長篇
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ついにやってきた都大会当日の朝。
会場では青学の男子テニス部員と顧問の竜崎が午前10時に迫るエントリー受付のリミットを前に落ち着かない様子でいた。数分前まではあかりも同じ場所で何度もリョーマの携帯に連絡を入れていたのだが、全く繋がらず折り返しの連絡もない状態に堪えきれなくなり「急いで向かっているかもしれない」と会場の入り口へ走っていった。
発信履歴がリョーマの名前で埋め尽くされていく液晶を見つめながらあかりは、一人で先に来たりしなければ、と後悔した。そして、祈るような思いでもう一度発信しようとした瞬間、手の中の端末が小さな身体を必死に振るわせた。
「もしもし、リョーマくんっ?」
表示される画面を確認するより先に着信を取り、急いで耳に当てるあかり。電話口の向こうからは何やらバタバタと騒々しい音が絶えず聞こえていて、相手の声は聞こえない。一度、耳元から端末を離し液晶を見れば確かにリョーマの名前がそこにはあり、連絡が取れたことの安堵からあかりの口からほっと息が漏れた。そして、リョーマの現状を確認しようと端末を再び耳に当てようとするあかりだったが、様子を見に会場の入り口まで来た大石に気が付くと「大石先輩に代わるね!」とだけ伝えて、大石に端末を差し出した。
端末を受け取った大石はリョーマから話を聞きながらみんなが待つ会場内へと踵を返し、あかりもその後に続く。事情を聴き終えた大石は端末をあかりに返すと、リョーマの到着を今か今かと待つ部員達に向け「子供が生まれそうな妊婦さんを助けて、病院に寄ってたそうだ」と爽やかに告げた。その報告に部員のおおよそ全員が呆れの表情を浮かべ、あかりも大石から返され通話が終了した状態の画面をジトッと見つめた。それから、エントリー受付の締め切りには間に合わなくとも試合までには到着するだろうということで、帽子を目深に被り海堂のジャージを借りることで背格好の近い堀尾をリョーマに見立てて青学はなんとか受付を乗り切った。
第5話 都大会1日目
青学の都大会初戦の相手は鎌田中。ダブルス2、1と危なげなく勝ち進んでいく状況が嬉しいと同時に、順調に進みすぎて未だ会場に到着しないリョーマが間に合わないのではとハラハラするあかり。すると、シングルス3の決着がつこうかというところでリョーマの到着を知らせる声が聞こえてきた。あかりが声のした方へ振り返ると心労の元凶であるリョーマが桃城に茶化されいるところだった。言いたいことは数あれど今はそうもいかない。手塚に促されコートへ入っていくリョーマに「頑張って」とだけ声援を送り、早鐘を打ち続けていた胸を宥めた。
*****
周囲をヒヤヒヤさせた遅刻騒動などまるで無かったように軽やかに勝利を飾ったリョーマがコートを後にすると、シングルス1を戦う手塚が入れ替わりでコートへ入っていく。途端、コート内のみならず周りを囲む観衆の空気までもが一変する。明らかに今までとは異なる空気、静寂に、手塚国光という選手の格の違いが分かる。
試合が始まっても独特の静寂がコートにはあった。ラリーさえさせてもらえないほど、鋭く相手コートに突き刺さる手塚のサーブ。圧倒的なまでの彼の実力に湧く観衆の歓声と、手塚の動作を注視する沈黙とが交互にその場を包んだ。
初めて目にする手塚の試合に1年生達と同様に言葉の出なくなるあかり。すると、その少し後ろから「部長の実力はこんなもんじゃないよ」という声が上がる。あかりが振り返るとそこには真剣な眼差しをコートに向けるリョーマの姿があった。近くにいた不二が少し窺うような間を持った後、リョーマの言葉を肯定する。「手塚が本気を出せる相手は少ない」と。それを聞いたあかりの頭には先日のリョーマと手塚の試合のことが蘇り、リョーマは手塚の本気を引き出せたのだろうかという思いが自然と湧いてきた。無論、あの日のことをリョーマから聞いていないあかりが尋ねる訳にもいかずにいると、視線を感じ取ったのかリョーマがあかりの方へ顔を向けた。
「なに?」
「う、ううん、なんでも」
素っ気ない返しをするとコートの方へ向き直ってしまったあかりに「変なの」と呟きリョーマも試合に目を戻し、あと数分で決するであろう展開を見届けた。
*****
「……不二、河村。6ー0で勝った割には試合時間が長かったね」
青学が次に当たった秋山三中相手にもまずは一勝を取り少し安心した気持ちであかりがダブルス1の試合を見ていると、ダブルス2の試合を終えて戻ってきた不二と河村に尋ねる乾の声が耳に入った。
「うん、何かやりにくかった」と返す不二と、「結構嫌なトコついてきたなあ」と試合を思い返すように言う河村。危なげなく勝っていたように見えていたがとあかりが記録していたスコアを見ようとすると、丁度、大石・菊丸ペアが6ー1で勝利したことを告げる審判の声が響いた。大石と菊丸の元へ駆け寄りタオルとドリンクを渡したあかりは、勝利を喜び二人を讃える声の中から発せられた「……2人にしては手こずったな。ミスが目立っていた」という手塚の言葉に少し驚きながらも二人の反応を窺う。
「結構、俺の嫌いなテニスしてくんだよね」という菊丸と、地区予選を勝ち抜いてきただけあるとして相手校の情報収集と対策を認める大石。手塚と同じく今回の試合について気に掛かっていた乾の方を反射的に見ると、何かを考えるようにして眼鏡の位置を直す仕草をしている。
「伊吹さん、このまま試合の記録お願いできるかな」
「わかりました。乾先輩はどこか行かれるんですか?」
「うん、少しね」
そう言ってこの場を離れていった乾の行き先は気になるが、記録を任されたあかりは抜けがあってはいけないとシングルス3での試合も順調に点を重ねていくリョーマの戦いをしっかりと記録した。
*****
秋山三中に勝利し青学は無事ベスト8に残った。そして、それに続くように勝ち上がってきた他校の結果を確認したあかりは、姿の見当たらないリョーマを探して会場内を歩いていた。
「次の集合には絶対に遅れないように、いや、余裕を持ってもらうくらいじゃないと」などとぶつぶつと呟きながら進むあかりは、桃城と一緒に居るリョーマの姿を視界に捉えると声を掛けながら早足で歩み寄った。しかし、あかりの発した声はほぼ同時に上げられた別の大きな声にかき消される。
「あっ!君は、伊吹さん!!」
「え?」
リョーマと桃城の元へ直進していたあかりの前に大きな声を上げた人物が立ちはだかったかと思うと、両手を取られギュッと握られた。突然のことに驚きながらもあかりが目線を上げると、そこには数日前に青学のコート脇で倒れていた山吹中の千石清純が満面の笑みで立っていた。
「えっと、山吹中の……千石さん?」
確認するように名前を口にして少し首を傾げるあかりに千石は一瞬驚きで目を見開いてみせると、すぐにまた深い笑みに戻り「名前覚えていてくれたんだ」と声を弾ませた。
「そうだよ、今日の恋愛運二重丸はコレだったんだよ。やっぱり俺ってラッキー」
「あの、千石さん、手を……」
未だしっかりと握られた手にデジャヴを感じながらどうにかやんわり抜き取ろうと考えるあかり。しかし、あかりがそれを行動に移すよりも先に重ねられた手の上に手刀が落とされ二人の手は離れた。
「ちょ、酷いな、何するんだよルーキーくん」
「遊んでないでさっさと行くよ」
「おいおい、俺は完全スルーなのっ?」
繋がれていた手を断ち切った本人たるリョーマは千石の言葉に取り合うことなく、あかりにだけ視線を向けるとすたすたと歩き出していってしまった。唖然としたままその場に残されるあかりに、一部始終を見ていた桃城が声をかける。
「行こうぜ、伊吹さん。越前を探しに来てくれたんだろ?」
「あ、うん」
「じゃ、千石さん、俺たちはこれで」
リョーマが去っていった方に歩いていく桃城を見てあかりも千石に一礼しその場を離れることにする。すると「ねえ、俺のことも応援してくれる?」という声が降りかかる。顔を上げれば良い返事を待っているだろう千石の笑顔があった。
「ええっと……青学との試合以外であれば」
「ハハ、やっぱり?」
青学のマネージャーとして妥当な形で返したあかりに分かりやすく肩を落とす仕草をしてみせた後、「じゃあ、青学と当たった時は心の中で応援してね」とウインクを飛ばして千石は去っていった。
「お、来た来た。また捕まってるのかと思ったぜ。伊吹さん、千石さんと知り合いだったのか?」
「知り合いというか、ちょっと前に青学に来ていた時に会って」
「へぇ」
追いついたあかりが隣を歩くと、桃城はさっきの場所に不動峰も居たことを告げた。
「ま、伊吹さんが来たのと入れ違いだったんだけどな」
「杏ちゃんもいた?」
「橘妹?いや、居なかったぜ。てか、橘妹とも仲良いのか」
「ともって、千石さんは別に仲が良い訳では。でも、杏ちゃんとは連絡取り合ってるよ」
「ふーん」
そんな会話をしながら会場を進んでいると青学の部員達が集まっているのが見えてきて、その中には先に戻っていたリョーマの姿もあった。リョーマは遅れて戻ってきた桃城とあかりを見ると「遅い」と一言漏らす。
今朝、盛大に遅刻をしたリョーマに言われるとはとあかりが桃城の方を見ると、彼も同じように感じていたのかバッチリと目が合った。そして、ニッと口角を引き上げた桃城はリョーマの元へ駆けていき、「お前にだけは言われたくねえよ」とヘッドロックを決めた。リョーマが漸く桃城から解放され、助けに入らなかったあかりに文句の一つでも言いたそうな顔をしていると、竜崎からレギュラーメンバー集合の号令がかかり準々決勝のオーダーが発表された。
都大会準々決勝、対聖ルドルフ戦。桃城と海堂という意外な組み合わせのダブルスにも驚いたが、試合開始前のコートに整列する選手達の中に乾からの説明で聞いた不二裕太だけでなく、観月の姿もあることにあかりは驚いていた。
つい先日、とても親切にしてくれた相手が今は対戦相手としてコートの向かいに並んでいる光景に不思議な縁もあるものだとあかりが見つめていると、それに気付いたのか偶然か観月の視線とかち合ってしまった。わざわざ逸らすのも不自然だろうかとあかりが小さく会釈をすると、観月は口元に描いた弧を深めた。
*****
コート2面を使ってダブルス2とダブルス1の試合が同時に開始される。コート内に入るや否や何やら言い争うような様子が見られた桃城と海堂は、試合が始まると互いのプレースタイルを理解していることから繰り出せる強みを活かした戦いで木更津・柳沢ペアを押していた。いがみ合いながらも上手く互いをフォローし合うようなダブルスに歓声が上がる中、絶好のタイミングとも思える場面でスネイクを決めなかった海堂。どうして打たなかったのか、あかりがそれを乾に聞こうと口を開きかけたところで、黄金ペアの劣勢を告げる審判の声に会場がざわめいた。
3ー1と押されていたのを4ー3まで縮めたとはいえ、黄金ペアたるいつもの菊丸と大石らしからぬ試合運びに部員の間にも動揺が走る。そんな中、あかりの隣に立つリョーマが真剣というよりは目を凝らすような表情でボールを追っていた。
「リョーマくん、どうしたの?」
「……ボールが5つ6つ位に見える」
「どういうこと?」
とぼけている風でもないリョーマに首を傾げるあかり。しかし、乾はリョーマの言葉からなにか気付いたのか赤澤の動きを観察すると、彼のショットの癖からくる『ブレ球』が動体視力の良すぎる菊丸を消耗させていると説明した。リョーマと乾の会話を聞き、あかりも赤澤の打つ球に目を凝らしてみるものの何度見ても球は一つ、5つや6つになど到底見えそうもない。すぐ近くでは同じように球のブレが見えない1年生たちが声を上げている。
特別な行動をしている訳でない当人の癖からくる相性の悪さ、それを見事に利用したルドルフの戦法に感心する乾とリョーマ。そんな危機感の無さに思わずツッコミを入れる堀尾であったが、側にいた不二も黄金ペアの実力を理解しているからかいつもと変わらぬ笑みを崩さない。
消耗を狙っての戦法を敢えて受けて立つとでもいうようにアクロバティックなプレーを連発する菊丸。しかし、それも限界に来たのか足がよろめいたその瞬間を赤澤は見逃さなかった。態勢の整わない菊丸目掛けて鋭くボールは向かっていった。菊丸が慌てて球を取りに行くでもなく寸でのところで身をかわすと、後衛の大石が相手コートのライン上に突き刺さるボレーを繰り出し、ゲームは4ー4に追いついた。
菊丸がギリギリでかわしたボールで精密なムーンボレーを決めた大石。二人の信頼があってこそ成り立つプレーを目の当たりにし、青学、ルドルフどちらの応援も加熱していく中、突然両者の声援がピタリと止んだかと思うと辺りがざわめく。視線が集められる先では前衛の菊丸と後衛の大石とがコートの真ん中で一直線上に構えるという、珍しいフォーメーションでいたのだ。
ほんの数日前に乾にこのフォーメーションの説明を受け苦戦しながら練習をしていた二人を思い出したあかりが乾の顔を覗くと、逆光から目元の表情こそ分からないが口元には小さく笑みがあることが見えた。良い流れになりそうだと安堵してあかりが視線をコートに戻そうとすると、大きな雄叫びが空気を振るわせた。突然の咆哮に一瞬身体が固まりながらも恐る恐るそちらを見やれば、菊丸と大石の対戦相手である聖ルドルフの赤澤が声の主だった。
それは自分を落ち着かせる行為のひとつであると不二から聞いてそういうものなのかと納得は出来るものの、叫び声というのはやはり少し怖いもので身体が縮こまる。驚いた胸を落ち着かせようと静かに呼吸を深くしていると、こちらを窺うような視線を向けていたリョーマと目が合い首を傾げるあかり。
「なに?リョーマくん」
「別に」
何か言いたいことがあるのだろうかと尋ねてみるも先程のあかりがしたように素っ気なく返されたので、改めて視線をコートへと戻して戦いの行方を見守ろうとする。しかし、今度は先程の咆哮とは異なる少し上擦った叫び声がしたものだから、あかりは再び速くなる鼓動を宥めながら静かに後退りしそろりと横に移動していった。そんな##NAME2##の動きに気付きリョーマが訝しげに声をかける。
「……なにやってんの?」
「ちょっと……そう、海堂くんと桃城くんの方の試合を見ようかなって」
「ここからでも見えるじゃん」
「そ、そうだね。でも、もうちょっと近くで見たいかなあ、なんて」
予想だにしない大声に二度も驚かされ少しここから離れたいのだとは言えず、苦しい言い訳をしながら少しだけ移動して桃城・海堂ペアの試合がより見える位置にやってきたあかり。見ると丁度チェンジコートで短い休憩をしている二人の姿があった。なにかアドバイスを受けているのか竜崎と言葉を交わす様子を見ていると、あかりの視線に気付いたのか桃城が笑顔で手を振ってきた。試合の最中に肝が据わっているなあと関心しながら小さく手を振り返すあかり。
「 ……何やってんだ」
「いや、ほら、伊吹さんが」
海堂に睨みつけられた桃城があかりの方を指し示す。指された方へ視線を移せばそこには遠慮がちに手を振る彼女の姿があることを確認した海堂は、あかりの表情を見るとほんの僅かに首を傾げ「なんで見てるだけだってのに疲れてるんだ」と呟いた。海堂の言葉を受け桃城も確かめるように観察すると、言われてみればそんな風に見えなくもない。
「手に汗握るってやつ?」
「知るか」
コートに戻るや相手選手からされた挑発に息を合わせて返した桃城と海堂。「早いとこ勝って安心させてあげねーとな」と笑う桃城に、海堂は肯定も否定もせず静かに構えを取った。
*****
その後、菊丸の体力回復を狙い、マッチポイントに追い詰められるまで一人コートを駆け回っていた大石の粘りもあり流れを変えたダブルス1。青学、ルドルフ共にタイブレーク突入で声援も更に加熱しているのを横に感じながら、あかりは3ー2と戦局が硬直した状態の続くダブルス2の試合を見つめていた。
しかし、そう時間の経たない内に会場のざわめきと共にダブルス1をルドルフのペアが制したことを知らせる審判の声が響き、あかりは思わずそちらへ振り向く。試合を終えコートから出てきた大石と菊丸を、奮闘を称える拍手で迎える部員達。それに笑顔で応えながらタオルとドリンクを受け取った二人は、桃城と海堂の試合がよく見えるあかりの隣へやってきた。
何と言っていいのか分からず「お疲れさまです」としか言えなかったあかりに菊丸はカラッとした笑顔で返すと、試合を続ける桃城と海堂に自分達の仇をとってくれと声援を送った。その明るい様子に安堵したあかりは、菊丸や他の部員達に負けじと声援を送ることにした。
「海堂くん、桃城くん、頑張れー!……って、あれ?」
突然、審判からタイムの声が聞こえたかと思うと箒を手にした観月がコートに入りラインの辺りを掃除しだした。地区予選から都大会の今日までで初めて見る光景にこういうこともあるのだろうかとあかりが首を傾げながら見ていると、観月は何やらこちら、青学側のフェンス際に近付いてきて乾と言葉を交わしだした。何を話しているのかは聞こえないものの雰囲気を察しようと見つめていると、審判に促され戻っていく観月と視線が交わる。その口元には試合開始前と同じように笑みが浮かべられていて、あかりは小さな不安を覚えた。
3ー2のままデュースの続く試合の流れを変えたのは海堂のあの技だった。ポールの外側を回って相手側のコートに突き刺さるそれは、不動峰の神尾との試合で偶然に決まったブーメランスネイク。シングルスのコートではアウトになるそれはまだ未完成だとは言っているが、地区予選から都大会までの短い間にこれだけ形にしてきたのだ、海堂の努力ははきっと並大抵のものではないだろうとあかりは尊敬の眼差しでその背を見つめる。
『スネイクを返すことでロブを上げてしまいダンクスマッシュを決められる』という流れを防ぐためにスネイクを警戒していたルドルフペア。しかし、試合で通用するブーメランスネイクを目の当たりにしたことで、注意は完全にそちらへ移っていた。ブーメランスネイクにばかり気を取られスネイクの見極めに遅れ、ロブを上げてしまうルドルフの木更津。高く上がったそのロブはこれ以上ないほど最高のタイミングで飛び込んだ桃城のダンクスマッシュによって相手コートに強烈に叩き込まれ、跳ね上がったボールはフェンスを越えていってしまうほどのパワーを持っていた。
すっかり勢いを得た桃城と海堂により試合は大きく青学の側に傾く。しかし、ルドルフ側も諦める訳もなく再び放たれた海堂のブーメランスネイクを攻略するべく動いた。鋭いカーブでコートへ戻ってくるより先にボールを拾い上げ、更には回転が加えることで滞空時間を長くし桃城のダンクスマッシュのタイミングをずらそうとしたのだ。だが、桃城の跳躍力の前にそれは大きな効果を得られず豪快に叩き込まれたダンクスマッシュは相手コートで勢いよく跳ね上がると、柳沢の顔面に直撃して彼をコートに沈ませた。
慌ててネットを飛び越え駆け寄る桃城やペアの木更津、様子を窺う竜崎と続行可能かの判断を検討する審判の前には、すっかり伸びてしまっている柳沢の姿。そして、無情にもルドルフの棄権とそれによる青学の勝利が審判によって告げられたのだった。
「ル、ルドルフの選手は大丈夫でしょうか……?」
「うーん、大丈夫そうだけど……食らいたくないなあ」
顔を強ばらせながら尋ねるあかりに大石も幾らかぎこちなく口角を上げながら返し、二人はチームメイトに運ばれていく柳沢を見送った。
*****
コート整備のためシングルス3が始まるまでに15分の時間ができた中、あかりはいつの間にか姿の見えなくなったリョーマを探して会場内を歩いていた。会場内にはいくつか練習場所としてコートの半面で壁打ちができるような所があった。その内のどこかでウォーミングアップをしているかもしれないと辺りを見回していると、前方から見覚えのある少年が歩いてくる。
「あ、こんにちは、不二くん」
ウォーミングアップを終えてコートの方へ向かっている様子のリョーマの対戦相手、不二裕太。素通りするのも不自然だろうかとあかりが声をかけると、彼は立ち止まって目線をこちらへ寄越した。しかし、既に試合に向けて集中しているのか、相手校の生徒だから馴れ合うつもりはないということなのか言葉は返さない。
「えーと、先日はどうも」
居たたまれないという気持ちであかりがそう言うと裕太は相変わらず黙ったままでいた。と、思ったら僅かに顎を上げ「ああ、アンタか」と思い出したように声を漏らした。
「ご、ごめん」
「なんで謝るんだよ」
「いや、声をかけたはいいものの、もう試合に向けて集中していたのかと思って」
「この程度のことで乱されたりしねーよ」
「そっか、よかった」
一通り言葉のラリーが終わって二人の間に沈黙が訪れる。空気が重くなりすぎる前に切り上げようとあかりが「じゃあ、不二くんも試合頑張ってね」と言うと、「対戦相手にそんなこと言って青学が負けてもいいのか?」なんて返されあかりは慌てて否定した。
「そ、それは困るっ……困る、けど」
「けど?」
「お互いにいい試合だったって思える方がいいから、やっぱり不二くんも頑張ってね」
そう改めて伝えると裕太は顔を逸らしながらも短い返事をしてその場を去っていった。
裕太と別れたあかりが再びリョーマを探して歩いてると、こちらもウォーミングアップが終わった様子で戻ってきた。
「こんなところで何やってんの」
「リョーマくんを探してたの」
間もなく試合が再開されるコートの方へ並んで歩いていると、幾らか恨めしそうな顔のリョーマが「……何か、監視の目が厳しくなってない?」と言うものだからあかりは笑顔で「前科があるからね」と答えた後、今朝はどれだけ心配したかと語り始めた。その様子に余計なことを言ってしまったと後悔しながら聞き流していたリョーマは、コートが視界に入るところまで来ると「応援はしてくれないわけ?」と尋ねた。すると、今まで小言を口にしていたあかりがハッとした表情を見せる。
「ごめん、大事な試合前なのに」
「それは別に大丈夫だけど」
「ううん、今じゃなくていいことだった。ごめんなさい」
「だからいいって、いつも通りっぽくてそれはそれで気が楽だし」
謝りながら歩くスピードが落ちていったあかりがついに立ち止まる。数歩先を進んだリョーマがそれに気づき振り返ると、あかりは少し改まった様子で口を開いた。
「リョーマくん、応援してるよ。応援してます!」
「そう」
固く握った拳で宣言すると続く言葉を言おうかどうか少し考えるような素振り見せた後、「だから……勝ってね」とあかりは真っ直ぐにリョーマの瞳を捉えて言った。リョーマは満足げに口の端を上げると「とーぜん」と言ってコートへ向かっていった。
*****
リョーマ対裕太のシングルス3が始まると、左殺しという異名を持つ裕太のライジングショットに先制され、ツイストサーブも無効化する超ライジングを前に第1ゲーム目を取られるリョーマ。しかし、超ライジングを打たせた上でそれを速さで上回るという勝ち気なスタイルで崩してみせると、第2ゲームを取り返した。慣れないだろう相手にも怯まず攻めるリョーマにひとまず安心しあかりがそっと息を吐いていると、すぐ側で1年生トリオの驚く声が上がった。どうしたのかとそちらを見れば、裕太が1年生の半年ほどは青学に在籍していたという話だった。
入学したものの天才と言われる兄・周助と比較されたくないという思いがあったのだろう、テニス部には入らなかったこと。そして、入学して半年で聖ルドルフへ転入したということを聞き、あかりは初めて裕太と会った時のことを思い出した。不二という名前を聞き親戚かと尋ねて鋭く睨まれ、『俺は……、アイツは俺の兄貴だよ』とどこか苦しげに言葉を紡いだ裕太の中には、天才である兄と同じ道を選んだが故に常に比較されるというプレッシャーがあったのだ。兄と距離をとったはずなのに、寧ろそのプレッシャーからくる苛立ちに囚われているのではと感じさせるような裕太の気迫。そんな裕太を見つめるあかりの頭にはなぜか観月の含みを持った笑みが浮かんだ。
ほんの数日前、迷子だったところを助けてくれた観月の笑顔に自分は安心したはずなのに、聖ルドルフとの試合が始まってからの観月の笑みは胸の奥がざわざわとして、どういう訳か居心地が悪い。そんな不安をあかりが感じていると、押し戻していたリョーマに裕太から強力なショットが繰り出された。相手目掛けて跳ね上がるツイストスピンショットだ。超ライジングを攻略できたと思った矢先の、二段構えの強力なツイストスピンショット。それを返せないまま3ゲームまで奪われた辺りでリョーマの動きが変わってきた。
バウンドする位置より後ろに下がりボールを捕らえようとするやり方から、アウトにこそなったが跳ね上がりの直後を捕らえる裕太の超ライジングのコツをほんの数球で掴み始め、もう次のショットではそれを決めてしまえそうなところまできている。しかし、今にも超ライジングでツイストスピンショットを攻略してしまいそうな勢いのリョーマは裕太に「ツイストなんとかって奴…あんまり使わない方がいいよ」と宣言する。
「使わない方がいいって……」
「どういう事でしょうか?」とあかりが右隣に居る不二を見ると、その横顔はいつものように優しく細められた目許が綺麗なのにどこか鋭い気配を含ませていた。雰囲気の違いにあかりが言葉を続けられず固まっていると、視線に気付いた不二が「どうしたの?」と首を傾げた。
「い、いえっ、リョーマくんも不二くんも凄いですね!」
誤魔化すように言ったあかりの言葉に今度は不二が一瞬固まる様子を見せた後、クスッと笑って「そうだね」と返した。
3ー1と押されていたリョーマが3ー4まで巻き返したのはそれからあっという間のことだった。『打たない方がいい』そう宣告したツイストスピンショットが次に繰り出された時、リョーマは見たこともないボレーを放ったのだ。
ツイストサーブと同じ深く沈み込み跳ね上がる効果のツイストスピンショット、それをバウンドする前にスライディングで潜り込み打ち返す。相手に返された球は大きく弧を描くのかと思いきや急激に落ち、ベースラインより内側に突き刺さった。初めて目にする『ドライブB』という技に沸く1年生トリオ。周囲の観衆も読めない試合展開に興奮している様子の中、チェンジコートに入り両者がそれぞれのベンチへ向かった。
青学側のベンチではドリンクを飲みながらリョーマが竜崎から何か言葉をかけられている。いつもと変わりない飄々とした姿にあかりが安心してふと聖ルドルフ側のベンチに目をやると、座っている観月の正面に立ち指示を聞いている様子の裕太の表情が強ばっているように見えた。
巻き返されたことに対して何か言われているのだろうかと少し心配になりながら二人の様子を窺っていたが、裕太はすぐに緊張が見えた表情から一変して真っ直ぐ力強い眼差しになる。観月と裕太の間でどんな言葉が交わされたのかは分からない。しかし、確かな変化が感じられる表情にあかりが釘付けになっていると、コートへ戻る裕太と偶然視線が交わった。あかりは小さくガッツポーズを見せ口の動きで応援の言葉を送る。それに対し、裕太の目が僅かに見開き驚いた素振りを見せるもすぐに真剣な表情でコートへ戻っていった。
あまり周りには聞こえないよう「リョーマくんも不二くんも頑張って……」と小さく零したあかりであったが、隣から「ふふ、ありがとう。伊吹さん」と言われ慌ててそちらに振り向くと不二が優しく微笑んでいた。そこで漸く、裕太が目を向けたのは兄である不二周助で視界の端に自分が入り込んでいたから視線が交わったのだとあかりは気付いた。
それから程なくしてシングルス3の試合は決着がついた。ツイストスピンショットをドライブBで攻略してからは1ゲームも奪わせることなく決めていき、勝利を収めたリョーマ。互いに今持てる技で正面からぶつかり合ったからか、握手を交わす裕太の表情は敗れたもののどこか清々しい。
コートから出て仲間の元へ戻る二人を見てあかりもリョーマに労いの言葉をかけるためその場を離れようとしたが、竜崎がベンチから腰を上げ観月の方へ向かったのを見て思わず足が止まった。シングルス2の試合に備えて靴紐を結び直している観月に竜崎が言ったのは、ツイストスピンショットを打つことで裕太の身体にかかる負担の大きさについてだった。まだ成長期である今の身体にあのショットは負担が大きく、打ち続ければ肩を壊すことになるというものだった。
言われてみれば打つ度に全身を強く捻るあの動作が身体の負担にならないはずはない。無茶を承知でこの大会に賭ける想いがあったのだろうかと、竜崎から指摘を受けた観月の返答を待つあかり。しかし、彼から発せられた言葉は予想もしない酷く冷たいものだった。
「そんな事、ボクの知ったこちゃない」
一瞬、何を言っているのか理解できなかったあかりは頭の中でその言葉を繰り返した。そして、『裕太の身体に負担のかかる技であることを知りながら、それによって裕太の身体がどうなろうと知ったこっちゃない』と、そう観月は考えているのだという事実に胸が詰まる。
観月の態度に苛立ちを隠すことなくベンチに戻った竜崎と、試合のためコートへ向かっていく観月の後ろ姿を呆然と見つめ「そんな……」と零すあかり。しかし、すぐ側に不二が居たことを思い出し弾かれたようにそちらへ向く。あかり同様に一部始終を見ていた不二は僅かな沈黙の後、思い出したように手塚に「そろそろ試合やりたい?」と声をかけた。フェンスから離れジャージのジッパーに手をかけそれを下ろしながらコートへ向かっていく不二は声を荒らげてこそいないものの、「今回はキミまで回りそうにないから」と告げる落ち着いた声色の底には確かに怒りが含まれていることをあかりは感じた。
勝利宣言と言って差し支えない言葉を残して試合に臨んだ不二だったが、信じられないくらい早々に観月に5ゲームを奪われてしまった。あの不二先輩がどうしてと動揺する周囲を気にする様子もなく、チェンジコートの際に観月と短く言葉を交わすとラケットを替えて試合に戻っていく不二。
このゲームを取られてしまえば敗北という後がない中で、不意に乾が「本当にデータを正確に取れたのかな?」と呟いた。不二の苦手を研究し尽くしたからこそ1ゲームも落とさず展開させているように見える観月の試合運びを前に乾は、「不二のデータだけは、俺でさえ正確に取らせてもらえない」と続ける。すると、乾の言葉と時を同じくして不二が反撃を開始した。
観月が狙ってきた『不二が苦手とするはずのコース』は変わりないにも関わらず、不二の動きは先程までとはまるで別物になり全てのコースを打ち返している。
「乾先輩、これって」
「弱点を他人に悟られるようなマネはしない……不二は」
「それじゃあ、第5ゲームまではわざと」
あかりの問い掛けに乾は無言で一度首を縦に振ると「信じられるデータが無くなった今、アイツにもう勝ち目はないな」と、既に結末が見えているようだった。そこからは1ゲームどころか1ポイントも取らせることなくゲームを支配した不二が瞬く間に点を重ねていき、このゲームを取れば勝利というところで周囲に試合のものとは異なるどよめきが起こった。
先に状況に気付いた様子の1年生トリオに倣いあかりもそちらを窺うと、次にこのコートで試合を行うことになっている氷帝学園の登場に対する反応だと分かった。流石、この大会の第1シードなだけある威圧感を発する学校だと納得しつつも、あかりはすぐに視線を不二の試合へと戻す。
1ポイントとて観月に許さず7ー5で見事勝利を収めた不二に沸き上がる青学サイド。準決勝と決勝が残ってはいるが、聖ルドルフに勝利したことで青学は都大会出場校中ベスト4に入り、次の関東大会への出場資格を獲得することができた。
*****
少し前まで青学と聖ルドルフが戦っていたコートで、今は氷帝学園と不動峰による準々決勝が行われている。第1シードである氷帝学園を相手に、既にダブルス2とダブルス1を取っている今大会ダークホースの不動峰。その勢いと気迫に押されてかすっかり大人しくなっていた氷帝の応援。しかし、それはシングルス3に登場した男・宍戸によって一変した。
「なんだか氷帝側の雰囲気が一気に変わりましたね、乾先輩」
「宍戸は正レギュラーだからね。それより、橘……か見ておいた方がいいよ」
これから始まるシングルス3に出る不動峰の部長・橘の試合に注目するべきだと、近くに居たリョーマ達にも聞こえるように言うとノートを開きペンを構える乾。思えば青学が不動峰と戦った時は橘の試合を見る機会は無かったので、これが初めて見る試合になる。部員の多さからコートが取り囲むようにして沸き起こる氷帝コールの中、試合は始まる。確かにダブルス2と1で見てきた氷帝の選手とはレベルの違いを感じさせる宍戸を相手に、橘はベースラインから前に出てこない。
「橘さん、ずっと後ろにいますけど打ち返すこと自体は簡単そう……というか、難しそうな雰囲気じゃないですね」
素人目にも速いと分かる打球と淀みなくラリーを続けている橘に抑え込まれているという印象を受けないあかりがそう言うと、ノートにペンを走らせていた乾が「そうだね。うん、そろそろかな」と言って手を止めた。
「そろそろ、ですか?」とあかりは首を傾げながらも真っ直ぐ試合を観察する乾に倣うと、今まで一度もベースラインより前に踏み出していなかったことが嘘のように、橘はいとも容易くネット際まで上がり強烈なショットで宍戸を抜いてしまった。それから、橘はたったの1ゲームも1ポイントも許すことなく6ー0で宍戸を完封したのだった。
圧倒的なまでの強さに辺りが騒然とする中、橘は九州地区2強とされる全国レベルの選手であることを明かす乾。まさかの事実に口々に驚きの声が上がる。そんな中、当然承知していたらしく表情を崩さない手塚に「最初から気付いてたなら言ってくれよ手塚」と大石は零すも、その口調は決して強敵の存在に悲観するものではなく寧ろ困難な挑戦にワクワクしているようでさえあった。
手塚と大石とのやり取りを見てあかりが周囲に目をやれば、レギュラー陣は一様に強力なライバルの出現に胸躍らせるような眼差しを送っており、それはリョーマも同様だった。挑むことを恐れないそんな姿勢が眩しく感じられて、あかりは彼らと同じように前に進んでいきたいと気合いを入れ直すのだった。
*****
都大会1日目。全ての試合が終了し、各校がコートに整列して運営の挨拶や今後の日程を聞き白熱の一日を終えた。
青学も会場へ集合した時と同様に竜崎からの今日の総括を聞いた後に、その場で解散となった。片付けも早々に済ませて帰って行った菊丸、大石。各校のテニス部員たちから最後まで情報を得ようと少し会場を歩いてから帰るという乾。普段の寮生活から久し振りに家に帰るという裕太を連れた不二が先に会場を後にした中、残りのレギュラー陣と一緒にあかりはバスに揺られていた。
リョーマ、桃城、海堂が緊張の糸も切れたのか眠りこけている中、目的のバス停が近付き降車ボタンを押してくれた河村を確認したあかりは、前の席で寄りかかり合い眠るリョーマと桃城に声をかけた。
「リョーマくん、桃城くん、起きて。もう降りるバス停だよ」
しかし、帰ってくるのはいびきのみだったので、座席から腰を浮かせて前の二人を覗き込む。そこには大口を開けて起きる気配のない姿があった。今度はリョーマの肩に手を置き揺すりながら声をかけるあかり。
「ほら、起きた、起きた。本当にも着いちゃうから」
手に加える力を徐々に強くしながら言うものの全く起きない。同様の行動を桃城にするも結果は変わらず、ダメだこりゃと思いながらそういえば後ろの席の海堂は……と振り返ると、彼もまた二人ほど熟睡ではないものの舟をこぐようにしてバスに合わせて頭を揺らしていた。大口を開いていびきをかく二人とは対照的な静かな寝入りに、海堂らしいなと感じているとバスはゆっくりと停車する。目的地を同じくしていた他の乗客が降車していく中、一向に起きない三人に河村も声をかけたがバスは何人かの乗客が降りたのを確認した後、発車してしまった。
そんな気はしていたという思いで1停乗り過ごすことを受け入れたあかりが河村の声で覚醒しかけた海堂に声をかけると、薄く目を開け声のした方へ顔を向けた海堂がその存在を確認するように何度か瞬きをする。そして、それがあかりだと認識すると「なんでお前がここに居る」と言いたげな顔をしながら一度ビクッと肩を震わせ、それから状況を理解したのかサッと目をそらした。
「おはよう、海堂くん。次の停留所で降りるから忘れ物しないでね」
「……おう」
寝顔を見られたのが照れ臭かったのかそそくさと荷物を確認する海堂に、「よしよし、こっちはオーケーね」と頷きながら再び前の座席に向き直ったあかり。今度こそは乗り過ごしてなるものかとリョーマと桃城、二人の頭に手を置き遠慮なしにわしゃわしゃと撫でた。これには熟睡していた二人も堪らず目を覚ます。
「……ぅおっ、なんだなんだっ?」
「ちょ、なに、やめっ」
「二人とも、いい加減起きなさいっ」
「わかった、わかったから伊吹さん!」
観念しましたという具合の桃城とは違い、本当に鬱陶しいと言わんばかりの表情になったリョーマに「ごめんごめん、でも、全然起きなかったからさ」と弁明するあかり。そして、今度こそバスから降りることができた6人は、停留所でそれぞれの帰路へと分かれた。「じゃあ、私たちも帰りますか」とあかりが言えば、まだ寝ぼけてでもいるような目で周囲をぐるりと見渡して首をかしげるリョーマ。
「……」
「どうしたの、リョーマくん」
「なんか、このバス停……違くない?」
「キミがそれを言うかね」
*****
停留所ひとつ分を余計に歩くことにはなったが無事、帰途に就いたリョーマとあかり。疲れもあってかさっさと家に入っていくリョーマを見ながら、あかりが習慣にもなっている帰宅時のポストのチェックをすると、中には夕刊やポスティングのチラシに挟まれて一通の封筒、エアメールが入っていた。封筒を抜き取り差出人を確かめるとそこには見慣れた筆跡で記された父の名前、そして受取人にはあかりの名前があった。
久し振りに触れる家族という存在にあたたかい気持ちになるのと同時に、心にさざ波が立つあかり。封筒を手にしていない方の手が無意識の内に首筋に移動していたのに気付いたのは、ファスナーを最上部まで引き上げたジャージの襟の上から強く首筋を掻いてからだった。
「いけないいけない、我慢我慢」
封筒をポストの上に置いて空いた手でもう一方を封じるように手を組む。ひとつふたつと深呼吸をしてもう一度封筒を手に取るとそれを鞄に押し込み、残りの郵便物は一まとめに掴んであかりは家へと入った。
第5話 終
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会場では青学の男子テニス部員と顧問の竜崎が午前10時に迫るエントリー受付のリミットを前に落ち着かない様子でいた。数分前まではあかりも同じ場所で何度もリョーマの携帯に連絡を入れていたのだが、全く繋がらず折り返しの連絡もない状態に堪えきれなくなり「急いで向かっているかもしれない」と会場の入り口へ走っていった。
発信履歴がリョーマの名前で埋め尽くされていく液晶を見つめながらあかりは、一人で先に来たりしなければ、と後悔した。そして、祈るような思いでもう一度発信しようとした瞬間、手の中の端末が小さな身体を必死に振るわせた。
「もしもし、リョーマくんっ?」
表示される画面を確認するより先に着信を取り、急いで耳に当てるあかり。電話口の向こうからは何やらバタバタと騒々しい音が絶えず聞こえていて、相手の声は聞こえない。一度、耳元から端末を離し液晶を見れば確かにリョーマの名前がそこにはあり、連絡が取れたことの安堵からあかりの口からほっと息が漏れた。そして、リョーマの現状を確認しようと端末を再び耳に当てようとするあかりだったが、様子を見に会場の入り口まで来た大石に気が付くと「大石先輩に代わるね!」とだけ伝えて、大石に端末を差し出した。
端末を受け取った大石はリョーマから話を聞きながらみんなが待つ会場内へと踵を返し、あかりもその後に続く。事情を聴き終えた大石は端末をあかりに返すと、リョーマの到着を今か今かと待つ部員達に向け「子供が生まれそうな妊婦さんを助けて、病院に寄ってたそうだ」と爽やかに告げた。その報告に部員のおおよそ全員が呆れの表情を浮かべ、あかりも大石から返され通話が終了した状態の画面をジトッと見つめた。それから、エントリー受付の締め切りには間に合わなくとも試合までには到着するだろうということで、帽子を目深に被り海堂のジャージを借りることで背格好の近い堀尾をリョーマに見立てて青学はなんとか受付を乗り切った。
第5話 都大会1日目
青学の都大会初戦の相手は鎌田中。ダブルス2、1と危なげなく勝ち進んでいく状況が嬉しいと同時に、順調に進みすぎて未だ会場に到着しないリョーマが間に合わないのではとハラハラするあかり。すると、シングルス3の決着がつこうかというところでリョーマの到着を知らせる声が聞こえてきた。あかりが声のした方へ振り返ると心労の元凶であるリョーマが桃城に茶化されいるところだった。言いたいことは数あれど今はそうもいかない。手塚に促されコートへ入っていくリョーマに「頑張って」とだけ声援を送り、早鐘を打ち続けていた胸を宥めた。
*****
周囲をヒヤヒヤさせた遅刻騒動などまるで無かったように軽やかに勝利を飾ったリョーマがコートを後にすると、シングルス1を戦う手塚が入れ替わりでコートへ入っていく。途端、コート内のみならず周りを囲む観衆の空気までもが一変する。明らかに今までとは異なる空気、静寂に、手塚国光という選手の格の違いが分かる。
試合が始まっても独特の静寂がコートにはあった。ラリーさえさせてもらえないほど、鋭く相手コートに突き刺さる手塚のサーブ。圧倒的なまでの彼の実力に湧く観衆の歓声と、手塚の動作を注視する沈黙とが交互にその場を包んだ。
初めて目にする手塚の試合に1年生達と同様に言葉の出なくなるあかり。すると、その少し後ろから「部長の実力はこんなもんじゃないよ」という声が上がる。あかりが振り返るとそこには真剣な眼差しをコートに向けるリョーマの姿があった。近くにいた不二が少し窺うような間を持った後、リョーマの言葉を肯定する。「手塚が本気を出せる相手は少ない」と。それを聞いたあかりの頭には先日のリョーマと手塚の試合のことが蘇り、リョーマは手塚の本気を引き出せたのだろうかという思いが自然と湧いてきた。無論、あの日のことをリョーマから聞いていないあかりが尋ねる訳にもいかずにいると、視線を感じ取ったのかリョーマがあかりの方へ顔を向けた。
「なに?」
「う、ううん、なんでも」
素っ気ない返しをするとコートの方へ向き直ってしまったあかりに「変なの」と呟きリョーマも試合に目を戻し、あと数分で決するであろう展開を見届けた。
*****
「……不二、河村。6ー0で勝った割には試合時間が長かったね」
青学が次に当たった秋山三中相手にもまずは一勝を取り少し安心した気持ちであかりがダブルス1の試合を見ていると、ダブルス2の試合を終えて戻ってきた不二と河村に尋ねる乾の声が耳に入った。
「うん、何かやりにくかった」と返す不二と、「結構嫌なトコついてきたなあ」と試合を思い返すように言う河村。危なげなく勝っていたように見えていたがとあかりが記録していたスコアを見ようとすると、丁度、大石・菊丸ペアが6ー1で勝利したことを告げる審判の声が響いた。大石と菊丸の元へ駆け寄りタオルとドリンクを渡したあかりは、勝利を喜び二人を讃える声の中から発せられた「……2人にしては手こずったな。ミスが目立っていた」という手塚の言葉に少し驚きながらも二人の反応を窺う。
「結構、俺の嫌いなテニスしてくんだよね」という菊丸と、地区予選を勝ち抜いてきただけあるとして相手校の情報収集と対策を認める大石。手塚と同じく今回の試合について気に掛かっていた乾の方を反射的に見ると、何かを考えるようにして眼鏡の位置を直す仕草をしている。
「伊吹さん、このまま試合の記録お願いできるかな」
「わかりました。乾先輩はどこか行かれるんですか?」
「うん、少しね」
そう言ってこの場を離れていった乾の行き先は気になるが、記録を任されたあかりは抜けがあってはいけないとシングルス3での試合も順調に点を重ねていくリョーマの戦いをしっかりと記録した。
*****
秋山三中に勝利し青学は無事ベスト8に残った。そして、それに続くように勝ち上がってきた他校の結果を確認したあかりは、姿の見当たらないリョーマを探して会場内を歩いていた。
「次の集合には絶対に遅れないように、いや、余裕を持ってもらうくらいじゃないと」などとぶつぶつと呟きながら進むあかりは、桃城と一緒に居るリョーマの姿を視界に捉えると声を掛けながら早足で歩み寄った。しかし、あかりの発した声はほぼ同時に上げられた別の大きな声にかき消される。
「あっ!君は、伊吹さん!!」
「え?」
リョーマと桃城の元へ直進していたあかりの前に大きな声を上げた人物が立ちはだかったかと思うと、両手を取られギュッと握られた。突然のことに驚きながらもあかりが目線を上げると、そこには数日前に青学のコート脇で倒れていた山吹中の千石清純が満面の笑みで立っていた。
「えっと、山吹中の……千石さん?」
確認するように名前を口にして少し首を傾げるあかりに千石は一瞬驚きで目を見開いてみせると、すぐにまた深い笑みに戻り「名前覚えていてくれたんだ」と声を弾ませた。
「そうだよ、今日の恋愛運二重丸はコレだったんだよ。やっぱり俺ってラッキー」
「あの、千石さん、手を……」
未だしっかりと握られた手にデジャヴを感じながらどうにかやんわり抜き取ろうと考えるあかり。しかし、あかりがそれを行動に移すよりも先に重ねられた手の上に手刀が落とされ二人の手は離れた。
「ちょ、酷いな、何するんだよルーキーくん」
「遊んでないでさっさと行くよ」
「おいおい、俺は完全スルーなのっ?」
繋がれていた手を断ち切った本人たるリョーマは千石の言葉に取り合うことなく、あかりにだけ視線を向けるとすたすたと歩き出していってしまった。唖然としたままその場に残されるあかりに、一部始終を見ていた桃城が声をかける。
「行こうぜ、伊吹さん。越前を探しに来てくれたんだろ?」
「あ、うん」
「じゃ、千石さん、俺たちはこれで」
リョーマが去っていった方に歩いていく桃城を見てあかりも千石に一礼しその場を離れることにする。すると「ねえ、俺のことも応援してくれる?」という声が降りかかる。顔を上げれば良い返事を待っているだろう千石の笑顔があった。
「ええっと……青学との試合以外であれば」
「ハハ、やっぱり?」
青学のマネージャーとして妥当な形で返したあかりに分かりやすく肩を落とす仕草をしてみせた後、「じゃあ、青学と当たった時は心の中で応援してね」とウインクを飛ばして千石は去っていった。
「お、来た来た。また捕まってるのかと思ったぜ。伊吹さん、千石さんと知り合いだったのか?」
「知り合いというか、ちょっと前に青学に来ていた時に会って」
「へぇ」
追いついたあかりが隣を歩くと、桃城はさっきの場所に不動峰も居たことを告げた。
「ま、伊吹さんが来たのと入れ違いだったんだけどな」
「杏ちゃんもいた?」
「橘妹?いや、居なかったぜ。てか、橘妹とも仲良いのか」
「ともって、千石さんは別に仲が良い訳では。でも、杏ちゃんとは連絡取り合ってるよ」
「ふーん」
そんな会話をしながら会場を進んでいると青学の部員達が集まっているのが見えてきて、その中には先に戻っていたリョーマの姿もあった。リョーマは遅れて戻ってきた桃城とあかりを見ると「遅い」と一言漏らす。
今朝、盛大に遅刻をしたリョーマに言われるとはとあかりが桃城の方を見ると、彼も同じように感じていたのかバッチリと目が合った。そして、ニッと口角を引き上げた桃城はリョーマの元へ駆けていき、「お前にだけは言われたくねえよ」とヘッドロックを決めた。リョーマが漸く桃城から解放され、助けに入らなかったあかりに文句の一つでも言いたそうな顔をしていると、竜崎からレギュラーメンバー集合の号令がかかり準々決勝のオーダーが発表された。
都大会準々決勝、対聖ルドルフ戦。桃城と海堂という意外な組み合わせのダブルスにも驚いたが、試合開始前のコートに整列する選手達の中に乾からの説明で聞いた不二裕太だけでなく、観月の姿もあることにあかりは驚いていた。
つい先日、とても親切にしてくれた相手が今は対戦相手としてコートの向かいに並んでいる光景に不思議な縁もあるものだとあかりが見つめていると、それに気付いたのか偶然か観月の視線とかち合ってしまった。わざわざ逸らすのも不自然だろうかとあかりが小さく会釈をすると、観月は口元に描いた弧を深めた。
*****
コート2面を使ってダブルス2とダブルス1の試合が同時に開始される。コート内に入るや否や何やら言い争うような様子が見られた桃城と海堂は、試合が始まると互いのプレースタイルを理解していることから繰り出せる強みを活かした戦いで木更津・柳沢ペアを押していた。いがみ合いながらも上手く互いをフォローし合うようなダブルスに歓声が上がる中、絶好のタイミングとも思える場面でスネイクを決めなかった海堂。どうして打たなかったのか、あかりがそれを乾に聞こうと口を開きかけたところで、黄金ペアの劣勢を告げる審判の声に会場がざわめいた。
3ー1と押されていたのを4ー3まで縮めたとはいえ、黄金ペアたるいつもの菊丸と大石らしからぬ試合運びに部員の間にも動揺が走る。そんな中、あかりの隣に立つリョーマが真剣というよりは目を凝らすような表情でボールを追っていた。
「リョーマくん、どうしたの?」
「……ボールが5つ6つ位に見える」
「どういうこと?」
とぼけている風でもないリョーマに首を傾げるあかり。しかし、乾はリョーマの言葉からなにか気付いたのか赤澤の動きを観察すると、彼のショットの癖からくる『ブレ球』が動体視力の良すぎる菊丸を消耗させていると説明した。リョーマと乾の会話を聞き、あかりも赤澤の打つ球に目を凝らしてみるものの何度見ても球は一つ、5つや6つになど到底見えそうもない。すぐ近くでは同じように球のブレが見えない1年生たちが声を上げている。
特別な行動をしている訳でない当人の癖からくる相性の悪さ、それを見事に利用したルドルフの戦法に感心する乾とリョーマ。そんな危機感の無さに思わずツッコミを入れる堀尾であったが、側にいた不二も黄金ペアの実力を理解しているからかいつもと変わらぬ笑みを崩さない。
消耗を狙っての戦法を敢えて受けて立つとでもいうようにアクロバティックなプレーを連発する菊丸。しかし、それも限界に来たのか足がよろめいたその瞬間を赤澤は見逃さなかった。態勢の整わない菊丸目掛けて鋭くボールは向かっていった。菊丸が慌てて球を取りに行くでもなく寸でのところで身をかわすと、後衛の大石が相手コートのライン上に突き刺さるボレーを繰り出し、ゲームは4ー4に追いついた。
菊丸がギリギリでかわしたボールで精密なムーンボレーを決めた大石。二人の信頼があってこそ成り立つプレーを目の当たりにし、青学、ルドルフどちらの応援も加熱していく中、突然両者の声援がピタリと止んだかと思うと辺りがざわめく。視線が集められる先では前衛の菊丸と後衛の大石とがコートの真ん中で一直線上に構えるという、珍しいフォーメーションでいたのだ。
ほんの数日前に乾にこのフォーメーションの説明を受け苦戦しながら練習をしていた二人を思い出したあかりが乾の顔を覗くと、逆光から目元の表情こそ分からないが口元には小さく笑みがあることが見えた。良い流れになりそうだと安堵してあかりが視線をコートに戻そうとすると、大きな雄叫びが空気を振るわせた。突然の咆哮に一瞬身体が固まりながらも恐る恐るそちらを見やれば、菊丸と大石の対戦相手である聖ルドルフの赤澤が声の主だった。
それは自分を落ち着かせる行為のひとつであると不二から聞いてそういうものなのかと納得は出来るものの、叫び声というのはやはり少し怖いもので身体が縮こまる。驚いた胸を落ち着かせようと静かに呼吸を深くしていると、こちらを窺うような視線を向けていたリョーマと目が合い首を傾げるあかり。
「なに?リョーマくん」
「別に」
何か言いたいことがあるのだろうかと尋ねてみるも先程のあかりがしたように素っ気なく返されたので、改めて視線をコートへと戻して戦いの行方を見守ろうとする。しかし、今度は先程の咆哮とは異なる少し上擦った叫び声がしたものだから、あかりは再び速くなる鼓動を宥めながら静かに後退りしそろりと横に移動していった。そんな##NAME2##の動きに気付きリョーマが訝しげに声をかける。
「……なにやってんの?」
「ちょっと……そう、海堂くんと桃城くんの方の試合を見ようかなって」
「ここからでも見えるじゃん」
「そ、そうだね。でも、もうちょっと近くで見たいかなあ、なんて」
予想だにしない大声に二度も驚かされ少しここから離れたいのだとは言えず、苦しい言い訳をしながら少しだけ移動して桃城・海堂ペアの試合がより見える位置にやってきたあかり。見ると丁度チェンジコートで短い休憩をしている二人の姿があった。なにかアドバイスを受けているのか竜崎と言葉を交わす様子を見ていると、あかりの視線に気付いたのか桃城が笑顔で手を振ってきた。試合の最中に肝が据わっているなあと関心しながら小さく手を振り返すあかり。
「 ……何やってんだ」
「いや、ほら、伊吹さんが」
海堂に睨みつけられた桃城があかりの方を指し示す。指された方へ視線を移せばそこには遠慮がちに手を振る彼女の姿があることを確認した海堂は、あかりの表情を見るとほんの僅かに首を傾げ「なんで見てるだけだってのに疲れてるんだ」と呟いた。海堂の言葉を受け桃城も確かめるように観察すると、言われてみればそんな風に見えなくもない。
「手に汗握るってやつ?」
「知るか」
コートに戻るや相手選手からされた挑発に息を合わせて返した桃城と海堂。「早いとこ勝って安心させてあげねーとな」と笑う桃城に、海堂は肯定も否定もせず静かに構えを取った。
*****
その後、菊丸の体力回復を狙い、マッチポイントに追い詰められるまで一人コートを駆け回っていた大石の粘りもあり流れを変えたダブルス1。青学、ルドルフ共にタイブレーク突入で声援も更に加熱しているのを横に感じながら、あかりは3ー2と戦局が硬直した状態の続くダブルス2の試合を見つめていた。
しかし、そう時間の経たない内に会場のざわめきと共にダブルス1をルドルフのペアが制したことを知らせる審判の声が響き、あかりは思わずそちらへ振り向く。試合を終えコートから出てきた大石と菊丸を、奮闘を称える拍手で迎える部員達。それに笑顔で応えながらタオルとドリンクを受け取った二人は、桃城と海堂の試合がよく見えるあかりの隣へやってきた。
何と言っていいのか分からず「お疲れさまです」としか言えなかったあかりに菊丸はカラッとした笑顔で返すと、試合を続ける桃城と海堂に自分達の仇をとってくれと声援を送った。その明るい様子に安堵したあかりは、菊丸や他の部員達に負けじと声援を送ることにした。
「海堂くん、桃城くん、頑張れー!……って、あれ?」
突然、審判からタイムの声が聞こえたかと思うと箒を手にした観月がコートに入りラインの辺りを掃除しだした。地区予選から都大会の今日までで初めて見る光景にこういうこともあるのだろうかとあかりが首を傾げながら見ていると、観月は何やらこちら、青学側のフェンス際に近付いてきて乾と言葉を交わしだした。何を話しているのかは聞こえないものの雰囲気を察しようと見つめていると、審判に促され戻っていく観月と視線が交わる。その口元には試合開始前と同じように笑みが浮かべられていて、あかりは小さな不安を覚えた。
3ー2のままデュースの続く試合の流れを変えたのは海堂のあの技だった。ポールの外側を回って相手側のコートに突き刺さるそれは、不動峰の神尾との試合で偶然に決まったブーメランスネイク。シングルスのコートではアウトになるそれはまだ未完成だとは言っているが、地区予選から都大会までの短い間にこれだけ形にしてきたのだ、海堂の努力ははきっと並大抵のものではないだろうとあかりは尊敬の眼差しでその背を見つめる。
『スネイクを返すことでロブを上げてしまいダンクスマッシュを決められる』という流れを防ぐためにスネイクを警戒していたルドルフペア。しかし、試合で通用するブーメランスネイクを目の当たりにしたことで、注意は完全にそちらへ移っていた。ブーメランスネイクにばかり気を取られスネイクの見極めに遅れ、ロブを上げてしまうルドルフの木更津。高く上がったそのロブはこれ以上ないほど最高のタイミングで飛び込んだ桃城のダンクスマッシュによって相手コートに強烈に叩き込まれ、跳ね上がったボールはフェンスを越えていってしまうほどのパワーを持っていた。
すっかり勢いを得た桃城と海堂により試合は大きく青学の側に傾く。しかし、ルドルフ側も諦める訳もなく再び放たれた海堂のブーメランスネイクを攻略するべく動いた。鋭いカーブでコートへ戻ってくるより先にボールを拾い上げ、更には回転が加えることで滞空時間を長くし桃城のダンクスマッシュのタイミングをずらそうとしたのだ。だが、桃城の跳躍力の前にそれは大きな効果を得られず豪快に叩き込まれたダンクスマッシュは相手コートで勢いよく跳ね上がると、柳沢の顔面に直撃して彼をコートに沈ませた。
慌ててネットを飛び越え駆け寄る桃城やペアの木更津、様子を窺う竜崎と続行可能かの判断を検討する審判の前には、すっかり伸びてしまっている柳沢の姿。そして、無情にもルドルフの棄権とそれによる青学の勝利が審判によって告げられたのだった。
「ル、ルドルフの選手は大丈夫でしょうか……?」
「うーん、大丈夫そうだけど……食らいたくないなあ」
顔を強ばらせながら尋ねるあかりに大石も幾らかぎこちなく口角を上げながら返し、二人はチームメイトに運ばれていく柳沢を見送った。
*****
コート整備のためシングルス3が始まるまでに15分の時間ができた中、あかりはいつの間にか姿の見えなくなったリョーマを探して会場内を歩いていた。会場内にはいくつか練習場所としてコートの半面で壁打ちができるような所があった。その内のどこかでウォーミングアップをしているかもしれないと辺りを見回していると、前方から見覚えのある少年が歩いてくる。
「あ、こんにちは、不二くん」
ウォーミングアップを終えてコートの方へ向かっている様子のリョーマの対戦相手、不二裕太。素通りするのも不自然だろうかとあかりが声をかけると、彼は立ち止まって目線をこちらへ寄越した。しかし、既に試合に向けて集中しているのか、相手校の生徒だから馴れ合うつもりはないということなのか言葉は返さない。
「えーと、先日はどうも」
居たたまれないという気持ちであかりがそう言うと裕太は相変わらず黙ったままでいた。と、思ったら僅かに顎を上げ「ああ、アンタか」と思い出したように声を漏らした。
「ご、ごめん」
「なんで謝るんだよ」
「いや、声をかけたはいいものの、もう試合に向けて集中していたのかと思って」
「この程度のことで乱されたりしねーよ」
「そっか、よかった」
一通り言葉のラリーが終わって二人の間に沈黙が訪れる。空気が重くなりすぎる前に切り上げようとあかりが「じゃあ、不二くんも試合頑張ってね」と言うと、「対戦相手にそんなこと言って青学が負けてもいいのか?」なんて返されあかりは慌てて否定した。
「そ、それは困るっ……困る、けど」
「けど?」
「お互いにいい試合だったって思える方がいいから、やっぱり不二くんも頑張ってね」
そう改めて伝えると裕太は顔を逸らしながらも短い返事をしてその場を去っていった。
裕太と別れたあかりが再びリョーマを探して歩いてると、こちらもウォーミングアップが終わった様子で戻ってきた。
「こんなところで何やってんの」
「リョーマくんを探してたの」
間もなく試合が再開されるコートの方へ並んで歩いていると、幾らか恨めしそうな顔のリョーマが「……何か、監視の目が厳しくなってない?」と言うものだからあかりは笑顔で「前科があるからね」と答えた後、今朝はどれだけ心配したかと語り始めた。その様子に余計なことを言ってしまったと後悔しながら聞き流していたリョーマは、コートが視界に入るところまで来ると「応援はしてくれないわけ?」と尋ねた。すると、今まで小言を口にしていたあかりがハッとした表情を見せる。
「ごめん、大事な試合前なのに」
「それは別に大丈夫だけど」
「ううん、今じゃなくていいことだった。ごめんなさい」
「だからいいって、いつも通りっぽくてそれはそれで気が楽だし」
謝りながら歩くスピードが落ちていったあかりがついに立ち止まる。数歩先を進んだリョーマがそれに気づき振り返ると、あかりは少し改まった様子で口を開いた。
「リョーマくん、応援してるよ。応援してます!」
「そう」
固く握った拳で宣言すると続く言葉を言おうかどうか少し考えるような素振り見せた後、「だから……勝ってね」とあかりは真っ直ぐにリョーマの瞳を捉えて言った。リョーマは満足げに口の端を上げると「とーぜん」と言ってコートへ向かっていった。
*****
リョーマ対裕太のシングルス3が始まると、左殺しという異名を持つ裕太のライジングショットに先制され、ツイストサーブも無効化する超ライジングを前に第1ゲーム目を取られるリョーマ。しかし、超ライジングを打たせた上でそれを速さで上回るという勝ち気なスタイルで崩してみせると、第2ゲームを取り返した。慣れないだろう相手にも怯まず攻めるリョーマにひとまず安心しあかりがそっと息を吐いていると、すぐ側で1年生トリオの驚く声が上がった。どうしたのかとそちらを見れば、裕太が1年生の半年ほどは青学に在籍していたという話だった。
入学したものの天才と言われる兄・周助と比較されたくないという思いがあったのだろう、テニス部には入らなかったこと。そして、入学して半年で聖ルドルフへ転入したということを聞き、あかりは初めて裕太と会った時のことを思い出した。不二という名前を聞き親戚かと尋ねて鋭く睨まれ、『俺は……、アイツは俺の兄貴だよ』とどこか苦しげに言葉を紡いだ裕太の中には、天才である兄と同じ道を選んだが故に常に比較されるというプレッシャーがあったのだ。兄と距離をとったはずなのに、寧ろそのプレッシャーからくる苛立ちに囚われているのではと感じさせるような裕太の気迫。そんな裕太を見つめるあかりの頭にはなぜか観月の含みを持った笑みが浮かんだ。
ほんの数日前、迷子だったところを助けてくれた観月の笑顔に自分は安心したはずなのに、聖ルドルフとの試合が始まってからの観月の笑みは胸の奥がざわざわとして、どういう訳か居心地が悪い。そんな不安をあかりが感じていると、押し戻していたリョーマに裕太から強力なショットが繰り出された。相手目掛けて跳ね上がるツイストスピンショットだ。超ライジングを攻略できたと思った矢先の、二段構えの強力なツイストスピンショット。それを返せないまま3ゲームまで奪われた辺りでリョーマの動きが変わってきた。
バウンドする位置より後ろに下がりボールを捕らえようとするやり方から、アウトにこそなったが跳ね上がりの直後を捕らえる裕太の超ライジングのコツをほんの数球で掴み始め、もう次のショットではそれを決めてしまえそうなところまできている。しかし、今にも超ライジングでツイストスピンショットを攻略してしまいそうな勢いのリョーマは裕太に「ツイストなんとかって奴…あんまり使わない方がいいよ」と宣言する。
「使わない方がいいって……」
「どういう事でしょうか?」とあかりが右隣に居る不二を見ると、その横顔はいつものように優しく細められた目許が綺麗なのにどこか鋭い気配を含ませていた。雰囲気の違いにあかりが言葉を続けられず固まっていると、視線に気付いた不二が「どうしたの?」と首を傾げた。
「い、いえっ、リョーマくんも不二くんも凄いですね!」
誤魔化すように言ったあかりの言葉に今度は不二が一瞬固まる様子を見せた後、クスッと笑って「そうだね」と返した。
3ー1と押されていたリョーマが3ー4まで巻き返したのはそれからあっという間のことだった。『打たない方がいい』そう宣告したツイストスピンショットが次に繰り出された時、リョーマは見たこともないボレーを放ったのだ。
ツイストサーブと同じ深く沈み込み跳ね上がる効果のツイストスピンショット、それをバウンドする前にスライディングで潜り込み打ち返す。相手に返された球は大きく弧を描くのかと思いきや急激に落ち、ベースラインより内側に突き刺さった。初めて目にする『ドライブB』という技に沸く1年生トリオ。周囲の観衆も読めない試合展開に興奮している様子の中、チェンジコートに入り両者がそれぞれのベンチへ向かった。
青学側のベンチではドリンクを飲みながらリョーマが竜崎から何か言葉をかけられている。いつもと変わりない飄々とした姿にあかりが安心してふと聖ルドルフ側のベンチに目をやると、座っている観月の正面に立ち指示を聞いている様子の裕太の表情が強ばっているように見えた。
巻き返されたことに対して何か言われているのだろうかと少し心配になりながら二人の様子を窺っていたが、裕太はすぐに緊張が見えた表情から一変して真っ直ぐ力強い眼差しになる。観月と裕太の間でどんな言葉が交わされたのかは分からない。しかし、確かな変化が感じられる表情にあかりが釘付けになっていると、コートへ戻る裕太と偶然視線が交わった。あかりは小さくガッツポーズを見せ口の動きで応援の言葉を送る。それに対し、裕太の目が僅かに見開き驚いた素振りを見せるもすぐに真剣な表情でコートへ戻っていった。
あまり周りには聞こえないよう「リョーマくんも不二くんも頑張って……」と小さく零したあかりであったが、隣から「ふふ、ありがとう。伊吹さん」と言われ慌ててそちらに振り向くと不二が優しく微笑んでいた。そこで漸く、裕太が目を向けたのは兄である不二周助で視界の端に自分が入り込んでいたから視線が交わったのだとあかりは気付いた。
それから程なくしてシングルス3の試合は決着がついた。ツイストスピンショットをドライブBで攻略してからは1ゲームも奪わせることなく決めていき、勝利を収めたリョーマ。互いに今持てる技で正面からぶつかり合ったからか、握手を交わす裕太の表情は敗れたもののどこか清々しい。
コートから出て仲間の元へ戻る二人を見てあかりもリョーマに労いの言葉をかけるためその場を離れようとしたが、竜崎がベンチから腰を上げ観月の方へ向かったのを見て思わず足が止まった。シングルス2の試合に備えて靴紐を結び直している観月に竜崎が言ったのは、ツイストスピンショットを打つことで裕太の身体にかかる負担の大きさについてだった。まだ成長期である今の身体にあのショットは負担が大きく、打ち続ければ肩を壊すことになるというものだった。
言われてみれば打つ度に全身を強く捻るあの動作が身体の負担にならないはずはない。無茶を承知でこの大会に賭ける想いがあったのだろうかと、竜崎から指摘を受けた観月の返答を待つあかり。しかし、彼から発せられた言葉は予想もしない酷く冷たいものだった。
「そんな事、ボクの知ったこちゃない」
一瞬、何を言っているのか理解できなかったあかりは頭の中でその言葉を繰り返した。そして、『裕太の身体に負担のかかる技であることを知りながら、それによって裕太の身体がどうなろうと知ったこっちゃない』と、そう観月は考えているのだという事実に胸が詰まる。
観月の態度に苛立ちを隠すことなくベンチに戻った竜崎と、試合のためコートへ向かっていく観月の後ろ姿を呆然と見つめ「そんな……」と零すあかり。しかし、すぐ側に不二が居たことを思い出し弾かれたようにそちらへ向く。あかり同様に一部始終を見ていた不二は僅かな沈黙の後、思い出したように手塚に「そろそろ試合やりたい?」と声をかけた。フェンスから離れジャージのジッパーに手をかけそれを下ろしながらコートへ向かっていく不二は声を荒らげてこそいないものの、「今回はキミまで回りそうにないから」と告げる落ち着いた声色の底には確かに怒りが含まれていることをあかりは感じた。
勝利宣言と言って差し支えない言葉を残して試合に臨んだ不二だったが、信じられないくらい早々に観月に5ゲームを奪われてしまった。あの不二先輩がどうしてと動揺する周囲を気にする様子もなく、チェンジコートの際に観月と短く言葉を交わすとラケットを替えて試合に戻っていく不二。
このゲームを取られてしまえば敗北という後がない中で、不意に乾が「本当にデータを正確に取れたのかな?」と呟いた。不二の苦手を研究し尽くしたからこそ1ゲームも落とさず展開させているように見える観月の試合運びを前に乾は、「不二のデータだけは、俺でさえ正確に取らせてもらえない」と続ける。すると、乾の言葉と時を同じくして不二が反撃を開始した。
観月が狙ってきた『不二が苦手とするはずのコース』は変わりないにも関わらず、不二の動きは先程までとはまるで別物になり全てのコースを打ち返している。
「乾先輩、これって」
「弱点を他人に悟られるようなマネはしない……不二は」
「それじゃあ、第5ゲームまではわざと」
あかりの問い掛けに乾は無言で一度首を縦に振ると「信じられるデータが無くなった今、アイツにもう勝ち目はないな」と、既に結末が見えているようだった。そこからは1ゲームどころか1ポイントも取らせることなくゲームを支配した不二が瞬く間に点を重ねていき、このゲームを取れば勝利というところで周囲に試合のものとは異なるどよめきが起こった。
先に状況に気付いた様子の1年生トリオに倣いあかりもそちらを窺うと、次にこのコートで試合を行うことになっている氷帝学園の登場に対する反応だと分かった。流石、この大会の第1シードなだけある威圧感を発する学校だと納得しつつも、あかりはすぐに視線を不二の試合へと戻す。
1ポイントとて観月に許さず7ー5で見事勝利を収めた不二に沸き上がる青学サイド。準決勝と決勝が残ってはいるが、聖ルドルフに勝利したことで青学は都大会出場校中ベスト4に入り、次の関東大会への出場資格を獲得することができた。
*****
少し前まで青学と聖ルドルフが戦っていたコートで、今は氷帝学園と不動峰による準々決勝が行われている。第1シードである氷帝学園を相手に、既にダブルス2とダブルス1を取っている今大会ダークホースの不動峰。その勢いと気迫に押されてかすっかり大人しくなっていた氷帝の応援。しかし、それはシングルス3に登場した男・宍戸によって一変した。
「なんだか氷帝側の雰囲気が一気に変わりましたね、乾先輩」
「宍戸は正レギュラーだからね。それより、橘……か見ておいた方がいいよ」
これから始まるシングルス3に出る不動峰の部長・橘の試合に注目するべきだと、近くに居たリョーマ達にも聞こえるように言うとノートを開きペンを構える乾。思えば青学が不動峰と戦った時は橘の試合を見る機会は無かったので、これが初めて見る試合になる。部員の多さからコートが取り囲むようにして沸き起こる氷帝コールの中、試合は始まる。確かにダブルス2と1で見てきた氷帝の選手とはレベルの違いを感じさせる宍戸を相手に、橘はベースラインから前に出てこない。
「橘さん、ずっと後ろにいますけど打ち返すこと自体は簡単そう……というか、難しそうな雰囲気じゃないですね」
素人目にも速いと分かる打球と淀みなくラリーを続けている橘に抑え込まれているという印象を受けないあかりがそう言うと、ノートにペンを走らせていた乾が「そうだね。うん、そろそろかな」と言って手を止めた。
「そろそろ、ですか?」とあかりは首を傾げながらも真っ直ぐ試合を観察する乾に倣うと、今まで一度もベースラインより前に踏み出していなかったことが嘘のように、橘はいとも容易くネット際まで上がり強烈なショットで宍戸を抜いてしまった。それから、橘はたったの1ゲームも1ポイントも許すことなく6ー0で宍戸を完封したのだった。
圧倒的なまでの強さに辺りが騒然とする中、橘は九州地区2強とされる全国レベルの選手であることを明かす乾。まさかの事実に口々に驚きの声が上がる。そんな中、当然承知していたらしく表情を崩さない手塚に「最初から気付いてたなら言ってくれよ手塚」と大石は零すも、その口調は決して強敵の存在に悲観するものではなく寧ろ困難な挑戦にワクワクしているようでさえあった。
手塚と大石とのやり取りを見てあかりが周囲に目をやれば、レギュラー陣は一様に強力なライバルの出現に胸躍らせるような眼差しを送っており、それはリョーマも同様だった。挑むことを恐れないそんな姿勢が眩しく感じられて、あかりは彼らと同じように前に進んでいきたいと気合いを入れ直すのだった。
*****
都大会1日目。全ての試合が終了し、各校がコートに整列して運営の挨拶や今後の日程を聞き白熱の一日を終えた。
青学も会場へ集合した時と同様に竜崎からの今日の総括を聞いた後に、その場で解散となった。片付けも早々に済ませて帰って行った菊丸、大石。各校のテニス部員たちから最後まで情報を得ようと少し会場を歩いてから帰るという乾。普段の寮生活から久し振りに家に帰るという裕太を連れた不二が先に会場を後にした中、残りのレギュラー陣と一緒にあかりはバスに揺られていた。
リョーマ、桃城、海堂が緊張の糸も切れたのか眠りこけている中、目的のバス停が近付き降車ボタンを押してくれた河村を確認したあかりは、前の席で寄りかかり合い眠るリョーマと桃城に声をかけた。
「リョーマくん、桃城くん、起きて。もう降りるバス停だよ」
しかし、帰ってくるのはいびきのみだったので、座席から腰を浮かせて前の二人を覗き込む。そこには大口を開けて起きる気配のない姿があった。今度はリョーマの肩に手を置き揺すりながら声をかけるあかり。
「ほら、起きた、起きた。本当にも着いちゃうから」
手に加える力を徐々に強くしながら言うものの全く起きない。同様の行動を桃城にするも結果は変わらず、ダメだこりゃと思いながらそういえば後ろの席の海堂は……と振り返ると、彼もまた二人ほど熟睡ではないものの舟をこぐようにしてバスに合わせて頭を揺らしていた。大口を開いていびきをかく二人とは対照的な静かな寝入りに、海堂らしいなと感じているとバスはゆっくりと停車する。目的地を同じくしていた他の乗客が降車していく中、一向に起きない三人に河村も声をかけたがバスは何人かの乗客が降りたのを確認した後、発車してしまった。
そんな気はしていたという思いで1停乗り過ごすことを受け入れたあかりが河村の声で覚醒しかけた海堂に声をかけると、薄く目を開け声のした方へ顔を向けた海堂がその存在を確認するように何度か瞬きをする。そして、それがあかりだと認識すると「なんでお前がここに居る」と言いたげな顔をしながら一度ビクッと肩を震わせ、それから状況を理解したのかサッと目をそらした。
「おはよう、海堂くん。次の停留所で降りるから忘れ物しないでね」
「……おう」
寝顔を見られたのが照れ臭かったのかそそくさと荷物を確認する海堂に、「よしよし、こっちはオーケーね」と頷きながら再び前の座席に向き直ったあかり。今度こそは乗り過ごしてなるものかとリョーマと桃城、二人の頭に手を置き遠慮なしにわしゃわしゃと撫でた。これには熟睡していた二人も堪らず目を覚ます。
「……ぅおっ、なんだなんだっ?」
「ちょ、なに、やめっ」
「二人とも、いい加減起きなさいっ」
「わかった、わかったから伊吹さん!」
観念しましたという具合の桃城とは違い、本当に鬱陶しいと言わんばかりの表情になったリョーマに「ごめんごめん、でも、全然起きなかったからさ」と弁明するあかり。そして、今度こそバスから降りることができた6人は、停留所でそれぞれの帰路へと分かれた。「じゃあ、私たちも帰りますか」とあかりが言えば、まだ寝ぼけてでもいるような目で周囲をぐるりと見渡して首をかしげるリョーマ。
「……」
「どうしたの、リョーマくん」
「なんか、このバス停……違くない?」
「キミがそれを言うかね」
*****
停留所ひとつ分を余計に歩くことにはなったが無事、帰途に就いたリョーマとあかり。疲れもあってかさっさと家に入っていくリョーマを見ながら、あかりが習慣にもなっている帰宅時のポストのチェックをすると、中には夕刊やポスティングのチラシに挟まれて一通の封筒、エアメールが入っていた。封筒を抜き取り差出人を確かめるとそこには見慣れた筆跡で記された父の名前、そして受取人にはあかりの名前があった。
久し振りに触れる家族という存在にあたたかい気持ちになるのと同時に、心にさざ波が立つあかり。封筒を手にしていない方の手が無意識の内に首筋に移動していたのに気付いたのは、ファスナーを最上部まで引き上げたジャージの襟の上から強く首筋を掻いてからだった。
「いけないいけない、我慢我慢」
封筒をポストの上に置いて空いた手でもう一方を封じるように手を組む。ひとつふたつと深呼吸をしてもう一度封筒を手に取るとそれを鞄に押し込み、残りの郵便物は一まとめに掴んであかりは家へと入った。
第5話 終
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