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「それじゃあ、少し散策に行ってきますね、南次郎さん」
「どうせ暇だろうから、リョーマを連れてってくれてもいいんだぜ」

無事下宿先である越前宅へ着き、転入の手続きも完了し、少ないながらも荷物を整理した昨日から一晩明けた日曜日。朝食を終えたあかりは手塚から貰ったテニスの本を鞄に突っ込み、町並みを把握するために散歩へ出ることにした。

「まだお休み中じゃないですか。折角の休日に起こしちゃ可哀相ですよ」
「でもよぉ、迷子になっちまうかもしんねえし」
「なってなんぼですよ。地形やお店の場所なんかも知りたいですし、目的地も無くフラフラ歩くので連れていったら可哀相ですって」

でもよぉ、と食い下がる南次郎を制してあかりが玄関を出ると、まだ休んでいる筈のリョーマの部屋のカーテンが小さく開けられた。カーテンの間からはふわふわの毛を纏ったタヌキのような猫、カルピンがこちらを見ている。窓が閉まっているので声は聞こえないものの、その表情には一向に起きる気配の無い御主人様に不満を持っているように見えた。

「ふふ、じゃあね、カルピン。行ってきます」


第1話 休日と猫と…と


その日、新学期早々による学校の都合で部活動の無かった少年は、日課であるロードワークを何時もより多くこなしていた。家を出て住宅街を抜け、しばし河川敷を走った後、再び舗装されたコンクリートの道を走る。もう少し走ると商店街と住宅街、河川敷との境になっている広場に入る。公園のように遊具は無いが、季節の変化を感じさせる花壇や桜並木、散歩途中に足を休められるベンチと水道なんかが設備されている広場だ。

広場へ入ったら軽くストレッチと給水をして、折り返そう。走る自分の足元が舗装されたコンクリートから広場へ続く石畳に変わっていくのを見ながらそう考えていると、ベンチに人が座っているのが見えた。いや、ベンチに人が座っていること自体は左程珍しい訳ではない。散歩やウォーキングの途中に休憩をしている主婦や中年男性や高齢者なんかはよく見る。

しかし、今視界に入っている人物はどう見ても同世代か年下の女子。友人と居る訳でも待ち合わせをしているようでもなく、本を広げて座っていた。見慣れない光景に目がいったからといって、見過ぎるのは失礼というものだ。知り合いでもなんでもないのだから。


少女も街の風景の一部にし、雑念を払いロードワークに集中するため一度瞼を閉じる。走る動作、呼吸、鼓動に気持ちを集中させ、瞼を開く。すると、さっきまでベンチに座っていた少女の姿が消えていた。別に赤の他人だし、気にする必要も心配する必要も無いのだが、読み掛けの本と鞄がベンチにそのままなのが気にかかる。左右に瞳を揺らして先程の人物を探してみると、大きな桜の木の下を右へ左へと歩いていた。余計なお世話だが、一先ずは荷物の側に居て安心した。

さあ、これで気にすることは何もない。あの水道で顔を洗って、水を飲んで、ストレッチをしたら折り返しでコースに戻ろう。

少女が未だにうろうろしていた桜の木の横を通り過ぎようとしたその時、少年は再び目を奪われた。

「なっ……」


*****


折角の散策の旅、まだ歩いたことの無い道を行こうと学校へ向かう道とは反対の道を選び出発したあかり。絵に描いたような日本の庭付き一戸建ての並ぶ住宅街、その角をあちこち曲がってどこへ繋がっている道なのかを確かめる。もう何回目の角だったか数えなくなって数分、少し開けた道へ出た。続いていく道の先に目をやると桜の木が並んでいるのが見える。きっと広場か何かに繋がっているんだろう。

天気も良いことだし、あそこが広場だったら休憩がてらベンチにでも座って本を読もう。昨日受け取ったテニスの教本、しっかり活用してマネージャーとしての役割も理解しないと。

鞄に入れてきた本を思い出しながら道なりに進んで行くと、あかりの想像した通り広場のような場所に出た。春を感じさせる草花が咲き、桜が列なる光景に感動を覚えながら据え付けのベンチに腰掛ける。もう散り行くばかりとなった桜の下で本を開く。目次からページに沿って読んでいくのだが、手塚の引いたマーカーや補足の書き込みの適切さに驚く。僅かに抱く疑問の直ぐ側に解消されるコメントが書かれているのだ。それはつまり、手塚も同じ所に疑問を抱いたり、注目を置いていたりしたのだろう。

「何だか楽しくなってくるなあ、俄然やる気が出て来るぞー!……って、ん?」

意気込み新たに次のページを開こうとすると、どこからか猫の声が聞こえてきた。野良猫かと辺りを見回すも姿は見えない。でもやはり、鳴き声は近くであるように感じる。読み掛けの本にペンを挟んでベンチに置き、声の主を探してみる。途中、猫の鳴きまねをしながら鳴き声を誘って探すがやっぱり姿は見えない。

「うーん、声は近いんだけどなあ……」

屈んでいた身体を起こし、背筋を伸ばしながら桜の木を見上げると太く逞しい幹から伸びた枝の先、枝分かれしたばかりでまだ心許ない太さの枝。その上に小さな猫、まだ子猫のように見えるそれがちょこんと座っていた。

「あ、いた!でもあれって……どういう状況?」

人間からの主観でしかないが子猫は身動きが取れずに、降りられないでいるように見えた。

「降りられないのかな……よし!」

*****

「……おい、お前何してやがる!」
「へっ?」

それぞれがそれぞれの休日を過ごしていた別々の日曜日は、少年の怒声によって繋がった。ロードワークをしていた少年は猫を目指して桜の木に登るあかりに出会った。

「な、何って……猫が」

突然現れた少年の剣幕に驚きながらもあかりは腕を伸ばし、指先30センチ程の距離に居る猫を指差した。少年は枝の先に座る猫の存在を確認すると、フシュウゥと溜息とも取れる息を漏らして、巻いたバンダナの上から頭をかいた。

「猫は分かった。取り敢えず降りて来い!」

恐らく猫を助けたいのだろうと理解した少年は、一先ずはあかりに降りて来るように言った。少女がスカート姿で木に登っているのだから、当然といえば当然の判断だった。しかし、当の本人であるあかりには後数センチと縮まった距離を前に、降りるつもりは微塵も無かった。少年の制止も振り切り、枝に跨がりゆっくりと猫に腕を伸ばす。

「危ねぇから降りて来いっつってんだ!猫なら俺が取る!」
「だ、大丈夫っ……あと、少し」

もう指先は柔らかい毛並みを感じているのに、3センチも無いそのほんの少しが足りない。あかりは枝に抱き着くようにしていた体勢から起き上がり、もう少し先へ移動しようと枝を確認しならが小さく動く。しかし、先へ行くに連れてどんどん細くなっていく枝は、あかりの小さな動きにも反応して花びらを揺らす。今まで無かった揺れに子猫も驚き毛を逆立たせて警戒している。優しく声をかけて警戒心を解かそうとするも、果たしてこれが効果的であるかは定かではない。

数センチに息を詰めながら、漸く確実に手が届く範囲へ移動したあかり。少年もいつの間にか言葉を飲み込み、静かに見守るばかりになっていた。

「今助けてあげるからねー、そうそう、大人しくしてねー」

未だ首元の毛を逆立たせている子猫に話し掛けながら手を伸ばし、"捕えた"と思った所で子猫があかりの手を抜け出した。しかし、細い枝先に後ずさった脚が着く場所は無く、子猫は枝の間をするりと落ちていく。

「あっ、駄目!」

猫が落ちてしまう、と少年が急ぎ受け止めるべく一歩踏み出そうとすると、あかりから変な掛け声のようなものが発せられ、落ち欠けていた子猫の動きが止まる。

「セ、セーフ……」

鉄棒で脚を引っかけぶら下がる時のようにして難を凌いだあかりが、子猫の首根っこを掴んでいた。そして、素早く子猫を抱き抱える。

「あはは、間一髪……」

危なかったね、と子猫の無事を少年に伝えようとすると少年は沸騰させたように顔を真っ赤にしながら凄い剣幕で駆け寄った。

「お前、馬鹿か!その格好っ」
「え?」

少年に言われて初めて自分の格好を確認すると、スカートの裾がするするとめくれているのが分かった。

「え……あっ!」

どうしよう、どうしよう、と慌てふためいたところで、裾を押さえようにも子猫を抱えるあかりに空いた手はなく、時と一緒に重力でスカートの裾は流れていく。遅れてきた羞恥心によって足を揃え力を入れると枝から膝が離れた。死ぬ程の高さでは無いが、受け身をとるのも難しい。せめて、子猫に伝わる衝撃を最小限にしなくては。腹を括ったあかりは背中を丸めて子猫を抱きしめ、衝撃に耐える準備をした。

身体を丸め重力のままに落ちていく様に、少年は小さく舌打ちをすると桜の木の下に滑り込む。そして背中から落ちてくるあかりを間一髪、受け止めて芝生の上に崩れた。

「痛っ……く、ない?」
「フシュウゥゥッ……」

落ちたのに覚悟していた筈の痛みがやってこない、その違和感にあかりがゆっくり瞼を開く。眼前には抱きしめていた子猫が居て、小さく鳴き声をあげていた。猫にはあかりが慌てた訳も、自分を見て安堵した訳も解らないだろうが。

「よ、良かったー……」

何も知らずにただ愛くるしい顔をこちらに向ける子猫に思わず緊張の糸が途切れて、溜めていた息を吐き出すように言葉が漏れた。すると、そんなあかりの直ぐ後ろから、「おい」と低い声が耳に入る。

「え?」

声が聞こえた方へ振り返ると、直ぐ傍に眼光鋭い少年の顔があった。途端にあかりの顔から血の気が引いて、見開いた目も閉じる事を忘れ視線も動かず微動だにしなくなる。それはもう、まさに蛇に睨まれた蛙のように。

「お、おい……」

目つき鋭い少年も流石に力任せに払い落とす訳にはいかないのか、早いところどいてはくれないかと動けずにいた。数秒顔を突き合わせるが、状況どころかあかりの表情さえ寸分の変化も無い。もしかしたら、落ちた拍子にどこか怪我をしてしまったんじゃないか?迂回の末に行き着いた考えを確かめるべく、今も停止しているあかりにもう一度声を掛ける。

「おい、お前、どっか怪我でも」
"したんじゃないか?"

少年がそう言い終える前に今まで完全に停止していたあかりが、それまでの時を取り返すが如く物凄い早さで飛びのいた。

「あの、すみません、ごめんなさい!」

漸く退いたかと思えば、ちゃんと忠告してもらったのに私が不注意だったから云々かんぬん……と、芝生に額をぶつける勢いで何度も頭を下げた。そうやってあかりが頭を下げる度に髪が揺れ、ついていた数枚の桜の花びらがはらはらと落ちていく。状況には似付かわしくない形容だが、その光景が何だか綺麗だと少年は思った。

「い、いや……怪我が無いならいい」

視線を合わさぬよう少年は伏し目がちにそう言って子猫に視線を移す。しかし子猫は助けられた恩など忘れて、いや、端から恩など感じてすらいないのかもしれないが、少年の鋭い眼に驚きあかりの腕をすり抜けて去って行ってしまった。

「あ」
「……」

少しばかり名残惜しく思いながらも、飛び込んでいった茂みから母猫らしき姿が子猫を迎えた様子が確認できて、二人は顔を綻ばせるのだった。


「あの、ありがとうございました。怪我、しませんでしたか?」

二人きりになった桜の下であかりが少年の表情を窺いながら尋ねる。少年は大丈夫だと短く答えると立ち上がり、ジャージについた土を払い落とした。すると、少年の左肘に血が滲んでいるのが見える。

「ち、血が出てます!」
「あ?」

慌てるあかりに反して落ち着いた様子で、というより興味なさ気に傷を探す少年。左の肘だと聞いて腕を上げ確認すると、今度は少し長く「あー」と言って腕を戻す。

「それだけですか」
「ただのかすり傷だ」

放っておけば治ると言って一瞬視線を合わせると直ぐに逸らし、「じゃあな」と今にもこの場から立ち去ろうとする。あかりは思わずその背中に声を掛けた。

「待って下さいっ。傷の、傷の手当てをさせて下さい!」

突然大きな声を出したあかりに多少驚いたものの、表情を戻し言葉少なく少年は断った。しかし、勝手なことではあるがあかりとしては、助けてもらって怪我までさせてしまった相手をそのままにしてはいられなかった。桜の木が植わっている芝の上から出て石畳の上をつかつか歩くと、少年の怪我をしていない方の腕を取って少々強引ではあるが引き止めた。

「お、おい……」
「お願い」

掴まれた瞬間、眉を吊り上げ振り払おうともしたがあかりのすまなそうな顔と、それでも引かないと言いたげにしっかりと自分の腕を掴む力に根負けして少年は「分かった」と言った。

そうと決まればまずは傷口を綺麗にしなくてはと、荷物を置いてあるベンチまで少年を引っ張るあかり。鞄の中からハンカチとティッシュ、それから小さなポーチを取り出して再び少年の腕を引き、水道の前まで来た。少年が自分で洗おうとしたものの、しゃがみ込み準備万端と蛇口を捻る準備をしているあかり。何の疑問も無さそうに待ちかまえるその表情に、きっと抵抗しても虚しく終わるだろうと諦めた少年は、最後の足掻きとして腑に落ちない顔をしながらも結局されるがままとなる事にした。

土や滲む血を流し傷口を綺麗にすると、あかりはずいっと顔を寄せて怪我の具合を診た。

「深くは無いけど、結構広いなぁ」

確認するとポーチから絆創膏とは違うシート状の物を取り出した。そして、肘の隣へ並べて傷口や肘の形を確認しながら、ハサミでそれをカットし始めた。不思議そうな少年の視線に気が付いたあかりは、これはね……、と説明を始める。

「これはシートの全面が絆創膏の患部に宛てる部分になっていて、消毒なんかはせずに水で洗い流した傷口にそのまま貼るの。シートはかさぶたの役割をして、滲出液を逃さない事で身体の治癒力を生かして治す。湿潤療法っていう治し方なの」
「詳しいんだな」

スラスラと説明しながら傷口をシートで覆うあかりの様子に、関心していると処置が終わったようで小さく「よし」と言って顔を上げる。そして「なるべく剥がさない方がいいけど、場所が場所だからこれ持っていってください」と、ポーチから同じシートを3枚ほどを取り出してあかりは少年に差し出した。少年は「悪いな」と短く応えて受け取ると、ジャージのポケットにそれをしまう。

「あの、本当にありがとうございました。お陰であの猫も無事に母猫のもとへ帰れたし。……その、何より私もとても助かりました」

先程の慌てた様子とは一変、最後の方は気恥ずかしそうにしながらも落ち着いて礼を言うあかりに少年は視線を逸らしながら、大したことじゃない、とぶっきらぼうにこぼして頭に巻いているバンダナの位置を直した。

そして訪れる沈黙。

怪我の処置も終え、伝えるべきことも伝え終えた今、初対面の人間とこうして向き合っている必要は無いのだが、どことなくお互いにスムーズに別れるタイミングを失ったのか、その場が硬直する。視線を泳がせ合う中、先に口を開いたのは意外なことに少年の方だった。

「その本……お前もテニスやるのか?」

そう言った少年の視線の先にあるのはベンチの上の本。

「えーと、やるというか、これからというか、でも私は……」

"マネージャーだし"と歯切れ悪くぶつぶつ呟くあかり。その様子にこれから部活で始めようとしている新入生か何かだろうと解釈したのか、「まあ、やってれば自然と覚えていくものだろう」と言うと、小さく挨拶して少年は元来た道へ走り去っていった。

「あれ、今、お前"も"って言った?」

その場に取り残された あかりは、段々と小さくなっていく後ろ姿を見ながら、そういえば名前を聞くのを忘れていたなぁなんて、ぼんやりと思った。


*****


「それでね、広場の道に沿って植えられてる桜が凄く綺麗だったよ」
「へー」

「やっぱり、日本の桜は向こうと違うよね」などと散策の成果を楽しげに話すあかりに、ベッドに座ったまま寝ぼけ眼で欠伸を噛み殺しつつリョーマは生返事をしていた。

「ふふ、まだ眠たいの?新しい学校生活は中々大変なんだね」
「別に、そういう訳じゃないけど……」

そう言って起きてから何度目かの欠伸をするリョーマ。数分前に散策の旅路からあかりが帰宅すると、リョーマは未だに朝と同じ状態だった。疲れているのかなとは思ったものの、いい加減起きるよう言ってくれないかと南次郎に頼まれ、あかりはリョーマを起こしに来ていたのだ。

「そろそろ目を覚ましてもらわないと、カルピン選手の右フックが入りますよー」

あかりの隣にちょこんと居る、朝から相手をしてもらえずにいたカルピンが二人の様子を見て、ぴょんとリョーマの膝に飛び乗った。そして、真っ直ぐにリョーマを見つめると、ほあら、と鳴いて右の前足で猫パンチの仕草をしてみせる。

「……」
「ふふ、カルピン本気だね。これは観念した方がいいみたいだよ、リョーマくん」

真剣な様子で今にも一発お見舞いしてくれそうなカルピンと、それを止めるどころか楽しそうに微笑みながらこちらを窺うあかりに、遂にリョーマは観念したのかわざとらしく溜息を吐くとベッドから移動する。リョーマが立ち上がったことで膝の上にいたカルピンが今度はあかりの方へとひょいと飛び移る。

「やったね、カルピン」

受け止めたカルピンを胸に抱き、撫でてやりながらあかりが健闘を讃えると、ほあら、と返事をするように鳴くカルピン。心なしかその表情は誇らしげにも見える。そんな一人と一匹のやりとりに、リョーマは再び溜息を吐く。

これでのこのこリビングへ出て行ったら、南次郎は味をしめてこれから毎日のようにあかりを目覚ましに寄越すかもしれない。要らぬことで茶化しにかかる父親の姿が、リョーマには容易に想像できたのだ。そういったことに頭を巡らせるリョーマが何の気なしに着替えを始めると、この場に居たことを忘れつつあったあかりが奇声を発して抱えていたカルピンでさっと顔を隠して素早く身を翻した。

「き、着替えるなら先に言おうよ!ナチュラルに着替え始めたらびっくりするじゃない!」

背を向けカルピンで顔を隠しながら俯いたあかり。流れた髪の隙間から赤くなった耳が見える。リョーマにとってあかりのそれは少し意外な反応だった。何となくこういったことは気にしない大らかさがあるように漠然と感じていたし、ましてや、少々年上ぶっていた彼女が年下の自分にこんなに照れるなんて無いだろうと根拠もなく思っていたからだ。

「俺は別に気にしないけど?」

あかりの思わぬ反応が面白くて、敢えて余裕を感じさせる口調で言ってみせ、リョーマが平然と着替えを続けようとすると

「リョーマくんも起きたことだし、わ、私はもう戻ろうかなっ」

カルピンで顔を隠したままあかりは逃げるように部屋から出て行った。残されたリョーマはあかりが慌てて退散していったドアを見ると、少し口許を緩め着替えの洋服に袖を通す。

それから一分と経たない内に、あかりが姿を消していったドアが今度は遠慮がちに開いてその隙間からカルピンの宝石のような瞳が覗く。未だ警戒しているであろうあかりをからかいたくなる気持ちを抑えて、リョーマは少し開いた隙間に手を入れドアを開けた。突然ドアが開けられたことに驚きビクッと肩を揺らすあかり。床へ向けられた視線をゆっくりと上げていくと、既に着替えを終えたリョーマと目が合って、ほっと溜息を漏らす。

「着替え終わってて残念だった?」
「なっ、そんなわけないでしょ!」

耳をほのかに色づけながら反論するあかりを軽くあしらい、どうしたの、と聞くと、ママさんがリョーマくんが起きてきたらお昼にしようだって!といって足早に階段を降りていった。


リョーマがリビングへ降りてくると、母と並んで料理していた菜々子が微笑み挨拶をする。それに気づきその隣にいた母も、ようやく起きてきたわね。とこちらを見る。先にリビングへきていたあかりも準備を手伝っているようで、キッチンとテーブルの間を往復して盛りつけた料理を運んでいるようだ。こうして見るとなんだか我が家も随分賑やかになったものだとリョーマが感じていると、縁側の方から愉快そうな声が聞こえてきた。

「ほら見ろ、俺の言った通りあかりちゃん行かせりゃ一発だったろ?」

良かったなぁ、青少年。などと訳の分からない言葉を続け縁側に寝転がりながら、ニヤリと笑ってリョーマを見やる南次郎。こちらを見ながらも足で器用にねこじゃらしを掴んでカルピンの相手している。やはり、こうくるか親父。と気に障らない訳では無いものの、相手にするともっと面倒だというのが分かり切っているので触れずに流しておくという大人な選択をしたリョーマ。南次郎を視界から外し席に着く。

南次郎が後ろでまだ何か言っているようだが、決めたのだ。相手にしないと。小さな決意を胸にテーブルを見る。どうやらお昼はパンケーキのようだ。ご飯じゃないのか、と少し残念に思っているとスッと自分の前にコップが置かれる。それには真っ白な飲み物が並々と注がれていて、より一層和食を恋しくさせた。見れば、自分に牛乳を寄越したあかりの反対の手にはオレンジジュースと思われるものがある。

「そっちは?」

遠回しに牛乳を拒んでみたものの、あかりは小さく首を傾けて、私のだけど、と言って自分の席に置いた。分かっている、別にあかりが自分の意志で牛乳を選んできてなどいないことは。きっと母親に、リョーマには牛乳ね、とでも言われて牛乳が好きなんだろうとか、カルシウムを積極的に取ろうとしているのだろうとか、その程度にしか思っていないであろうことは。分かってはいるけど……と恨めしさを込めて、たっぷりと牛乳が注がれたコップを見る。リョーマの心の内を知る由もないあかりは食卓の準備を終え、縁側でカルピンと戯れる南次郎を呼んだ。

「南次郎さん、お昼にしましょう。カルピンの分もあるよ、おいで!」

その言葉を聞き、待ってましたと言わんばかりに飛び起きる南次郎とカルピン。ねこじゃらしを放り出してテーブルに向かうと、今までそれに夢中になっていたカルピンも後を追う。ドカッと席に着き口を大きく開けて、いっただっきまーす、と豪快にパンケーキを運ぶ南次郎の手が、それを口の中に放る手前で停止する。あー、と何かを思案しながら止まる南次郎が表情をそのままにリョーマの方へ顔を向ける。そして

「俺、昼はパンケーキが食ってみたいって言ったんだけど、これってホットケーキじゃね?」

と尋ねてきた。

……すげぇどうでもいい。とリョーマは心の底から思った。これはまたあれだな、スルーだな、と決め自分の皿に手をつける。無視を決め込んだリョーマの代わりにあかりが南次郎に両者の違いを説明し始めた。あれだけ興味あるかのように聞いていたくせに説明されると、ほぉー、の一言で済まして食べ始めた。真面目に相手をしても疲れるだけだぞと心の中で教えながら、なぜ親父は突然パンケーキが食べたいなどと言い出したのか、ふと思ったリョーマだった。


*****


昼食後。腹ごなしに付き合えと言うと縁側から外に出て行った南次郎と、それに付いて行くリョーマ。何をするんだろうと視線を送るあかりに、リョーマは縁側でスニーカーに履き替えながら「アンタも来る?」と言った。何をしに行くのか分からないものの、どこか楽しげな様子で外へ出たリョーマに更に気になるあかり。でも、先に後片付けをしなければ……と台所に食器を運ぶと、菜々子さんに「後片付けは私たちがやるから行ってらっしゃい」と有り難い言葉をもらったので素直に甘えて、あかりは二人について行った。

縁側に靴の無いあかりが玄関で履き替え外に出ると、庭の奥、寺の敷地へ続く方から、テニス特有のボールを打ち合う音が響いてきた。途絶えることなく続くその音に誘われるように足を進めると目の前にテニスコートが広がる。そしてコート上では、これは腹ごなしという範疇なのだろうかと些か疑問になるほどボールを追い駆けるリョーマの姿があった。反して南次郎の足はそこから余り動いている様子はない。

「すごい……」

侍南次郎のほんの一部にも満たない姿なのだろうが、それでも、今までテニスといえば学校の体育の時間にやる下手同士のボレーでやっと続くラリー、というものしか見てこなかったあかりにとって二人の打ち合いはとても刺激的なものに感じた。

南次郎が軽口を叩き、リョーマがそれに言葉少なく返しながら平然と続けられるラリー。その様子にすっかりあかりが魅入っていると、リョーマから返ってきたボールをラケットで受け止め、バウンドしようとする力を上手に消してガットの上を転がす南次郎。

「見ているだけじゃ覚えられないこともあるんだぜ?」

と言って、コートの横に置かれていた一本のラケットを拾うとあかりでも受け取れるようにと大きく弧を描くように投げた。

「えっ?あ、ああっ、危ないですよ!」

あかりに届くように丁寧に投げられたラケットは落下地点に移動せずともただそこに立っていればいいのだが、まさか投げ渡されるとは思っていなかったあかりはその場で右に左に足踏みしながらあたふたとする。そんな様子を南次郎は愉快そうに指さしながら大笑いしているし、リョーマはリョーマで投げられた瞬間こそ驚いたもののラケットの軌道や様子を見て納得したのか、今は特に危機感は無いようにしている。

どこから落ちてくるのか、どこを持って受け止めれば良いのかとギリギリまで落ち着けずにいたあかりの両手に、拍子抜けする程すっぽりとラケットは収まった。

「……え?」

しかも、グリップはしっかりと利き手である右手に、そしてガットの張ってある側は左手の上に。ここまでちゃんと計算して南次郎はこちらにラケットを放ったのだろうか、まさか。あかりが瞬間的に考えていると、その思案を遮るようにして南次郎が「ナイスキャッチ!」と言って、自分の立つコートの反対側、つまりリョーマが居る方に入れと顎で示す。手元に降りたラケットからコートに立つリョーマへの視線を数回行き来して、遠慮がちにコートへ足を踏み入れる。あかりがコートの真ん中に立ったのを確認すると自分はコートから出ようとするリョーマ。

「おいおい、お前は出ちゃダメだろ」
「は?ダブルスなんて出来ないんだけど」
「誰がダブルスしろなんて言ったよ、お前はあかりちゃんの影武者!」

だからあかりちゃんがこぼしたボールは全部お前が拾うのな!とネットを挟んで正面に立ちガハハハと笑いながら言い放った南次郎にあかりは思わず笑顔をひきつらせた。何せ後ろに居るだろうリョーマから発せられるオーラと言うのか、気と言うのか、それが明らかにご機嫌なものではないことがヒシヒシと背中に伝わってくるからだ。

あかりが「よろしくお願いします」と声を掛けるため、ギギギ……と効果音が付けられそうな位ぎこちなく振り返ろうとすると視界に入れるより前にリョーマに「よろしく、『あかりちゃん』」と言われ、あかりは反射的に「はい、お願いします!」と返しながら勢いよく顔を前に戻しラケットを構えた。



それから小一時間後。そこには大笑いする南次郎と、その向かいのコートで肩で息する二人の姿があった。あかりに至っては立っていることもままならず、その場に座り込み立てたラケットを支えに何とか身体を支えていた。結果を簡潔に言えば惨敗。まさしく惨敗。それ以上に似合う言葉が見つからないほどに惨敗だった。

初心者のあかりに速度こそ優しいボールで返していた南次郎ではあったが、後ろに立つリョーマが退屈しないようにかフェイントやカーブの強い球を打ち続けたのだ。前に拾いに行けず動く範囲が広いと言えどリョーマだけならこんなに苦労することもなかっただろう。何よりもリョーマに苦労をかけたのは、視界の端から端までをこれでもかと言うほど不必要に往復するあかりの姿だった。見定めたい球の軌道をことごとく遮る、さながら反復横跳びのような動きにリョーマは翻弄されっぱなしだったのだ。

「はぁっ……はぁ……、ご、ごめん、リョーマくん……」
「別に……でも、まさか一番厄介な敵が同じコートにいたとはね」
「うっ……、本当にごめん」
「まあ、あかりちゃんの動きも面白かったけど、リョーマもリョーマだ。お前、端から全部自分で返すつもりでいただろ。あかりちゃん、返せばラケットの当たり所は悪くねえし、お前が後ろから指示だしてやればここまで酷い有り様にはならなかったんじゃねーの?」

まだまだだなワハハハッ。とご機嫌にコートを去っていく南次郎に二人は何も言い返すことができず、がっくりと肩を落とした。そして、それからもう小一時間。リョーマはあかりにステップや球の軌道の予測の方法などを叩き込み、あかりもそれに何とか食らいついたのだった。


*****


街の散策やテニスについての知識の詰め込み、そして練習に費やされた日曜日から一夜明けて月曜日の朝。あかりは些かの筋肉痛を抱えながらも、新しい学校生活の為、青春学園の校門をくぐった。周りには自分と同じように制服を身にまとった生徒達が賑やかに登校していて、あかりに新生活への期待と僅かな不安を与えた。

自分が紹介されるのは恐らくHRで月曜日の朝は先生達も色々と忙しいだろうと思い、ギリギリの時間で登校してきたあかり。門をくぐって昇降口から入っていく生徒と、各部活動の朝練から急いで戻る生徒を見ながら教員用の入り口から校舎へ入る。予鈴を聞いて急ぎ足になる彼らを見ていたら、朝練の為に一足先に学校へ向かうリョーマに「テニス部なんじゃないの、ズルくない?」と言われたのを思い出し、リョーマが走って教室へ向かっている姿を彼らに重ねてしまい、思わず笑みがこぼれた。

生徒の姿もまばらになった廊下を進んで行き、職員室の前で止まる。扉の上のプレートに書かれた「職員室」の文字を確認しながら一度だけ深く呼吸をして扉に手をかけ、荒々しくも弱々しくもないよう丁寧に扉を滑らせる。

予鈴後の生徒の来訪に朝の準備に追われる先生達が手を取め一斉にあかりを見た。その視線にぐっと堪えて挨拶をしようと口を開きかけると、奥から「ああ、君が伊吹あかりさんだね」と眼鏡をかけた優しそうな男の先生が手を挙げた。そして、机の上にあった名簿やファイル等を小脇に抱えると、「それじゃあ、教室に行こうか」と行って職員室を出て廊下を歩き始める。あかりが慌ててその背中を追うと突然、先生は立ち止まりくるりと進行方向を変えてあかりの方へ向き直った。

「失礼、自己紹介をしていなかったね。私はあなたのクラスの担任の青山です」

ちなみに担当教科は社会ね。そう言って青山は再びくるりと回れ右をすると教室へ向かい歩き始めた。

何というかマイペースな先生なんだな、前を歩く青山の背中を見てそんなことを思いながらあかりは後に続いた。


******


部活の朝練を終え教室へ向かう廊下で、少年は生徒達の僅かなざわつきを感じていた。各曜日の中でも月曜日は休み明けということもあり、話に花を咲かせる女子生徒なんかは居たりするが、今日の様子は毎週のそれとは違うように感じた。何せ女子だけでなく男子までもが廊下にかたまって話しているし、それが少年が目指す教室へ向かうにつれて多くなっているのだから。

三、四人程度のかたまりがそこかしこにある廊下を煩わしく感じながらも自分の教室へ入る少年。しかし、中は廊下よりもっと騒がしかった。もう予鈴が鳴って少し経ってる。普段ならそろそろ自分の席にそれぞれが戻り始めている頃だというのに、戻るどころか隣のクラスの生徒までもがまだ居座っている状態。

どこからか抜き打ちテストの情報でも手に入れて、急を要して伝達でもしているのかどうか。何にせよ自分には無縁の騒がしさだと少年は思い、いつものように教室の奥へ足を進めた。窓際から二列目の一番後ろのその席。そこが少年の席だ。クラス全員で奇数になるため、窓際の列は机が一つ少ない。だから少年の左側はいつも開放的であり、窓の外への視線を遮るものはない。

そう、左隣は開放的。
では、なかった。

いつものように鞄を机に置き、椅子を引き腰を落とす。一つ息をついて窓の方を見ると、そこには机があった。一瞬、自分は一つ席を間違えてしまったのかと、少年は椅子に座ったまま上半身を捻らせ後ろを確認する。間違いない、確かに自分は窓際二列目の一番後ろの席に座っていた。

じゃあ、なぜ隣に机がある。

少年は慌てて机の中の教科書を一冊取り出し裏表紙を見る。そこには確かに新学期になって早々にしっかりと自分で書いた間違いようのない自分の名前があった。

そこで漸く少年は廊下でざわつく生徒達の、教室で騒ぐクラスメイト達の意味を理解した。それと同時に廊下の方では各クラスの担任が来ているのか、さっさと教室に戻れ、というような声が響いた。教室に居た他のクラスの生徒達も慌てて自分のクラスへ戻っていく。廊下も教室の中も静かになり、全員が担任が入ってくるだろう前方の扉に視線を集める。

少しすると廊下を歩く歩幅の違う二種類の足音が耳に届く。一つはこのクラスの担任、青山の長い脚の広い歩幅でゆったり歩く足音。そしてもう一つは、その歩幅の半分程度だろうか、すこし足早に歩くように続いている。二つの足音が徐々に近付いてきて、このクラスの前で止まる。扉の前で何か話しているのか、磨り硝子の向こうで人影がユラユラと動いていた。

外の様子を何とか窺い知ろうと耳をそばだてる廊下側の列の生徒達。そしてゆっくりと扉がスライドされると、見慣れた担任青木の姿がまず現れた。

あまりにも爛々とした視線を一身に浴びた青木は一歩後退り、どうしたみんな、と言いながらもすぐに期待の眼差しの意味に気付いたようで、分かりやすいなあ、と微笑みながら教室に入った。そして、次の瞬間にはもう自分には浴びせられていない熱視線をその身体に受ける少女に、教室へ入るよう促す。

少女は、はいっ、と返事をすると鞄の持ち手をぎゅっと握って教室へ入った。しかし、三歩ほど進んだ所で自分へ向けられた視線のあまりの強烈さに小さく声を上げて慌てて振り返り、開けっ放しになっていた教室の扉を時間を稼ぐように少しゆっくりと閉めてから駆け足で青山の隣に並んだ。

「えー、みんなもう気付いているようですが。こちら、転入生の伊吹あかりさんです」

そう言うと青山は、『伊吹あかり』と黒板にでかでかと書いた。そして、隣に立つ少女の背中を優しく押して自己紹介をするよう促す。

「……は、はじめましてっ、伊吹あかりです!本来なら新学期と同時にこちらに転入する予定でしたが、手続きや色々な理由で数日遅れた形になってしまいました、けど……。……よ、よろしくお願いします!」

クラス中の視線を痛いほど受けて一息で言い終えると、転入生の少女あかりは深々とお辞儀をした。そして、彼女が顔を上げるよりも先に教室は歓声に包まれた。突然の大声にあかりが驚いて顔を上げると、早速お調子者の男子が机から身を乗り出し自己紹介を始めた。それに続くように、その友人やクラスでも中心に居るような女子が声をかける。あかりは戸惑いながらも全員の目をしっかり見て挨拶を返していた。

切りのないその状態を、自己紹介は後でそれぞれやってねー、と青山が手を叩き止める。その時、クラスの中からどうして始業式に間に合わなかったの?という声が上がり、あかりは口元に右手を添えて、考える仕草をする。

「えー、と……」
伊吹さんはこの前までアメリカに居て、そっちの学校に在籍していたので……ま、大人の都合というやつです」

青山が答え、ね?、とあかりを見る。

「はいっ、なので不慣れで至らないところが多いかもしれませんが、よろしくお願いします!」

アメリカ?帰国子女?と再び沸きながらも、まるで嫁いででもきたかのように緊張したあかりの姿に、思わず教室中が和やかな雰囲気になる。その空気をあかり自身も感じたらしく、照れて頬を微かに染めつつも幾分緊張の糸を解いて微笑んだ。


しかし、その教室に一人、彼女の存在に微笑んでいない者が居た。


それは、隣の机の出現に驚いた、窓際二列目一番後ろの席に座る少年。いつもはクラスのことなどさして関心の無い彼が、目を見開いてあかりを見ていた。

どうしてお前がここに居るんだ。

今にも口から出てきそうな言葉を何とか寸で食い止めて、微笑む彼女を見る。向こうはまだこちらに気付いてはいないようだ。しかし、増えた隣の机が彼女の席であれば……いや、それはもう九分九厘確定だろうが、彼女の席になれば顔を合わせるのは必須。その時、自分はどうすればいい。

知らん顔で乗り切るか、忘れたフリをして初対面を装うか、「やあ、まさか、あの時の君が同じクラスに転入してくるなんて驚いたな。これからよろしくね」いや、これは無いな。というか出来ない。自分のキャラと余りにもかけ離れ過ぎている。担任やクラスメイトと笑うあかりを真剣な顔で見ながら、少年は瞬時に答えの出ない考えを巡らせた。

そして、とうとうその瞬間はやってきた。

「はーい、HRの時間ももう終わるから、親睦深めるのはまた次の休み時間にでもね。じゃあ、伊吹さんの席は窓際の一番後ろだから。ほら、海堂、手挙げて」

彼の隣ね、と目印にと挙手させた男子生徒の隣の空席を指さした青山。あかりも青山の指した先を追ってその空席と、隣の席で手を挙げてくれている少年を見る。そして漸く、あかりもその出来過ぎた状況に気付く。

「……えっ?」

しっかりと少年、海堂と視線の合ったあかりは先程の少年と同じように目を見開いた。そして、思わず驚きの声を上げる。

背を押し送り出す青山や、机の間を進んでいく途中のクラスメイト達の声に生返事をしながらゆっくりと少年の方へ向かうあかり。一歩また一歩と距離が縮まるにつれて、信じられないという驚きの表情から、次第に嬉しそうなものに変わっていくあかりの顔。あかりがすぐ目の前まで来ると、海堂は緊張した面持ちで挙げていた手をスッと降ろし机の上に置いた。そして、その視線も一緒に机の上の手へ落とされた。あかりは今にも話しかけたいのを堪えるように、海堂の後ろを回り席に着く。

「何か分からないことがあったら何でも海堂に聞いていいからなー」
「はいっ」
「海堂も色々助けてやってくれな。後、ノート見せたり……校舎の案内とかも、昼休みにでも教えてやってくれ」
「……はい」

何も知らない担任は二人の返事を聞くと、うん、と一回大きく頷いてみせて、黒板に書いた名前を消しながら片手で教科書を開き、もうHR過ぎちゃったからね、と言ってそのまま一限目の授業に取り掛かった。生徒達は文句の声を上げながらも渋々という感じで、机の中から教科書とノートを取り出し準備をし始める。

少年も頭を切り替え授業に集中しようと準備をしていると、左隣の席に座ったあかりが少し身を寄せてきて小さな声で「こんな偶然ってあるんだね」と微笑んだ。素直に「そうだな、驚いた」とでも返せば良かったのかもしれないが何故だか無性に気恥ずかしくて、海堂は低く小さな声で、ああ、とだけ言って授業に耳を傾けた。



第1話 休日と猫と…と


改め

第1話 月曜日と転入生と海堂くんと




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