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安城糸音、平成最期の夏休み


「あれ?縁側の窓が開いてる」
「本当だ、網戸じゃなくて開きっぱなし…虫が入ってるし…!」
「夜に開けとくと蛾だらけになるのに!」

朝の光の中、廊下をぺたぺたと足音が二組、軽い声が話を交わす。
「まさか雨笠?」
「何でそんなことするのさ?」
「だよねえ…」

ふと床が、なんだか汚れているのに気がついた。
足の裏に砂の感覚、土で汚れた足跡のような汚れが開いた窓から続いている。

「…何?これ」
「本当だ」

ぺたぺた、ぺた。
足跡のような汚れ、だけじゃない。
廊下を辿るうち、点々と黒い何かが落ちているのにも気づいた。
辿り着いた突き当たりの部屋、開きっぱなしの戸の前で足音が止まる。
予想もしなかった光景に、息を飲む音。

「あ…雨笠!?」
部屋の中がぐちゃぐちゃに荒らされている。
そのどこにも彼の影も形もなく、代わりに踏み荒らした何かの足跡と、布団の上に赤い染みがまだらに残っていた。


(数時間前)



「リサ、ガスパール」
虫の音だけが響く森の中。
二匹の犬の名を呼べば、従順そうに鼻を鳴らす。
けれどもその姿は暗闇に紛れて見えない。

「ちゃんと、役目を果たしてきたかな?」
こちらに出てこないから、血塗れかどうかも分からない。
藪を掻き分け気配の方に近づきながら、いつもならすぐ姿を現わすのに、と少し感じた違和感はすぐに、決定的なものに変わる。


「…待て、何故──」
「なるほど、確かに。俺の勘は、いつも悪い方に当たる」

開けた場所で従順そうに待つ犬の傍らには、闇に紛れていた人影があった。
血塗れの片腕を高く掲げて間抜けに笑うのは、ああ、忌々しい。

「そう睨まないでくれよ。心臓より上に挙げておかないと死ぬからなあ」
「…どちらにしろ君はすぐ死ぬ」
「何故?」
「…死ななければならないからだ…」
「いや、あなたは俺を殺さない」

真っ直ぐにこちらを見て彼は言い放つ。
何故そんな、自信ありげな顔をしている。

「…もしかして本当の馬鹿なのか?」
「それは否定しないが、今日の役目は違う…俺は今、あなたの幸運の使者だ」
「…意味が分からない…」
「寂しかったんだろう?山からは出られず、何十年も独りで。本当に寂しかったところに、葵と蛍…双子を見つけた。それで魔が差したんだ」

私の声を遮るように彼は朗々と話し続ける。
「…何を」
「夏が過ぎても、彼らをここに留めようと思った。そして生身のままでは無理だと踏んで、こんなことをした」

差し出した手首に縦に走る、大きな掻き傷。
赤黒い血が固まりつつあるそれを再び手で押さえた。押さえたところから血が滲む。
けれど彼は笑っている、まるで不気味な面か招き猫のように。

「今夜、鎖紐は俺が持っていたんだ」
勝利宣言のような一言は、苦く響いた。

「あなたの犬たちは言いつけ通り、鎖紐を持つ人間を襲った。だからそれを投げ捨てたら、途端に大人しくなったよ…」
「…何故そんなことを…」
「あなたがここから出られないことは、俺の身の安全で証明できただろう?だから村にいる時に双子に何か起きるなら、使われるのは動物だろうし、キーアイテムは鎖紐だろうと思ったんだ…」
彼の足元で、ざり、と金属質な音がした。
鎖の踏みにじられる音だ。
道理で、リサとガスパールがそこから動かないわけだ。
「…こんな大胆に鎖を持つ者を襲ってくるとは思わなかったが。もしかして双子じゃなく、本当に俺が襲われたのかと思った」
「…………」
「…ここまで当たってほしくはなかった」

悲しそうな顔を、している。
(ああ、殴りたい)

「…私が彼らを殺すことに、何の益があるっていうんだ?留めるなんて言うが、全く意味が分からない…」
「そんなの俺にも分からない」
彼は当然のように笑い、続ける。
「けれど、それくらいはできるんだろう?何もないところから人間を一人増やせるくらいだから…」
「…人間を増やす?」

思わず言葉を遮っていた。

「突然訳のわからないことを言い出すが、私はそんなことをした覚えは…」
「いいや。あなたはそれをした。そしてそのことを何より隠したがっている」

まあ俺は全部日記に書いて部屋に置いてきたが、と、その男はのたまった。




伏せていた二匹の犬が起き上がり、こちらの方を向いて唸り始めた。
(挑発し過ぎたか)
正直さっきから上手く喋れている気が全くしない。
出血のせいだろうか、それとも手首が激痛を訴えているせいだろうか。
(止血も満足にできていないんだよな…ああ痛い)
それでも今倒れるわけにはいかない。

「…そして俺は」
だから俺は息を吸う。
吐いて、笑う。

「あなたに関わったその、昔の双子と友人なんだ。知っているだろうが」
「…それで?」
目の前の彼は怒りに震えているように見えるが、今の俺はそんなに爽やか好青年に見えるだろうか。

「糸音と色人を、ここに呼んだ。明日には着くはずだ…彼らが来て、俺の日記だけを発見したら、どうなるかな?」

「…君は幸運の何だって?」
「幸運の使者だ。葵と蛍を諦めれば、古い友人たちと何十年ぶりに語り合える」
「…冗談じゃない」

(おっと)
犬が吠え始めた。まずいかもしれない。
(会いたくないのか?)
彼と目が合う。
その瞳には怒りと恐れが映っていた。
これ以上ないほど人間らしい顔をしている。


「…君は彼らと仲直りがしたいんだと思ってたんだが」
「私を忘れた彼らと?君は忘れられた過去の亡霊とあの子たちを会わせようというのか?何が甦るかも知らずに」
「…………」
「許されるものか、そんなことが…」

話しているうちに泣きそうな顔になった。少年のようだ。
(…ああ、なるほど)
会えないのではなく、会いたくなかったのか。
(だが俺は)

「過去の亡霊、ねえ。俺は何にも知らないから、何にも分からないんだ」
「…お前は…」
「聞いてくれ。俺は仕事で来たんだって」
敢えて、笑ってみせる。
相手のテンポには、乗るわけにはいかない。
「望んだのは彼らなんだ。俺には止められない」
「そんなことはあり得ない…」
「いや、本当だ」
信じられないとでも言うように呆然と俺を見ている。
その目の前で俺は、語り続ける。

「俺が来たのは、糸音に頼まれたからだ」
「嘘だ…」
「いいや。あなたのことを思い出したがっていた」
「…何故…」
「毎年夏になると、何か忘れている気がするんだと言っていた。それも物思いに沈んで、色人が心配するほどに」
「…………」
「あなたのことだろう?」

彼はもう本当に少年のような顔で、呆然と俺の言葉を聞いていた。


「色人は、今でも鎖を大事にしているよ。大切な物だと言っていた。小さな頃親戚に貰ったんだと」
「……親戚…」

彼が小さく息を吐く。犬は吠えるのをやめていた。

「…彼らは会っても、きっと私だと分からない」
「それでも会ってやってくれ。望んだのは彼らなんだから」

風に揺れる葉擦れの音、虫の騒音。
森にはもうすっかり、普段の空気が戻っていた。

「…最初に教えて欲しかった。それが嘘だったら、今度こそ君は八つ裂きだ」
「それは怖いな。明日には分かると思うが」
「……それで君は、一体何を日記に書いたんだ?」
彼が真剣な顔に戻る。
「秘密だな。当たっていても外れていても関係ないんだろう?」
「…ああ、そうかもしれない。君の書いたことが本当だろうと全て嘘っぱちだろうと、彼らに与えるダメージは大きい…」
大きな溜息が聞こえる。もうすっかり、老人のような雰囲気に戻っていた。
「彼らには黙っていてくれるんだろうね?」
「彼らは友人だ。気をつけて処分するさ」

「…友人、ね」
「…何か疑問が?」
「あの子たちにもそういう存在ができたのか…」
そう言って彼は目を細めた。
孫を慈しむような、蛍と葵に向けるのと同じ顔だ。

(…その顔で、平然と子供を殺そうとするんだからなあ)
静かに身震いしたところで、傷の痛みが本格的に戻ってきた。痛い。

「…なあ、帰っていいか?そろそろ傷が限界…」
「待ってくれ。彼らを本当に、ここに呼んでくれるのか」
「ああ、そのつもりだが…」

「…ここまで巻き込まれたんだ。今更ひとつ用事が増えても構わないね?」
「…何を?」
「私の小屋に火を着けて焼いてくれないか?」

山の化け物はやんわりと笑う。

「私にはできないんだ。山から出られないのと同じで」
「…はあ、俺で構わないなら。延焼したりは…」
「しない。気づいているだろう、私も私の持ち物もおかしいんだ」
「…それは、何となく」

手招きされて、歩き出す。
傷は死にそうに痛むがもう仕方がない。

「…私は、葵と蛍を傷つけたかったわけじゃない…そういう意味では、君のおかげだね」
「それはどうも」
「君は私と似ているな。とても嫌いだ」
「それはどうも…」
「…どうしてそんな、ガキの魂を持て余しているんだ。私が見えるのは重症だよ」
「子供にしか見えない幻覚か何かなのか、あなたは」
「そうだ。君の存在は本当に誤算だった…さあ、着いたよ」


地味にとんでもない話をしながら着いた小屋は、一昨日見た時と同じ、おもちゃのようにそこに建っていた。
その前で彼は、振り返って笑う。


「君は本当に不思議な男だね。誰より忌々しいのに誰より役に立った」
「どうも。お役に立てて何より」
「私はこの奥のドアを開けることができない」
無視して彼は続ける。
「君は多分普通に入れるだろう。中に入って火を着けてくれれば、それで終わりだ」
「…中の物は燃やしていいのか?」
「ああ。しっかり燃やしてくれ、私の寿命をこれ以上伸ばしたくないなら」

「何があるんだ…?」
「見れば分かるさ。あとは、必ず色人と糸音を連れてきてくれるんだね?」
彼は静かに微笑んだ。穏やかだが、恐ろしい笑みだ。
真顔で頷く。
「ああ。葵と蛍には、触れないでいてくれるなら」
「もちろん。ただもし来なければ、君を末代まで祟ってやる」
「多分俺で最後だよ…」
「それは、それは。君の末路が楽しみだ」

彼は鼻で笑った。
そして次の瞬間、瞬きをする間にいなくなっていた。



おもちゃのような小屋の、ドアを開けて中に入る。
狭すぎるダイニングの壁沿いに積まれたあれこれ訳のわからないものも、全て燃えてしまうのか。
(本だけは回収したいなあ…何が起きるか分からないからやめておくが)
そして目の前には、板張りの、ステンドグラスをはめ込んだ小さなドアがある。
単純な色調のガラスの向こうは見えないが、何があると言うのか。
(…迷っていても仕方ないな。大蛇でも出てこなければいいが)
埃の積もった取手に手をかけ、開けた。
そして静かに嘆息する。

これまたベッド一つ分の幅しかない、小さな部屋。
ダイニングよりも狭い。
その中の、おそらくベッドだったものの上には、ほとんど何も残っていなかった。
ある程度大きな骨だけだ。
それどころかベッドの破片の木材や布、床自体が殆ど土に還ってしまっていた。何年経っているのだろう。壁が腐っていないのはどう考えても異常だ。

目の前には彼の、死体が転がっていた。
とてもじゃないが子供の見る光景ではない。


「…なるほど。骨は焼いてやらないとなあ」


よく分からないが、彼はこれらのせいで三十年もここにいたのだろうか。
永い年月を思いつつ、ポケットに入っていたライターを取り出す。
火を着けて、おざなりに投げた。



「さよならフランシス。ちゃんと彼らのことは、連れてくるよ」



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