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安城糸音、平成最期の夏休み

『おじいちゃん』は、誕生日に何が欲しいのか、と言ったんだった。
だから私はずっとみんなで遊びたい、夏休みだけなんて嫌だなんて馬鹿げたことを言ったのだ。
その時の彼の、悲しそうな顔。
でも驚く私にすぐいつもの顔に戻って、「考えておくよ」って手を振った。
最近たまに思う。
あの時違うことを答えていたら、何か変わったのだろうかと。








『…もしもし』
「やあ。…こうやって頻繁に連絡を取ってるとまるで恋人だな」
ブツッと音がして、電話が切れる。

「…失敗した」

フランシスについて聞こうと思ったんだが、安城に今の冗談は面白くなかったらしい。
(糸姉さんには聞けないしなあ…)
彼女は俺の電話に出た試しがない。今日の彼らとの情報交換は諦めたほうがいいだろう。

「何?電話?恋人?」
廊下に出れば、子供達に絡まれる。
「うーん、全然違う。君たち朝から元気だなあ」
「夏休みだよ?今遊ばないでいつ遊ぶのさ」
「雨笠も来る?」
「行こうかな」

「あなたたち、あんまりお客さんに迷惑かけちゃダメよ」
「はーい」
通りすがりの管理人の奥さん…直美さんに声をかけられて、双子は蜘蛛の子を散らすように廊下を駆けていく。
「すっかり懐いちゃって…ご迷惑かけます」
「いえいえ」
職業的にもありがたい限りで、と笑って返す。
そういえばまだ直美さんの伯父、つまり安城の親父であるご老人は家の中で見かけていない。
(会ったら話を聞かないとな)



「これ、道で合ってたんだなあ…」
「蛍もこの道を大人が通れるとは思ってなかったよ」
山中の獣道だと思ったものを踏み固めていたのは、この双子だったらしい。
したり顔で呟く彼女は小学一年生、まだまだ一人称が迷子なお年頃だ。
「おじいちゃんはこの辺までは来ないもんね」
「…君たちはいつから彼と知り合いなんだ?」
低く茂る木をかいくぐりながら話を聞く。
本当は彼らはあまりここに来るべきではないと思うのだが、そう言ったところで素直に聞くわけがないのは分かっていた。

「夏休みの始め、僕らがここに来てすぐだよ。蛍が山に行こうって言い出したくせに迷子になって泣き出して」
「だって行ってみたかったんだもん。色人お兄ちゃんが遊ぶ所あるって言ってたし」
「…色人お兄ちゃん?」
「親戚のお兄ちゃん。格好いいんだよ〜」
「へえ…」
さっきの電話の相手だと言ったらどんな顔をするだろうか。
「そしたら、おじいちゃんが来て。色人兄ちゃんの言ってたとこに案内してくれたんだ」
「遊び場?山の頂上の方か?」
「ううん、そんなとこまで行けないよ。結構近くなんだよ」
「…それはそうだな」
俺があれだけ苦労したのだから子供がそこまで辿り着けるとは思えない。…運動不足だったとしてもだ。
「『おじいちゃん』は何でこんな所に住んでるんだ?」
「なんか、日本に来てみたかったんだって。前はガイコクにいたんだって」
「だから目が青いんだよ」
「ああ、まあそれも何となく分かる…」
いかにも『日本大好き外国人』という感じだ。
問題はそれが何故こんな場所にいて、それを大人が誰も知らないか、だ。

(…『狂人呼ばわり』とか言ってたな)
話しても信じてもらえない可能性が高いということだ。そりゃ突飛な話なことには違いないが。

「…なあ、何で『おじいちゃん』なんだ?あの顔で」
「え?白髪だし」
「そう呼んでって言うから」
「ふーん…」
「あ、もう着くよ。ほら」

なるほど、これは『広場』だ。
木々の間を抜けるといきなり平らに均された草むらが現れて、軽く眼を見張る。
一軒家が2つ建つくらいの大きさだろうか、子供が遊ぶには十分な広さだろう。
(…どうしてこんな所に?)
まるで駐車場のような更地は、獣道しか繋がっていない場所としては非常に不自然だ。不気味と言ってもいい。
双子は全くそんなことは気にしていないようで、楽しそうに目の前を駆けていくが。

「『おじいちゃん』…ねえ」
「何なら君も呼んでくれていいんだよ?」
「うわっ…」

振り返れば彼がいた。
思わず声を上げるほど相変わらず全く気配がない。
面白そうな顔でこちらを見ている。
「…本当に俺に『おじいちゃん』と呼ばれたいなら、呼びますがね」
「…うーん、あまり心踊らないね」
(小学一年生だと心躍るのか…?やっぱり不審者じゃないか)
通報した方がいいかもしれない。
「ねえ、おじいちゃん!向こうの方で遊んできていい?」
「ああいいよ。ただ雨笠は貸しておいてくれ」
「全然いいよ!」
「それと、崖の方には行かないように」
「もちろん!」
叫びながらあっという間に子供たちはいなくなる。

「…雨笠って」
「色々と聞きたいことがあるんじゃないのかい?」
「…それは、その通りですけどね。お話を伺っても?」
「録音は無しで頼むよ。それでも良ければおいで」
にっこり笑って、彼は手招きをした。




(…冗談みたいな小屋だな)
周りを見回すが、とにかく狭い。キッチンがそのままダイニングでテーブルを囲めば後ろがすぐ壁、ごちゃごちゃとよく分からない物が積んである。
人が暮らすのに適した広さとは思えない。
壁や棚の板は自力で削った物だろうか。機械で加工した物ではないのは確かだ。
一応俺の斜め後ろにドアのような物があって、その先は寝室か何かなのだろうが、さっき見た外観から見てどう考えても狭すぎる。
「そんなに面白いかな?私の家は」
「…ええ、まあ」

申し訳ないが、丁寧に淹れてもらったハーブティーらしきものに手をつける気にはなれない。
それで、と言わんばかりに肘鉄をついて俺の前に陣取る彼は、もしかして本気で話を聞いて欲しいのだろうか。
「…いつからこちらにお住まいで?」
「30年くらい前かなあ。いいかげん祖国が嫌になってね。繊細で落ち着いた雰囲気が好きだったから、この国に越してきたんだ」
「どうしてこんな山の中で暮らしてらっしゃるんですか」
「そりゃあ勿論、ここが気に入ったからだよ。他にこんな辺鄙な所に住む理由があるかい」
「…………」
こちらを見返す彼の青い瞳が怪しげに光る。
不法侵入だとか、年齢と見た目の釣り合わなさとか、そういう常識的なことを訊いても多分意味はないのだろう。
では俺の訊くことは一つだ。
「ちょうど俺の友人たちも、小さい頃ここにいたらしいんですよ」
「へえ」
「さっきの双子のように、夏休みにここで誰かと遊んでいたらしくて…誰だったのか知りたいと言われましてね、あり得ないと思いながらも誰かいないか探していたんです。もし何か知っていたら、教えてもらえませんか?」
割と適当な嘘を混ぜて、訊いてみる。
鷹城家とは説明が食い違うが問題はないだろう。

「…ああ、やっぱりね」
いわゆるカマかけは上手くいったようだ。
少し目を伏せて彼はぼそりと呟く。表情は読み取れない。
かと思えば部屋の隅の棚に手を伸ばし、木製の引き出しから何かを取り出した。

「これ、知ってるかな…昔はこの村の特産品だったんだけど」
「…鎖、ですか?」
「そう。彼らには、これをあげたよ。お近づきの印にね」
差し出されたのは、銀色の細い鎖。
ペンダントにして使うようなありふれた代物だが、そのための金具は取り付けられていないようだ。
「君の友人たちが私の知ってる彼らなら、だけど。…まあ私が越してきてから、出会ったのはあの子たちと、蛍と葵だけか」
もう30を過ぎてるねえ、と独り言のように呟く。
(この男、本当に何歳なんだ?)
その妙に枯れた様子に、安城の父親のような老人の姿がダブって見えて戸惑いを覚える。
(しかしとにかく、この不審者と安城姉弟が遊んでいたらしいのはたしかだな)
今夜は真面目に電話をしなければ。

「…触ってみるかい?」
「え?ああ、どうも」
安城に話すためにも鎖の特徴を知ることは必要だ、そう思い差し出されたそれに触れる。
一般的な物だと思っていたが、どうやら細かなつくりが違うようだ。
(流石に鎖には詳しくないからなあ…)
細かい違いを言葉で表すのも無理があるので、写真でも撮らせてもらおうかともう片方の手でポケットのスマホを探る。

(…あれ?俺は何でスマホなんか探してるんだ?)
ふとそんなことが頭をよぎる。
「…どうしたのかな、雨笠。何をしに来たのか忘れた?」
「…いえ、別に…」
目の前で微笑む、この男は誰だろう。
そんな馬鹿げた問いまで浮かんできて、冷や汗が噴き出した。
(…というか、この場所はどこだ?俺は何故こんな所に…)
さっきからばらばらとまるで鎖が切れて散らばるように、何かまずいことが起きている。
それは解るが、何がまずいのか解らない。
焦りだけが募る、手が震える。
「…俺は、何を…」
「さて、何だろうね。私は君の名前も知らないよ」
「…え…」
それでは俺は、誰だ。


「雨笠ー!何やってんの!?」
「蛍!おじいちゃんとお茶してるんだから邪魔しちゃダメでしょ!」
「あ、ほんとだ…」

「…っ!」
何か靄のような重い空気が、一瞬で消えて失せた。
多分きっかけは、窓の外で叫ぶ子供たちの声。
「…おっと…」
目の前の男、フランシスというその男は少しだけ気まずそうに呟き、ため息をついてドアを開ける。
「君たちも飲むかい?特製ハーブティー」
「飲む!」
「苦くない?」
「ははは、甘くもないけどね。苦くはないよ、外で手を洗っておいで。キッチンは君たちには高すぎる」
「はーい!」



(…何が起きた?)
子供たちは裏の水道だか井戸だかで手を洗っている。
フランシスはまだ呆然としている俺を見て、今度はあからさまに溜息をついた。
「…君は本当に運が良い。まだ懲りないって言うなら好きにすると良いよ」
まだ握っていた手の中の鎖が、ちゃりと微かに音を立てる。

(…………)
もしかして、想像以上に危ない案件に足を突っ込んでいるのではないだろうか。
濡れた手を服でぬぐい開いたドアをくぐる嬉しそうな子供達を見ながら、いまだ手は少し震えていた。
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