安城糸音、平成最期の夏休み
「僕の名前は、色人。色に人って書いて、色人」
きみのなまえは?と、わたしとそっくりの顔のその子は、真顔で聞いてくる。
わたしは。わたしの名前、は。
「…糸音。やすしろ、いとね」
「…お姉ちゃん?」
「そう。色くんの、お姉ちゃん」
その言葉を口にした瞬間、世界の形がはっきりと、明るく見えるようになった。
目の前の男の子の、はにかみながらもとても嬉しそうな笑顔も。
それが私の、一番最初の記憶。
「…姉さん?」
何故目の前の、この人は、何も知らずに優しい調子で私に話しかけてくるのだろう。
「大丈夫か…?一体こいつは何を…」
「色くん」
「…姉さん…?」
「…そうね。そう。私は、あなたの」
姉、だろうか。本当に。
声が不覚にも震える。怖い、本当に怖い。
全部思い出してしまった今、胸を張ってそうとは言えない。雨笠の言葉が蘇る。
「…この男に何を言われた、姉さん」
「色くんは、怖くない?思い出せないことがあるの」
「…どういう意味で…」
ああ、彼は困惑している。でも今更止められない。
「私、あなたの姉とは言えないし、それを名乗る資格もない。あなたに酷いことをして、都合の悪いことは隠して」
「姉さん」
「あなたの一番でいる資格なんて、私にはない」
彼の顔が見れない。私のことを、あなたにしてしまったことを知られたくない。
あの日彼が崖から落ちた時、私はそこにいた。
滑り落ちる手を掴めなくて、坂を駆け下りてももう遅くて。
吠え続ける犬のそばで動かない体を抱きしめて泣くことしかできなかった。
酷い日だった。忘れたって、なかったことにはできない。
「姉、さ…」
「私、あなたの姉じゃない──」
「姉さん!」
どこか泣きそうな、声が聞こえた。
肩を掴んで私の目を射るのは、怒りと哀しみを湛えた瞳。ああ、色くん、怒ってる。
「姉さんは、姉さんだ!姉さんが何と言おうとそれは変わらないだろう!?」
「……色、くん」
「俺は姉さんが幽霊だろうが化け物だろうが、姉じゃなかろうが、俺には、ただ一人の…」
「…………」
語尾は消えてしまった。ただ一人の、何だろう。
涙がひっきりなしに溢れる。止めようもなくてせめて俯こうとしても、彼の視線がそれを許さない。
「…鎖がどうとか、言っていたよな。そこの男」
「……そうね」
「何か関係があるのか?今、姉さんを怖がらせてるものと」
「…………」
「…見せてくれないか」
「ダメよ、それは」
「…どうして」
「教えられない…」
鎖に触れれば、彼も全て思い出してしまう。
青い顔で制止した私の顔を、色くんは真顔でじっと見つめて。
「っ、!?」
唇に、柔らかな感触。口づけされているのだと気づいて身体を引き離そうとしても、その手にしっかり顔を固定されていてまるで動けない。
何度か角度を変えて、息継ぎをさせないキスが続く。苦しくて胸を叩いても聞き入れてもらえず、その意図に気づいて、絶望する。
(色、くん)
辛いことなんて、本当のことなんて、思い出してほしくない、のに。
苦々しい思いと甘い感覚、彼のただただ真摯な瞳を記憶に残して。
緩やかに、意識は落ちた。
きみのなまえは?と、わたしとそっくりの顔のその子は、真顔で聞いてくる。
わたしは。わたしの名前、は。
「…糸音。やすしろ、いとね」
「…お姉ちゃん?」
「そう。色くんの、お姉ちゃん」
その言葉を口にした瞬間、世界の形がはっきりと、明るく見えるようになった。
目の前の男の子の、はにかみながらもとても嬉しそうな笑顔も。
それが私の、一番最初の記憶。
「…姉さん?」
何故目の前の、この人は、何も知らずに優しい調子で私に話しかけてくるのだろう。
「大丈夫か…?一体こいつは何を…」
「色くん」
「…姉さん…?」
「…そうね。そう。私は、あなたの」
姉、だろうか。本当に。
声が不覚にも震える。怖い、本当に怖い。
全部思い出してしまった今、胸を張ってそうとは言えない。雨笠の言葉が蘇る。
「…この男に何を言われた、姉さん」
「色くんは、怖くない?思い出せないことがあるの」
「…どういう意味で…」
ああ、彼は困惑している。でも今更止められない。
「私、あなたの姉とは言えないし、それを名乗る資格もない。あなたに酷いことをして、都合の悪いことは隠して」
「姉さん」
「あなたの一番でいる資格なんて、私にはない」
彼の顔が見れない。私のことを、あなたにしてしまったことを知られたくない。
あの日彼が崖から落ちた時、私はそこにいた。
滑り落ちる手を掴めなくて、坂を駆け下りてももう遅くて。
吠え続ける犬のそばで動かない体を抱きしめて泣くことしかできなかった。
酷い日だった。忘れたって、なかったことにはできない。
「姉、さ…」
「私、あなたの姉じゃない──」
「姉さん!」
どこか泣きそうな、声が聞こえた。
肩を掴んで私の目を射るのは、怒りと哀しみを湛えた瞳。ああ、色くん、怒ってる。
「姉さんは、姉さんだ!姉さんが何と言おうとそれは変わらないだろう!?」
「……色、くん」
「俺は姉さんが幽霊だろうが化け物だろうが、姉じゃなかろうが、俺には、ただ一人の…」
「…………」
語尾は消えてしまった。ただ一人の、何だろう。
涙がひっきりなしに溢れる。止めようもなくてせめて俯こうとしても、彼の視線がそれを許さない。
「…鎖がどうとか、言っていたよな。そこの男」
「……そうね」
「何か関係があるのか?今、姉さんを怖がらせてるものと」
「…………」
「…見せてくれないか」
「ダメよ、それは」
「…どうして」
「教えられない…」
鎖に触れれば、彼も全て思い出してしまう。
青い顔で制止した私の顔を、色くんは真顔でじっと見つめて。
「っ、!?」
唇に、柔らかな感触。口づけされているのだと気づいて身体を引き離そうとしても、その手にしっかり顔を固定されていてまるで動けない。
何度か角度を変えて、息継ぎをさせないキスが続く。苦しくて胸を叩いても聞き入れてもらえず、その意図に気づいて、絶望する。
(色、くん)
辛いことなんて、本当のことなんて、思い出してほしくない、のに。
苦々しい思いと甘い感覚、彼のただただ真摯な瞳を記憶に残して。
緩やかに、意識は落ちた。