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安城糸音、平成最期の夏休み


「おい、子供たちを誑かしてるな?お前」
「…そう見えますか?」
にっこり笑いながら振り返る。
役場の資料でも見に行こうかと思っていた矢先、背後からのドスの効いた声。
廊下のど真ん中からこちらを睨む小さなご老人は、山の化物に比べれば親しみやすいことこの上ない。
(少なくとも命の危険はないな)
それだけでだいぶ気が楽だ。

(…あまりボケてるようには見えないんだよな…俺のこともしっかり見てるし)
やはり目元の辺りなど、安城に似ている。
彼より性格は悪そうだが、頑固そうな目つきが特にそっくりだ。
(まあ、顔だけで全ては判断できないしなあ)
一昨日のやり取りを思い出してもあまりろくな予想は立てられないが、先入観などは持たないに限る。

「ちょっとお話伺ってもよろしいですか?誼光さん」
微笑みながら話を振る。
「ああ?嫌だね!あんたみたいなのと話してると騙されちまう!特に20年前の子供の死体の話なんか…」
(どれだけ話したいんだ)
何故か得意げなご老人は、何だかんだで会ってからその話しかしていない。
(…今までもその話で何か、得をしてきたのかな?)
「もちろん、特別にお礼はお支払いしますので」
ということは、ご老人の筋書きではこうなっているのだろうか。
そう思い、懐から封筒を抜いてちらつかせる。普段は使わないし、人によっては当然逆効果だがどうだろう。
「…仕方ないな。話してやるよ」
「ありがとうございます!」
してやったりという笑顔で手招きするご老人に、こちらも笑顔で頭を下げた。

(正解か。でも良いのかなあ、友人の父親を金で釣って)
良心は痛むが依頼のためなら以下略だ。
しかしまあ、彼への多大なる先入観は得てしまったような気がする。

(死体遺棄騒ぎより今はフランシスのことのが気になるんだが…まあ、それとなく安城姉弟の話が聞ければ良いか)





(参ったなー)
廊下に出て襖がしっかり閉まったのを確認してから、軽く息を吐く。
彼は意外に几帳面な性格で、所作は綺麗だった。その辺も姉弟に似ていた。やはり家族というか、家そのものが、どことなく格式高い印象だ。
淹れてもらった茶も美味しかったし、死体遺棄騒ぎについてもそれなりに情報は得た、のだが。

『俺の子供は色人一人だ。何言ってるんだ』

彼は騒ぎの説明をする間何度も一人息子と言うので、思い切って二人の間違いではないかと聞いてみた。
そして得られた答えがそれだ。

(いや、参った。突っ込んで良いのかこの話)

彼は何故か頑なに、娘がいることを認めようとしなかった。後で直美さんにも話を聞かなくては。

(…安城じゃないのか?問題は)
おかしいのは、糸音の方か。
だとしたら何故、何がおかしい。
それは山の化物と何か関係があるのだろうか。
(いや…まだ分からない)
認知症の症状にはなかったように思うが、誼光が糸音のことを嫌っていたなら記憶から消してしまうのも考えられなくはない。とりあえず他の人に誼光についての話を聞くべきなのは確かだ。

(でも、結局は)
踏みしめた床がぎっ、と軋む。
(とにかく、フランシスが問題だ)
彼のことを考えると一気に、この村の人間の記憶全てが信用できなくなる。
そういう意味では、情報は無いに等しいのだ。

(…動かしようのない証拠が要るな)
何かそこにいた個人を証明できるもの、物的証拠が欲しい。

縁側に辿り着き、外を覗く。
まだ雨は降っているようだ。

(…ご老人の記憶を、確かめに行ってくるか)

とりあえず今の話で得た、ただ一つの手がかりだ。





『子供の骨を見つけたのはな、俺なんだよ』
『…そうなんですか』
驚くフリは割と上手くいったと記憶している。実際結構驚いたのも確かだ。


(やっぱりここは、夏にしては涼しいな。湿度が高いのはしょうがないか、雨だし)
傘を広げ、今まで何回か登った場所とは、まるで違うところから出発する。
大きな平屋の反対の端、おそらく駐車場。
砂利が敷き詰められた先の、丸太の階段を登っていく。

『大雨で崖が崩れてな…その跡から出てきたんだ』
『へえ…』

丸太の階段の終わりは、舗装されていない坂道。
それでも子供たちの使う獣道よりは余程歩きやすい。
傘をあちらの木、こちらの藪にぶつけつつ坂を登り、確かに崖下に出る。
茂る木々の向こうを見上げれば、所々に草のへばりついた岩壁が視界一面に広がっていた。
濡れた落ち葉は靴が沈むほど降り積もっていて、クッションにはなりそうだ。しかしあそこから実際にここまで飛び降りたりしたら、タダでは済まない高さなのは間違いない。


『子供の、骨がな。あれは動物じゃなかった、見れば分かる』
『…一部だけだったんですよね?』
新聞にはそう書いてあった。大体全部が見つかったなら、容易に判別も可能だっただろう。


崖下を沿って、左へ進んでいく。
薄暗い森は雨に遮られ、どこか幻想的な趣を見せ始めていた。


『ああ…だがあれは間違いなく、子供の骨だった。そう思ったんだ…っていうのに、あいつらは』
『あいつら?』
『村中の奴らだよ』


「…あった」
岩壁の陰に隠れるように、古びた石の柱がぽつんと立っている。まるで墓のように。



『見つかった時は皆本物だって言って、騒ぎになったんだ。マスコミも警察も来た。なのに何故か、いつの間にか偽物ってことになってて』
『…どういうことですか』
『だから、俺にも分からないんだよ。誰が言い出したのか知らないが、いつの間にかだ。警察も、これは明らかに違うとか言い出して検査もせずに返しやがった。おかしいだろ?』
『…それは、まあ』
昭和の田舎とは言え、警察が人骨のようなものを検査もせず返すのは確かにおかしい。

『当時の俺は何を考えたんだか、それに何も言い返さなかった。それが正しいと思ったんだ…今になってみればあいつらの方がおかしいに決まってるだろうが…』
『…その後、骨は?』
『埋め戻したさ。持ってるのも気味が悪いしな…あの当時は、もう関わりたくなかったんだ。今思えばあの頃の俺は頭がおかしかった。でもちゃんと、目印はした。寺から捨てるはずの石材をもらい受けてな』

「…これが」
石の柱に何か刻まれていれば石碑のようにも見えたことだろう。
しかし無地の石の棒が地面に突っ立っているのは、なかなかに不気味だ。
「さて…」
取り出したるは、白の軍手。
流石にそう簡単に見つかるとは思っていないが、周辺を調べるくらいなら今この瞬間にもできる──

「何をしてる!?」
「あ、雨笠…」

崖の上から怒号が飛んだ。
思わず振り仰げば、フランシスが崖の上からこちらを見て、ああ、焦っている。
その隣で俺を見て名前を呼ぼうとして、怯えたように双子が竦んだのも見えた。
(まずい)
素直にそう思ったが、流石に何の申し開きもできそうにない。
俺は気づいていなかったが、この石碑の近くが急な斜面になっていて、登り降りできるようになっていたらしい。
そこを鬼の形相で彼が滑り降りてくる。
(だが何がまずかった?)
皆目見当がつかない、対処しようがない。
ただ20年前の、子供の墓ともつかないものを調べに来ただけだ。
(…彼も関係者なんだな)
それだけはよく分かった。命と引き換えにするには、軽すぎる情報だが。



「…何をしてるんだ」
目の前に白銀の、笑う鬼が立っている。傘は差していない。気づけば雨は止んでいた。
「鷹城家の人に聞いて、石碑を見に来ただけですよ。何も書いてないみたいですが」
「じゃあその手袋は何だ」
「少々調べさせてもらおうと思いまして…何か、まずかったですか」
「………」

「おじいちゃん、雨笠を叱らないであげて!よくわかんないけど、雨笠は何も知らなかったんだよ!」
「う、うん!雨笠はいたずらとか…悪いことしたりしないよ!多分」

(双子たち…)
遅れて辿り着いた子供たちが、息を切らしながら口々に、何か曖昧ではあるが擁護してくれている。
今この状況では何より有難い。
「…二人とも、先に戻っていなさい」
「え…」
「でも…」
「…また、雨が降ってきた。危ないよ」
彼が静かに右手を挙げる。
その手と、冷たい声に応えるように、ぱらぱらと雫が落ちて、雨音に変わっていく。
事情は毛ほども分からないが、彼の方に許す気はなさそうだ。

(ここにいてはいけない)
冷たい予感を、はっきりと肌で感じた。
双子がいなくなったら、本当に危ない。
それだけは解る。
「…行こう」
「…雨笠、君は──」
「フランシスが鬼だ。いいな?」
「え」
「ちょっと…」
「待ったはなしだ、ほら、走れ!」


こういう時の逃げ足の速さは最高だと自負している。
伊達に30年生き残っているわけではない。
フランシスが子供の前で自らのイメージを崩すことを嫌うのを逆手に取った。
どれだけ破れかぶれでも、逃げ切れたなら勝ちだ。

(逃げ切れたなら、な)
傘を投げ捨て、全速力で駆け出した。

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