安城糸音、平成最期の夏休み
夏の日差しは真っ白だ。とっても眩しい。
そして影は真っ黒で、草むらを走る私にどこまでもついて来る。なんだか不思議だ。
「もーいーかーい!」
あの子の声が聞こえる。
「まーだーだよー!」
もっと遠くまで走らなければ。
振り返ればしゃがんで待つあの子の隣で、『おじいちゃん』が笑いながら早く行け、という風に手を振る。
(たのしいな)
私も笑う。
前に向き直って、全速力で走り出した。
(まあ、5階から落ちて平気な人間がいてたまるかという話ではある)
窓の外はうんざりするような青い空、快晴だ。
木漏れ日が目に入って、綺麗だが鬱陶しい。
電車を三本乗り継いだ後で市バスは薄暗い山の急な坂道を登り続けて15分、ようやく目的地に着こうとしている。
(俺だって普段はそういうのを信じるようなタチじゃないが…目の前で見ちゃなあ)
まさか彼はあの日、仕掛けを張り巡らせた上で俺の前に現れたわけでもあるまい。大体その後何度も、何の準備もなしに俺たちの前から逃げおおせているのだ。
今まで敢えて深く考えてはこなかったが、タネも仕掛けもない以上、物理法則を超えた理由があると言うべきだ。
そしてあの写真の一人だけの子供、姉の消えた記憶となればもう、何もない方がおかしかった。
『次は、八津咲村入り口、八津咲村入り口ー』
抑揚のない声がバス中に響く。止マレのボタンを押した。
乗客は俺一人だけだ。
十三個目の停留所、目指した場所に着こうとしていた。
《八津咲村入口》
(何度も思ったが、わざとだよな?)
八津咲と書いて、やつざきと読む。
彼らの先祖は何を思ってこんな名前にしたのだろうか、案外茶目っ気のある人々だったのかもしれない。
板張りの小さな屋根と共に佇む錆びたバス停の標識の、その向こうを降り仰いで、眩しさに目を細める。
視界には緑、緑、緑。
真夏の白い日差しを浴びせられ、一気に開けた空の下、点々と建つ家を取り巻いて輝く緑がどこまでも広がっていた。
「…空気が綺麗だな…」
思わず声に出る。薄暗い山を登っている時はこんな場所に着くとは思わなかったほどに明るくてのどかな風景だ。
あまりに馴染まない光景に何故か苦笑いが漏れた。
(調査というよりは、休暇だな)
不穏な情報がことの発端だとしても、なかなか楽しい数日間になりそうだ。
(前言撤回)
にっこり笑ってみせた俺の前には、しかめ面のご老人。
「久しぶりに客が来ると聞いて来てみれば、こんな胡散臭い若造とはなあ!正直に言え、この家を探りに来たんだろう!あんたらに話せることは何もない、さっさと帰るんだな!」
「いえ、私はこの地方の風俗を研究…」
「そんな言い訳が通じると思うなよ!あんたのお仲間みたいに正直に取材に来たと言えばいいものを!話すことは何もないがな!」
「いえあの、全然違…」
地図通りに進み玄関先に着いたは良いが、出てきたご老人に遮られまるで会話が進まない。
立派な扉や、古いながら使い込まれた床や梁の美しさを堪能させてはくれないようだ。
「あんたらの魂胆は全部わかってるんだよ!20年前の子供の死体を掘り起こしに来たんだろう!?」
(おっ、話が早いな)
得意げにがなるご老人は実は勘が良いのかもしれない。
今からでも民俗学の研究者という設定はかなぐり捨てるべきだろうか。
「よーしーみーつーさん!その話は駄目って言ったでしょ!」
しかしその考えは、薄暗い廊下の向こうから投げかけられた声に遮られてしまった。
「そんなこと言うからいまだに変なテレビ局の人とかが来るんですよ!それにその人はそういうのとは違うの!民俗学の研究者さんなんだから!」
(まあ、嘘なんだが)
苦笑しながら頷く。
いかにも困りました、という風に出てきた中年の女性は、これまたいかにも人の良さそうな顔をしていた。
若干心は痛むが、依頼を放り出すわけにもいくまい。
『あそこに滞在したいなら、俺たちの名前は絶対に出すな。最悪追い出される』
安城の一言を思い出す。
謎とは別として、彼らは一体何をやらかしたのやら。
「すみませんねえ、おじいちゃんなんでボケちゃってるんですよ」
「いえいえ、お元気なのは何よりです」
「誰がボケたもんか!直美さん、こいつは嘘つきだ!顔で分かるぞ!」
「もう、本当にやめてくださいよ!ちゃんと丁寧な電話も入れてくださったし、宿泊費も出してくれたんですから!」
「…何だ、つまらんな」
今までの勢いは何処へやら、言い捨ててご老人は廊下の先へ引っ込んでしまった。
「今までのテレビの人とかが、柄が悪かったから…本当にすみませんねえ…」
「いやあ、慣れてますから」
部屋へ案内してもらいながら、先ほどの老人の顔を思い出す。
(ヨシミツ…安城の父親か)
あの写真の肖像と似ていなくもない。
「ヨシミツさんと仰るんですか?」
「え?ああ、誼光さんね。私の伯父で、うちで面倒見てるんです。普段はもうちょっとぼんやりしたおじいちゃんなんだけど…」
「はは、今日はお元気だったみたいですね」
「この地方の昔の風俗をお調べなんですよね?」
「ええ、まあ」
「誼光さん、昔のことはよく覚えてるけど、結構ボケちゃってるから、あんまり取材には役に立たないかも…。色々変なこと言うかもしれないけど、話半分くらいに聞いておいてくださいね」
「なるほど。分かりました」
(おやおや)
彼女はそう言って、少し後ろめたそうに視線を外す。
(良い人だなあ)
ご老人の少々正常ではない発言を憂いているのかもしれないが、今俺が探しているのはそういう、正常ではない情報だ。
少々認知症が入っている方がこちらとしても聞きやすいし、一度はしっかり話を聞いた方が良いだろう。
(…にしても、父親が認知症って情報すら入ってこなかったぞ。あいつらの家族関係、大丈夫なのか?)
疑問に同意するように、踏みしめた黒檀の床がみしりと軋んだ。
そして影は真っ黒で、草むらを走る私にどこまでもついて来る。なんだか不思議だ。
「もーいーかーい!」
あの子の声が聞こえる。
「まーだーだよー!」
もっと遠くまで走らなければ。
振り返ればしゃがんで待つあの子の隣で、『おじいちゃん』が笑いながら早く行け、という風に手を振る。
(たのしいな)
私も笑う。
前に向き直って、全速力で走り出した。
(まあ、5階から落ちて平気な人間がいてたまるかという話ではある)
窓の外はうんざりするような青い空、快晴だ。
木漏れ日が目に入って、綺麗だが鬱陶しい。
電車を三本乗り継いだ後で市バスは薄暗い山の急な坂道を登り続けて15分、ようやく目的地に着こうとしている。
(俺だって普段はそういうのを信じるようなタチじゃないが…目の前で見ちゃなあ)
まさか彼はあの日、仕掛けを張り巡らせた上で俺の前に現れたわけでもあるまい。大体その後何度も、何の準備もなしに俺たちの前から逃げおおせているのだ。
今まで敢えて深く考えてはこなかったが、タネも仕掛けもない以上、物理法則を超えた理由があると言うべきだ。
そしてあの写真の一人だけの子供、姉の消えた記憶となればもう、何もない方がおかしかった。
『次は、八津咲村入り口、八津咲村入り口ー』
抑揚のない声がバス中に響く。止マレのボタンを押した。
乗客は俺一人だけだ。
十三個目の停留所、目指した場所に着こうとしていた。
《八津咲村入口》
(何度も思ったが、わざとだよな?)
八津咲と書いて、やつざきと読む。
彼らの先祖は何を思ってこんな名前にしたのだろうか、案外茶目っ気のある人々だったのかもしれない。
板張りの小さな屋根と共に佇む錆びたバス停の標識の、その向こうを降り仰いで、眩しさに目を細める。
視界には緑、緑、緑。
真夏の白い日差しを浴びせられ、一気に開けた空の下、点々と建つ家を取り巻いて輝く緑がどこまでも広がっていた。
「…空気が綺麗だな…」
思わず声に出る。薄暗い山を登っている時はこんな場所に着くとは思わなかったほどに明るくてのどかな風景だ。
あまりに馴染まない光景に何故か苦笑いが漏れた。
(調査というよりは、休暇だな)
不穏な情報がことの発端だとしても、なかなか楽しい数日間になりそうだ。
(前言撤回)
にっこり笑ってみせた俺の前には、しかめ面のご老人。
「久しぶりに客が来ると聞いて来てみれば、こんな胡散臭い若造とはなあ!正直に言え、この家を探りに来たんだろう!あんたらに話せることは何もない、さっさと帰るんだな!」
「いえ、私はこの地方の風俗を研究…」
「そんな言い訳が通じると思うなよ!あんたのお仲間みたいに正直に取材に来たと言えばいいものを!話すことは何もないがな!」
「いえあの、全然違…」
地図通りに進み玄関先に着いたは良いが、出てきたご老人に遮られまるで会話が進まない。
立派な扉や、古いながら使い込まれた床や梁の美しさを堪能させてはくれないようだ。
「あんたらの魂胆は全部わかってるんだよ!20年前の子供の死体を掘り起こしに来たんだろう!?」
(おっ、話が早いな)
得意げにがなるご老人は実は勘が良いのかもしれない。
今からでも民俗学の研究者という設定はかなぐり捨てるべきだろうか。
「よーしーみーつーさん!その話は駄目って言ったでしょ!」
しかしその考えは、薄暗い廊下の向こうから投げかけられた声に遮られてしまった。
「そんなこと言うからいまだに変なテレビ局の人とかが来るんですよ!それにその人はそういうのとは違うの!民俗学の研究者さんなんだから!」
(まあ、嘘なんだが)
苦笑しながら頷く。
いかにも困りました、という風に出てきた中年の女性は、これまたいかにも人の良さそうな顔をしていた。
若干心は痛むが、依頼を放り出すわけにもいくまい。
『あそこに滞在したいなら、俺たちの名前は絶対に出すな。最悪追い出される』
安城の一言を思い出す。
謎とは別として、彼らは一体何をやらかしたのやら。
「すみませんねえ、おじいちゃんなんでボケちゃってるんですよ」
「いえいえ、お元気なのは何よりです」
「誰がボケたもんか!直美さん、こいつは嘘つきだ!顔で分かるぞ!」
「もう、本当にやめてくださいよ!ちゃんと丁寧な電話も入れてくださったし、宿泊費も出してくれたんですから!」
「…何だ、つまらんな」
今までの勢いは何処へやら、言い捨ててご老人は廊下の先へ引っ込んでしまった。
「今までのテレビの人とかが、柄が悪かったから…本当にすみませんねえ…」
「いやあ、慣れてますから」
部屋へ案内してもらいながら、先ほどの老人の顔を思い出す。
(ヨシミツ…安城の父親か)
あの写真の肖像と似ていなくもない。
「ヨシミツさんと仰るんですか?」
「え?ああ、誼光さんね。私の伯父で、うちで面倒見てるんです。普段はもうちょっとぼんやりしたおじいちゃんなんだけど…」
「はは、今日はお元気だったみたいですね」
「この地方の昔の風俗をお調べなんですよね?」
「ええ、まあ」
「誼光さん、昔のことはよく覚えてるけど、結構ボケちゃってるから、あんまり取材には役に立たないかも…。色々変なこと言うかもしれないけど、話半分くらいに聞いておいてくださいね」
「なるほど。分かりました」
(おやおや)
彼女はそう言って、少し後ろめたそうに視線を外す。
(良い人だなあ)
ご老人の少々正常ではない発言を憂いているのかもしれないが、今俺が探しているのはそういう、正常ではない情報だ。
少々認知症が入っている方がこちらとしても聞きやすいし、一度はしっかり話を聞いた方が良いだろう。
(…にしても、父親が認知症って情報すら入ってこなかったぞ。あいつらの家族関係、大丈夫なのか?)
疑問に同意するように、踏みしめた黒檀の床がみしりと軋んだ。