指輪のはなし
「死んでますね」
「死んでるね」
目の前のソファには、仰向けの所長のような何かが転がっている。
「低気圧、ダメなんですね」
「台風の時とか、たまーにね。すごい眠いんだって」
その寝顔は至って安らかで、さっきまで頭が痛いと散々うるさかった人間と同一人物とは思えない。
(…なんとも憎たらしい顔だ…)
「…いる?」
「え?」
日和さんに無表情のまま差し出されたのは、太い黒いマジック。
「…私はやりませんけど、日和さんがやるのは止めませんよ」
「じゃあ遠慮なく」
そう言うと彼女は本当にマジックで所長の顔に落書きを始めた。
さすがペット、容赦がない。
「起きないんですね」
「敬慈でも気圧には勝てないのよ」
「へえ…」
言っているうちに、みるみるうちに猫のヒゲが生える。
「…気が済んだから私も寝る。頭痛い…」
「そうですか…」
更に鼻の頭が黒くなった所長を置いて、日和さんは巣に引っ込んでしまった。
(気圧に弱い会社だなあ)
私にはあまり影響がないからと、とりあえず書類を整理しに行こうとした足が止まる。
ソファからだらしなくはみ出した手の先にきらりと光るものを認めて。
(…指輪)
その薬指にはまった銀の輪は、既婚者というイメージと共に、どうにも彼の事実とそぐわない。
(…じゃあ、何故?)
その答えは自分で見つけるようにと所長は言った。
今もそこまで興味があるわけじゃない。
ただ、手の届く場所に、無防備にそれが在るのは初めてで。
「…寝てるんですよね?」
身動き一つしない彼のそばに寄って、そっと手を伸ばす。
触れれば当然のように、少し冷たい金属の質感。
(銀かプラチナか…別の何かか)
石などは嵌っていなさそうなその指輪は、いかにも普段使いの結婚指輪だ。
(…それなら、あれがあるはず)
裏側に、相手の名前。
それが読めれば、間違いなく彼の秘密には一歩近づくはずだ。
奇妙な確信を胸に、指輪を抜き取ろうとした瞬間。
「…」
触れていた手を、逆に掴まれた。
「え」
予期しない展開に固まっている私を、起き上がった彼の不機嫌な瞳が見つめている。
「…どうしたのかな」
「…え、ええと」
(寝てなかったの…?)
どうしたのか聞きたいのはこちらの方だ。
「…所長が秘密を探れって言ったんじゃないですか」
別に悪いことをしていたわけじゃない、しどろもどろにそれだけ伝える。
少なくとも手癖が悪いとは思われたくない。
「…本当にそれだけか?」
この人こんな顔できたのか、というほど彼は真顔だ。
慌てて頷こうとして、しかし思わず噴き出した。
所長の目が驚きで丸くなる。
「…何で笑っているのか俺には分からないんだが…」
「…鏡を…見てください…!」
そのあと鏡を見た所長が日和さんのところに直行して、結局その場はうやむやに終わった。
そしてあの指輪に私は触れないらしいというのが今日得た結論で。
(…余程大事なものだったのか)
案外本当に、亡くなった奥さんの物だったりして。
もう少し付き合いも長くなればまた、その秘密に触れる日も来るのだろうか。