長篇
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私のいつもって、多分なんてどころでなく普通なのだと思う。朝起きるのをギリギリまで粘って、朝食のテーブルよりも洗面所にいる時間の方が長くて、学校へ行ったって先生の言葉なんて碌すっぽ耳に入っていなくて、放課後はバイトに行って。そこに取り立てて不満がある訳でも、勿論ないんだけれど。
何というかやはり、物足りないのだと思う。
第0話 突入銀世界
平凡な日常がどこか物足りなくもある。そんなありふれた贅沢な気持ちを年頃の少女らしく持つごく普通の高校生伊吹あかりは、久々のアルバイトの入っていない放課後に僅かな開放感を抱きながら下校途中だ。現在地としてはまだ学校の敷地内ではあるが。グラウンドに飛び交う威勢の良い声は野球部やサッカー部辺りかと、横目にやりつつ校門へと足を進めるあかり。
彼女の通う学校はこの辺りでは少しばかり有名なところだ。幼、小、中、高が隣接された大きな敷地には教育に必要な多くの施設が充分にあり、県外からの入学も多いということもあり寮も設備され、もはや一つの街のようだった。極めつけは大学附属という点にあり、進学に関してほぼ安泰な私立学校というのだから、学区内のみならず全国的にも有名になるだろう。
あかりがここに通い始めたのは父の仕事で引っ越してきた小学校の中頃からで、選んだ理由は「家から近いから」それだけだった。立派な学校だとは思っていたが、その凄さと有り難さを知ったのは中学三年生になってからも周りに受験の忙しなさが無く、有り体な表現だが本当にエスカレーターのように進学できることを知った時だった。
おおよそ、3歳から18歳程度までの園児、児童、生徒が存在するこの学校では、上級生が下級生の面倒を見たり、合同で行事を催したりする機会も多く、人の出入りの多い学校でもある。なので高校生と同じ門を潜り抜ける幼稚園児の姿なんてものも、お馴染みの光景だった。しかし今日はどうした事だろう。微笑ましいその光景だけでは済まなかった。
野球部から転がってきたボールを追いかけていく小さな男の子の姿が目に入る。男の子はボールしか見えていないのか、門を抜けて車道まで飛び出してしまった。今は車の通りが無いにせよ、いつ走ってきたっておかしくはない。早く歩道に戻さなくてはと、あかりは驚かせてしまわないよう微笑みながら声をかけ、車道に近付いていくことにした。
「僕、ちょっと動かないでねー」
「 ? 」
「うん、そのままね」
男の子は首を傾げてあかりを見つめた。大人しいその様子に、これなら大丈夫そうだと男の子の方へ歩み寄ろうとしたその時、曲がり角から現れた大きなトラックがあかりの視界の端に入った。大きな身振り手振りで運転手に気付かせ様とするがそれは無駄に終った。
運転手は眠っていたのだ。
「な、何それ。しゃれにならないよ!」
あんまりな状況を嘆きながらも、では何をするべきかと思考を巡らせるあかり。車をどうにか出来ないのなら男の子を退かすしかない。
「僕、おいでっ」
駆け寄りながら声を掛けるが自分に迫り来るトラックを見たせいか、男の子は足が竦んで動けなくなっていた。泣きながらトラックとあかりとを交互に見詰める。既にトラックは20メートルも無い所まで迫り来ていて、迷っている時間さえ許さない。急ぎ駆け付けた時には10メートルと無く、大袈裟に思われるかもしれないが、あかりにはもう目の前に迫っているようにさえ見えた。ドラマならそろそろクラクションの一つでも鳴り響いていい頃だが何せ運転手は気付いていなくて、止まることを知らない車が迫ってくる様は否応無しに恐怖を押し付けてきた。
そんな恐怖であかりまで足を竦ませていると、制服の裾を掴む小さな手が震えていることに気付く。少しでも安心出来るよう頭を撫でながら、この子を抱えて避け切ることが私には可能かと考えてはみるが、今のこの竦んだ足ではきっと……。自分を後押しできる自信など持ちようもなく、諦め欠けたその時。
「あかりっ!」
「弘樹っ?」
腐れ縁とも言える幼馴染みである弘樹が道路の直ぐ隣であかりの名前を叫んだ。確証を持って行動を起こせなかったあかりに、一筋の道が開けた。弘樹なら、と。一瞬の堂々巡りに陥っていた不安が嘘のように消え、あかりの脳は酷く冷静に判断を下し、行動に移した。
「弘樹っ」
呼び慣れた幼馴染みの名前を叫ぶと同時に、少々乱暴ではあるが抱き締めていた男の子を力一杯に放る。長い付き合いは伊達じゃない。弘樹は少し態勢を崩しながらも無事に男の子を抱き止めてみせた。
「お、おいあかりっ、お前!」
弘樹は目一杯に腕を伸ばすのだが。
「流石、弘樹!!」
弘樹の言葉も手も払い除けるようにしてあかりは叫び、そして、にっと笑ってみせた。あまりに状況とは不釣り合いなあかりの笑顔に弘樹が呆気に取られていると、聞いたこともない柔らかいがみっしりと詰まった何かを弾く様な鈍い音が響き渡った。それは、間近で見てしまった弘樹の耳にも、その音を響かせた当人であるあかりの耳でも同様に等しく鳴り響いた。あかりはその自分の音を聞きながらゆっくり流れていく風景に「本当にスローモーションになるんだ」などと暢気なことを考えながら、次第に明るさの失われていく視界に誘われるように意識が遠退く中で弘樹の叫び声を聞いたのだった。
*****
目の前で飛ばされた。幼馴染みが。出会った時から笑顔ばかりをみせていたあの幼馴染みは、その瞬間まで自分へ向けて、笑顔を見せてた。
「交通事故は宝くじに当たるより確立が高い」なんて話はよく聞くがそんなことは知識でだけの情報であって、自分や近しい人がそうなるなんてことはまるで想像なんてしないものだ。それはあかりの幼馴染みも例外に漏れることは無く、弘樹は愕然とした顔でその場に崩れた。瞬時に目で追えないくらいの速さで消されていった幼馴染みの姿、それを目の当たりにした事を思えば当然とも言えるが。目をこれ以上ないくらいに開きながらもその照準はどこか定まらず、遅れて襲い来た残酷な事実に全身をガタガタと震わせる弘樹の腕の中、あかりによって助けられた命が心配そうに彼を窺う。
「……お兄ちゃん、お兄ちゃん」
そう言って、細い腕がゆっくり車道を指差す。少年が何を伝えたいのか分からないまま、弘樹は恐る恐る少年の指先から指し示す方へと視線を辿っていく。
「おね…ちゃ、が…お姉ちゃんが、いない」
「何を…」
おかしなことを言っているのか。あかりはたった今、たった今、目の前で轢かれたじゃないか。そこまで考えたところで認めたくない事実を肯定し始めている自分に気付いた弘樹は、アイツのことだもしかしたら奇跡的にかすり傷ひとつもなく助かってヘラリと笑って戻ってくるかもしれないと顔を上げる。
それでもやはり、そこにあかりはいなかった。確かにいなかった。
「……あかり?」
恐怖から強張りピクリともしない身体で、それでも何とか眼窩に収まる球体に「お前は飾りじゃないだろう」と鼓舞して動かし周囲を見渡す。あかりは見当たらない。視線を右へやっても左へやっても、双方を何度往復しても彼女の姿はどこにも無い。塊による衝撃で漸く現実に戻ってきたトラックの運転手もフラフラと降りて、顔面からどんどん血の気を引かせながら右往左往しているが、それでもやっぱりあかりはどこにもいなかった。
おかしい。車体によって幾らか弾かれたといってもこの先数十メートルと見通しのいい道で、まるっきり姿を消え失せるなんて、そんなことはあるものだろうか。或いは事故なんてなかったのでは……と都合のいい考えが弘樹の頭を過ぎる。状況を処理すると同時にそれを徹底的に拒絶する、相反する脳の働きで朦朧としていく意識の中でサイレンの音が近付いてくるのを弘樹は遠くに感じた。
*****
それは月曜日の麗らかな昼下がり。
「こんな日はとてもじゃねぇが仕事なんてする気になんねぇな。全く以ってなんねぇよ。いや、マジで」
至極やる気の欠片も感じられない男が一人。
「する気もなにも…仕事自体が無いんですから。気がどうとかそれ以前の問題ですよ」
そんな男に透かさずツッコミを入れる少年が一人。
「銀ちゃ―ん。もう、酢昆布無くなるネ、お金おくれヨ」
そして、会話にもならない少女が一人。
「ワンッ」
更には、破格の大きさで愛らしい瞳を潤ませた犬が一匹。
そんな三人と一匹が一つ屋根の下、平日の日中とは到底思えないほど、怠惰を貪っていた。
「おいおい、言ってくれるじゃあねぇか新八君。仕事が無いんじゃないんだよ、別に。なんていうの、非番…そう、非番ってやつだよ今日は。だからこんなに未だかつて見せたことも無いくらい怠けてるんだよ。良く考えてもみろよ。見たことも無いだろ?こんな銀さんを」
「銀ちゃん、酢昆布ー」
「いいえ。1ヵ月の内、約半分といってもいい位の日数を非番で過ごしていると思いますよ」
「銀ちゃん、お金ー」
「だからよぉ……」
「そんなんだから……」
「酢昆布ー……」
「ワンッ」
「あーっ、もうなにお前ら!なんなの、嫌がらせっ?」
どんなに極貧の現状を憂いて急かされようと、基本は待つしかないのが自分達の仕事だどうにもなるめぇよ、といったことを一頻り垂れると男は重い腰を上げ買い出しがてらに街へ繰り出すこととし、少年と少女もその後を追っていき大きな犬はそんな三つの背中を見送った。
*****
「あ、ジャンプの発売日じゃねぇか、買わねぇと。いや、待てよ……これはひょっとしてジャンプを卒業するチャンスなんじゃないのか?いやでもなあ、先が気になるよなあ。罪だよなあ、ジャンプ」
「私こんな大人にはなりたくないアル」
一人であれこれ呟きながら本屋の前から動こうとしない銀髪の男。その様子を酢昆布をしゃぶる少女が冷めた目で見つめ、待ち惚けを食らう眼鏡の少年は痺れを切らし、先に帰ろうとする。
「買うんですか、買わないんですか?悩んでるフリならいい加減付き合ってられませんし、僕は先に帰りますからね」
一頻り文句を言うと少年は宣言通りに背を向け歩き出そうとした。しかし、少女が彼の服の裾を引っ張り、酢昆布をしゃぶったまま器用に、そして唐突な言葉を投げ掛ける。
「新八ぃ、人はいつから空を自由に飛べるようになったネ?もう、翼の折れたエンジェルはやめたアルか?」
「は?神楽ちゃん何を言って」
意図の掴めない言葉を零して、太陽に向けるように空を指さしじっと何かを見つめる少女。「またを訳のわからないことを言って」そう思いながらも少年は隣に立って同じように空を仰いだ。するとどうだろう。本当に人だと言ってもおかしくないような大きさの鳥……のような大きな何かが太陽の日射しで逆光を演出しながらこちらに向かって来るではないか。
「わあー、本当だ。大きいや。何だろうね神楽ちゃん」
そう、飛んでいるというよりこちらに落下しているそれを、二人が悠長に観察していると、高層ビルの高さを過ぎた辺りで少年が尋常でない量の汗を流し始めた。
「……って、おいぃぃぃっ。あれ、本当に人なんじゃないの、ねえ!人間だよ絶対!銀さん大変です、人が……空から人が落ちてきてます!!」
幾度となく「ありえない場面」に的確なツッコミを入れてきた少年の、その順応性の高さが遺憾無く発揮された瞬間だった。恐らく人である何かの落ちてくる様子から、落下地点に一番近くなると思われる銀髪の男に声を裏返しながら叫ぶ。
「なに言っちゃってんの新八くん。そりゃ、銀さんだってね、空からの美少女とボーイ・ミーツ・ガールするのを夢見た時期もあったけどさあ」
未だジャンプを買おうかどうしようかと、葛藤をしている少年を過ぎた男は不満げに少年の方へと振り返る。すると、焦った様子で何か気持ち悪い動きをしている少年。取り敢えず、頻りに指さす空へと男が視線を動かす。
「あー、上?……うお、眩しっ」
まだ傾き始めてはいないほぼ真上にある太陽の光を受け顔をしかめ、細められた視界で睨むように目を凝らすと、十数秒前よりもはっきりした何かが男の目にも映る。
「…って、おいぃぃぃっ!!」
それは、舞い降りるなんて形容がまるで相応しくないほどに真っ逆さまで、しかも一体どれほどの高さから落ち続けているのか定かではないがとんでもない速度で降下する、一人の少女だった。しかも、加速度を増した少女は、狙ったように銀髪の男目掛けて落下してくる。
「なにこの状況っ、俺にどうしろと!」
「どうするもなにも、このままじゃあの子、ただじゃ済みませんよ。受け止めて下さい!」
「そうネ、今こそ夢にまで見たボーイ・ミーツ・ガールの時アル!」
「俺の思い描いたボーイ・ミーツ・ガールは絶対これじゃねぇ!!」
どうしようどうしようと慌てふためく三人を余所に、次第に姿形をはっきりとさせていく少女は更なる問題を発生させた。
「銀さん大変だ、このままじゃあの人、屋根に直撃しますよ!」
随分な高さからの落下だったのだったのだろう。遠くから見ていた時より幾分か軌道のずれたその人物は、三人の立つ道の上でなく本屋の方へ向かっていた。
「くっそ、マジかよ!俺のボーイ・ミーツ・ガール!」
ずっと手に取り悩んでいたジャンプを投げ捨て身を翻すと、男は軽やかな身のこなしで屋根の上へと飛び移る。
「銀さん!」
「銀ちゃん!」
「おっしゃぁぁっ!!」
足場の悪い瓦屋根の上でしっかりと踏ん張り構えの態勢を整え、男は気合いを入れた。さあ、これで受け止めるばかりだと、どっかりと構える銀髪の男。しかし、ここまできて更なる不測の事態が起こる。
「なに、これ……う、気持ち悪い。って、お、落ちてるっ?」
気を失い大人しく落下していただけの少女、あかりが目を覚ましてしまったのだ。当然のことながら、状況を理解出来ていないあかりは、犬かきでもするように両腕で宙を掻いた。
「お、おい新八!何かあれ動いてるぞっ」
「いけない、あれじゃ更に軌道がずれて…!」
折角整えたボーイ・ミーツ・ガールの舞台も、あかりが動くことで軌道は再び変わって、今いる位置から逸れてしまった。
「ったく、何だってんだよ!」
吐き捨てるように言うと男は屋根を蹴り、無様に泳ぐあかりの元へと飛び出した。
「銀さん!」
「銀ちゃん!」
「うおぉぉっ」
「いやぁぁぁっ!!」
四人の声が重なり合って、江戸中に響き渡った。なんていうのは流石に誇大した表現ではあるがそう思うほど辺りが切り取られたように静かで、その瞬間、この空間がまるで四人しか居ない世界のようにぽっかりとしたものに全員が感じていた。
宙に飛び出した男があかりを抱き止めようとした瞬間、その姿はぼやけて靄を放ち始めた。あかりの身体を覆おうように立ちこめた霞のようなそれは明確な光となって男ごと包み込む。
「な、なに?」
「んだ、これ?」
「あったかい……」
「あったけぇ……」
そして、その光に誘われるようにしてあかりは再び意識を手放した。あかりが意識を失うと光はゆっくりと薄まっていき、男が地面に足を着ける頃には丁度すっかり消えていた。
「銀ちゃん!」
「ぎ、銀さん、今のは一体……」
ゆっくりと降り立った男の元へ少年と少女が駆け寄り、腕の中に収まるあかりに視線を注いだ。
「銀さん、この子……」
「あ?……ああ。つか、こいつ光ってたよな?」
「うん、めっちゃ光ってた!ピカピカだったヨ!」
しげしげとあかりを見つめてから互いの顔を見合わせる三人。そしてもう一度、あかりに視線を送り。喉の上の方まで上がってきていたが抑え込んでいた単語を同時に漏らした。
「シータかよ」
「シータですね」
「シータ アル」
気持ちよさそうに眠っているようにも、魂を失った抜け殻のようにも見えるあかりの頬を何度か優しく叩いたり身体を揺すってみたりするものの目を覚ます様子はなく、ひとまず休ませられる場所へ連れて行こうとしたところで、三人は周りの異変に気付く。通り過ぎていく人々の視線が少女を助けたヒーローどころか、まるで攫ってきた誘拐犯を見るように注意深く窺うものだったのだ。
「え、なに、なんか俺達誘拐犯とかそういう類の人間っぽい目で見られてない?」
顔を引きつらせて辺りを見回しながら男が二人に尋ねる。
「はい。そもそも僕らがあれだけ騒いでいたのに他の人が誰も気付いていないなんて、おかしくないですか?」
何も起きていなかったみたいだ、と続けた少年の言う通り、周りの人々の雰囲気はまるで、あかりが落ちてくることに気付く前と着地した直後を切り張りしたようだった。兎に角、この雰囲気の中で長居は無用だと視線だけで意思を疎通した二人が移動しようとすると、通りの商店の中から三人を窺っていた壮年の男性が「ちょいと、アンタ達…」と声を掛けながら出てきた。
「やっべ、いや、やましいことなんて何もねぇけど、面倒臭ぇしとっとと帰るぞ!」
「そうですね。行こう、神楽ちゃん!」
そう言われた少女は、はたと何かを思い付いたように立ち止まる。一刻も早くこの場を去りたい少年が、少女の手を取り駆け出そうとするとそれに逆らうようにして引かれる手に力を入れた。
「二人ともいくら女に飢えてるからって、こんな幼気な少女に何するヨ!」
「ちょ、神楽ちゃん!?」
「神楽てめぇ、今はそんな面倒臭ぇことしてるほど暇じゃねぇんだよ!!」
折角発生したシチュエーションを活用しようとしているのか腕を引かれながらも「いーやー、乙女の貞操がー!」と叫ぶ少女と、俵のように担がれながらも全く目を覚まさない少女を連れた怪しい一行は、逃げるようにその場を後にした。
*****
「……う、ん?」
「ア、お登勢サーン。コイツ、ヤット起キヤガッタミタイデスヨ」
次にあかりが目を覚ました時、そこには視界いっぱいにやたらと猫耳の似合わない片言で喋る、人生において全く記憶にない女性が居た。更にその人は「お登勢さん」という、これまた記憶に無い人物を呼んだ。ずいと寄せられていた顔を引かれたことで見通しが良くなったあかりは、一先ず自分の置かれた状況を把握をしようと辺りを見回してみた。どこかの飲食店の中なのだろう、カウンターの向こうには沢山の種類のお酒が棚に並べられていて、自分には縁遠い大人の店であることは確かだと分かった。見知らぬ人に凝視され、見慣れない空間に包まれて、不安な気持ちがあかりの中をぐるぐると駆け巡るその時。
「おやおや、やっと起きたのかい?」
そう言って、カウンターの奥から人生経験豊富そうな女性がキセルを片手に現れた。きっと、さっき呼ばれていた「お登勢さん」という人なのだろう。まだ状況を把握しきれないあかりは静かに様子を窺う。お登勢さんと思われる女性はあかりに何か言葉を掛けるでもなく、ほんの数秒だけ見つめた後、店の戸を開け2、3歩外へ出ると建物の方へ向き直り顎を上げて大きな声を出した。
「おい、お前達、お待ちかねの眠り姫がお目覚めだよ!!」
知らない人が更に知らない人を呼んでいく状態に不安も輪をかけて膨れ上がる。今度は一体、誰を呼んだのだろうとあかりは身を構える。それから一分と経たない内に建物の外から階段を降りるような足音がドタドタと続いて、開けられたままだった店の入り口から三人の男女が駆け込んでくる。
「本当ですかっ?」
「ったく。やっとお目覚めたぁ、良い御身分でございますね。コノヤロー」
「お目覚め祝いに、酢昆布パーチーするネ!」
あかりが目覚めるのを待っていたような三人だったがやはり彼らも記憶には無い人達で、あかりが首を傾げていると酢昆布をくわえた少女が目の前にしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。
「どうしたヨ、めっさ変な顔。鏡見るヨロシ。何、記憶喪失か何かアルか?」
本気なのか、茶化しているのか。どちらにせよ返答し難いファーストコンタクトに戸惑い、あかりは上手く言葉を返せない。
「え、いや、あの……私は……」
口籠もるその様子を見て、対応に困っているのが伝わったのだろう。眼鏡の少年がさっとあかりと少女の間に入った。
「すみません、驚かせてしまって。あの、僕は志村新八と言います。貴女のお名前を聞いてもいいですか?」
「わ、私は……伊吹あかり、です。あの、ここはどこですか?」
人の好さが滲み出ているような新八と名乗った眼鏡の少年に、僅かながらホッとしたあかりは縋るように尋ねた。すると、今度は新八とあかりの間を銀髪の男が割って入った。
「質問してぇのはこっちなんだよ、お嬢さん」
「は、はい……?」
どこか不機嫌なようにも見える気怠げな表情の男に詰め寄られ、あかりが再び戸惑っていると畳み掛けるようにして男は続ける。
「突然空から落ちてくるわ。助けに行けば何か光り出すわ。その後は勝手に眠りこけて、事情は把握出来ないわでこっちは散々だったんだぞ」
そこまで言うと小声になりながら「折角のジャンプが…」とぼやく男。ここに居る状況を捲くし立てつつも説明してくれているのに、あかりの疑問は何一つ解消されず、それどころか謎は増える一方となる。
「どういう事ですか?空から落ちてきたとか……光ったとか、なに言って……そんなこと」
あるわけ無いじゃないですか。ですよね?とこの場で一番話を聞いてくれそうと判断した新八へ顔を向けるも、彼も一瞬、動揺した顔を見せて言葉を詰まらせてしまう。
「なに言ってるんです、ここはどこなんですか?それに……私なんて連れて来て、一体どうしようって……もしかして誘拐かなにか」
訳の分からない状況に冷静さを欠いたあかりが口走った言葉に、銀髪の男はさっきよりも不機嫌さを露わにしてずいと迫る。
「それが命の恩人に吐く台詞ですか?一体どういう教育受けてきてんですかあコノヤロー」
「な、何ですかっ。近付かないで下さいよ!」
互いに喧嘩腰となって対話もままならなくなるあかりと男の間に、新八が仲裁に入る。
「銀さん止めて下さい。あかりさんが恐がってますよ。聞きたいことは山ほどあるけど、突然連れて来られたあかりさんも状況が分からないんですから!」
「そうヨ。女の子泣かすなんて最低、改めて見損なったアル!」
「改めてってどういう意味だ改めてって!」
新八に加え少女もも加勢しあかりを庇う。
「そ、そうそうっ、二人とも言ってやって!」
味方を得たあかりは男から庇うように立ってくれた新八の肩を掴み、物理的にも盾にして彼の背に隠れた。
「わ、あかりさんっ?」
少々強引な行動に驚いた新八が少し動揺しながらも、逸れかけた会話の軌道修正を始めた。2、3回わざとらしく咳払いをして仕切り直す。
「とにかく、銀さん!あかりさんに突っ掛かるのは好い加減にして、少しは落ち着いて話をしましょう。これじゃ、先に進みません」
自分達がどういう人となりで、どうしてここまで連れて来たのかを話せばあかりだって落ち着いて理解して話せるはずだと、自分より大人である男を諭す新八。そんな姿に男は不服だと言いたげに口を尖らせる
「何だ何だー、新八く?えらくコイツの肩持つじゃねぇの?なに、トゥ・シャイシャイボーイ?」
説得も虚しく今度は挑発する相手をあかりから新八に変えた男は、何やら彼があまり言われたくないことを羅列しているのかあざ笑うような表情を見せる。事態を改善しようと努めて穏やかにいた新八の肩が次第に小刻みに震えていることにあかりが気付いた次の瞬間、何かが切れるような音がしたのを感じた。
「アンタどこの中学生だ!人が真面目に話を進めようとしてるってのによぉッ!」
胸倉を掴み「大体、今、ど、どうてっ……とにかく関係ないだろ!」と声を上擦らせて強く抗議の姿勢を示した新八。今までが柔らかい印象だっただけに、あかりはその豹変振りに驚く。
「し、新八君っ?」
「いいぞ、新八ー!」
この状態を作った張本人であるあかりが一転、事態の収拾を図ろうと新八を宥め出す。さっきまで味方をしていた酢昆布少女は今は暴走した彼に発破を掛けて、更に炎上させようとしていた。結局、男二人の喧嘩をあかりが一人で止められるはずもなく、揉みくちゃにされた中で何か叫んでいる様な状態が続く。そんな様子を好い加減見兼ねたのか、口許からキセルを離して一度煙を味わうと、お登勢が一喝してみせる。そして、それと同時にあかり達の頭上には、バケツ一杯の量ではないだろうと、ツッコミを入れたくなるほどの水が勢い良く降り注いだ。
「全く何やってんだい、人の店で暴れてんじゃないよ!ぶっ潰す気かいっ?」
その余りの形相と頭から浴びせられた水によってあかり達は完璧に沈黙し、初めて言葉を揃えた。
「すみませんっしたぁぁぁ!!」
さっきまでの熱がまるで嘘のように大人しくなった四人。お登勢に言われるまま仲良くとまではいかないものの、漸く落ち着いて一つのテーブルを囲むことが出来た。四角いテーブルを囲んであかりと銀髪の男が並んで座り、それに向き合うように新八と酢昆布少女が座る。そして、主賓、言わばお誕生日席には腕を組み背もたれに身体を預けて、質問を始めるお登勢が座った。
「それで、アンタ達は知り合いじゃ無かったのかい?」
「あぁ?知らねぇよこんな奴。ただ成り行き上、連れて来る羽目になっちまったんだよっ」
一時休戦と言えど、再び向けられた喧嘩腰な態度に、あかりもつい反応してしまう。
「わ、私だって…こんな天パー男知りません!」
隣同士に座る二人は漫画みたく鼻を鳴らして、お互いに外方を向いた。
「何でお前達はそう喧嘩腰になるんだい。それなら自己紹介からだよ。はい、アンタから!」
「えっ、私ですか?」
早くしな、と言いたげにお登勢はあかりに向けたキセルを、上下に振った。今現在、この流れの中でお登勢に反抗出来る訳も無いあかりは、渋々口を開いた。
「私は伊吹あかり。16歳の、高校生です。えーと、勉強はそこそこ、体力には自身あり。得意なことは……一応、家事は一通り。そ、そんなところ……です」
あかりが箇条書したような自己紹介を済ませると、向かいに座る酢昆布少女が元気良く手を挙げて自己紹介を始める。
「次、私ネ!神楽アル、見た通りの幼気な美少女ネ。好きなものは酢昆布!あかり、私のことは遠慮せずに工場長呼ぶヨロシ」
「あ、うん。神楽ちゃんね、よろしく」
酢昆布少女改め、神楽からの申し出『私のあだ名は工場長』宣言を綺麗さっぱりあかりが聞き流すと、その隣に座る新八が控えめに自己紹介を始めた。
「じゃあ、次は僕が。改めてまして、志村新八です。あかりさんと同じく16歳です、これでも侍の端くれなんですよ。僕と神楽ちゃんは銀さんの営む『万事屋』で働いているんです」
「宜しくお願いしますね」と、懇切丁寧な紹介をして優しく微笑む新八。この場で唯一感じられる常識人オーラに、あかりは安堵の表情を新八に送り微笑み返した。
「ところで…さっきから出て来る『銀さん』って言うのは?」
あかりは自らの隣に座る銀髪天パー男にちらりと視線を送り新八に尋ねる。すると、答えようとする新八を遮って、外方を向いていた男がこちらに向き直り、気怠げなのにどこか鋭さのある目を寄越しながら口を開く。
「銀さんってのは、この俺、坂田銀時の事よ。なんでも屋『万事屋銀ちゃん』を営んでるって訳。好きなものはジャンプ、生命維持に不可欠なものは糖分、っ以上!」
相変わらずの目つきの悪さではあったが、何だかんだで一通り挨拶をしてくれた『銀さんこと坂田さん』は、言うだけ言うと再びあかりから顔を背けて腕を組み鼻をふんと一回鳴らした。
態度そのものは腹立たしいけれど、ちゃんと自己紹介はしてくれたという噛みつけない現状に、あかりはジュースに添えられたストローを噛みながら恨めしそうな顔をした。
「それじゃあ、自己紹介も済んだ事だし、本題に入るよ。銀時、アンタは何であかりをここへ連れて来たんだい?」
ぎくしゃくした空気をさして気に止めることもなくお登勢は話を進めて、あかりも気になっていた重要な部分に触れていく。しかし、銀時は面倒臭そうに外方を向いたままで話そうとはしない。そこで代わりに新八が口を開いた。
「僕達、買い物の帰りに本屋に寄ったんですが。そしたらそこで、あかりさんが……」
「わ、私が?」
新八はなにか相応しい言葉を探すように視線を揺らし、何度か言いかけた言葉を飲み込んだ後、決心したようにあかりの目を真っ直ぐ見つめ、はっきりとかたりだした。
「神楽ちゃんが空に何か大きなものが飛んでいるのを見つけて…僕もそれを見たら、飛んでるんじゃなくて落ちてるって気付いて……」
「それが、私だった……?」
「はい。それで、銀さんが屋根まで登ってあかりさんを受け止めたんです」
非現実的な出来事に目をぱちくりさせながらも、さっきの銀時の「命の恩人」はこのことだったのかとあかりは納得していた。他のことで平静を保とうと脳が勝手に働いてしまうくらい、あかりには受け止めきれないことでもあったのかもしれない。
「おいおい、どう言うことなんだい。それはつまり、アンタは飛行機や建物の上から落ちて来たって、そういう事でいいのかい?」
正確な情報を引き出そうとお登勢は尋ねるが、当然のことながらあかりにそんな記憶は全く無かった。
「いえ、そんな、飛行機とかビルとか……そういうのは何も。空から落ちて来たと言われても…」
頭を抱えて自分自身と対話するように記憶を整理していくが、どうにもそこへ繋がる記憶が無いあかり。そもそも、繋げること自体がまるで現実的ではないような何かしらの決定的な分断をあかりは感じていた。ああじゃない、こうじゃない、と自分の中から溢れ出てくる否定の声を抑え込みながら必死になって考えを捻り出そうとしていたあかりは、ふらふらと立ち上がり席を離れる。ただならぬその様子に、銀時も背を向けていたあかりの方へ身体を捻り窺う。
「あかりさん、落ち着いてください。そんなに無理に思い出そうとしなくても大丈夫ですから!」
「そうネ、心配ないヨ!」
安心させようとする新八と神楽の声も今のあかりには届いていないようで、未だ自分の中の記憶と事実の狭間でもがいている様子で首を横に振り続ける。どんなに記憶を辿ろうとしても、新八達の言う状況には行き着かない。あかりの脳は次第に追い詰められて、それを拒絶するように全身が震え出すと弾かれたみたく駆け出した。
「お、おい、お前!」
透かさず銀時の手があかりの腕を捕らえた。が、あかりはその手を力一杯に振り払って店から駆け出していってしまう。
「あかりさん!銀さん、どうしましょうっ?」
「どうするもこうするも、放っとくしかねぇだろ。これであの変な女とも、おさらば出来るって訳だ」
「銀さん!」
振り払われた一瞬は驚いた表情をしたものの、直ぐに先ほどからのいい加減な物言いに戻った銀時に新八は声を荒らげた。
「……もういいですっ、あかりさんは僕が探して来ますから!」
そう言い残し、あかりが開けたままにして去って行った入り口から新八も続いて飛び出した。新八の後ろ姿が見えなくなると神楽も席を離れ、銀時の前に立つ。
「銀ちゃん、私もあかり探してくるヨ。銀ちゃんも見たネ」
「何をだよ」
「あかり、震えてたアル」
「………」
そう言うと、神楽もあかりと新八を追って店を後にした。
ほんの数分前までの騒がしさが嘘のだったみたく静まり返った店内に残された銀時は長い溜め息を吐くと、癖っ毛な自分の髪をこんな時でも少し恨みながら頭を掻いた。
「アンタは行かなくて良いのかい?」
「何で俺が」
ふて腐れる背中にやれやれと首を振ると、お登勢はキセルの煙を細く吐き出した。
「何でったって、 アンタ……」
*****
「おい、老いぼれババア!」
「私にそんな口利いて良いと思ってんのかいッ!」
数十分前、開店までまだまだ時間のある店の戸を遠慮の欠片もなく叩くと、返事も待たずに入ってくる銀時。
「煩せぇ、こっちは急患なんだ!」
外れそうな位に強く開けられた戸の先には、行きには無かった大荷物を抱えた銀時が額に汗を浮かべて立っていた。しかし、血相変えてやって来た銀時に抱えられた少女に、見た目で分かるような大きな怪我は無い。
「急患?それなら病院にでも連れてきな。第一、怪我なんてしてないじゃないかい」
抱えられたままの少女をお登勢はしげしげと見てみるが、血も出てなければ打撲の痕も無いし、その寝顔は体調が悪い人間のものでもなかった。
「分かんねえよ。でも、突然気絶しちまいやがって。良いからここで寝かせろっ、つか様子看てやってくれ」
そう言って、銀時は奥のソファへ労るように少女を寝かせたのだ。
*****
「あの時一番心配していたのは、銀時……アンタだろう?」
「素直じゃないねえ」と、右手に持ったキセルを上下に揺らして、口の端をくっと上げながら小さく笑うお登勢。
「はっ……言ってろよクソババア」
銀時は自嘲気味に笑うと重い腰を上げ、席を立った。
「で、アンタはどこ行くんだい」
「アイツのせいで今週のジャンプ買い損ねちまったからな。買ってくるんだよ」
「ちょっくら言ってくるわ」と気怠げに右手を上げて、扉の向こうに消えていく銀時にお登勢は「そうかい」と一言呟いた。
「全ク。アイツラ、揃イモ揃ッテ素直ジャネーナ」
「アンタが言えた義理かい、キャサリン。それに、素直なアイツ等なんて気味が悪くて敵わないよ」
「ソレモソーデスネ」
騒がしい面々が出払った中でお登勢と、似合わない猫耳を持つ女キャサリンはそう言葉を交わして短く笑い合った。
*****
自分が会ったばかりの人々に多くの優しさを受けていようとは露知らず、 一心不乱に駆け抜けてきたあかりが体力の限界に達して立ち止まる。肩で息する身体を宥めながら現在位置を確認しようと顔を上げると、そこにはあかりの知らない町の姿があった。
「は……?どこ、ここ……」
見覚えのない町に飛び出したのだから迷子というのもしっくりとはこないが、それより何よりこの町はあかりの培ってきた常識を逸脱した奇妙なものだった。通り過ぎていく中には普通の人も居るけれど、変な被り者をした人がそこら中を歩いてる。それに、普通の人といっても基本は和服を着用していて、学生服姿のあかりは些か浮いていた。
「本当に、ここどこなの……」
止められた手を振り払ってあれだけ盛大に飛び出したのに早くもあの店に戻りたいと、あかりは思い始めていた。しかし、おめおめと戻ることは勿論恥ずかしい。というか、脇目も振らずに走ってきてしまった為に、戻る道も分からないのが本当のところだ。これから自力でどうにか道を開けるのだろうかと弱気になっていると、路地裏の方からよからぬ声があかりの耳に入る。
「お姉ちゃんの方から誘ったのに、そりゃ無いんじゃないの?」
「私はなにもっ、貴方達が勝手に!」
声のする方へ視線をやると、"怖い"を生業にしていそうな男達が綺麗なお姉さんを囲んで拳を上げてこそいないものの、無理に迫っている様子が見えてしまった。善良な一般市民として助けを呼ぶべきだろうと制服のポケットから携帯電話を取り出す、しかし、電波の感度を示すアンテナが一本も立っておらず使い物にならなかった。
「どうして、こんな町中なのに」
辺りに交番や駆け込める店、助けを求められそうな人が居ないかと見回してみるも、この状況に気付きながらも目を背けて通り過ぎていく人や、そもそも気付いていない人ばかりだった。
「もし自分だったらどうするのよ」
憤りに近い思いで拳を握ると、ふと脇に纏められた角材が置かれていたのが目に入った。その山から一番上に盛られた角材を手の中で転がして、握り易い箇所を見付けるとあかりはそれ強く握り締めた。内側から己を奮い立たせ、颯爽と助ける都合の良いビジョンを思い描く。イメージトレーニングは大事だ。そして、場を仕切っている男へ向かい一欠片の遠慮もなく後頭部目掛けて腕を力一杯に振り下ろす。
不意打ちの限りを尽くしたあかりの渾身の一撃、それは見事に男を捉え本人も驚く程の良い音を奏でて、男を地面に平伏させた。
「おい、なんだテメェ!どっから」
予想もしない乱入者に男達が取り乱した隙に素早く間を抜けて、お姉さんの元へとあかりは駆け寄る。
「あの、大丈夫ですかっ?怪我とかありませんか!?」
自身を抱き締めるようにしてしゃがみ込んでいたお姉さんを背に庇うように立って安否を確認するあかり。
「はい、大丈夫です!あ、貴女は……?」
「えーと、通りすがりの一般人です。それより、ここは何とかしますからお姉さんは逃げて下さい!」
「でも、そしたら貴女はっ?」
人生で一度は言ってみたい台詞の定番とも思えるこの台詞をまさか自分が言うことになるとは……なんて、変なところで感慨に耽りながら、もう引き返せない行いに若干の後悔の念を味わう。
「大丈夫です、私は強いですから」
完全に嘘、全くのデタラメだった。それでも、こんな状況に置かれながらも他人を案じてくれる優しいお姉さんが逃げる為には必要な嘘なんだと自分に言い聞かせて、あかりは笑顔で返した。身体を震わせお姉さんが戸惑っていると、倒れ込んでいた男の意識が戻ったのか仲間に肩を借りて起き上がる。
「……うぅっ」
「くっそ、あのチビ、マジでぶん殴ってやがる」
一体どれ程頑丈な頭をしているのか、男は殴られた場所を摩りながら鋭い目であかりを捕えた。
「てめぇ、何しやがる!」
想定を超えて丈夫な男の様子にあかりもいよいよ身の危険を感じる。
「さ、お姉さん早く!」
「でもっ」
へたり込んだままで動こうとしないお姉さんに逃げるよう促していると、「舐めて貰っちゃ困るぜ」という男の言葉を合図にして、どこに潜んでいたのか仲間らしき男達が狭い路地裏に姿を現した。あかりの中に存在したこの人数ならもしかしたら何とか出来るかもしれない、という甘い考えはボス面の男の頭の強固さと増えてしまった仲間によって彼方へ消え去ろうとしていた。しかし、取り敢えず今この瞬間に出来ることはまだ残されている。
「さあ、今です!」
「えっ?」
実際のタイミングがどうかはもはや関係なく、きっとこれが最後のチャンスになるだろうと感じたあかりは、半ば強引にお姉さんの腕を引き上げ立たせると、大通りの方へ背中を強く押した。勢いが付いたお姉さんが、乱れた服の胸元を両手で押さえて走り出す。途中振り返りそうにもなったがそれを制して、姿が見えなくなるのを確認してあかりは一先ず安堵した。となると、後はもう一つの心配事だ。もうこの時には恐いとか焦るとか、何故かそういった感情は殆ど無くて、それどころか口元に笑みが浮かぶのを抑えなくてはならないほど、あかりの頭の中は冷静だった。もしかしたら、これが頭が真っ白とか空っぽというやつなのかもしれないが。
何だかもう面倒臭くて、どうにでもなってしまえと緊張感の無いことを考えていると、あかりの肩にごつごつとした手が置かれた。
「おらぁっ、人のこと無視してんじゃねぇよ、クソガキ!」
制服の肩の部分を掴み上げられるが取り繕うようなことはせず、あかりは飽くまで反抗的態度を貫いた。
「何ですか。大きな声で言わなくても聞こえてますよ。うるさいなあ。今日の晩ご飯なに食べようか考えていたのに」
獲物は逃がされた上、無視され続けていことが気に入らなかったようで、いつの間にか男達は物凄い形相であかりの周りを囲んでいた。灰色の外壁に挟まれた路地裏で切り取られた空はそれでも青く澄んでいて、どれだけ変なことに見舞われてもおかしな世界でも空だけは変わらないなあ、なんてことをぼうっと考え出すあかり。
「はあ……お父さんお母さん。私は今、人生最大の困難を目の前にしているかもしれません。無事、今夜の晩ご飯は食べられるのでしょうか」
「ねえ、本当にいい加減無視するのやめてくれるっ?おじさん泣くよ、泣いちゃうよ!?」
どちらが劣勢なのか忘れ欠ける路地裏の戦いは続く。
終
_
何というかやはり、物足りないのだと思う。
第0話 突入銀世界
平凡な日常がどこか物足りなくもある。そんなありふれた贅沢な気持ちを年頃の少女らしく持つごく普通の高校生伊吹あかりは、久々のアルバイトの入っていない放課後に僅かな開放感を抱きながら下校途中だ。現在地としてはまだ学校の敷地内ではあるが。グラウンドに飛び交う威勢の良い声は野球部やサッカー部辺りかと、横目にやりつつ校門へと足を進めるあかり。
彼女の通う学校はこの辺りでは少しばかり有名なところだ。幼、小、中、高が隣接された大きな敷地には教育に必要な多くの施設が充分にあり、県外からの入学も多いということもあり寮も設備され、もはや一つの街のようだった。極めつけは大学附属という点にあり、進学に関してほぼ安泰な私立学校というのだから、学区内のみならず全国的にも有名になるだろう。
あかりがここに通い始めたのは父の仕事で引っ越してきた小学校の中頃からで、選んだ理由は「家から近いから」それだけだった。立派な学校だとは思っていたが、その凄さと有り難さを知ったのは中学三年生になってからも周りに受験の忙しなさが無く、有り体な表現だが本当にエスカレーターのように進学できることを知った時だった。
おおよそ、3歳から18歳程度までの園児、児童、生徒が存在するこの学校では、上級生が下級生の面倒を見たり、合同で行事を催したりする機会も多く、人の出入りの多い学校でもある。なので高校生と同じ門を潜り抜ける幼稚園児の姿なんてものも、お馴染みの光景だった。しかし今日はどうした事だろう。微笑ましいその光景だけでは済まなかった。
野球部から転がってきたボールを追いかけていく小さな男の子の姿が目に入る。男の子はボールしか見えていないのか、門を抜けて車道まで飛び出してしまった。今は車の通りが無いにせよ、いつ走ってきたっておかしくはない。早く歩道に戻さなくてはと、あかりは驚かせてしまわないよう微笑みながら声をかけ、車道に近付いていくことにした。
「僕、ちょっと動かないでねー」
「 ? 」
「うん、そのままね」
男の子は首を傾げてあかりを見つめた。大人しいその様子に、これなら大丈夫そうだと男の子の方へ歩み寄ろうとしたその時、曲がり角から現れた大きなトラックがあかりの視界の端に入った。大きな身振り手振りで運転手に気付かせ様とするがそれは無駄に終った。
運転手は眠っていたのだ。
「な、何それ。しゃれにならないよ!」
あんまりな状況を嘆きながらも、では何をするべきかと思考を巡らせるあかり。車をどうにか出来ないのなら男の子を退かすしかない。
「僕、おいでっ」
駆け寄りながら声を掛けるが自分に迫り来るトラックを見たせいか、男の子は足が竦んで動けなくなっていた。泣きながらトラックとあかりとを交互に見詰める。既にトラックは20メートルも無い所まで迫り来ていて、迷っている時間さえ許さない。急ぎ駆け付けた時には10メートルと無く、大袈裟に思われるかもしれないが、あかりにはもう目の前に迫っているようにさえ見えた。ドラマならそろそろクラクションの一つでも鳴り響いていい頃だが何せ運転手は気付いていなくて、止まることを知らない車が迫ってくる様は否応無しに恐怖を押し付けてきた。
そんな恐怖であかりまで足を竦ませていると、制服の裾を掴む小さな手が震えていることに気付く。少しでも安心出来るよう頭を撫でながら、この子を抱えて避け切ることが私には可能かと考えてはみるが、今のこの竦んだ足ではきっと……。自分を後押しできる自信など持ちようもなく、諦め欠けたその時。
「あかりっ!」
「弘樹っ?」
腐れ縁とも言える幼馴染みである弘樹が道路の直ぐ隣であかりの名前を叫んだ。確証を持って行動を起こせなかったあかりに、一筋の道が開けた。弘樹なら、と。一瞬の堂々巡りに陥っていた不安が嘘のように消え、あかりの脳は酷く冷静に判断を下し、行動に移した。
「弘樹っ」
呼び慣れた幼馴染みの名前を叫ぶと同時に、少々乱暴ではあるが抱き締めていた男の子を力一杯に放る。長い付き合いは伊達じゃない。弘樹は少し態勢を崩しながらも無事に男の子を抱き止めてみせた。
「お、おいあかりっ、お前!」
弘樹は目一杯に腕を伸ばすのだが。
「流石、弘樹!!」
弘樹の言葉も手も払い除けるようにしてあかりは叫び、そして、にっと笑ってみせた。あまりに状況とは不釣り合いなあかりの笑顔に弘樹が呆気に取られていると、聞いたこともない柔らかいがみっしりと詰まった何かを弾く様な鈍い音が響き渡った。それは、間近で見てしまった弘樹の耳にも、その音を響かせた当人であるあかりの耳でも同様に等しく鳴り響いた。あかりはその自分の音を聞きながらゆっくり流れていく風景に「本当にスローモーションになるんだ」などと暢気なことを考えながら、次第に明るさの失われていく視界に誘われるように意識が遠退く中で弘樹の叫び声を聞いたのだった。
*****
目の前で飛ばされた。幼馴染みが。出会った時から笑顔ばかりをみせていたあの幼馴染みは、その瞬間まで自分へ向けて、笑顔を見せてた。
「交通事故は宝くじに当たるより確立が高い」なんて話はよく聞くがそんなことは知識でだけの情報であって、自分や近しい人がそうなるなんてことはまるで想像なんてしないものだ。それはあかりの幼馴染みも例外に漏れることは無く、弘樹は愕然とした顔でその場に崩れた。瞬時に目で追えないくらいの速さで消されていった幼馴染みの姿、それを目の当たりにした事を思えば当然とも言えるが。目をこれ以上ないくらいに開きながらもその照準はどこか定まらず、遅れて襲い来た残酷な事実に全身をガタガタと震わせる弘樹の腕の中、あかりによって助けられた命が心配そうに彼を窺う。
「……お兄ちゃん、お兄ちゃん」
そう言って、細い腕がゆっくり車道を指差す。少年が何を伝えたいのか分からないまま、弘樹は恐る恐る少年の指先から指し示す方へと視線を辿っていく。
「おね…ちゃ、が…お姉ちゃんが、いない」
「何を…」
おかしなことを言っているのか。あかりはたった今、たった今、目の前で轢かれたじゃないか。そこまで考えたところで認めたくない事実を肯定し始めている自分に気付いた弘樹は、アイツのことだもしかしたら奇跡的にかすり傷ひとつもなく助かってヘラリと笑って戻ってくるかもしれないと顔を上げる。
それでもやはり、そこにあかりはいなかった。確かにいなかった。
「……あかり?」
恐怖から強張りピクリともしない身体で、それでも何とか眼窩に収まる球体に「お前は飾りじゃないだろう」と鼓舞して動かし周囲を見渡す。あかりは見当たらない。視線を右へやっても左へやっても、双方を何度往復しても彼女の姿はどこにも無い。塊による衝撃で漸く現実に戻ってきたトラックの運転手もフラフラと降りて、顔面からどんどん血の気を引かせながら右往左往しているが、それでもやっぱりあかりはどこにもいなかった。
おかしい。車体によって幾らか弾かれたといってもこの先数十メートルと見通しのいい道で、まるっきり姿を消え失せるなんて、そんなことはあるものだろうか。或いは事故なんてなかったのでは……と都合のいい考えが弘樹の頭を過ぎる。状況を処理すると同時にそれを徹底的に拒絶する、相反する脳の働きで朦朧としていく意識の中でサイレンの音が近付いてくるのを弘樹は遠くに感じた。
*****
それは月曜日の麗らかな昼下がり。
「こんな日はとてもじゃねぇが仕事なんてする気になんねぇな。全く以ってなんねぇよ。いや、マジで」
至極やる気の欠片も感じられない男が一人。
「する気もなにも…仕事自体が無いんですから。気がどうとかそれ以前の問題ですよ」
そんな男に透かさずツッコミを入れる少年が一人。
「銀ちゃ―ん。もう、酢昆布無くなるネ、お金おくれヨ」
そして、会話にもならない少女が一人。
「ワンッ」
更には、破格の大きさで愛らしい瞳を潤ませた犬が一匹。
そんな三人と一匹が一つ屋根の下、平日の日中とは到底思えないほど、怠惰を貪っていた。
「おいおい、言ってくれるじゃあねぇか新八君。仕事が無いんじゃないんだよ、別に。なんていうの、非番…そう、非番ってやつだよ今日は。だからこんなに未だかつて見せたことも無いくらい怠けてるんだよ。良く考えてもみろよ。見たことも無いだろ?こんな銀さんを」
「銀ちゃん、酢昆布ー」
「いいえ。1ヵ月の内、約半分といってもいい位の日数を非番で過ごしていると思いますよ」
「銀ちゃん、お金ー」
「だからよぉ……」
「そんなんだから……」
「酢昆布ー……」
「ワンッ」
「あーっ、もうなにお前ら!なんなの、嫌がらせっ?」
どんなに極貧の現状を憂いて急かされようと、基本は待つしかないのが自分達の仕事だどうにもなるめぇよ、といったことを一頻り垂れると男は重い腰を上げ買い出しがてらに街へ繰り出すこととし、少年と少女もその後を追っていき大きな犬はそんな三つの背中を見送った。
*****
「あ、ジャンプの発売日じゃねぇか、買わねぇと。いや、待てよ……これはひょっとしてジャンプを卒業するチャンスなんじゃないのか?いやでもなあ、先が気になるよなあ。罪だよなあ、ジャンプ」
「私こんな大人にはなりたくないアル」
一人であれこれ呟きながら本屋の前から動こうとしない銀髪の男。その様子を酢昆布をしゃぶる少女が冷めた目で見つめ、待ち惚けを食らう眼鏡の少年は痺れを切らし、先に帰ろうとする。
「買うんですか、買わないんですか?悩んでるフリならいい加減付き合ってられませんし、僕は先に帰りますからね」
一頻り文句を言うと少年は宣言通りに背を向け歩き出そうとした。しかし、少女が彼の服の裾を引っ張り、酢昆布をしゃぶったまま器用に、そして唐突な言葉を投げ掛ける。
「新八ぃ、人はいつから空を自由に飛べるようになったネ?もう、翼の折れたエンジェルはやめたアルか?」
「は?神楽ちゃん何を言って」
意図の掴めない言葉を零して、太陽に向けるように空を指さしじっと何かを見つめる少女。「またを訳のわからないことを言って」そう思いながらも少年は隣に立って同じように空を仰いだ。するとどうだろう。本当に人だと言ってもおかしくないような大きさの鳥……のような大きな何かが太陽の日射しで逆光を演出しながらこちらに向かって来るではないか。
「わあー、本当だ。大きいや。何だろうね神楽ちゃん」
そう、飛んでいるというよりこちらに落下しているそれを、二人が悠長に観察していると、高層ビルの高さを過ぎた辺りで少年が尋常でない量の汗を流し始めた。
「……って、おいぃぃぃっ。あれ、本当に人なんじゃないの、ねえ!人間だよ絶対!銀さん大変です、人が……空から人が落ちてきてます!!」
幾度となく「ありえない場面」に的確なツッコミを入れてきた少年の、その順応性の高さが遺憾無く発揮された瞬間だった。恐らく人である何かの落ちてくる様子から、落下地点に一番近くなると思われる銀髪の男に声を裏返しながら叫ぶ。
「なに言っちゃってんの新八くん。そりゃ、銀さんだってね、空からの美少女とボーイ・ミーツ・ガールするのを夢見た時期もあったけどさあ」
未だジャンプを買おうかどうしようかと、葛藤をしている少年を過ぎた男は不満げに少年の方へと振り返る。すると、焦った様子で何か気持ち悪い動きをしている少年。取り敢えず、頻りに指さす空へと男が視線を動かす。
「あー、上?……うお、眩しっ」
まだ傾き始めてはいないほぼ真上にある太陽の光を受け顔をしかめ、細められた視界で睨むように目を凝らすと、十数秒前よりもはっきりした何かが男の目にも映る。
「…って、おいぃぃぃっ!!」
それは、舞い降りるなんて形容がまるで相応しくないほどに真っ逆さまで、しかも一体どれほどの高さから落ち続けているのか定かではないがとんでもない速度で降下する、一人の少女だった。しかも、加速度を増した少女は、狙ったように銀髪の男目掛けて落下してくる。
「なにこの状況っ、俺にどうしろと!」
「どうするもなにも、このままじゃあの子、ただじゃ済みませんよ。受け止めて下さい!」
「そうネ、今こそ夢にまで見たボーイ・ミーツ・ガールの時アル!」
「俺の思い描いたボーイ・ミーツ・ガールは絶対これじゃねぇ!!」
どうしようどうしようと慌てふためく三人を余所に、次第に姿形をはっきりとさせていく少女は更なる問題を発生させた。
「銀さん大変だ、このままじゃあの人、屋根に直撃しますよ!」
随分な高さからの落下だったのだったのだろう。遠くから見ていた時より幾分か軌道のずれたその人物は、三人の立つ道の上でなく本屋の方へ向かっていた。
「くっそ、マジかよ!俺のボーイ・ミーツ・ガール!」
ずっと手に取り悩んでいたジャンプを投げ捨て身を翻すと、男は軽やかな身のこなしで屋根の上へと飛び移る。
「銀さん!」
「銀ちゃん!」
「おっしゃぁぁっ!!」
足場の悪い瓦屋根の上でしっかりと踏ん張り構えの態勢を整え、男は気合いを入れた。さあ、これで受け止めるばかりだと、どっかりと構える銀髪の男。しかし、ここまできて更なる不測の事態が起こる。
「なに、これ……う、気持ち悪い。って、お、落ちてるっ?」
気を失い大人しく落下していただけの少女、あかりが目を覚ましてしまったのだ。当然のことながら、状況を理解出来ていないあかりは、犬かきでもするように両腕で宙を掻いた。
「お、おい新八!何かあれ動いてるぞっ」
「いけない、あれじゃ更に軌道がずれて…!」
折角整えたボーイ・ミーツ・ガールの舞台も、あかりが動くことで軌道は再び変わって、今いる位置から逸れてしまった。
「ったく、何だってんだよ!」
吐き捨てるように言うと男は屋根を蹴り、無様に泳ぐあかりの元へと飛び出した。
「銀さん!」
「銀ちゃん!」
「うおぉぉっ」
「いやぁぁぁっ!!」
四人の声が重なり合って、江戸中に響き渡った。なんていうのは流石に誇大した表現ではあるがそう思うほど辺りが切り取られたように静かで、その瞬間、この空間がまるで四人しか居ない世界のようにぽっかりとしたものに全員が感じていた。
宙に飛び出した男があかりを抱き止めようとした瞬間、その姿はぼやけて靄を放ち始めた。あかりの身体を覆おうように立ちこめた霞のようなそれは明確な光となって男ごと包み込む。
「な、なに?」
「んだ、これ?」
「あったかい……」
「あったけぇ……」
そして、その光に誘われるようにしてあかりは再び意識を手放した。あかりが意識を失うと光はゆっくりと薄まっていき、男が地面に足を着ける頃には丁度すっかり消えていた。
「銀ちゃん!」
「ぎ、銀さん、今のは一体……」
ゆっくりと降り立った男の元へ少年と少女が駆け寄り、腕の中に収まるあかりに視線を注いだ。
「銀さん、この子……」
「あ?……ああ。つか、こいつ光ってたよな?」
「うん、めっちゃ光ってた!ピカピカだったヨ!」
しげしげとあかりを見つめてから互いの顔を見合わせる三人。そしてもう一度、あかりに視線を送り。喉の上の方まで上がってきていたが抑え込んでいた単語を同時に漏らした。
「シータかよ」
「シータですね」
「シータ アル」
気持ちよさそうに眠っているようにも、魂を失った抜け殻のようにも見えるあかりの頬を何度か優しく叩いたり身体を揺すってみたりするものの目を覚ます様子はなく、ひとまず休ませられる場所へ連れて行こうとしたところで、三人は周りの異変に気付く。通り過ぎていく人々の視線が少女を助けたヒーローどころか、まるで攫ってきた誘拐犯を見るように注意深く窺うものだったのだ。
「え、なに、なんか俺達誘拐犯とかそういう類の人間っぽい目で見られてない?」
顔を引きつらせて辺りを見回しながら男が二人に尋ねる。
「はい。そもそも僕らがあれだけ騒いでいたのに他の人が誰も気付いていないなんて、おかしくないですか?」
何も起きていなかったみたいだ、と続けた少年の言う通り、周りの人々の雰囲気はまるで、あかりが落ちてくることに気付く前と着地した直後を切り張りしたようだった。兎に角、この雰囲気の中で長居は無用だと視線だけで意思を疎通した二人が移動しようとすると、通りの商店の中から三人を窺っていた壮年の男性が「ちょいと、アンタ達…」と声を掛けながら出てきた。
「やっべ、いや、やましいことなんて何もねぇけど、面倒臭ぇしとっとと帰るぞ!」
「そうですね。行こう、神楽ちゃん!」
そう言われた少女は、はたと何かを思い付いたように立ち止まる。一刻も早くこの場を去りたい少年が、少女の手を取り駆け出そうとするとそれに逆らうようにして引かれる手に力を入れた。
「二人ともいくら女に飢えてるからって、こんな幼気な少女に何するヨ!」
「ちょ、神楽ちゃん!?」
「神楽てめぇ、今はそんな面倒臭ぇことしてるほど暇じゃねぇんだよ!!」
折角発生したシチュエーションを活用しようとしているのか腕を引かれながらも「いーやー、乙女の貞操がー!」と叫ぶ少女と、俵のように担がれながらも全く目を覚まさない少女を連れた怪しい一行は、逃げるようにその場を後にした。
*****
「……う、ん?」
「ア、お登勢サーン。コイツ、ヤット起キヤガッタミタイデスヨ」
次にあかりが目を覚ました時、そこには視界いっぱいにやたらと猫耳の似合わない片言で喋る、人生において全く記憶にない女性が居た。更にその人は「お登勢さん」という、これまた記憶に無い人物を呼んだ。ずいと寄せられていた顔を引かれたことで見通しが良くなったあかりは、一先ず自分の置かれた状況を把握をしようと辺りを見回してみた。どこかの飲食店の中なのだろう、カウンターの向こうには沢山の種類のお酒が棚に並べられていて、自分には縁遠い大人の店であることは確かだと分かった。見知らぬ人に凝視され、見慣れない空間に包まれて、不安な気持ちがあかりの中をぐるぐると駆け巡るその時。
「おやおや、やっと起きたのかい?」
そう言って、カウンターの奥から人生経験豊富そうな女性がキセルを片手に現れた。きっと、さっき呼ばれていた「お登勢さん」という人なのだろう。まだ状況を把握しきれないあかりは静かに様子を窺う。お登勢さんと思われる女性はあかりに何か言葉を掛けるでもなく、ほんの数秒だけ見つめた後、店の戸を開け2、3歩外へ出ると建物の方へ向き直り顎を上げて大きな声を出した。
「おい、お前達、お待ちかねの眠り姫がお目覚めだよ!!」
知らない人が更に知らない人を呼んでいく状態に不安も輪をかけて膨れ上がる。今度は一体、誰を呼んだのだろうとあかりは身を構える。それから一分と経たない内に建物の外から階段を降りるような足音がドタドタと続いて、開けられたままだった店の入り口から三人の男女が駆け込んでくる。
「本当ですかっ?」
「ったく。やっとお目覚めたぁ、良い御身分でございますね。コノヤロー」
「お目覚め祝いに、酢昆布パーチーするネ!」
あかりが目覚めるのを待っていたような三人だったがやはり彼らも記憶には無い人達で、あかりが首を傾げていると酢昆布をくわえた少女が目の前にしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。
「どうしたヨ、めっさ変な顔。鏡見るヨロシ。何、記憶喪失か何かアルか?」
本気なのか、茶化しているのか。どちらにせよ返答し難いファーストコンタクトに戸惑い、あかりは上手く言葉を返せない。
「え、いや、あの……私は……」
口籠もるその様子を見て、対応に困っているのが伝わったのだろう。眼鏡の少年がさっとあかりと少女の間に入った。
「すみません、驚かせてしまって。あの、僕は志村新八と言います。貴女のお名前を聞いてもいいですか?」
「わ、私は……伊吹あかり、です。あの、ここはどこですか?」
人の好さが滲み出ているような新八と名乗った眼鏡の少年に、僅かながらホッとしたあかりは縋るように尋ねた。すると、今度は新八とあかりの間を銀髪の男が割って入った。
「質問してぇのはこっちなんだよ、お嬢さん」
「は、はい……?」
どこか不機嫌なようにも見える気怠げな表情の男に詰め寄られ、あかりが再び戸惑っていると畳み掛けるようにして男は続ける。
「突然空から落ちてくるわ。助けに行けば何か光り出すわ。その後は勝手に眠りこけて、事情は把握出来ないわでこっちは散々だったんだぞ」
そこまで言うと小声になりながら「折角のジャンプが…」とぼやく男。ここに居る状況を捲くし立てつつも説明してくれているのに、あかりの疑問は何一つ解消されず、それどころか謎は増える一方となる。
「どういう事ですか?空から落ちてきたとか……光ったとか、なに言って……そんなこと」
あるわけ無いじゃないですか。ですよね?とこの場で一番話を聞いてくれそうと判断した新八へ顔を向けるも、彼も一瞬、動揺した顔を見せて言葉を詰まらせてしまう。
「なに言ってるんです、ここはどこなんですか?それに……私なんて連れて来て、一体どうしようって……もしかして誘拐かなにか」
訳の分からない状況に冷静さを欠いたあかりが口走った言葉に、銀髪の男はさっきよりも不機嫌さを露わにしてずいと迫る。
「それが命の恩人に吐く台詞ですか?一体どういう教育受けてきてんですかあコノヤロー」
「な、何ですかっ。近付かないで下さいよ!」
互いに喧嘩腰となって対話もままならなくなるあかりと男の間に、新八が仲裁に入る。
「銀さん止めて下さい。あかりさんが恐がってますよ。聞きたいことは山ほどあるけど、突然連れて来られたあかりさんも状況が分からないんですから!」
「そうヨ。女の子泣かすなんて最低、改めて見損なったアル!」
「改めてってどういう意味だ改めてって!」
新八に加え少女もも加勢しあかりを庇う。
「そ、そうそうっ、二人とも言ってやって!」
味方を得たあかりは男から庇うように立ってくれた新八の肩を掴み、物理的にも盾にして彼の背に隠れた。
「わ、あかりさんっ?」
少々強引な行動に驚いた新八が少し動揺しながらも、逸れかけた会話の軌道修正を始めた。2、3回わざとらしく咳払いをして仕切り直す。
「とにかく、銀さん!あかりさんに突っ掛かるのは好い加減にして、少しは落ち着いて話をしましょう。これじゃ、先に進みません」
自分達がどういう人となりで、どうしてここまで連れて来たのかを話せばあかりだって落ち着いて理解して話せるはずだと、自分より大人である男を諭す新八。そんな姿に男は不服だと言いたげに口を尖らせる
「何だ何だー、新八く?えらくコイツの肩持つじゃねぇの?なに、トゥ・シャイシャイボーイ?」
説得も虚しく今度は挑発する相手をあかりから新八に変えた男は、何やら彼があまり言われたくないことを羅列しているのかあざ笑うような表情を見せる。事態を改善しようと努めて穏やかにいた新八の肩が次第に小刻みに震えていることにあかりが気付いた次の瞬間、何かが切れるような音がしたのを感じた。
「アンタどこの中学生だ!人が真面目に話を進めようとしてるってのによぉッ!」
胸倉を掴み「大体、今、ど、どうてっ……とにかく関係ないだろ!」と声を上擦らせて強く抗議の姿勢を示した新八。今までが柔らかい印象だっただけに、あかりはその豹変振りに驚く。
「し、新八君っ?」
「いいぞ、新八ー!」
この状態を作った張本人であるあかりが一転、事態の収拾を図ろうと新八を宥め出す。さっきまで味方をしていた酢昆布少女は今は暴走した彼に発破を掛けて、更に炎上させようとしていた。結局、男二人の喧嘩をあかりが一人で止められるはずもなく、揉みくちゃにされた中で何か叫んでいる様な状態が続く。そんな様子を好い加減見兼ねたのか、口許からキセルを離して一度煙を味わうと、お登勢が一喝してみせる。そして、それと同時にあかり達の頭上には、バケツ一杯の量ではないだろうと、ツッコミを入れたくなるほどの水が勢い良く降り注いだ。
「全く何やってんだい、人の店で暴れてんじゃないよ!ぶっ潰す気かいっ?」
その余りの形相と頭から浴びせられた水によってあかり達は完璧に沈黙し、初めて言葉を揃えた。
「すみませんっしたぁぁぁ!!」
さっきまでの熱がまるで嘘のように大人しくなった四人。お登勢に言われるまま仲良くとまではいかないものの、漸く落ち着いて一つのテーブルを囲むことが出来た。四角いテーブルを囲んであかりと銀髪の男が並んで座り、それに向き合うように新八と酢昆布少女が座る。そして、主賓、言わばお誕生日席には腕を組み背もたれに身体を預けて、質問を始めるお登勢が座った。
「それで、アンタ達は知り合いじゃ無かったのかい?」
「あぁ?知らねぇよこんな奴。ただ成り行き上、連れて来る羽目になっちまったんだよっ」
一時休戦と言えど、再び向けられた喧嘩腰な態度に、あかりもつい反応してしまう。
「わ、私だって…こんな天パー男知りません!」
隣同士に座る二人は漫画みたく鼻を鳴らして、お互いに外方を向いた。
「何でお前達はそう喧嘩腰になるんだい。それなら自己紹介からだよ。はい、アンタから!」
「えっ、私ですか?」
早くしな、と言いたげにお登勢はあかりに向けたキセルを、上下に振った。今現在、この流れの中でお登勢に反抗出来る訳も無いあかりは、渋々口を開いた。
「私は伊吹あかり。16歳の、高校生です。えーと、勉強はそこそこ、体力には自身あり。得意なことは……一応、家事は一通り。そ、そんなところ……です」
あかりが箇条書したような自己紹介を済ませると、向かいに座る酢昆布少女が元気良く手を挙げて自己紹介を始める。
「次、私ネ!神楽アル、見た通りの幼気な美少女ネ。好きなものは酢昆布!あかり、私のことは遠慮せずに工場長呼ぶヨロシ」
「あ、うん。神楽ちゃんね、よろしく」
酢昆布少女改め、神楽からの申し出『私のあだ名は工場長』宣言を綺麗さっぱりあかりが聞き流すと、その隣に座る新八が控えめに自己紹介を始めた。
「じゃあ、次は僕が。改めてまして、志村新八です。あかりさんと同じく16歳です、これでも侍の端くれなんですよ。僕と神楽ちゃんは銀さんの営む『万事屋』で働いているんです」
「宜しくお願いしますね」と、懇切丁寧な紹介をして優しく微笑む新八。この場で唯一感じられる常識人オーラに、あかりは安堵の表情を新八に送り微笑み返した。
「ところで…さっきから出て来る『銀さん』って言うのは?」
あかりは自らの隣に座る銀髪天パー男にちらりと視線を送り新八に尋ねる。すると、答えようとする新八を遮って、外方を向いていた男がこちらに向き直り、気怠げなのにどこか鋭さのある目を寄越しながら口を開く。
「銀さんってのは、この俺、坂田銀時の事よ。なんでも屋『万事屋銀ちゃん』を営んでるって訳。好きなものはジャンプ、生命維持に不可欠なものは糖分、っ以上!」
相変わらずの目つきの悪さではあったが、何だかんだで一通り挨拶をしてくれた『銀さんこと坂田さん』は、言うだけ言うと再びあかりから顔を背けて腕を組み鼻をふんと一回鳴らした。
態度そのものは腹立たしいけれど、ちゃんと自己紹介はしてくれたという噛みつけない現状に、あかりはジュースに添えられたストローを噛みながら恨めしそうな顔をした。
「それじゃあ、自己紹介も済んだ事だし、本題に入るよ。銀時、アンタは何であかりをここへ連れて来たんだい?」
ぎくしゃくした空気をさして気に止めることもなくお登勢は話を進めて、あかりも気になっていた重要な部分に触れていく。しかし、銀時は面倒臭そうに外方を向いたままで話そうとはしない。そこで代わりに新八が口を開いた。
「僕達、買い物の帰りに本屋に寄ったんですが。そしたらそこで、あかりさんが……」
「わ、私が?」
新八はなにか相応しい言葉を探すように視線を揺らし、何度か言いかけた言葉を飲み込んだ後、決心したようにあかりの目を真っ直ぐ見つめ、はっきりとかたりだした。
「神楽ちゃんが空に何か大きなものが飛んでいるのを見つけて…僕もそれを見たら、飛んでるんじゃなくて落ちてるって気付いて……」
「それが、私だった……?」
「はい。それで、銀さんが屋根まで登ってあかりさんを受け止めたんです」
非現実的な出来事に目をぱちくりさせながらも、さっきの銀時の「命の恩人」はこのことだったのかとあかりは納得していた。他のことで平静を保とうと脳が勝手に働いてしまうくらい、あかりには受け止めきれないことでもあったのかもしれない。
「おいおい、どう言うことなんだい。それはつまり、アンタは飛行機や建物の上から落ちて来たって、そういう事でいいのかい?」
正確な情報を引き出そうとお登勢は尋ねるが、当然のことながらあかりにそんな記憶は全く無かった。
「いえ、そんな、飛行機とかビルとか……そういうのは何も。空から落ちて来たと言われても…」
頭を抱えて自分自身と対話するように記憶を整理していくが、どうにもそこへ繋がる記憶が無いあかり。そもそも、繋げること自体がまるで現実的ではないような何かしらの決定的な分断をあかりは感じていた。ああじゃない、こうじゃない、と自分の中から溢れ出てくる否定の声を抑え込みながら必死になって考えを捻り出そうとしていたあかりは、ふらふらと立ち上がり席を離れる。ただならぬその様子に、銀時も背を向けていたあかりの方へ身体を捻り窺う。
「あかりさん、落ち着いてください。そんなに無理に思い出そうとしなくても大丈夫ですから!」
「そうネ、心配ないヨ!」
安心させようとする新八と神楽の声も今のあかりには届いていないようで、未だ自分の中の記憶と事実の狭間でもがいている様子で首を横に振り続ける。どんなに記憶を辿ろうとしても、新八達の言う状況には行き着かない。あかりの脳は次第に追い詰められて、それを拒絶するように全身が震え出すと弾かれたみたく駆け出した。
「お、おい、お前!」
透かさず銀時の手があかりの腕を捕らえた。が、あかりはその手を力一杯に振り払って店から駆け出していってしまう。
「あかりさん!銀さん、どうしましょうっ?」
「どうするもこうするも、放っとくしかねぇだろ。これであの変な女とも、おさらば出来るって訳だ」
「銀さん!」
振り払われた一瞬は驚いた表情をしたものの、直ぐに先ほどからのいい加減な物言いに戻った銀時に新八は声を荒らげた。
「……もういいですっ、あかりさんは僕が探して来ますから!」
そう言い残し、あかりが開けたままにして去って行った入り口から新八も続いて飛び出した。新八の後ろ姿が見えなくなると神楽も席を離れ、銀時の前に立つ。
「銀ちゃん、私もあかり探してくるヨ。銀ちゃんも見たネ」
「何をだよ」
「あかり、震えてたアル」
「………」
そう言うと、神楽もあかりと新八を追って店を後にした。
ほんの数分前までの騒がしさが嘘のだったみたく静まり返った店内に残された銀時は長い溜め息を吐くと、癖っ毛な自分の髪をこんな時でも少し恨みながら頭を掻いた。
「アンタは行かなくて良いのかい?」
「何で俺が」
ふて腐れる背中にやれやれと首を振ると、お登勢はキセルの煙を細く吐き出した。
「何でったって、 アンタ……」
*****
「おい、老いぼれババア!」
「私にそんな口利いて良いと思ってんのかいッ!」
数十分前、開店までまだまだ時間のある店の戸を遠慮の欠片もなく叩くと、返事も待たずに入ってくる銀時。
「煩せぇ、こっちは急患なんだ!」
外れそうな位に強く開けられた戸の先には、行きには無かった大荷物を抱えた銀時が額に汗を浮かべて立っていた。しかし、血相変えてやって来た銀時に抱えられた少女に、見た目で分かるような大きな怪我は無い。
「急患?それなら病院にでも連れてきな。第一、怪我なんてしてないじゃないかい」
抱えられたままの少女をお登勢はしげしげと見てみるが、血も出てなければ打撲の痕も無いし、その寝顔は体調が悪い人間のものでもなかった。
「分かんねえよ。でも、突然気絶しちまいやがって。良いからここで寝かせろっ、つか様子看てやってくれ」
そう言って、銀時は奥のソファへ労るように少女を寝かせたのだ。
*****
「あの時一番心配していたのは、銀時……アンタだろう?」
「素直じゃないねえ」と、右手に持ったキセルを上下に揺らして、口の端をくっと上げながら小さく笑うお登勢。
「はっ……言ってろよクソババア」
銀時は自嘲気味に笑うと重い腰を上げ、席を立った。
「で、アンタはどこ行くんだい」
「アイツのせいで今週のジャンプ買い損ねちまったからな。買ってくるんだよ」
「ちょっくら言ってくるわ」と気怠げに右手を上げて、扉の向こうに消えていく銀時にお登勢は「そうかい」と一言呟いた。
「全ク。アイツラ、揃イモ揃ッテ素直ジャネーナ」
「アンタが言えた義理かい、キャサリン。それに、素直なアイツ等なんて気味が悪くて敵わないよ」
「ソレモソーデスネ」
騒がしい面々が出払った中でお登勢と、似合わない猫耳を持つ女キャサリンはそう言葉を交わして短く笑い合った。
*****
自分が会ったばかりの人々に多くの優しさを受けていようとは露知らず、 一心不乱に駆け抜けてきたあかりが体力の限界に達して立ち止まる。肩で息する身体を宥めながら現在位置を確認しようと顔を上げると、そこにはあかりの知らない町の姿があった。
「は……?どこ、ここ……」
見覚えのない町に飛び出したのだから迷子というのもしっくりとはこないが、それより何よりこの町はあかりの培ってきた常識を逸脱した奇妙なものだった。通り過ぎていく中には普通の人も居るけれど、変な被り者をした人がそこら中を歩いてる。それに、普通の人といっても基本は和服を着用していて、学生服姿のあかりは些か浮いていた。
「本当に、ここどこなの……」
止められた手を振り払ってあれだけ盛大に飛び出したのに早くもあの店に戻りたいと、あかりは思い始めていた。しかし、おめおめと戻ることは勿論恥ずかしい。というか、脇目も振らずに走ってきてしまった為に、戻る道も分からないのが本当のところだ。これから自力でどうにか道を開けるのだろうかと弱気になっていると、路地裏の方からよからぬ声があかりの耳に入る。
「お姉ちゃんの方から誘ったのに、そりゃ無いんじゃないの?」
「私はなにもっ、貴方達が勝手に!」
声のする方へ視線をやると、"怖い"を生業にしていそうな男達が綺麗なお姉さんを囲んで拳を上げてこそいないものの、無理に迫っている様子が見えてしまった。善良な一般市民として助けを呼ぶべきだろうと制服のポケットから携帯電話を取り出す、しかし、電波の感度を示すアンテナが一本も立っておらず使い物にならなかった。
「どうして、こんな町中なのに」
辺りに交番や駆け込める店、助けを求められそうな人が居ないかと見回してみるも、この状況に気付きながらも目を背けて通り過ぎていく人や、そもそも気付いていない人ばかりだった。
「もし自分だったらどうするのよ」
憤りに近い思いで拳を握ると、ふと脇に纏められた角材が置かれていたのが目に入った。その山から一番上に盛られた角材を手の中で転がして、握り易い箇所を見付けるとあかりはそれ強く握り締めた。内側から己を奮い立たせ、颯爽と助ける都合の良いビジョンを思い描く。イメージトレーニングは大事だ。そして、場を仕切っている男へ向かい一欠片の遠慮もなく後頭部目掛けて腕を力一杯に振り下ろす。
不意打ちの限りを尽くしたあかりの渾身の一撃、それは見事に男を捉え本人も驚く程の良い音を奏でて、男を地面に平伏させた。
「おい、なんだテメェ!どっから」
予想もしない乱入者に男達が取り乱した隙に素早く間を抜けて、お姉さんの元へとあかりは駆け寄る。
「あの、大丈夫ですかっ?怪我とかありませんか!?」
自身を抱き締めるようにしてしゃがみ込んでいたお姉さんを背に庇うように立って安否を確認するあかり。
「はい、大丈夫です!あ、貴女は……?」
「えーと、通りすがりの一般人です。それより、ここは何とかしますからお姉さんは逃げて下さい!」
「でも、そしたら貴女はっ?」
人生で一度は言ってみたい台詞の定番とも思えるこの台詞をまさか自分が言うことになるとは……なんて、変なところで感慨に耽りながら、もう引き返せない行いに若干の後悔の念を味わう。
「大丈夫です、私は強いですから」
完全に嘘、全くのデタラメだった。それでも、こんな状況に置かれながらも他人を案じてくれる優しいお姉さんが逃げる為には必要な嘘なんだと自分に言い聞かせて、あかりは笑顔で返した。身体を震わせお姉さんが戸惑っていると、倒れ込んでいた男の意識が戻ったのか仲間に肩を借りて起き上がる。
「……うぅっ」
「くっそ、あのチビ、マジでぶん殴ってやがる」
一体どれ程頑丈な頭をしているのか、男は殴られた場所を摩りながら鋭い目であかりを捕えた。
「てめぇ、何しやがる!」
想定を超えて丈夫な男の様子にあかりもいよいよ身の危険を感じる。
「さ、お姉さん早く!」
「でもっ」
へたり込んだままで動こうとしないお姉さんに逃げるよう促していると、「舐めて貰っちゃ困るぜ」という男の言葉を合図にして、どこに潜んでいたのか仲間らしき男達が狭い路地裏に姿を現した。あかりの中に存在したこの人数ならもしかしたら何とか出来るかもしれない、という甘い考えはボス面の男の頭の強固さと増えてしまった仲間によって彼方へ消え去ろうとしていた。しかし、取り敢えず今この瞬間に出来ることはまだ残されている。
「さあ、今です!」
「えっ?」
実際のタイミングがどうかはもはや関係なく、きっとこれが最後のチャンスになるだろうと感じたあかりは、半ば強引にお姉さんの腕を引き上げ立たせると、大通りの方へ背中を強く押した。勢いが付いたお姉さんが、乱れた服の胸元を両手で押さえて走り出す。途中振り返りそうにもなったがそれを制して、姿が見えなくなるのを確認してあかりは一先ず安堵した。となると、後はもう一つの心配事だ。もうこの時には恐いとか焦るとか、何故かそういった感情は殆ど無くて、それどころか口元に笑みが浮かぶのを抑えなくてはならないほど、あかりの頭の中は冷静だった。もしかしたら、これが頭が真っ白とか空っぽというやつなのかもしれないが。
何だかもう面倒臭くて、どうにでもなってしまえと緊張感の無いことを考えていると、あかりの肩にごつごつとした手が置かれた。
「おらぁっ、人のこと無視してんじゃねぇよ、クソガキ!」
制服の肩の部分を掴み上げられるが取り繕うようなことはせず、あかりは飽くまで反抗的態度を貫いた。
「何ですか。大きな声で言わなくても聞こえてますよ。うるさいなあ。今日の晩ご飯なに食べようか考えていたのに」
獲物は逃がされた上、無視され続けていことが気に入らなかったようで、いつの間にか男達は物凄い形相であかりの周りを囲んでいた。灰色の外壁に挟まれた路地裏で切り取られた空はそれでも青く澄んでいて、どれだけ変なことに見舞われてもおかしな世界でも空だけは変わらないなあ、なんてことをぼうっと考え出すあかり。
「はあ……お父さんお母さん。私は今、人生最大の困難を目の前にしているかもしれません。無事、今夜の晩ご飯は食べられるのでしょうか」
「ねえ、本当にいい加減無視するのやめてくれるっ?おじさん泣くよ、泣いちゃうよ!?」
どちらが劣勢なのか忘れ欠ける路地裏の戦いは続く。
終
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