安城糸音、平成最期の夏休み
『一人は寂しいよ。本当に』
彼は笑う。
『だから、君たちが来てくれて、本当に嬉しいんだ』
「下の方に降りてくればいいのに」
『僕』は言う。村にだって人は少ないけれど、ここよりはずっと多い。
『…私は大人が苦手なんだ。それに今はここから動けない』
「動けない?山の中ならどこでも行けるのに?」
「大人なのに大人が苦手なの?」
隣の彼女と、言葉がかぶる。
そちらを向いて、同じ顔を見合わせて笑ってしまう。
でも彼の方はただ、困ったように微笑むだけだった。
(どうしてなんだろう)
考えてみても、全く考えがまとまらない。
まるで頭の中まで小学生に戻ってしまったみたいだ。
(…それに、犬が)
犬がどこかで狂ったように吠えていて、とてもうるさい。
次に浮かんだのはその考えで、夢を引きずっているのかと思って。
しかし次の瞬間、怯えたような高い悲鳴が聞こえたのは明らかに、現実だ。
それも二人、子供の声で。
明らかな非常事態に飛び起きて、明かりを探す。
まだ暗い、夜中だろうか、そして悲鳴はどこで。
(近くだった)
もしかしたら庭かもしれない。
(とにかく行かなければ)
夢の余韻は消えた、自分が小学生でないことはとっくに理解している。
(大人だからって役に立つとは、限らないけどな!)
役に立てる立てないの問題ではない。
スマホの明かりを頼りに走り出す。
声はどこか探さなくてもすぐにまた、外で犬の唸り声が響き出す。
(外…は、雨か?)
外に出るなら縁側が早いと、廊下から繋がる硝子戸を開けて出てみれば、夜明け前の藍色の暗さを霧雨がぼやかして、まるで幻のような風景だ。
犬も子供たちも姿は見えない。
(こっちじゃない…山の方か!)
裸足のまま駆け出したところで、何かがおかしいことに気づく。足裏の感覚が鈍い。
砂利道を素足で走っているはずなのに、どうもそうではない、地面を踏んでいる気がしない。ただ夜の空気の冷たさと、霧雨の湿った感覚が身体にまとわりついて、それから、狂ったように犬の声が響いて、それだけ。現実感がない。
(…?)
おかしい、けれど行かないわけにはいかない。
少しだけ戸惑いながらも、声の方に走り出す。
砂利道を何とか走り切れば、犬の吠え声はどんどん近づく。悲鳴はもう聞こえない。
(嫌な予感がする)
間に合わないかもしれない、そうでないことを願う、ああもう少し足が早ければ。
崖下に、犬の姿が見えた。
俺の背丈ほどもありそうな大型犬が二匹、崖下に向かって吠え続けている。
その先を見て、足は止まった。
蛍と葵、ではない。
見知らぬ彼女はぐったりと、動かない彼を抱えて呆然としていて。
(血まみれじゃないか…)
そして視界に俺を認めて、その目は何とか正気を取り戻す。
彼女は縋るように俺を見て、言った。
「お願い助けて、おじいちゃん…!」
たしかに、言った。
「っ、ひどい夢だ…」
「うわっ」
「びっくりした」
がばりと起き上がれば、正真正銘の双子たちが布団の両側で尻餅をついていた。
「…何してるんだ?」
「雨笠を起こそうと思って」
「ご飯そろそろなのに、起きないから」
「ひどい夢?」
「…いや」
(夢…だよな)
布団の感覚も、足の感覚もちゃんとある。
手の甲をつねれば痛い、今度こそ、現実だ。
(…ぐっしょり汗もかいてることだしな)
なかなかに、衝撃的なものを見てしまったような気がするのだが。
(あの女の子…いや、やめよう。夢は何の証拠にもならない)
ある意味非常にタチの悪いまやかしですらある、けれど。
倒れていた彼の顔は暗くて見えなかったが、彼女の顔立ちは。
(…………)
似ていた、俺のよく知る双子の彼女に。
「…大丈夫?」
「ご飯冷めちゃうよ?」
「…ああ、今着替えるから、先に行っててくれ」
「はーい」
動揺していても仕方がない。
とりあえず布団から出ようとして、右手に何か握っていたことに気づく。
薄紫と黄緑のそれは、双子に借りて持っていたものだ。
昨日矯めつ眇めつしていて、そのまま寝てしまったらしい。
(鎖紐…)
妙な夢を見たのはこれのせいだろうか。
常識的に考えれば馬鹿みたいな話だが否定はできない、フランシスに怪しい技をかけられた時もこれがあったのだから。
(…これは、双子に返していいものなのか?)
嫌な予感がして仕方ない。
いや、返さないままフランシスの元に行かせるのも、それはそれでまずいような気がするのだが。
「…なあ君たち、今日も山に行くのか?」
一足先に部屋から出ていこうとした彼らを呼び止めて、訊く。
「行くならこれを…」
「え?何で山になんて行くの?危ないよ?」
「近づいちゃダメって言われてるもん。今日も村の方で遊ぶけど?」
「………え?」
まだ悪夢の続きかもしれない。
割と本気でそう思った。
彼は笑う。
『だから、君たちが来てくれて、本当に嬉しいんだ』
「下の方に降りてくればいいのに」
『僕』は言う。村にだって人は少ないけれど、ここよりはずっと多い。
『…私は大人が苦手なんだ。それに今はここから動けない』
「動けない?山の中ならどこでも行けるのに?」
「大人なのに大人が苦手なの?」
隣の彼女と、言葉がかぶる。
そちらを向いて、同じ顔を見合わせて笑ってしまう。
でも彼の方はただ、困ったように微笑むだけだった。
(どうしてなんだろう)
考えてみても、全く考えがまとまらない。
まるで頭の中まで小学生に戻ってしまったみたいだ。
(…それに、犬が)
犬がどこかで狂ったように吠えていて、とてもうるさい。
次に浮かんだのはその考えで、夢を引きずっているのかと思って。
しかし次の瞬間、怯えたような高い悲鳴が聞こえたのは明らかに、現実だ。
それも二人、子供の声で。
明らかな非常事態に飛び起きて、明かりを探す。
まだ暗い、夜中だろうか、そして悲鳴はどこで。
(近くだった)
もしかしたら庭かもしれない。
(とにかく行かなければ)
夢の余韻は消えた、自分が小学生でないことはとっくに理解している。
(大人だからって役に立つとは、限らないけどな!)
役に立てる立てないの問題ではない。
スマホの明かりを頼りに走り出す。
声はどこか探さなくてもすぐにまた、外で犬の唸り声が響き出す。
(外…は、雨か?)
外に出るなら縁側が早いと、廊下から繋がる硝子戸を開けて出てみれば、夜明け前の藍色の暗さを霧雨がぼやかして、まるで幻のような風景だ。
犬も子供たちも姿は見えない。
(こっちじゃない…山の方か!)
裸足のまま駆け出したところで、何かがおかしいことに気づく。足裏の感覚が鈍い。
砂利道を素足で走っているはずなのに、どうもそうではない、地面を踏んでいる気がしない。ただ夜の空気の冷たさと、霧雨の湿った感覚が身体にまとわりついて、それから、狂ったように犬の声が響いて、それだけ。現実感がない。
(…?)
おかしい、けれど行かないわけにはいかない。
少しだけ戸惑いながらも、声の方に走り出す。
砂利道を何とか走り切れば、犬の吠え声はどんどん近づく。悲鳴はもう聞こえない。
(嫌な予感がする)
間に合わないかもしれない、そうでないことを願う、ああもう少し足が早ければ。
崖下に、犬の姿が見えた。
俺の背丈ほどもありそうな大型犬が二匹、崖下に向かって吠え続けている。
その先を見て、足は止まった。
蛍と葵、ではない。
見知らぬ彼女はぐったりと、動かない彼を抱えて呆然としていて。
(血まみれじゃないか…)
そして視界に俺を認めて、その目は何とか正気を取り戻す。
彼女は縋るように俺を見て、言った。
「お願い助けて、おじいちゃん…!」
たしかに、言った。
「っ、ひどい夢だ…」
「うわっ」
「びっくりした」
がばりと起き上がれば、正真正銘の双子たちが布団の両側で尻餅をついていた。
「…何してるんだ?」
「雨笠を起こそうと思って」
「ご飯そろそろなのに、起きないから」
「ひどい夢?」
「…いや」
(夢…だよな)
布団の感覚も、足の感覚もちゃんとある。
手の甲をつねれば痛い、今度こそ、現実だ。
(…ぐっしょり汗もかいてることだしな)
なかなかに、衝撃的なものを見てしまったような気がするのだが。
(あの女の子…いや、やめよう。夢は何の証拠にもならない)
ある意味非常にタチの悪いまやかしですらある、けれど。
倒れていた彼の顔は暗くて見えなかったが、彼女の顔立ちは。
(…………)
似ていた、俺のよく知る双子の彼女に。
「…大丈夫?」
「ご飯冷めちゃうよ?」
「…ああ、今着替えるから、先に行っててくれ」
「はーい」
動揺していても仕方がない。
とりあえず布団から出ようとして、右手に何か握っていたことに気づく。
薄紫と黄緑のそれは、双子に借りて持っていたものだ。
昨日矯めつ眇めつしていて、そのまま寝てしまったらしい。
(鎖紐…)
妙な夢を見たのはこれのせいだろうか。
常識的に考えれば馬鹿みたいな話だが否定はできない、フランシスに怪しい技をかけられた時もこれがあったのだから。
(…これは、双子に返していいものなのか?)
嫌な予感がして仕方ない。
いや、返さないままフランシスの元に行かせるのも、それはそれでまずいような気がするのだが。
「…なあ君たち、今日も山に行くのか?」
一足先に部屋から出ていこうとした彼らを呼び止めて、訊く。
「行くならこれを…」
「え?何で山になんて行くの?危ないよ?」
「近づいちゃダメって言われてるもん。今日も村の方で遊ぶけど?」
「………え?」
まだ悪夢の続きかもしれない。
割と本気でそう思った。