喜ぶ一年生達を見ながらあかりはまだ不安が消えずにいた。
「左手に持ち替えたってことは、リョーマくんはツイストサーブをもう打たない、ということ?」
勿論、それを一つ封印したからといってリョーマが試合に困るとは思わなかったが、利き手に持ち替えたということは一筋縄ではいかない相手であると思われるからだ。ラケットを左に持ち替えてからのリョーマはより攻撃に積極的で、ネット際にもどんどん上がっていった。どう見ても優勢を保っているリョーマに応援も盛り上がる。そんな中、後ろから聞いたことのある女の子の声がしてあかりが振り返ると、そこには杏と桜乃が立っていた。
「……ウソ。深司くんが押されてるなんて。それにあのボーシの子……左手で打ってる!どうなってるの!?」
「橘さん、桜乃ちゃんも」
あかりに気付いた杏が「これはどうなってるの?」と尋ねてきて、試合開始からの流れを大まかに説明するとどちらの意味かは分からないが「……信じられない」と呟いた。
「桜乃ちゃんは女子の方、大丈夫?」
「はい。一段落ついたので」
それから杏は不動峰の選手がいる方へ移動し、あかりは桜乃と並んでリョーマの試合を見守った。そして、二人のラリーを見ていく中であかりは小さな違和感に気付く。
「なんだか、変な感じ……」
「何がですか?」
「変、というか……規則的?」
「規則的、ですか?」
上手く説明できないあかりが身体で伊武の打ち方を表現する。
「さっきから不動峰の伊武さんはこういうのと、こういうので交互に打ってるの」
そう言って下から振り上げる打ち方と、上から振り下ろす打ち方とをしてみせる。
「えーと、二つの回転を交互に繰り出してるってことでしょうか?」
「そう!……なのかな?」
「え、えーと、私には何とも」
それの何がおかしいのかはあかりには説明できない。ただ、あまりにきっちりと打ち分けるからそれが気になってしまったのだ。気のせいであってほしいと願う気持ちで再び試合に目を戻して少しすると、抱いていた違和感は形となって現れた。普段のリョーマであれば抜かれないであろうポイントで綺麗に取られてしまったのだ。心なしかその際に一瞬だけリョーマの動きが止まったようにも見えて、あかりの握る手に力が入る。
そしてまた暫く打ち合う内にリョーマの動きに異変が起きる。バックハンドで振り下ろそうとしたリョーマがピタリと動きを止めたかと思うと、すぐさま身体を捻らせて振り抜いたのだ。
「やっぱりおかしい……リョーマくん」
強行的に打ちに行ったリョーマの手からラケットが抜けるとそれはポールにぶつかり、グリップ部分とフレーム部分で真っ二つに折れた。そして、ポールにぶつかった反動のままに勢いを保ったグリップ部分の、折れて鋭く尖った箇所がリョーマの顔面目掛けて飛んできた。それは左瞼の上をなぞり大きな傷口を作ってからコートの上に落ちる。傷口から溢れ出した血はどくどくと流れリョーマの頬を伝っていった。突然の出来事に慌てふためく桜乃の手を一度強く握って「大丈夫」と諭して、あかりはベンチ近くで様子を見る乾の隣に立った。
布をあてながら傷口を見る大石は瞼が大きく切られていることと、出血が止まらないことを確認する。病院で治療して戻ってきたばかりの河村は頭を抱えてふらふらとよろめき、他の部員達もリョーマを心配そうに見つめた。
リョーマが試合を続行できるかと窺う手塚に大石は不可能を告げるが、リョーマは止める気は無いようで桃城に予備のラケットを出すよう頼んだ。大石や乾、そして出血が止まらないのなら続行はできないと言う審判にも、ジャージの裾でゴシゴシと血を拭って問題ないと譲らないリョーマ。