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──な部屋

『好きに使えば?』
彼女の凍てついた表情と言葉が、未だに耳に残って。

「クッソ…」

浴室に盛大な水音が響く。
冷水を頭からかぶって、ようやく正気を取り戻した心地がする。
冷えた頭をタオルで拭きながら呟く悪態は、犯人へのものか、自分へのものか。

(ほんまの馬鹿や)
一番やってはいけないことをしてしまった。
先程の会話は録音されているのか、とか今日寝る場所は、とかそれなりに面倒な問題が頭を過るが、正直それどころではない。
何故こんなことをと自分に問えば、理由は分かっている。
理解したくはないが。
そしてそんなことを彼女が知るわけはなく。
完全に自分のせいだった。
どこか絶望に似た気持ちで、ドアの向こうを見つめる。
今動かなければ関係の修復は難しいだろう。
戻らなければならないのは、分かっているが。

(…落とし前はきちんと、か)
育ての親の口癖が頭をよぎって、小さな舌打ちに変わった。





静かに、空気が動く。
延々と続く雨音に被せて、ドアを開く音。
とてもじゃないが起き上がる気にはなれない。

「…何や、寝とるんか」

妙に静かな声が聞こえて、丸めた身体が少し強張る。
ようやく落ち着いてきたのに、何で戻ってきたのだろう。
(放っておいてよ…)

私の願いをよそに、足音は目の前まで来て、止まった。
無駄に聡い彼だから、寝たふりは気付かれるかもしれない。
でも今更、どんな顔をして起き上がればいいのかも分からない。
仕方がないから狸寝入りをきめて、耳だけを澄ます。

「…泣いとったん?」

気配で、何となく覗き込まれているのだと分かる。
密やかな声と妙に落ち着いた雰囲気は、さっきとは違う意味で見たことのない彼だ。
返事のできない気まずさと緊張でさっきから心臓がうるさい。

流れる短い沈黙、小さな溜息。

「…さっきは悪かったな」

(謝られてる?)
予想外の展開に思わず身じろぎしそうになる。

「寝てるあんたに言うてもしょうがないか。分かっとるんやけど…」

いつもの不遜な態度からは想像もつかない姿で、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。

「無理強いするつもりはなかった。カッとなってな…ダメや、下手な言い訳にもならんわ」

聞こえてくるのは自嘲、自分への失笑。
今話しているのは、本当に八海惚なのだろうか。

「…ほんまに、悪かった。明日ちゃんと謝るわ」

頭をさらりと軽く撫でられる感触がして、気配が離れる。
帰っていく、足音を聞くことはなかった。

「…謝るくらいなら、抱いてよ」

彼が驚いたように目を見開く。
思わず、起き上がっていた。




「聞いてたんか…」
言い淀む彼は明らかに狼狽した様子で、何だか笑いそうになる。
「謝る必要なんてない。誘ったのは私だし」
「…あのなあ」
「もう良いから…」
これ以上は聞きたくない。
(調子が狂う)
気持ち悪いとすら思う。

「私、今日で18歳だから」
「…あんた、それは」
「20だっていい。私の身元を調べたことがあるなら、意味は分かるでしょ」

矢継ぎ早に言葉を繋げば、困惑した顔が理解した様子に変わる。
考えてみれば簡単な話だ。
私の身元を証明しているのは暫定的な住民票で、正式な書類を持っているのは敬慈なのだから。
(ネズミがかかるのを待つよりはきっと、ずっと楽に済む)


「敬慈には私から話しておくから。だから…」

これ以上知ったら、今の関係のままではいられなくなる。
そんな予感が確かにあった。
だからそんな風に優しくなんて、して欲しくない。
これ以上縄張りを侵される前に、終わらせなければならない。

「…しゃあないな」


黙って聞いていた彼が、一つ呟いて。
色のない声、歩み寄る影を、どこか恍惚とした気持ちで見つめる。
さっきとは全然違う、乱暴に扱われたって、モノみたいに使われたっていい。

「…あのな」
私を抱き寄せる彼は、バツの悪そうな顔をしていた。

「そんな状態でまともにものが考えられるわけないやろ。俺のせいやから何も言えんけど」

結果として確かに、さっきとはまるで違っていた。
ぎこちなく腕の中に収まったと思ったらそのままベッドに倒れ込まれて、向き合って添い寝のような格好に落ち着く。
そこから彼は全く、動こうとしない。

「…ちょっと…?」
「昨日の二の舞は御免やからな…今日は俺もしっかり睡眠取らせてもらうわ」
あくび混じりの答えに唖然とする。
「それって…続きは?」
「タイムリミットは明日やろ。交渉するなら頭がまともな時にまともな形でせんと、いざって時裏切られたらかなわん」
「…身動き取れないんだけど…」
「今襲われるわけにはいかんからな…お預けやと思って大人しく寝とき」
「…何それ…」

(やられた…)
完全に、思惑とは違う方向に進んでしまった。
けれどもう疲れ切っていて、抵抗する力も理由もなく、腕の中大人しく目を閉じる。
感じる呼吸と少し低い体温が、妙に心地良い。


「…やっと寝たか。……何やってんやろ、俺」

ほの暗い部屋に声だけが響く。
廊下から漏れる薄明かりでは逆光になって、彼女がどんな顔で眠っているのかは判別できない。
それが無性に残念で。

これは子守りか、はたまた生殺しか。
最初は完全に前者のつもりだったが、最早俺にも分からなくなってきた。

「…小さいな…」

すっぽりと腕の中に収まって、まるで抱き枕だ。
何もせず、柔らかな感触だけを抱いて寝るのはいつぶりだろうか。
(これが合法、か)
ただ謝るつもりがとんだ結果になったものだ。
少しずつ誘いをかわす理由が無くなっていく。
結局、寝る前に明日の戦略を練り直す必要がありそうだ。


「お預け食らっとんのは俺の方やんな…」

夜は、まだ長い。
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