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安城糸音、平成最期の夏休み

「君が殊勝にしてるなんて、珍しいなあ」
窓の外は見事に曇天。
蛍光灯の明かりはあるがどことなく薄暗い室内は、ただでさえ病院の不穏な空気を更に緊張感に満ちたものにしている。

(他に入院患者がいなくてよかった。いたら具合が悪くなりそうだ)
俺はその空気に気づかないふりで白いベッドに腰掛けて笑うが、目の前の、来客用の椅子に座る彼女は顔面蒼白のまま。
さっきから会話はしているが、明らかに様子がおかしい。

「…流石に犬に襲われた上車にはねられて轢かれたなんて聞いたら、ほかにどんな態度も取りようがないでしょう」
「言葉だけ聞くと最早愉快だな。狂犬病のワクチンがあってよかったよ」
他も骨折まではいかなかったしな、と怪我から免れた左手を振って笑ってみせるが、彼女の表情が変わる様子はなかった。
「…よくこの病院まで来れたな」
「…実家の人間に聞いたの」
「そうか、それは悪いことをしたなあ」
「…別に」

(…会話が続かないな)
沈黙を持て余しながらベッドの白い手すりに指を滑らせた。
彼女も自分の手元を見つめ、浮かない顔をしたままだ。
その仕草、表情からは深い憂いが透けて見える。

(…安城がすぐ来るかと思って警戒していたが。どうやらそんなことはない、か?)
何も聞いていないのなら、来るのは明日だ。
そんなに心配することはないのかもしれない。

「…何か聞きたいことがあるんだろう?そんな話じゃなく」
座り直したベッドが軋む。安物らしい。寝心地も悪そうだ。

「…呼び出したのはあんたでしょ」
「ああ、そうだったな。森には何かあったかい」
「……」
彼女は口許を結んで、押し黙る。俺の出方を見ているのだろうか。
どうやら『何か』はあったらしい。

「俺が来れなかったから、一人であちこち探したろう?君」
「おかげさまでね…ヒールで歩く羽目になって最悪だったわよ」
「で、何か見つけたかい?」
「……言いたくないわ」

(言いたくない、か)
含みのある言い方だ。
「…白髪の老人と会ったのか」
「…………」

(会ったらしいな)
どこまで知っているのか、とその睨みつける目が訊いている。
俺に頼んだのは他ならぬ君なんだが。
「そんな目で見られるのは心外だな…」
その思いを言葉に乗せても、目つきが鋭くなるだけだ。

「…あんた、どこまで知ってるの」
「その口ぶりだとまるで全部思い出したみたいだな」
「……答えたくないわ」
「答えてるようなものじゃないか。鎖でも見つけたか」
冗談のつもりで言ったのに、その肩が明らかに揺れた。否定もしない。
どうやら本気でそうらしい。

「…おやおや?」
「あんた本当にどこまで知ってるの…」
「『おじいちゃん』と俺の話はしなかったのか?」
「……あんたが双子に慕われてるとは言ってたわ。だから手が出せなかった、ってね」
「…あの二人には助けられてばかりだな…」

「…何を知ってるの」
「何を?」
「私と、色くんのことよ」

「…じゃあ、安城が来る前に話をしようか」
目を細めて笑う。多分悪人ヅラに見えると思う。
目の前の彼女は、本当にこんなことになるとは思わなかったのだろう。まあ俺だってここまで酷いことになるとは思ってなかったが。
あの頃、彼女がいた頃の判断力があれば、俺には絶対頼まなかっただろうに。

(歳はとりたくないものだなあ)
いやむしろもうろくしたというより、これは弟のせいかもしれないが。
彼女の弱点は大体の場合、弟絡みだ。

「あの写真は見たんだろう?」
「…写真?」
「子供が一人しか映っていない、写真」
持ってきてもらった荷物から、白黒写真を引き出して見せる。見なくても内容は分かっているようだが。
「あの後屋敷を探して、君らの幼少期の持ち物を見つけた」
今度はスマホを取り出して、蔵の中の写真を映してみせた。
彼女の父親に怪訝そうに見られながら撮ったものだ。

「母親は娘が欲しかったんだってな」
「……」

服や玩具や食器、男女で色や形が分かれるものは、どれも一つずつ。
水色とピンク、赤と青。並べたものは、どれも片方だけ真新しいまま写真に収められている。

「男女用が揃ったものは、どれも片方が新品だった…使われた形跡がなかったんだ。どれもこれも、女物だけが」

彼女はじっと黙って聞いている。
驚く様子はない。

「ランドセルより後のものは、ちゃんと使われていたようだけどな…屋敷の人間はこの奇妙な状況に、何故気づかなかったんだろうな」
「…………」


「……安城糸音」
またベッドが、ぎしりと軋む。
黙りこくったままの、目の前の彼女に問いを投げかけた。


「君は誰なんだ?」


外ではとうとう雷が落ちたらしい。


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