長篇
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日本の学校生活にも、テニス部のマネージャー仕事にもあかりがちょっとずつ慣れてきた頃。青春学園男子テニス部は地区予選までもう十日を切り、三年の乾によるレギュラーメンバー特別メニューに突入していた。
今までだって充分にハードだった練習はもっと過酷なものになったが、文句を言いながらもそれをこなしてしまうレギュラーメンバーの技術、体力にあかりは驚かされるばかりだった。そして、そんな彼等の姿に触発され、なんでも学び、自分にできることはなんでもしようと、あかりも地区予選へ向けて意気込んでいた。
第2話 始まりへ向かって
授業も残すところ2時限となり、どこか気持ちも楽になった様子で賑やかに昼食を取ったり、お喋りに花を咲かせたり、腹ごなしか軽く身体を動かしたりと、思い思いに生徒が過ごす昼休み。仲良く机を囲んでクラスメイトとお弁当を食べ終えたあかりは、ほんの少し談笑をすると教室の壁に掛けられた時計をちらりと見て席を立つ。
「あれ、伊吹さんどこ行くの?」
「うん、ちょっと図書室に」
「あ、伊吹さん図書委員になったんだっけ。というか、されたんだっけ?」
「そうなの、行ってくるね」
そう、それはあかりが転入してきて五日目のこと。帰りのHRが終わってそのまま部活へ向かおうとすると担任の青山に呼び止められ、名誉ある図書委員の任をあかりは仰せつかったのだ。なんでも普段から仕事が多く、場合によっては拘束時間が長くなるこの委員は余り人気がないらしく、進級して早々のHRで担当が決まらなかったらしい。まだ少し日はあるからと先延ばしにしていた結果、委員決定の書類提出期日が来てしまい青山はあかりの名前を書いてしまったのだと言う。
「日本の学校に慣れるのにも知り合いを作るのにもきっと役立つから……なんて、先生も最もらしい理由を考えたよなあ」
そんなことを呟きながら図書室へ続く廊下を歩くあかり。告げられた時には既に選択肢など無く半ば強制的な任命ではあった。だが、あかり自身はそれに対する不満などは湧いて来ずに未知への経験を少し楽しみとさえ感じて、難なく首を縦に振った。後でテニス部の面々に聞いてみれば委員会をしている部員も多く、部長の手塚は生徒会長までしていると知った。
「レギュラーで部長で生徒会長で……手塚部長って休まる時があるのかな」
どの姿でも抜かりの無い手塚を尊敬すると同時に、手塚のように完璧にとはいかずとも自分も努力すればどちらも成し遂げられるかもしれないという希望が見えて、あかりは図書委員の仕事もしっかりこなそうと思えた。
各学年の教室がある棟から少し歩いて、特別教室がある棟の一番奥。長い廊下の突き当たり、学校の中でも静かな場所に図書室はある。校舎の規模からも察しが付くだろうが、青春学園の図書室はそれなりに立派なものだ。放課後の図書室が開放される時間には司書が居て、貸し出しなどは行ってくれる。なので、放課後に残るのは棚単位で本を整理したり書架の整理を任される時くらいで、メインは昼休みの貸し出し作業や返却された本を戻したりすること。図書便りの記事を書くことくらいだ。
生徒達の賑やかな声に包まれる昼休みでも、この図書室は静かだ。本を読んだり、次の授業に備えたり、課題をしている生徒の姿もある。
静かに扉を開けて図書室に入ったあかりは、貸し出し受付のカウンターで一人の女子生徒が困っていることに気が付く。よく本を借りにくる一年生だ。そんな彼女の視線の先を見れば、今日の担当図書委員であるリョーマが、椅子に座ったまま器用に居眠りをしていた。
「ごめんなさい。貸し出しの受け付けですね?ここと裏表紙内側の貸し出しカードに学年と名前、今日の日付をお願いします」
「あ、はい」
速やかにカウンターに入り、貸し出しの記録帳と図書に添え付けられたカードに記入を促したあかりの姿を見て、女子生徒は安心した表情を見せた。記入を終えたカードを受け取ると今度はその学年と組、名前から初めて図書を借りる時に作る個人の図書カードを探して、本のタイトルと貸し出す日付を記入するあかり。その個人カードを貸し出しカードのあったポケットに入れて手続きは終了だ。
「貸し出し期間は二週間です……ってよく借りてくれるから知ってるよね。お待たせしてごめんなさい」
「いいえっ。ありがとうございます、伊吹先輩!」
そう言ってお辞儀をすると図書室を後にする少女。よく顔を合わせることから好きな本の話をするようにもなり、彼女は少なからずあかりのことを慕ってくれているようだった。無事、受け付けを終えてその背中を見送っていると隣から欠伸をする声が上がる。
「……あれ、なにやってんの?」
寝ぼけ眼で瞼を擦るリョーマの姿にあかりは、困った子だなあと微笑むとリョーマを受付の席からどかそうとする。
「リョーマくん、代わるよ」
「え、なんで?」
「なんでって……、居眠りして受け付けもできない子に任せてられません」
受け取ったばかりの貸し出しカードをちらつかせると、「さあ、退いた退いた」と軽く肩を揺するあかり。それに煩わしそうな顔をしながらリョーマは渋々腰を上げた。
「まだお昼休みは時間あるし、裏で寝てる?」
「いいの?」
裏というのはカウンター後ろの扉の向こうにある、特別教室でいえば準備室にあたる部屋だ。新しい本に整理番号を付けたり、痛んだり汚れた本を直したり、図書便りを作ったりといった作業のできる部屋だった。五時限目頃に司書がやってくるので、今は誰も居ないそこはさながら学校の中の秘密基地のように居心地が良い。
「予鈴の五分前くらいに起こすから」
あかりの言葉を聞くと「よろしく」とだけ言って、リョーマはカウンターを後にした。
「一年で先輩と同じメニューこなしてるんだもん、疲れるよね。同じ図書委員だったのは良かったかも」
ちょっとの時間でも身体を休めるのは大事だ。学校内では静かな場所であるここを使えるのも、自分が担当を代われる同じ図書委員だったのも幸運といえばそうかもしれない。そんな風に考えながら、あかりは残りの昼休みを受け付けや返却図書を棚に戻す作業に費やした。そして、宣言通りに予鈴の五分前にリョーマを起こすと、あかりは鍵の返却があるからと足早に職員室へ向かっていった。図書室の前に置き去りにされたリョーマは、幾分か楽になった身体で午後の授業へと向かい廊下を歩き始めるのだった。
*****
午後の授業も、ハードな部活の練習も終わるとリョーマは桃城と帰ることが多い。というか、最近では行きも帰りも殆ど自転車通学の桃城に送り迎えしてもらっているような状態だ。
一方のあかりは、朝はリョーマよりも早く家を出て部員達の朝練に備え、部活後は備品の戻しに漏れが無いかを確認して仕事を終える。そして、最近では副部長である大石に部誌や提出書類の書き方を教わったり、乾に効率の良いデータの取り方や管理方法なんかも教わって、それから帰る日々だった。
「何も急いで仕事を覚えなくたっていいんじゃないかな?」
途中まで同じ帰り道を大石、乾と話しながら歩くあかりは、大石にそう言われて首を傾げる。初めて一緒に帰った時は大石が三年生ということもあって緊張したが、物腰の柔らかさと面倒見の良いお兄さんな人柄に今ではすっかりその緊張感は無くなった。同様に乾も、高身長かつ余り表情の窺えない姿にどんな先輩か推し量れずにいたが、データを取る時にどう見れば良いかや効率の良いデータ管理を相談すれば快く教えてくれて、優しい先輩という印象が定着していた。
「伊吹さんは充分やってくれているからさ」
「ああ。部活中は勿論だけど、朝は大石の次に来ているみたいだし、部活後は最後に備品のチェックまでしてくれている。よくやってくれてると思うよ」
大石の隣を歩いていた乾もそう言ってあかりの方を向いた。
「大石先輩、乾先輩、ありがとうございます。でも私、楽しいんです。初めてなことばかりで。学校も部活も、毎日が。だからつい、色んなことを知ったり出来るようになるのが嬉しくて……」
もしかしたら、新参者でやって来たのにずけずけと何でもやろうとするのは迷惑だったのだろうかと、あかりが窺うように二人を見ると大石はすぐにそれを察して顔の前で両手を振った。
「いや、迷惑だなんてことは勿論ないよ!でも、色んな仕事を引き受けて負担になってないかなって」
あかりの心配を取り除くと「マネージャーなんて居たことなかったからさ」と言って大石ははにかんだ。それを聞いてあかりも安堵した表情を見せる。そんな二人の様子を見た乾は、ふと考えるような仕草をしてぽつりと呟いた。
「伊吹さんは物覚えが良いから、俺はつい仕事を増やしてしまっているな……」
レギュラーメンバーだけでなく、部員達のデータを記録したりそれをまとめたりなど割とあかりにも協力してもらっている乾は、大石の言葉を聞いて自分を振り返る。しかし、それはあかりにとって自分が役に立つことが出来ているという嬉しい事実で、瞳を輝かせながら乾を見た。
「本当ですかっ?私、出来ることをなんでも覚えたいんです!もうすぐ地区予選も始まりますし、皆さんが滞りなく試合に臨めるように」
初めての公式戦を控えて楽しみも緊張もある今を後悔することが無いよう、着実な日々を過ごすことで自信にしていく選手のような姿勢。そんなあかりの姿に、共に試合に臨む気持ちを理解した二人はそれ以上この話を続けることはなかった。
二人とは分かれ道になる交差点で挨拶をし、遠くなっていくあかりの背中。その後ろ姿を大石と乾が見送る。
「良い子が入ってきてくれたよな。女子マネージャーって聞いた時は驚いたけど」
あかりが転入してきた日。大石は部活へ向かおうとした廊下で手塚に呼び止められ、副部長ということもあって他の部員より一足先にあかりを紹介された。マネージャーを入れようかという話も事前に聞いていなかった大石は冗談かと思ったほどだ。
「俺も驚いたよ。この可能性に対して数字を出していなかったくらい、想定外だった」
手塚がテニス部に女子マネージャーを入れる確率を算出することさえ、そもそも考えが及ばないところだったと乾。そんな彼らしい返しに大石は笑うと、もしその想定を思い浮かんだとしたらどれくらいの確立になると思うか、等という話をしながら二人は帰って行った。
*****
地区予選も一週間後に迫った日曜日。
勿論、テニス部は朝から練習が始まっている。
ウォーミングアップも終えて練習に入った部員、特別メニューをこなすレギュラーメンバーを見ながら、あかりは落ち着かない様子で周囲を窺っていた。自分が出る時に声は掛けたがこの時間になっても姿が見えないということは、リョーマはきっと二度寝でもしてしまったのだろうと心配していたのだ。あかりが今すぐにでも家に戻ってリョーマを引っ張ってきたい気持ちを抑えながら、まだかまだかとコートを囲うフェンスの出入り口を見る。すると、そこに見慣れたリョーマではなく、見慣れない人物がコートの様子を眺めていることに気が付く。
「あれ、他校生だ」
あかりが首を傾げていると、同じくフェンスの中に居た一年生の堀尾がその存在に気付いて声を上げた。他の部員達も練習する手を止めて、突然の来訪者に視線を送る。ひとまず話を聞いて迷子のようなら案内をしようと考えたあかりが駆け寄ると、フェンスの外から様子を知った大石が他校の生徒に声を掛けた。その声掛けに一瞬跳ねるように肩を上げると大石に向き直り、自信満々というか余裕綽々というか、余り緊張感は無い様子で彼は自己紹介を始めた。
「バレちゃしょうがねぇ。立海大附属中、2年エース。うわさの切原赤也って俺の事っス」
それを聞いて周囲が一瞬にしてざわつく。あかりも乾から貰っていた他校についてまとめた資料で、情報としては知っている。 立海といえば関東大会を15連覇、そして全国大会でも2連覇をしている強豪中の強豪校だ。どうしてそんな学校の生徒、切原が一人でここに居るのか。穏やかに尋ねる大石とへらへらと受け答える切原の会話を聞こうとあかりが近付くと、その存在に気付いた切原が大きな声を上げた。
「あっ!アンタもしかしてマネージャーってやつ?」
「は、はい。マネージャーをしています、2年の伊吹あかりです」
それから切原はしげしげとあかりを見て、「へー」とか「ほー」とか「やっぱマネージャーは必要って副部長に言わないと」等と独り言を呟いたところで、興味の対象が変わったのか今度は手塚に声を掛けた。よく分からない視線から開放されたあかりがホッと息をついていると、周りがざわつきから少し張り詰めた空気に変わる。どうやら切原が部長の手塚に試合を申し込んでいるようだった。
これは、ドラマや漫画なんかで見る道場破りというやつなんだろうか。こんな事態に遭遇するのは初めてで、どうしていいのか分からないあかりは手塚の対処を見守るしかできない。それは、他の部員も同じようで事の成り行きを固唾を飲んで見守っている。すると、動じる様子も無くいつも通りのよく通る声で「部外者はでていけ」と切原にはっきりと伝えられる。身内からすればいつもの部長ではあるが、部外者相手にこの愛想のなさで良かったのだろうかとあかりは冷や冷やしてしまう。
それでも、切原が諦めずに手塚に1セットでも良いからと食い下がる。単身他校に乗り込み、この場の全員の視線を集めながらこの態度、凄いメンタルだ。等と関心してしまいつつも、このままでは手厳しく追い払われかねないと思ったあかりが、やんわりとお引き取り頂けないかと声を掛けようとしたその時。
「うちの部長に失礼なことしてんじゃねぇよ!とっとと出て行けよ!!」
この状況に人一倍ピリピリしていた二年の荒井が、事も有ろうに切原へ向けてボールを放った。大石が荒井を咎めるがラケットから離れたボールは、止まるわけもなく切原へ向かっていく。
「危ないっ」
近くに居たあかりが、咄嗟に切原を押して退かそうと飛び出す。すると、切原はポケットに突っ込んでいた左手を抜いて、自分へと伸ばされるあかりの腕を掴み引っ張る。そして、いつの間に持ったのか、右手にはしっかりとラケットが握られていた。
「えっ?」
それは一瞬の出来事でありながら、まるでスローモーションのようにあかりの目に映った。あかりの目の前で、速度を落とさずに飛んできたボールがラケットに吸い寄せられるようにして止まったのだ。一度もバウンドすることなく。周りも、ボールを打った荒井でさえも驚いている中、ラケットに止めたボールを跳ねさせ、切原は尚も手塚に向かっていく。茫然としていたあかりは、そこで漸く自分の腕が開放されていたことに気付いた。
挑発するようにボールを操る切原の言葉にも手塚があくまで応えない姿勢でいると、ふっと切原が纏う空気が変わったのを##NAME2##は感じた。そして、次の瞬間。恐らく周りの部員には聞こえないだろうほどの大きさ、しかし相対する手塚にははっきりと聞こえるだろう声で切原は言った。
「アンタ潰すよ」
近くに居たあかりに辛うじて聞こえる程度だったその声に、思わず背筋がぞくりとする。手塚も瞬間的に顔を強ばらせたように見えた。
「なーんて」
次の瞬間にはそれを打ち消すように破顔した切原は、手塚の返事を聞くこと無く振り返らないままにボールを後ろへ打ち返す。
しかし、そのボールは荒井の隣に立っていた桃城へと当たり、その衝撃から桃城の手を飛び出したラケットが球拾いをするカチローの頭に当たる。不意の激痛にボールの入ったカゴをひっくり返すとそれによる転倒者が続出。誰が犯人だと転がるボールを投げつけ合うその中の一つが海堂の後頭部に綺麗に命中してしまう。怒り出した海堂に部員達が逃げ惑い、もはや収拾がつかなくなると元凶である切原は素早く逃げ出し、コートには手塚の「全員グラウンド30周してこい!」の声が響いた。
あっという間の出来事にぼけっとしてしまっていたが先程の切原のボールの受け止め方を思い出して、あかりは静かに去っていったその後を追いかけた。
「あ、あのっ、……切原くん!」
追っ手が来たのかと振り返らずに逃げ切ろうとしていた切原があかりの声だと分かり立ち止まる。
「な、なんだよっ」
「ちょっと、ごめんね」
切原の止まった場所まで着くとあかりは一言謝って切原の右手を取り、手首の辺りを触って確認しだした。
「ちょ、なんだよアンタっ」
思い掛けない行動に驚いた切原はそう言って、勢い良く手を引っ込めた。
「ご、ごめん。いきなりの球をバックハンド、それにあんな体勢で取っていたから、痛めてないかと思って」
「そんな柔じゃねぇよ。それより、アンタこそ」
不躾だったとあかりも手を引っ込めて理由を言うと、切原はなんてこと無いと右手をヒラヒラさせて見せた。そして、言葉を切った後に一度視線を逸らしてから続けた。
「一応、怪我とかしてないよな?」
「え?」
「え?じゃねぇよ。飛び出してきただろアンタ」
自分にボールが放たれたあの瞬間。助けようとしたのかあかりが飛び出してきたことを思い出した切原は、少しばつが悪そうに確認した。心配を返されたあかりは、さっきまでの闘争心を隠そうとしなかった切原とは違う年相応な少年といった様子に安心し、微笑んで答えた。
「うん、大丈夫。寧ろ私の方が助けられちゃったよね。ありがとう」
文句の一つでも言われるかと思ったのに、笑って礼を言うあかりに拍子抜けした切原は一つ溜め息を吐いた。
「全くだ。あんなもん顔面にでも食らってみろ。ただじゃ済まなかったんだぞアンタ」
「う……ご、ごめんなさい。つい身体が動いちゃって」
結果的に切原からしてみれば余計な手間が増えただけだったとあかりが反省の言葉を述べると、切原は少し慌てた様子で否定した。
「いや。まあ、アンタは助けてくれようとしたわけだし!元はといえば俺が挑発したのも……」
あかりにフォローを入れながらも、自分の非を認める言葉はごにょごにょと少し濁らせた切原。心配を返してくれたり、フォローしてくれたり、でも謝るのは照れ臭い。そんな姿を見せる切原を見てもうコートで受けた緊張感はすっかり無くなり、肩の力の抜けたあかり。気が付いたら思っていたことを口に出していた。
「そういえば、切原くんはさっきみたいな道場破り……?をよくするの?」
思っていたままに尋ねたあかり。その問いを投げ掛けられた切原は一瞬目を丸くすると、その後すぐに噴き出してくしゃっと笑った。
「いやいや、別に道場破りに来たわけじゃないからっ」
「そうなの?」
目尻には涙まで見せて一頻り笑い終えると、練習試合をする学校へ行く途中にバスで寝過ごして気付いたら終点の青学前だった、という経緯を説明してくれる切原。
「えっ、じゃあ、これから練習試合をする学校まで行くの?」
「まあ、そういうこと」
「ごめんなさい、引き留めちゃって」
「遅刻は遅刻だし、バスが来るまで移動は出来ないし大丈夫だろ」
一刻も早く向かわなければいけない所を引き留めてしまったのかと謝るあかりに気にしないよう言うと、切原は校門へ向けて歩いていった。その背中をあかりが見送っていると、10メートルほど進んだ辺りで切原が振り返る。
「アンタ、……えーと、名前なんて言ったっけ?」
「伊吹、あかりだよ!」
少し距離のある切原にもはっきり聞こえるよう、声を張りその場で若干前傾姿勢になるあかり。その甲斐あってか切原にはしっかり届いたようで、分かったという意味で大きく頷かれる。それから顔を上げた切原はどこか不敵な表情で口を大きく開いた。
「それじゃあ、伊吹さん。青学が関東大会決勝まで勝ち上がってくるようなら、また会おうぜ」
笑顔で言って身を翻すと校門へ向かって再び足を進めた切原。あかりは小さくなっていく切原の背中に返事をする。
「勿論、絶対に行くよ!青学はその先にだって!」
選手でもないのに言い切ったあかりの言葉に切原は笑ったのか、後ろ姿でも肩が数回小刻みに揺れたことが分かる。そして、ポケットから出した右手を上げるとひらひらと振って去っていった。
「立海は関東決勝まで行くのは当たり前ってことか……」
切原を見送ったあかりはコートへ戻りながらこれから始まる試合の日々や、恐らく青学の前に立ちふさがるであろう立海の事を考えた。立海テニス部の積み重ねてきた実績は勿論のこと、切原の自信や実力のほんの一部を見て、彼の言ったことが願望や誇張でないことは伝わった。青学は強い。そう思ってきたし、実際にそうなのだろう。でも、関東大会で15連覇を続けているという事実がある以上、途轍もなく大きな壁であることは確かだ。
「私も、自分のすべきことを頑張ろう。まずは地区予選、だよね。うん!」
一週間後に迫った試合を、ライバルを見ることで更に実感したあかりがコートへ向かっていると、フェンスの外で話をしている手塚と竜崎の姿が視界に入った。挨拶をしようとあかりが近付くと、二人の会話の一部が聞こえてくる。
「手塚……する必要は…。先を……リハビリを」
「リハビリ」その単語を聞いて思わず足がその場に縫い止められてしまうあかり。竜崎の言葉を遮るようにして手塚が何か言っている。そして、それを聞いた竜崎はもう何かを言うことは無かったようで、手塚はコートへと戻っていった。
「リハビリって、なに……手塚部長が……?」
「なにこんな所で突っ立ってるの」
立ち止まった場所であかりがそのままに居ると、重役出勤で到着したリョーマが隣に立っていた。学ラン姿だがその手には既にラケットが握られていて、ぽんぽんとガットの上でボールを弾ませている。遅刻したことを注意されるだろうとあかりの言葉を待っていたリョーマだったが、それが一向に訪れないので顔を覗き込むようにして窺う。すると、そこで漸くその存在に気が付いたのか、あかりの身体が小さく揺れる。
「あ……リョーマくん。あれ、そのボールどうしたの?ラインに色が入っているし、部のボールだよね」
ぼうっとしていたことを取り繕うようにして話し出すあかり。でも、指摘していることは遅刻ではなくて少し的外れでもある。そんな可笑しな様子を見せるものだから、リョーマが再びどうしたのと尋ねようとする。しかし、少し離れた所に居た竜崎が声を上げたのでそれは遮られた。
「これ、リョーマ!今頃やってくるとは、良い御身分だね!!」
「あ、やべ」
竜崎に見つかったリョーマは一度は逃亡を試みるも叶わず、きっちりお叱りを受けてから着替えのため部室へ入っていった。
「全く……、一度お前さんの爪の垢でも煎じて飲ませたらいいんじゃないかい?」
リョーマを叱り終え、あかりの元へ来るとそう言って笑う竜崎。あかりは曖昧に微笑んで挨拶をする。
「おはようございます、竜崎先生。……あの、さっき」
「うん?」
先程聞いた「リハビリ」という言葉が未だ頭から離れなくて竜崎に尋ねそうになるあかり。しかし、個人の事情に関して不躾に聞いてもいけないように感じて、口を噤む。
「なんだい?」
「あ、いいえ。あの……地区予選までもう一週間なんですね」
当たり障りのない話題に変えて、フェンスの外から中のコートで練習に汗を流す部員達を見るあかり。メニューをこなす手塚の顔はいつもと変わらずポーカーフェイスで、どこか怪我をしているようには一見しては取れない。
「一週間もあるっていうのに、もう緊張してるのかい?」
「そう、かも知れません」
真剣な眼差しで練習風景を見詰めるあかりの背中を優しく叩く竜崎。それに笑って応えたあかりに「アンタのその緊張感をちょっとはアイツらに分けてやりな」と豪快に言うと、ボレーを出しにコートへ入っていった。あかりもその背中を追ってコートに入り、いつも通りのマネージャー業務に戻った。
*****
竜崎と手塚の間で交わされた「リハビリ」という言葉を聞いて以来、あかりは部活中に手塚を注意深く観察するようになっていた。
あれから帰宅後、テニスプレーヤーがなりやすい怪我というものを調べたあかり。試合によっては何時間も動き続けなければならない場合もあるテニスのハードさは、身体の至る所に負荷を加える。その中でもテニスプレーヤーとしての道が絶たれてしまう程の怪我で、多くの選手がそれに苦しめられるというテニス肘というものがあることを知った。
もしかしたら、手塚はこの怪我を抱えているのかもしれない。確証も無いのにそんな結論に至ったあかりは、翌日から練習以外で手塚に負担が掛かるようなことをつい先回りして行うようになっていた。手塚がボールの沢山入ったカゴを持とうと動き出せば、それに気付いていない素振りでそそくさと移動させたり。休憩時間に部員達にドリンクやタオルを持って行けば、手塚の調子が悪くはないかと見てしまったり。
些か不審に思われていたかも分からないがそんな具合に日々を過ごして、とうとう地区予選も週末に迫った金曜日の昼休み。あかりは書庫にある図書を図書室に移動する作業をしていた。本当は放課後に他の委員と数名で図書を運び、メンテナンスと図書入れ替えの記録などをする予定であった。しかし、放課後は部活に出たかったあかりの頼みにより、昼休みの内に図書を移動させる作業をすることで時間を貰ったのだ。
書庫に収納された図書は図書室にあるものより多く、それ故に広さも必要とされた為に以前は図書室近くにあった倉庫から場所が移り、少し距離のある所に置かれている。その間を数回往復したあかりがこれで最後と本を重ねて書庫を出る。
「ちょっと多かったな……。でも2回に分けるもの微妙な量だし、踏ん張ろう」
重ねた本で悪くなる視界、意外とある重さを支える腕に走る痺れ。それらから早く解放されたくて、自然と踏み出される左右の足のリズムが早まるあかり。速度を落とさないまま曲がり角へ入ると、丁度向かいから歩いてきた人にぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさい!怪我してませんかっ?」
ばさばさと落ちる本に驚きながらも、まずは相手の無事を確認すると、ぶつかった相手は手塚だった。手塚は「大丈夫だ。伊吹も怪我は無いか?」と言いながらしゃがんで、落ちた本を拾い始める。
「手塚部長、大丈夫です。私が拾いますから!」
手塚を制止して、あかりも慌てて本を拾い集める。全ての本を拾い終え立ち上がり、手塚の持った本を自分の持つ本の上に重ねるようあかりが頼むも一緒に運ぶと申し出てくれる手塚。
「い、いえっ。一人で大丈夫ですから!」
「いや、結構な量だ。図書室へ運ぶならまだ距離もある。俺も持とう」
手塚の気持ちは有り難かったが、こんな風に重いものを持たせるのは忍びなくて断るあかり。しかし、こんな量を危なっかしく運んでいては別の誰かにぶつかりそうで許可できない、と押し切られてしまった。昼休みを楽しむ賑やかな声で満たされた棟から図書室のある棟へ移ると段々と静かになっていき、次第に二人が歩く音だけが廊下に響き渡るようになる。始めの内は幾つか言葉を交わしたが、少しして会話は無くなり互いに黙ったまま目的地へ向かう。
図書室の前まで着き、廊下に面した準備室の扉を開ける。テーブルの上にはもう何度か往復して運ばれた本達が積まれていて、あかりと手塚は机に残された僅かなスペースに運んできた本を置いた。
「これ全部、一人で運んだのか?」
「はい。そうですけど……」
「一体、何往復したんだ」
「えーと、最後のこれが5回目、でしょうか」
この昼休みで書庫と図書室を行き来した回数を思い出しながらあかりが答えると、手塚は一瞬だけ眉を寄せた。
「他の委員は何をしている」
「違うんです!この作業、本当は放課後にやるはずだったんですけど、私が放課後は部活に出たいからって我が侭を言って。昼休みに運ぶ作業だけさせてもらったんです!」
仕事を押し付けられた訳ではないことを強調して伝えると、まだ言いたいことはありそうだったが一応は納得してくれた手塚。それに安心したあかりは、制服のポケットから図書のリストが書かれたメモを取り出し全て揃っていることを確認する。もう運ぶものは無いからと手塚に言ったが、乗り掛かった船だからと最後まで一緒に確認してくれるという手塚。そう言ったこの人を断る方が骨が折れそうだと観念したあかりは、手塚の言葉に甘えて二人でリストと照らし合わせ確認の作業を進めた。
「よし、全部ある。こっちはオッケーです」
「ああ、こちらも揃っている」
「すみません、手塚部長。確認までしてもらって……ありがとうございました」
リストのメモを受け取りお礼を言うと手塚は短く「いや」と答えた。リストの端に放課後に作業する委員への言伝を書き込んで残していると、不意に手塚に声を掛けられた。
「伊吹。一つ聞いていいか?」
「はい、何ですか?」
書き終えたメモを積み上げた本の一冊目と二冊目の間に挟んで手塚に向き直る。常にしゃんとした人物ではあるがこちらへ向ける視線が真剣だったものだから、あかりも思わず背筋を伸ばした。
「ここ数日、様子が可笑しいのは……いや、している作業自体に可笑しなことは無いんだが。何というか、三年に気を使っているように感じるんだが、何か言われたのか?」
「……へ?」
思いも寄らない内容に気の抜けた声を出してしまったあかり。どうやら手塚には、彼に重いものを持たせまいと先回りするあかりが三年生に気を使って働いているように見えたらしい。
「えーっと、違います」
考える仕草の後に否定をしたあかり。手塚は「そうか」とだけ返したがそれで終わりという訳にはしてくれないらしく、ならどういった理由かとその目は訴えていた。
あの、その、と切り出す様子のないあかりを言葉で催促する訳でも、どうしても言わせようと威圧感をかけてくる訳でもなく、手塚はただ真っ直ぐに答えを待っている。心配事があるのでは無いかと聞いてくれようとしているその姿勢にあかりも向き合おうと、彷徨わせていた目線を手塚へ向け口を開く。しかし、同じ瞬間に身体はこちらに向けたままだったが手塚がすっと目線を外した。
「個人的な事情というのなら、無理に聞き出すことはできない」
「すまなかった」と言って準備室を後にしようと出入り口へ向かい歩き出す手塚。彼より扉の近くに居たあかりは横を通り過ぎようかという瞬間に、手塚の前に立ち塞がった。
「伊吹?」
「あの、私、聞いてしまって。それで、確かめてもいないのに私、一人で勝手に……」
俯いたまま途切れ途切れな内容を早口で零すあかり。手塚はその様子に僅かに戸惑いを見せた後、落ち着かせるようにあかりとは反対にゆっくりと穏やかな口調で尋ねた。
「伊吹、何を聞いたんだ?」
優しく全てを受け止めてくれそうな声にあかりは漸く顔を上げた。そして、大きな瞳を揺らしながら手塚の目を見た。
「……リハビリって、なんですか?」
会話の受け答えとしては成立が危ぶまれるものだがあかりのその一言で、手塚にはここ数日の彼女の行動の合点がいった。そして、その原因たる出来事がいつであるかも。自分が尋ねていた時とは一転、今度はあかりが答えを求める視線を送っている。
「この前の日曜日か」
「はい。竜崎先生と話しているのが耳に入ってしまって……」
元より自分が聞き出した結果としてのこの状況。手塚は一つ息を吐くと数歩戻って、机の上に積まれた本の表紙をなぞりながら話し始めた。
「竜崎先生がリハビリと言っていたのは、確かに俺のことだ」
「……はい」
「1年の頃に怪我をしたんだ。事故だった」
「事故……」
怪我をした。そう言って左肘を右手でさする手塚の姿で、怪我をしたのがその箇所なのだと分かる。それを見て、あかりは今まで気付いていなかったことを知る。
「手塚部長は左利き、だったんですか?」
今まで練習をしている姿を見ていた限りでは、手塚は右手を使ってテニスをしていた。だからあかりは、怪我をしているのがそちらの腕だとばかり思って観察していたのだ。しかし、ちょっと考えてみれば身近なところで、左利きでありながら右手を駆使してプレーするリョーマが居たことに気が付く。日常生活の場面でだって左利きの人は利き手を矯正したり、両利きであるかのように使い分けたりするのだ。競技者にとって少数派であることは弱みにも強みにもなる。
「ああ。でも、怪我をする前から両手でプレーすることが当たり前だった。治療も受けて、今はプレーもできる」
「だから問題はない」そう言い切った手塚。それが本当のことなのか、気を遣わせないための言葉なのかはあかりには判断できない。ただ、右手でプレーを続けているということは全力で戦えないんじゃないか、本当に試合をして良いところまで癒えていないんじゃないか、それらの言葉はもう封じられてしまったようなものだった。
「……そう、なんですか」
言いたいことを飲み込むように受け止めたあかりに、手塚は声色を若干軽いものにして続けた。
「それにしても、最近の伊吹が先回りをするようにして、せっせと荷物を運んでいた理由はこれだったのか」
その声はどこか笑いを含んでいるような柔らかさで、あかりが慌てて手塚を見る。その表情は部活の合間に見せる凛々しい顔より優しいものだった。
本人に大丈夫だと面と向かって言われると、今まで自分がしてきた細々とした行動を冷静に振り返ることができた。相手に気付かれてしまうほど下手に気遣って、重いものを先回りして取る作戦が果たしてどれだけの効果があるものだったろうと。
「手塚部長が怪我を隠しているんじゃないかと思ったら……それが酷くなったり、試合に差し障りが出ないようにしたいって……でも、勝手でした」
早合点していたことも、その行動が気取られていたことも恥ずかしくて、あかりの頬はじんわりと染まっていった。
「いや、気持ちだけは貰っておこう。だから、これからは変に気を遣うな」
「はい……」
無理をして悪化するようなことになったら……、その不安が拭
えないあかりの視線を受けながら、手塚は出口に向かって歩き出した。もう一度その前へ出ることはあかりにはできなくて、ただ通り過ぎていく風を感じた。しかし、扉を開ける音が続かないことに気付いて振り返る。そこには扉に手を掛けた手塚が立ち止まっていた。そして、掛けていた手をすっと外すとあかりへ向き直る。
「いや、気を遣うな、というのも勝手な言い分なのだろうな」
「え?」
自らの言葉に一瞬だけ笑ってみせる手塚。
「そうだな……では、見ていてくれ」
「え、見て?」
考えるような仕草のすぐ後に手塚がそんなことを言ったものだから、あかりは首を傾げながらそれをオウム返ししてしまう。
「ああ。青学が勝ち進んでいくのを、マネージャーとして見ていてくれ。きっと、それが何よりの証明になるだろう」
「は、はい」
余りにも真っ直ぐにそう言われてしまったものだから、あかりは肯定でしか返せなかった。あかりの返事を確認した手塚は、目元だけで頷く仕草をすると今度こそ扉を引いて準備室を出て行く。
すっかり言いくるめられたような形になってしまったあかりは、はっと我に返り手塚を追って廊下へ飛び出した。しかし、もう廊下には誰も居らず、しんと静まりかえって昼の光が方角の悪い窓から辛うじて射し込んでいるだけだった。
「行っちゃった……」
静かに準備室へ戻りながら扉を閉める直前、もう一度だけ廊下に手塚の姿が見えないかと確認したあかり。ゆっくりと扉を閉め、一人になった部屋でさっきの言葉を思い出す。
「心配しててもいい……ってことだよね?」
無論、これまでのように目にした側に違和感を抱かせるものでは駄目なのだが。それでも、見守ることは許されたのだとポジティブに解釈したあかり。その嬉しさを噛みしめていると、一人で悶々と考えていた時の不安が、手塚の言葉一つで試合へ向けて勇み立つ心へと変えられた事実に気付く。
「頑張ろう。それに、楽しもう」
憂いが先立っていては、本来の楽しむ気持ちさえも無為にし兼ねない。自分の仕事をして、部員をサポートする。それが今できることですべきことなのだとあかりは自分自身に答えを出した。
*****
すっかり憂いの晴れたあかり。その様というのもまた分かり易かったらしく、その日は部員達に何度も何か良いことでもあったのかと聞かれた程だった。
弾んだ心のまま家に戻ったあかり。自分より先に学校を出たリョーマはまだ帰ってきていなかったが、桃城と寄り道をして少し遅くなることは珍しいことでもない。そろそろ帰ってくるだろうからとお風呂の掃除を済ませて、お湯を張っておくことにした。カルピンに相手をしてもらいながらお湯が貯まるのを待って止めると、玄関の戸が音を立て丁度良くリョーマが帰ってきた。カルピンと共に玄関へとリョーマを出迎えに行くあかり。
「リョーマくんおかえりなさい。今、お風呂のお湯張ったところだよ!」
玄関に腰掛けて靴を脱ぐリョーマに声を掛けると、じゃあ入る、と自分に身体を擦り寄せるカルピンを撫でてから浴室へ向かって歩き出した。
「あ、じゃあ、バッグ部屋に置いておくよ。着替えも持ってくるね」
「んー」
ウェアやタオルを出したバッグをリョーマから受け取る。別にいつもが愛想が良いわけでもないが、どこか生返事な様子のリョーマ。その顔をちらりと見てみるも、疲れている、というだけではないようだ。真剣に何かを考えているような横顔でもある。とうとう明後日に迫った地区予選に、流石のリョーマでも緊張があるのかもしれない。それに、もう気持ちを切り替え始めているのかもしれない。そんな風に思ったあかりは邪魔をしないようにと、ごゆっくり、とだけ言ってその場を離れた。
リョーマから受け取ったバッグを部屋に置いて、着替えを揃えて届けに行こうとすると、後を付いて来ていたカルピンが爪を研ぐようにリョーマのバッグに前足を掛けている。
「カルピンだめだよ。ほら、危ないし」
爪が引っかかり体重が加わったことでゆらゆらとするバッグ。カルピンは一度不服そうにほあらと鳴いて離れるが、反動で戻ってきたバッグが倒れてくると驚いて部屋から飛び出していった。
「もう、カルピンってば」
しょうがないなあと倒れたバッグと幾つか零れ落ちた中身を戻していると、その中の一つに気になるものが見つかる。
「『はじめての方のダブルス』……リョーマくんってダブルスするっけ?」
はて、と練習風景を思い出すあかり。しかしダブルスを練習している姿というのは全く記憶になかった。それに、「はじめての方のダブルス」ということは、やはりこれから挑戦するということなのだろうかと首を傾げる。
「流石に日曜日の試合に向けて……ではないよね?」
そう呟きながら、あかりはそっとバッグに本を戻した。
今までだって充分にハードだった練習はもっと過酷なものになったが、文句を言いながらもそれをこなしてしまうレギュラーメンバーの技術、体力にあかりは驚かされるばかりだった。そして、そんな彼等の姿に触発され、なんでも学び、自分にできることはなんでもしようと、あかりも地区予選へ向けて意気込んでいた。
第2話 始まりへ向かって
授業も残すところ2時限となり、どこか気持ちも楽になった様子で賑やかに昼食を取ったり、お喋りに花を咲かせたり、腹ごなしか軽く身体を動かしたりと、思い思いに生徒が過ごす昼休み。仲良く机を囲んでクラスメイトとお弁当を食べ終えたあかりは、ほんの少し談笑をすると教室の壁に掛けられた時計をちらりと見て席を立つ。
「あれ、伊吹さんどこ行くの?」
「うん、ちょっと図書室に」
「あ、伊吹さん図書委員になったんだっけ。というか、されたんだっけ?」
「そうなの、行ってくるね」
そう、それはあかりが転入してきて五日目のこと。帰りのHRが終わってそのまま部活へ向かおうとすると担任の青山に呼び止められ、名誉ある図書委員の任をあかりは仰せつかったのだ。なんでも普段から仕事が多く、場合によっては拘束時間が長くなるこの委員は余り人気がないらしく、進級して早々のHRで担当が決まらなかったらしい。まだ少し日はあるからと先延ばしにしていた結果、委員決定の書類提出期日が来てしまい青山はあかりの名前を書いてしまったのだと言う。
「日本の学校に慣れるのにも知り合いを作るのにもきっと役立つから……なんて、先生も最もらしい理由を考えたよなあ」
そんなことを呟きながら図書室へ続く廊下を歩くあかり。告げられた時には既に選択肢など無く半ば強制的な任命ではあった。だが、あかり自身はそれに対する不満などは湧いて来ずに未知への経験を少し楽しみとさえ感じて、難なく首を縦に振った。後でテニス部の面々に聞いてみれば委員会をしている部員も多く、部長の手塚は生徒会長までしていると知った。
「レギュラーで部長で生徒会長で……手塚部長って休まる時があるのかな」
どの姿でも抜かりの無い手塚を尊敬すると同時に、手塚のように完璧にとはいかずとも自分も努力すればどちらも成し遂げられるかもしれないという希望が見えて、あかりは図書委員の仕事もしっかりこなそうと思えた。
各学年の教室がある棟から少し歩いて、特別教室がある棟の一番奥。長い廊下の突き当たり、学校の中でも静かな場所に図書室はある。校舎の規模からも察しが付くだろうが、青春学園の図書室はそれなりに立派なものだ。放課後の図書室が開放される時間には司書が居て、貸し出しなどは行ってくれる。なので、放課後に残るのは棚単位で本を整理したり書架の整理を任される時くらいで、メインは昼休みの貸し出し作業や返却された本を戻したりすること。図書便りの記事を書くことくらいだ。
生徒達の賑やかな声に包まれる昼休みでも、この図書室は静かだ。本を読んだり、次の授業に備えたり、課題をしている生徒の姿もある。
静かに扉を開けて図書室に入ったあかりは、貸し出し受付のカウンターで一人の女子生徒が困っていることに気が付く。よく本を借りにくる一年生だ。そんな彼女の視線の先を見れば、今日の担当図書委員であるリョーマが、椅子に座ったまま器用に居眠りをしていた。
「ごめんなさい。貸し出しの受け付けですね?ここと裏表紙内側の貸し出しカードに学年と名前、今日の日付をお願いします」
「あ、はい」
速やかにカウンターに入り、貸し出しの記録帳と図書に添え付けられたカードに記入を促したあかりの姿を見て、女子生徒は安心した表情を見せた。記入を終えたカードを受け取ると今度はその学年と組、名前から初めて図書を借りる時に作る個人の図書カードを探して、本のタイトルと貸し出す日付を記入するあかり。その個人カードを貸し出しカードのあったポケットに入れて手続きは終了だ。
「貸し出し期間は二週間です……ってよく借りてくれるから知ってるよね。お待たせしてごめんなさい」
「いいえっ。ありがとうございます、伊吹先輩!」
そう言ってお辞儀をすると図書室を後にする少女。よく顔を合わせることから好きな本の話をするようにもなり、彼女は少なからずあかりのことを慕ってくれているようだった。無事、受け付けを終えてその背中を見送っていると隣から欠伸をする声が上がる。
「……あれ、なにやってんの?」
寝ぼけ眼で瞼を擦るリョーマの姿にあかりは、困った子だなあと微笑むとリョーマを受付の席からどかそうとする。
「リョーマくん、代わるよ」
「え、なんで?」
「なんでって……、居眠りして受け付けもできない子に任せてられません」
受け取ったばかりの貸し出しカードをちらつかせると、「さあ、退いた退いた」と軽く肩を揺するあかり。それに煩わしそうな顔をしながらリョーマは渋々腰を上げた。
「まだお昼休みは時間あるし、裏で寝てる?」
「いいの?」
裏というのはカウンター後ろの扉の向こうにある、特別教室でいえば準備室にあたる部屋だ。新しい本に整理番号を付けたり、痛んだり汚れた本を直したり、図書便りを作ったりといった作業のできる部屋だった。五時限目頃に司書がやってくるので、今は誰も居ないそこはさながら学校の中の秘密基地のように居心地が良い。
「予鈴の五分前くらいに起こすから」
あかりの言葉を聞くと「よろしく」とだけ言って、リョーマはカウンターを後にした。
「一年で先輩と同じメニューこなしてるんだもん、疲れるよね。同じ図書委員だったのは良かったかも」
ちょっとの時間でも身体を休めるのは大事だ。学校内では静かな場所であるここを使えるのも、自分が担当を代われる同じ図書委員だったのも幸運といえばそうかもしれない。そんな風に考えながら、あかりは残りの昼休みを受け付けや返却図書を棚に戻す作業に費やした。そして、宣言通りに予鈴の五分前にリョーマを起こすと、あかりは鍵の返却があるからと足早に職員室へ向かっていった。図書室の前に置き去りにされたリョーマは、幾分か楽になった身体で午後の授業へと向かい廊下を歩き始めるのだった。
*****
午後の授業も、ハードな部活の練習も終わるとリョーマは桃城と帰ることが多い。というか、最近では行きも帰りも殆ど自転車通学の桃城に送り迎えしてもらっているような状態だ。
一方のあかりは、朝はリョーマよりも早く家を出て部員達の朝練に備え、部活後は備品の戻しに漏れが無いかを確認して仕事を終える。そして、最近では副部長である大石に部誌や提出書類の書き方を教わったり、乾に効率の良いデータの取り方や管理方法なんかも教わって、それから帰る日々だった。
「何も急いで仕事を覚えなくたっていいんじゃないかな?」
途中まで同じ帰り道を大石、乾と話しながら歩くあかりは、大石にそう言われて首を傾げる。初めて一緒に帰った時は大石が三年生ということもあって緊張したが、物腰の柔らかさと面倒見の良いお兄さんな人柄に今ではすっかりその緊張感は無くなった。同様に乾も、高身長かつ余り表情の窺えない姿にどんな先輩か推し量れずにいたが、データを取る時にどう見れば良いかや効率の良いデータ管理を相談すれば快く教えてくれて、優しい先輩という印象が定着していた。
「伊吹さんは充分やってくれているからさ」
「ああ。部活中は勿論だけど、朝は大石の次に来ているみたいだし、部活後は最後に備品のチェックまでしてくれている。よくやってくれてると思うよ」
大石の隣を歩いていた乾もそう言ってあかりの方を向いた。
「大石先輩、乾先輩、ありがとうございます。でも私、楽しいんです。初めてなことばかりで。学校も部活も、毎日が。だからつい、色んなことを知ったり出来るようになるのが嬉しくて……」
もしかしたら、新参者でやって来たのにずけずけと何でもやろうとするのは迷惑だったのだろうかと、あかりが窺うように二人を見ると大石はすぐにそれを察して顔の前で両手を振った。
「いや、迷惑だなんてことは勿論ないよ!でも、色んな仕事を引き受けて負担になってないかなって」
あかりの心配を取り除くと「マネージャーなんて居たことなかったからさ」と言って大石ははにかんだ。それを聞いてあかりも安堵した表情を見せる。そんな二人の様子を見た乾は、ふと考えるような仕草をしてぽつりと呟いた。
「伊吹さんは物覚えが良いから、俺はつい仕事を増やしてしまっているな……」
レギュラーメンバーだけでなく、部員達のデータを記録したりそれをまとめたりなど割とあかりにも協力してもらっている乾は、大石の言葉を聞いて自分を振り返る。しかし、それはあかりにとって自分が役に立つことが出来ているという嬉しい事実で、瞳を輝かせながら乾を見た。
「本当ですかっ?私、出来ることをなんでも覚えたいんです!もうすぐ地区予選も始まりますし、皆さんが滞りなく試合に臨めるように」
初めての公式戦を控えて楽しみも緊張もある今を後悔することが無いよう、着実な日々を過ごすことで自信にしていく選手のような姿勢。そんなあかりの姿に、共に試合に臨む気持ちを理解した二人はそれ以上この話を続けることはなかった。
二人とは分かれ道になる交差点で挨拶をし、遠くなっていくあかりの背中。その後ろ姿を大石と乾が見送る。
「良い子が入ってきてくれたよな。女子マネージャーって聞いた時は驚いたけど」
あかりが転入してきた日。大石は部活へ向かおうとした廊下で手塚に呼び止められ、副部長ということもあって他の部員より一足先にあかりを紹介された。マネージャーを入れようかという話も事前に聞いていなかった大石は冗談かと思ったほどだ。
「俺も驚いたよ。この可能性に対して数字を出していなかったくらい、想定外だった」
手塚がテニス部に女子マネージャーを入れる確率を算出することさえ、そもそも考えが及ばないところだったと乾。そんな彼らしい返しに大石は笑うと、もしその想定を思い浮かんだとしたらどれくらいの確立になると思うか、等という話をしながら二人は帰って行った。
*****
地区予選も一週間後に迫った日曜日。
勿論、テニス部は朝から練習が始まっている。
ウォーミングアップも終えて練習に入った部員、特別メニューをこなすレギュラーメンバーを見ながら、あかりは落ち着かない様子で周囲を窺っていた。自分が出る時に声は掛けたがこの時間になっても姿が見えないということは、リョーマはきっと二度寝でもしてしまったのだろうと心配していたのだ。あかりが今すぐにでも家に戻ってリョーマを引っ張ってきたい気持ちを抑えながら、まだかまだかとコートを囲うフェンスの出入り口を見る。すると、そこに見慣れたリョーマではなく、見慣れない人物がコートの様子を眺めていることに気が付く。
「あれ、他校生だ」
あかりが首を傾げていると、同じくフェンスの中に居た一年生の堀尾がその存在に気付いて声を上げた。他の部員達も練習する手を止めて、突然の来訪者に視線を送る。ひとまず話を聞いて迷子のようなら案内をしようと考えたあかりが駆け寄ると、フェンスの外から様子を知った大石が他校の生徒に声を掛けた。その声掛けに一瞬跳ねるように肩を上げると大石に向き直り、自信満々というか余裕綽々というか、余り緊張感は無い様子で彼は自己紹介を始めた。
「バレちゃしょうがねぇ。立海大附属中、2年エース。うわさの切原赤也って俺の事っス」
それを聞いて周囲が一瞬にしてざわつく。あかりも乾から貰っていた他校についてまとめた資料で、情報としては知っている。 立海といえば関東大会を15連覇、そして全国大会でも2連覇をしている強豪中の強豪校だ。どうしてそんな学校の生徒、切原が一人でここに居るのか。穏やかに尋ねる大石とへらへらと受け答える切原の会話を聞こうとあかりが近付くと、その存在に気付いた切原が大きな声を上げた。
「あっ!アンタもしかしてマネージャーってやつ?」
「は、はい。マネージャーをしています、2年の伊吹あかりです」
それから切原はしげしげとあかりを見て、「へー」とか「ほー」とか「やっぱマネージャーは必要って副部長に言わないと」等と独り言を呟いたところで、興味の対象が変わったのか今度は手塚に声を掛けた。よく分からない視線から開放されたあかりがホッと息をついていると、周りがざわつきから少し張り詰めた空気に変わる。どうやら切原が部長の手塚に試合を申し込んでいるようだった。
これは、ドラマや漫画なんかで見る道場破りというやつなんだろうか。こんな事態に遭遇するのは初めてで、どうしていいのか分からないあかりは手塚の対処を見守るしかできない。それは、他の部員も同じようで事の成り行きを固唾を飲んで見守っている。すると、動じる様子も無くいつも通りのよく通る声で「部外者はでていけ」と切原にはっきりと伝えられる。身内からすればいつもの部長ではあるが、部外者相手にこの愛想のなさで良かったのだろうかとあかりは冷や冷やしてしまう。
それでも、切原が諦めずに手塚に1セットでも良いからと食い下がる。単身他校に乗り込み、この場の全員の視線を集めながらこの態度、凄いメンタルだ。等と関心してしまいつつも、このままでは手厳しく追い払われかねないと思ったあかりが、やんわりとお引き取り頂けないかと声を掛けようとしたその時。
「うちの部長に失礼なことしてんじゃねぇよ!とっとと出て行けよ!!」
この状況に人一倍ピリピリしていた二年の荒井が、事も有ろうに切原へ向けてボールを放った。大石が荒井を咎めるがラケットから離れたボールは、止まるわけもなく切原へ向かっていく。
「危ないっ」
近くに居たあかりが、咄嗟に切原を押して退かそうと飛び出す。すると、切原はポケットに突っ込んでいた左手を抜いて、自分へと伸ばされるあかりの腕を掴み引っ張る。そして、いつの間に持ったのか、右手にはしっかりとラケットが握られていた。
「えっ?」
それは一瞬の出来事でありながら、まるでスローモーションのようにあかりの目に映った。あかりの目の前で、速度を落とさずに飛んできたボールがラケットに吸い寄せられるようにして止まったのだ。一度もバウンドすることなく。周りも、ボールを打った荒井でさえも驚いている中、ラケットに止めたボールを跳ねさせ、切原は尚も手塚に向かっていく。茫然としていたあかりは、そこで漸く自分の腕が開放されていたことに気付いた。
挑発するようにボールを操る切原の言葉にも手塚があくまで応えない姿勢でいると、ふっと切原が纏う空気が変わったのを##NAME2##は感じた。そして、次の瞬間。恐らく周りの部員には聞こえないだろうほどの大きさ、しかし相対する手塚にははっきりと聞こえるだろう声で切原は言った。
「アンタ潰すよ」
近くに居たあかりに辛うじて聞こえる程度だったその声に、思わず背筋がぞくりとする。手塚も瞬間的に顔を強ばらせたように見えた。
「なーんて」
次の瞬間にはそれを打ち消すように破顔した切原は、手塚の返事を聞くこと無く振り返らないままにボールを後ろへ打ち返す。
しかし、そのボールは荒井の隣に立っていた桃城へと当たり、その衝撃から桃城の手を飛び出したラケットが球拾いをするカチローの頭に当たる。不意の激痛にボールの入ったカゴをひっくり返すとそれによる転倒者が続出。誰が犯人だと転がるボールを投げつけ合うその中の一つが海堂の後頭部に綺麗に命中してしまう。怒り出した海堂に部員達が逃げ惑い、もはや収拾がつかなくなると元凶である切原は素早く逃げ出し、コートには手塚の「全員グラウンド30周してこい!」の声が響いた。
あっという間の出来事にぼけっとしてしまっていたが先程の切原のボールの受け止め方を思い出して、あかりは静かに去っていったその後を追いかけた。
「あ、あのっ、……切原くん!」
追っ手が来たのかと振り返らずに逃げ切ろうとしていた切原があかりの声だと分かり立ち止まる。
「な、なんだよっ」
「ちょっと、ごめんね」
切原の止まった場所まで着くとあかりは一言謝って切原の右手を取り、手首の辺りを触って確認しだした。
「ちょ、なんだよアンタっ」
思い掛けない行動に驚いた切原はそう言って、勢い良く手を引っ込めた。
「ご、ごめん。いきなりの球をバックハンド、それにあんな体勢で取っていたから、痛めてないかと思って」
「そんな柔じゃねぇよ。それより、アンタこそ」
不躾だったとあかりも手を引っ込めて理由を言うと、切原はなんてこと無いと右手をヒラヒラさせて見せた。そして、言葉を切った後に一度視線を逸らしてから続けた。
「一応、怪我とかしてないよな?」
「え?」
「え?じゃねぇよ。飛び出してきただろアンタ」
自分にボールが放たれたあの瞬間。助けようとしたのかあかりが飛び出してきたことを思い出した切原は、少しばつが悪そうに確認した。心配を返されたあかりは、さっきまでの闘争心を隠そうとしなかった切原とは違う年相応な少年といった様子に安心し、微笑んで答えた。
「うん、大丈夫。寧ろ私の方が助けられちゃったよね。ありがとう」
文句の一つでも言われるかと思ったのに、笑って礼を言うあかりに拍子抜けした切原は一つ溜め息を吐いた。
「全くだ。あんなもん顔面にでも食らってみろ。ただじゃ済まなかったんだぞアンタ」
「う……ご、ごめんなさい。つい身体が動いちゃって」
結果的に切原からしてみれば余計な手間が増えただけだったとあかりが反省の言葉を述べると、切原は少し慌てた様子で否定した。
「いや。まあ、アンタは助けてくれようとしたわけだし!元はといえば俺が挑発したのも……」
あかりにフォローを入れながらも、自分の非を認める言葉はごにょごにょと少し濁らせた切原。心配を返してくれたり、フォローしてくれたり、でも謝るのは照れ臭い。そんな姿を見せる切原を見てもうコートで受けた緊張感はすっかり無くなり、肩の力の抜けたあかり。気が付いたら思っていたことを口に出していた。
「そういえば、切原くんはさっきみたいな道場破り……?をよくするの?」
思っていたままに尋ねたあかり。その問いを投げ掛けられた切原は一瞬目を丸くすると、その後すぐに噴き出してくしゃっと笑った。
「いやいや、別に道場破りに来たわけじゃないからっ」
「そうなの?」
目尻には涙まで見せて一頻り笑い終えると、練習試合をする学校へ行く途中にバスで寝過ごして気付いたら終点の青学前だった、という経緯を説明してくれる切原。
「えっ、じゃあ、これから練習試合をする学校まで行くの?」
「まあ、そういうこと」
「ごめんなさい、引き留めちゃって」
「遅刻は遅刻だし、バスが来るまで移動は出来ないし大丈夫だろ」
一刻も早く向かわなければいけない所を引き留めてしまったのかと謝るあかりに気にしないよう言うと、切原は校門へ向けて歩いていった。その背中をあかりが見送っていると、10メートルほど進んだ辺りで切原が振り返る。
「アンタ、……えーと、名前なんて言ったっけ?」
「伊吹、あかりだよ!」
少し距離のある切原にもはっきり聞こえるよう、声を張りその場で若干前傾姿勢になるあかり。その甲斐あってか切原にはしっかり届いたようで、分かったという意味で大きく頷かれる。それから顔を上げた切原はどこか不敵な表情で口を大きく開いた。
「それじゃあ、伊吹さん。青学が関東大会決勝まで勝ち上がってくるようなら、また会おうぜ」
笑顔で言って身を翻すと校門へ向かって再び足を進めた切原。あかりは小さくなっていく切原の背中に返事をする。
「勿論、絶対に行くよ!青学はその先にだって!」
選手でもないのに言い切ったあかりの言葉に切原は笑ったのか、後ろ姿でも肩が数回小刻みに揺れたことが分かる。そして、ポケットから出した右手を上げるとひらひらと振って去っていった。
「立海は関東決勝まで行くのは当たり前ってことか……」
切原を見送ったあかりはコートへ戻りながらこれから始まる試合の日々や、恐らく青学の前に立ちふさがるであろう立海の事を考えた。立海テニス部の積み重ねてきた実績は勿論のこと、切原の自信や実力のほんの一部を見て、彼の言ったことが願望や誇張でないことは伝わった。青学は強い。そう思ってきたし、実際にそうなのだろう。でも、関東大会で15連覇を続けているという事実がある以上、途轍もなく大きな壁であることは確かだ。
「私も、自分のすべきことを頑張ろう。まずは地区予選、だよね。うん!」
一週間後に迫った試合を、ライバルを見ることで更に実感したあかりがコートへ向かっていると、フェンスの外で話をしている手塚と竜崎の姿が視界に入った。挨拶をしようとあかりが近付くと、二人の会話の一部が聞こえてくる。
「手塚……する必要は…。先を……リハビリを」
「リハビリ」その単語を聞いて思わず足がその場に縫い止められてしまうあかり。竜崎の言葉を遮るようにして手塚が何か言っている。そして、それを聞いた竜崎はもう何かを言うことは無かったようで、手塚はコートへと戻っていった。
「リハビリって、なに……手塚部長が……?」
「なにこんな所で突っ立ってるの」
立ち止まった場所であかりがそのままに居ると、重役出勤で到着したリョーマが隣に立っていた。学ラン姿だがその手には既にラケットが握られていて、ぽんぽんとガットの上でボールを弾ませている。遅刻したことを注意されるだろうとあかりの言葉を待っていたリョーマだったが、それが一向に訪れないので顔を覗き込むようにして窺う。すると、そこで漸くその存在に気が付いたのか、あかりの身体が小さく揺れる。
「あ……リョーマくん。あれ、そのボールどうしたの?ラインに色が入っているし、部のボールだよね」
ぼうっとしていたことを取り繕うようにして話し出すあかり。でも、指摘していることは遅刻ではなくて少し的外れでもある。そんな可笑しな様子を見せるものだから、リョーマが再びどうしたのと尋ねようとする。しかし、少し離れた所に居た竜崎が声を上げたのでそれは遮られた。
「これ、リョーマ!今頃やってくるとは、良い御身分だね!!」
「あ、やべ」
竜崎に見つかったリョーマは一度は逃亡を試みるも叶わず、きっちりお叱りを受けてから着替えのため部室へ入っていった。
「全く……、一度お前さんの爪の垢でも煎じて飲ませたらいいんじゃないかい?」
リョーマを叱り終え、あかりの元へ来るとそう言って笑う竜崎。あかりは曖昧に微笑んで挨拶をする。
「おはようございます、竜崎先生。……あの、さっき」
「うん?」
先程聞いた「リハビリ」という言葉が未だ頭から離れなくて竜崎に尋ねそうになるあかり。しかし、個人の事情に関して不躾に聞いてもいけないように感じて、口を噤む。
「なんだい?」
「あ、いいえ。あの……地区予選までもう一週間なんですね」
当たり障りのない話題に変えて、フェンスの外から中のコートで練習に汗を流す部員達を見るあかり。メニューをこなす手塚の顔はいつもと変わらずポーカーフェイスで、どこか怪我をしているようには一見しては取れない。
「一週間もあるっていうのに、もう緊張してるのかい?」
「そう、かも知れません」
真剣な眼差しで練習風景を見詰めるあかりの背中を優しく叩く竜崎。それに笑って応えたあかりに「アンタのその緊張感をちょっとはアイツらに分けてやりな」と豪快に言うと、ボレーを出しにコートへ入っていった。あかりもその背中を追ってコートに入り、いつも通りのマネージャー業務に戻った。
*****
竜崎と手塚の間で交わされた「リハビリ」という言葉を聞いて以来、あかりは部活中に手塚を注意深く観察するようになっていた。
あれから帰宅後、テニスプレーヤーがなりやすい怪我というものを調べたあかり。試合によっては何時間も動き続けなければならない場合もあるテニスのハードさは、身体の至る所に負荷を加える。その中でもテニスプレーヤーとしての道が絶たれてしまう程の怪我で、多くの選手がそれに苦しめられるというテニス肘というものがあることを知った。
もしかしたら、手塚はこの怪我を抱えているのかもしれない。確証も無いのにそんな結論に至ったあかりは、翌日から練習以外で手塚に負担が掛かるようなことをつい先回りして行うようになっていた。手塚がボールの沢山入ったカゴを持とうと動き出せば、それに気付いていない素振りでそそくさと移動させたり。休憩時間に部員達にドリンクやタオルを持って行けば、手塚の調子が悪くはないかと見てしまったり。
些か不審に思われていたかも分からないがそんな具合に日々を過ごして、とうとう地区予選も週末に迫った金曜日の昼休み。あかりは書庫にある図書を図書室に移動する作業をしていた。本当は放課後に他の委員と数名で図書を運び、メンテナンスと図書入れ替えの記録などをする予定であった。しかし、放課後は部活に出たかったあかりの頼みにより、昼休みの内に図書を移動させる作業をすることで時間を貰ったのだ。
書庫に収納された図書は図書室にあるものより多く、それ故に広さも必要とされた為に以前は図書室近くにあった倉庫から場所が移り、少し距離のある所に置かれている。その間を数回往復したあかりがこれで最後と本を重ねて書庫を出る。
「ちょっと多かったな……。でも2回に分けるもの微妙な量だし、踏ん張ろう」
重ねた本で悪くなる視界、意外とある重さを支える腕に走る痺れ。それらから早く解放されたくて、自然と踏み出される左右の足のリズムが早まるあかり。速度を落とさないまま曲がり角へ入ると、丁度向かいから歩いてきた人にぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさい!怪我してませんかっ?」
ばさばさと落ちる本に驚きながらも、まずは相手の無事を確認すると、ぶつかった相手は手塚だった。手塚は「大丈夫だ。伊吹も怪我は無いか?」と言いながらしゃがんで、落ちた本を拾い始める。
「手塚部長、大丈夫です。私が拾いますから!」
手塚を制止して、あかりも慌てて本を拾い集める。全ての本を拾い終え立ち上がり、手塚の持った本を自分の持つ本の上に重ねるようあかりが頼むも一緒に運ぶと申し出てくれる手塚。
「い、いえっ。一人で大丈夫ですから!」
「いや、結構な量だ。図書室へ運ぶならまだ距離もある。俺も持とう」
手塚の気持ちは有り難かったが、こんな風に重いものを持たせるのは忍びなくて断るあかり。しかし、こんな量を危なっかしく運んでいては別の誰かにぶつかりそうで許可できない、と押し切られてしまった。昼休みを楽しむ賑やかな声で満たされた棟から図書室のある棟へ移ると段々と静かになっていき、次第に二人が歩く音だけが廊下に響き渡るようになる。始めの内は幾つか言葉を交わしたが、少しして会話は無くなり互いに黙ったまま目的地へ向かう。
図書室の前まで着き、廊下に面した準備室の扉を開ける。テーブルの上にはもう何度か往復して運ばれた本達が積まれていて、あかりと手塚は机に残された僅かなスペースに運んできた本を置いた。
「これ全部、一人で運んだのか?」
「はい。そうですけど……」
「一体、何往復したんだ」
「えーと、最後のこれが5回目、でしょうか」
この昼休みで書庫と図書室を行き来した回数を思い出しながらあかりが答えると、手塚は一瞬だけ眉を寄せた。
「他の委員は何をしている」
「違うんです!この作業、本当は放課後にやるはずだったんですけど、私が放課後は部活に出たいからって我が侭を言って。昼休みに運ぶ作業だけさせてもらったんです!」
仕事を押し付けられた訳ではないことを強調して伝えると、まだ言いたいことはありそうだったが一応は納得してくれた手塚。それに安心したあかりは、制服のポケットから図書のリストが書かれたメモを取り出し全て揃っていることを確認する。もう運ぶものは無いからと手塚に言ったが、乗り掛かった船だからと最後まで一緒に確認してくれるという手塚。そう言ったこの人を断る方が骨が折れそうだと観念したあかりは、手塚の言葉に甘えて二人でリストと照らし合わせ確認の作業を進めた。
「よし、全部ある。こっちはオッケーです」
「ああ、こちらも揃っている」
「すみません、手塚部長。確認までしてもらって……ありがとうございました」
リストのメモを受け取りお礼を言うと手塚は短く「いや」と答えた。リストの端に放課後に作業する委員への言伝を書き込んで残していると、不意に手塚に声を掛けられた。
「伊吹。一つ聞いていいか?」
「はい、何ですか?」
書き終えたメモを積み上げた本の一冊目と二冊目の間に挟んで手塚に向き直る。常にしゃんとした人物ではあるがこちらへ向ける視線が真剣だったものだから、あかりも思わず背筋を伸ばした。
「ここ数日、様子が可笑しいのは……いや、している作業自体に可笑しなことは無いんだが。何というか、三年に気を使っているように感じるんだが、何か言われたのか?」
「……へ?」
思いも寄らない内容に気の抜けた声を出してしまったあかり。どうやら手塚には、彼に重いものを持たせまいと先回りするあかりが三年生に気を使って働いているように見えたらしい。
「えーっと、違います」
考える仕草の後に否定をしたあかり。手塚は「そうか」とだけ返したがそれで終わりという訳にはしてくれないらしく、ならどういった理由かとその目は訴えていた。
あの、その、と切り出す様子のないあかりを言葉で催促する訳でも、どうしても言わせようと威圧感をかけてくる訳でもなく、手塚はただ真っ直ぐに答えを待っている。心配事があるのでは無いかと聞いてくれようとしているその姿勢にあかりも向き合おうと、彷徨わせていた目線を手塚へ向け口を開く。しかし、同じ瞬間に身体はこちらに向けたままだったが手塚がすっと目線を外した。
「個人的な事情というのなら、無理に聞き出すことはできない」
「すまなかった」と言って準備室を後にしようと出入り口へ向かい歩き出す手塚。彼より扉の近くに居たあかりは横を通り過ぎようかという瞬間に、手塚の前に立ち塞がった。
「伊吹?」
「あの、私、聞いてしまって。それで、確かめてもいないのに私、一人で勝手に……」
俯いたまま途切れ途切れな内容を早口で零すあかり。手塚はその様子に僅かに戸惑いを見せた後、落ち着かせるようにあかりとは反対にゆっくりと穏やかな口調で尋ねた。
「伊吹、何を聞いたんだ?」
優しく全てを受け止めてくれそうな声にあかりは漸く顔を上げた。そして、大きな瞳を揺らしながら手塚の目を見た。
「……リハビリって、なんですか?」
会話の受け答えとしては成立が危ぶまれるものだがあかりのその一言で、手塚にはここ数日の彼女の行動の合点がいった。そして、その原因たる出来事がいつであるかも。自分が尋ねていた時とは一転、今度はあかりが答えを求める視線を送っている。
「この前の日曜日か」
「はい。竜崎先生と話しているのが耳に入ってしまって……」
元より自分が聞き出した結果としてのこの状況。手塚は一つ息を吐くと数歩戻って、机の上に積まれた本の表紙をなぞりながら話し始めた。
「竜崎先生がリハビリと言っていたのは、確かに俺のことだ」
「……はい」
「1年の頃に怪我をしたんだ。事故だった」
「事故……」
怪我をした。そう言って左肘を右手でさする手塚の姿で、怪我をしたのがその箇所なのだと分かる。それを見て、あかりは今まで気付いていなかったことを知る。
「手塚部長は左利き、だったんですか?」
今まで練習をしている姿を見ていた限りでは、手塚は右手を使ってテニスをしていた。だからあかりは、怪我をしているのがそちらの腕だとばかり思って観察していたのだ。しかし、ちょっと考えてみれば身近なところで、左利きでありながら右手を駆使してプレーするリョーマが居たことに気が付く。日常生活の場面でだって左利きの人は利き手を矯正したり、両利きであるかのように使い分けたりするのだ。競技者にとって少数派であることは弱みにも強みにもなる。
「ああ。でも、怪我をする前から両手でプレーすることが当たり前だった。治療も受けて、今はプレーもできる」
「だから問題はない」そう言い切った手塚。それが本当のことなのか、気を遣わせないための言葉なのかはあかりには判断できない。ただ、右手でプレーを続けているということは全力で戦えないんじゃないか、本当に試合をして良いところまで癒えていないんじゃないか、それらの言葉はもう封じられてしまったようなものだった。
「……そう、なんですか」
言いたいことを飲み込むように受け止めたあかりに、手塚は声色を若干軽いものにして続けた。
「それにしても、最近の伊吹が先回りをするようにして、せっせと荷物を運んでいた理由はこれだったのか」
その声はどこか笑いを含んでいるような柔らかさで、あかりが慌てて手塚を見る。その表情は部活の合間に見せる凛々しい顔より優しいものだった。
本人に大丈夫だと面と向かって言われると、今まで自分がしてきた細々とした行動を冷静に振り返ることができた。相手に気付かれてしまうほど下手に気遣って、重いものを先回りして取る作戦が果たしてどれだけの効果があるものだったろうと。
「手塚部長が怪我を隠しているんじゃないかと思ったら……それが酷くなったり、試合に差し障りが出ないようにしたいって……でも、勝手でした」
早合点していたことも、その行動が気取られていたことも恥ずかしくて、あかりの頬はじんわりと染まっていった。
「いや、気持ちだけは貰っておこう。だから、これからは変に気を遣うな」
「はい……」
無理をして悪化するようなことになったら……、その不安が拭
えないあかりの視線を受けながら、手塚は出口に向かって歩き出した。もう一度その前へ出ることはあかりにはできなくて、ただ通り過ぎていく風を感じた。しかし、扉を開ける音が続かないことに気付いて振り返る。そこには扉に手を掛けた手塚が立ち止まっていた。そして、掛けていた手をすっと外すとあかりへ向き直る。
「いや、気を遣うな、というのも勝手な言い分なのだろうな」
「え?」
自らの言葉に一瞬だけ笑ってみせる手塚。
「そうだな……では、見ていてくれ」
「え、見て?」
考えるような仕草のすぐ後に手塚がそんなことを言ったものだから、あかりは首を傾げながらそれをオウム返ししてしまう。
「ああ。青学が勝ち進んでいくのを、マネージャーとして見ていてくれ。きっと、それが何よりの証明になるだろう」
「は、はい」
余りにも真っ直ぐにそう言われてしまったものだから、あかりは肯定でしか返せなかった。あかりの返事を確認した手塚は、目元だけで頷く仕草をすると今度こそ扉を引いて準備室を出て行く。
すっかり言いくるめられたような形になってしまったあかりは、はっと我に返り手塚を追って廊下へ飛び出した。しかし、もう廊下には誰も居らず、しんと静まりかえって昼の光が方角の悪い窓から辛うじて射し込んでいるだけだった。
「行っちゃった……」
静かに準備室へ戻りながら扉を閉める直前、もう一度だけ廊下に手塚の姿が見えないかと確認したあかり。ゆっくりと扉を閉め、一人になった部屋でさっきの言葉を思い出す。
「心配しててもいい……ってことだよね?」
無論、これまでのように目にした側に違和感を抱かせるものでは駄目なのだが。それでも、見守ることは許されたのだとポジティブに解釈したあかり。その嬉しさを噛みしめていると、一人で悶々と考えていた時の不安が、手塚の言葉一つで試合へ向けて勇み立つ心へと変えられた事実に気付く。
「頑張ろう。それに、楽しもう」
憂いが先立っていては、本来の楽しむ気持ちさえも無為にし兼ねない。自分の仕事をして、部員をサポートする。それが今できることですべきことなのだとあかりは自分自身に答えを出した。
*****
すっかり憂いの晴れたあかり。その様というのもまた分かり易かったらしく、その日は部員達に何度も何か良いことでもあったのかと聞かれた程だった。
弾んだ心のまま家に戻ったあかり。自分より先に学校を出たリョーマはまだ帰ってきていなかったが、桃城と寄り道をして少し遅くなることは珍しいことでもない。そろそろ帰ってくるだろうからとお風呂の掃除を済ませて、お湯を張っておくことにした。カルピンに相手をしてもらいながらお湯が貯まるのを待って止めると、玄関の戸が音を立て丁度良くリョーマが帰ってきた。カルピンと共に玄関へとリョーマを出迎えに行くあかり。
「リョーマくんおかえりなさい。今、お風呂のお湯張ったところだよ!」
玄関に腰掛けて靴を脱ぐリョーマに声を掛けると、じゃあ入る、と自分に身体を擦り寄せるカルピンを撫でてから浴室へ向かって歩き出した。
「あ、じゃあ、バッグ部屋に置いておくよ。着替えも持ってくるね」
「んー」
ウェアやタオルを出したバッグをリョーマから受け取る。別にいつもが愛想が良いわけでもないが、どこか生返事な様子のリョーマ。その顔をちらりと見てみるも、疲れている、というだけではないようだ。真剣に何かを考えているような横顔でもある。とうとう明後日に迫った地区予選に、流石のリョーマでも緊張があるのかもしれない。それに、もう気持ちを切り替え始めているのかもしれない。そんな風に思ったあかりは邪魔をしないようにと、ごゆっくり、とだけ言ってその場を離れた。
リョーマから受け取ったバッグを部屋に置いて、着替えを揃えて届けに行こうとすると、後を付いて来ていたカルピンが爪を研ぐようにリョーマのバッグに前足を掛けている。
「カルピンだめだよ。ほら、危ないし」
爪が引っかかり体重が加わったことでゆらゆらとするバッグ。カルピンは一度不服そうにほあらと鳴いて離れるが、反動で戻ってきたバッグが倒れてくると驚いて部屋から飛び出していった。
「もう、カルピンってば」
しょうがないなあと倒れたバッグと幾つか零れ落ちた中身を戻していると、その中の一つに気になるものが見つかる。
「『はじめての方のダブルス』……リョーマくんってダブルスするっけ?」
はて、と練習風景を思い出すあかり。しかしダブルスを練習している姿というのは全く記憶になかった。それに、「はじめての方のダブルス」ということは、やはりこれから挑戦するということなのだろうかと首を傾げる。
「流石に日曜日の試合に向けて……ではないよね?」
そう呟きながら、あかりはそっとバッグに本を戻した。