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安城糸音、平成最期の夏休み


「またこの時期だな、姉さん」
「そうね…」
バーテンダーの静かな一言に、その姉はぼんやりと呟く。
バーの灯りに透かしたグラスの中で、飴色の液体に浸かった氷が涼やかな音を立てた。
今滞在しているこのバーは、冷房もちょうどよく効いていて涼しい。
けれど彼女のその目線の先にはもっとずっと暑い、白い陽射しの照りつける草原が映っていることをバーテンダーは知っていて、小さく溜息をついた。

「…今年も?」
「…ええ、まあね」
「何がだ?」

そしてどことなく濃密な雰囲気をぶち壊してくるのは、今日もこの男。

「面白そうな匂いがするな。事件か?」
「この私たち以外お断りの雰囲気に体当たりしてくるあんたの方が大事件よ。車に轢かれればいいのに」
「いつもに増して酷いな!」
「それだけ大事な話をしてたんだ。勘定済ませて帰るか?」
「いや、そこまで言われると逆に気になるだろ…教えてくれよ」
男に悪びれた様子はない。それはいつものことだが、こう見えて一応、一応空気を読む男ではあるので、何か拒絶だけではない気配を感じ取ったのかもしれない。

「…姉さん。いっそこいつに生贄になってもらうか」
「え?何言ってるの色くん。生贄って…」
「生贄!?」
「いっそ半月ほど犠牲にして調べてもらうか、って意味だよ」
「ああ…ええ?嫌よ」
「ますます分からないんだが!?何の話だ!?」
姉さんは嫌そうだが、正直なところ俺はできるなら調べた方がいいとずっと思っていた。
不満げな彼女を横目で見ながら、その依頼を彼に向けて口にする。

「失くした記憶を探して欲しいんだ。お前、探偵だったよな?」




「失くした記憶って…君の姉さんは記憶喪失だったか」
「なわけないだろ」
馴染みのバーテンに呆れた顔をされてしまった。
話が噛み合わない…のも当然か、まだ何も聞いていない。
それで?と促せば、糸音は渋々と話し出した。

「…この時期が来るたびに、気になるのよ。何か忘れてるんじゃないかって気がするの」
「…それは所謂気のせいでは」
「殴るわよ?」
「続きをどうぞ」
「…俺たちの、実家の裏には山があってな。小さい頃はよく姉さんと遊んでたんだが」
「いつくらいからかしら…夏が来るたび、とくにお盆の時期になると裏山の景色がちらつくようになって…はっきりとしたことは何も言えないんだけど、どうしても気になるの…何か」
「『何か、忘れてる』?」

「…そうそれ」
何気ない相槌に、アルコールが入って少しぼんやりしていた瞳の焦点がいきなり合って、キラリと光った。
「『何か、忘れてる』。はっきりとそう思うのよ、それも、この時期だけ」
「裏山に関係する何かで、ってことだよな?…君に覚えは?」
彼女の記憶にそんなに焼きついているなら、その弟だって何かを覚えている可能性は高い。
そう思って訊いたのだが、彼は首を横に振る。
「何も。姉さんと遊んでた記憶はあるが、特別何かあった記憶はないな」
「へえ…珍しいな?君の姉さんがあれだけ言ってるのに」
「…だから気になって、お前に頼んでるんだ」
「なるほど、理にかなってるなあ」
ニヤついてみせれば不機嫌そうな顔を隠す気もない。
隣で糸姉さんが地味に感動しているようだがそれは俺には関係ないので放っておいて、考えを進めてみる。
二人が遊んでいた裏山で、いつか、何かがあった。それを糸音は忘れているんじゃないかと気になっているが、安城の方には覚えがない、と。

「ふむ、あとは場所と、いつ頃の話か、だな。糸姉さんの記憶が抜け落ちてる時期とかは」
「そんな不自然なことがあったらとっくに調べてるわよ」
「だよなあ。いつ頃からそんな気がしてるんだ?」
「……いつ頃?」
「高1の夏からだ」
「…そうだったかしら。よく覚えてるわね」
「いきなり姉さんがそんな話をし出したら、記憶にも残るだろ…」
「…君たち、高校も一緒だったのか?」
「え?まあね。男女別学だったけど」
「校舎内で会うことはなかった」
「ふーん…で、裏山の場所は?」
「……本当に教えるの?」
「どうせ知ってる。こいつはそういう奴だ」
「…そうね」

忌々しそうに呟いた彼女は、しばらくスマホを操作する。
ぴこんと間抜けな音を立て、俺のトークリストに届いたのは位置情報。

「それがうちの本家」
「本家」
「俺たちは分家だから、本家には夏しか行かなかった。でも姉さんに何かあったなら、間違いなくそこでだ」
「ほうほう、どうも。とりあえず調べてみよう」



(ま、知ってるんだが)
ブルースクリーンに何某か打ち込む男の顔には苦笑が浮かんでいた。

安城は俺のことをよく解っているなあ、などと思いつつパソコンを立ち上げる。
公的なものなら恋亜に頼むが、何せこれは私的利用だ。
(依頼人のプライバシーは守らないと。知り合いならなおさら)
しかし双子もよく俺などに頼んだものだ。
糸姉さんの恥ずかしい秘密でも出てきたらどうするつもりなのか。
(…俺ごと握り潰すのかな?あいつらはそういう奴だ)
そんなことを思いながら安城家についてつらつらと目を通す。
もっともそれらは一度は目にしたもので、特に気になる内容はなかったはずだ。
(高1より前、か…幼少期に絞ってみるか)

よりプライベートな情報を探るなら、よりプライベートな検索システムで。
暗闇の中にタイプ音と、パソコンがフル稼働する時の唸るような機械音だけが響く。
自分の作ったものではないが、使い方はよく知っていた。

『大事なのは何を知っているかじゃない。調べ方を知っているかだよ』

蘇る誰かの言葉、薬指の指輪を視界の隅でぼんやり見ながら、エンターキーを叩いた。
一気に膨大になる情報量は、昭和末期から平成にかけての安城家に関するもの。

その一つ、少し古い新聞記事のデータを見つけて、探偵の眉が軽く動く。

「…とっかかりはこれかな」

この話題になったであろうちょっとした事件を二人が覚えていないというなら、それはおかしいと言えばおかしい。
この切り抜きを印刷して聞いてみるのは悪くなさそうだ。
データを抽出しようとして、関連情報を素通りしそうになったカーソルが、止まる。

「…これは…」

男は今度ははっきりと眉をひそめた。

記事ではない。おそらく出産祝いに撮った写真だろう、タイトルは《安城家の肖像》。
モノクロの背景に微笑む男女、母親の方が抱きかかえるのは、たった1人の赤ん坊。
2人ではない。

(…体調不良、はないな。記念写真なんだから万全を期すはずだ。別人…もないな、彼らは分家だ、本家とは苗字が違う。他に親戚はいない…どういうことだ?)

忘れたものが何だとしても、一筋縄では行かなさそうだ。
収穫ゼロよりタチが悪い。
データの印刷を選択しながら、珍しく気の重い溜息を吐いた。
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