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安城糸音、平成最期の夏休み

「…迷った」
明るいうちに裏山を見ておこうと思ったのが間違いだった。
革靴で入るような山ではないと気づくまで30分、獣道は細くなるばかり、段々と日も傾いている。このままでは遭難しかねない。
(すぐ頂上に着くと思ったんだが…甘かったな)
鬱蒼と茂る木々は日の光を遮って、深い森というのは薄暗いものだということを思い出させる。そのうち熊でも出てきそうだ。その木々の間を縫うように踏み固められた土を、道だと思うべきではなかったのかもしれない。
(しかしこんな深い山に子供が行くのを良しとするか?止められるだろ、普通)
というか、大人でも普通に体力がキツい。
さっきから考えないようにしていたがとっくに息も切れて足も鉛のようだ。探偵が人の家の裏山で遭難などシャレにもならない。
これ以上は今日は諦めて、とにかく帰らなければ日が暮れてしまうだろう。
そう思い踵を返したその時だった、目の前に何かが飛び込んできたのは。

「ぐえっ」
「痛っ!」

目は合わなかった。
猪か何か、ではない。小さな女の子が真っ直ぐに突っ込んできて、視界から消えたと思ったら鳩尾と顎に重い一撃。
おそらく頭突きをかまされて、俺の意識は呆気なく落ちた。

(…愛理くんを呼ぶべきだったかなあ…)




『ばらばらにしちゃったほうがいいよ…』
『ええ?ばれちゃうよ…それより「おじいちゃん」に…』
『どうせ大人は知らないよ、こんな奴村で見たことないし…』

(んん…?)
何かごつごつとした感触がする。
いつから俺は地面に寝ているのだろう。
そして何か知らないが、いたいけな子供の声で物騒な単語が聞こえたのは確かだ。

「…やめといた方がいいと思うな…」

顎と鳩尾がめちゃくちゃ痛い。
しかし土に手をついて、とりあえず起き上がることはできそうだ。
顎をさすりつつ顔を上げれば子供が二人、驚いた顔でこちらを見ていた。
男の子と先程俺に突っ込んできた女の子、二人とも顔のつくりが殆ど同じで、服と髪型がなければ見分けがつかなさそうだ。
どんぐり眼がこぼれ落ちそうなほど大きく見開いている。
(双子か)

「俺、一応ふもとの家のお客だからなぁ。いなくなったらさすがに探される…と…」

段々と周りの状況が目に入ってきてふと、男の子の方が握っているのが錆びた斧ということに気づき戦慄する。
子供の身体に不釣り合いな大きさがかえって不気味だ。
この子が普通の子供ならとても持ち上げられるシロモノじゃないが、安城の例を思い出して背筋が更に冷えた。

「…OK降参だ。何でも言うことを聞こう、だから斧は勘弁してくれ」

両手を挙げた俺の言葉に二人、おそらく双子は顔を見合わせる。
男の子の方が神妙な顔で口を開いた。
「…ちゃんと起きたんならばらばらにしたりしないよ。おじさんうちのお客さんなの?」
「…うち?君たちはふもとの家の子供なのか?」
「そうだよ。ぼくが鷹城葵、そっちが鷹城蛍。双子なんだ」
そう指し示した彼の指の先で、蛍と呼ばれた彼女はいきなり泣き出していた。

「よかったー…殺しちゃったのかと思った…」
「蛍…」

葵もつられてしゅんとしている。
ぐしぐしと顔を拭いながら泣く彼女を慰めたいが、まずは斧だ。
「…ばらばらにしなくてよかったな。葵くん、で良いのかな?」
「…そうだけど」
「人間、ばらばらになったら元には戻せないからなあ。こういうものは持ち出す前に大人に相談しような!」
「…うん」

別に悪意に満ちたホラー映画の子供達というわけではないのだろう、素直に彼が斧から手を離したので、そっと奪還する。重さが腕にずしんときた。後ろに跡もあるし、彼はやはり引きずってきただけのようだ。

「…ところでこんな物、どこで手に入れたんだ?」
「え?それは、おじいちゃんの…」
「…おじいちゃん?」
「山に住んでるの。よく遊ぶんだよ」
「山…それは、この?」
「うん。他にどこがあるの?」

(…初耳だな)
山に誰か住んでいる、そんな話はもちろん聞いていない。
「…蛍、それ言っていいの?」
「え?ダメなの?」
「でもおじさん、変な顔してるし…」
「あ、ちょっと待ってくれ。俺はおじさんじゃなくて雨笠って言うんだ」
「あまがさ?傘なの?」
「ああ、傘だよ」
「へえ…じゃあ雨を止めたりできるの?」
「え?いや、無理だが」
「だよねえ…」
「…止められる人なんているのか?」
「ううん。でも、おじいちゃんはね…」



「蛍、葵?そこかい?」
低くてよく通る声が会話に割って入る。
そして背後の茂みから音も立てずに出てきた、人影は。

「…おや。招かなかった人間がいる」

(…白銀)

気配もなかった。
真っ白い髪をした男はまるで今そこに突然出現したような静けさで、俺の後ろに立っていた。

俺より頭一つ高く、身体は細過ぎると言って良さそうだ。
整った顔立ちをしている。
しかし老人には見えない、肌には皺一つない。
最近流行りのビスクドールのような、よく言えば美しく、悪く言えば生気のない顔。
着ている黒い縦縞の着流しは、まるで森に似合わない風景なのに何故か違和感を感じない。
短く切り揃えた白銀の髪が揺れる。


(…本物だ)
その髪は、作り物には見えない。
歳を経てそうなったのかは知らないが、間違いなく地毛だ。

「…随分と若々しいおじいさんがいたもんだ」
思わず呟くと、相手も驚いたように目を見開いた。
切れ長の、蒼い目だ。
(外人か)
ますます訳が分からない。
何某か考えて、彼は笑いながら言う。

「いやいや。多分君より二百は歳上だよ」
「…ええ…」

ここは笑うところなんだろうか、さすがに反応に困る。
「君こそ随分と若そうだが、高校生?何でこんな山奥にいるんだい?」
「…これは失礼。私は…」
さて、何と名乗ろうか。逡巡する間に隣の双子が話し出す。
「あまがさ、って言うんだって。うちのお客で、さっき蛍が頭突きして気絶させちゃったんだ」
「気絶…?」
「多分高校生じゃないよ。もっとオジサンかも」
「おじいちゃんよりは年下だろうけど」
「おじさん…ふふっ」

何がおかしいのだろうか。
本気で置いてきぼりにされている俺の前で彼は爆笑し、あー面白かったと言わんばかりに目の下を拭う。
人形のような顔には似合わない人間らしい仕草だ。

「…まあ、君は無害そうだから、いいか。歓迎しよう、雨笠」
「…それはどうも」

手でも差し出してきそうな勢いだが、他に何と言えば良いのか。
目の前のトンデモ和装外人のせいで俺のボケ属性が完全に殺されてしまっていた。
もともとこの手の笑顔は信用できないが、それ以前の問題が多すぎて対処に困る。
そんな俺の前で全く優位に立ち、にこにこと笑っていた彼は、夕暮れに変わりつつある空を見て真顔に戻る。

「…君たち、そろそろ日が暮れるよ。今日は帰りなさい」
「あ、ほんとだ。雨笠、帰ろ」
「君も呼び捨て…」
「夜は危ないんだよ。山犬が出るんだ」
「ええ…それは嫌だな。…ええと」
「…何だい?」
「お名前をまだ伺っていなかったな、と」
「ああ、フランシスって言うんだ。ファミリーネームは秘密」
「…フランシス」
ものすごくツッコみたい。しかしツッコんだら負けな気がする。
「あと 、私のことは他の人には内緒で頼むよ。でないと君は気狂い呼ばわりされるか…」
思い切り笑顔を近づけてくきた。
持ったままだった斧を、そっと取り上げられる。
それを軽々と持ったのを、俺は見逃さなかった。
「この斧で事故死か、どちらかだ」

「…肝に銘じておきますよ」
斧で死ぬには心残りがありすぎる。
まずは彼の、正体に近づくところからだ。
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