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一睡茶


妙に静かだ。
そう思って顔を上げたら、雪だった。

(あれ…?いつの間に)
灰色の空を舞うたくさんの白い欠片が、車窓からでもよく見える。
(…どのくらい寝てたんだろ…)
頭がぼんやりしていて、考えがまとまらない。
電車の揺れが心地よくて、眠ってしまったみたいだけど。
大体いつの間にこんな電車に乗っていたのか。
周りを見回せばあちらこちらに座っている人はいたけれど、一人残らず眠っていた。
起きているのは私だけだ。
電車の走る音だけが、いつもより大きく響く。

(あ、夢か)
妙に納得して、窓の外をぼんやり見れば、雪はまだ降り始めたばかりのようだった。


白雪と白百合


電車を降りたら寒いかと思えば、そうでもなかった。
(夢だから?)
どこかなまぬるい温度を身に纏ったまま、駅に降り立つ。
古びたホームには何人かがベンチに腰掛けているだけだ。
電車を待っているまま眠ってしまったような、そんな感じで。

(ここ、最寄り…だよね?)
名前も同じだし、片側が壁の狭いホームは、どう見ても職場の最寄り駅だ。
自動改札は定期でちゃんと通れた。
しんと静まり返った中、いつもの道を一人歩く。
シャッターの閉まったままの売店を通り過ぎ、駅から出れば確かに見慣れた光景で。
(商店街…誰も歩いてない)
駅から病院に続くまっすぐの一本道。
イルミネーションを施された枯れ木が寒々しい。
曖昧な灰色の空からは白い雪が絶え間なく、しかし確実にその木々に積もっていて。
(…何だろう、変な夢)
道を挟んで立つ店の中、喫煙所のそば、路地裏の暗がり。
よく見れば至る所で、色々な人が眠っていた。
腕を組んで、座り込んで、無垢な寝顔で、その肩に雪が積もるのにも気づかずに。
そんな異様な街中を一人、歩く。
カフェさざんか、BarWell-done、通り過ぎるどの店にも起きている人はいないようで、ただただ静かだ。
(何で私だけ…)
寝ているべきだったのかもしれないと、不安が頭をよぎる。
とりあえず職場に向かっているが、着いたとしても誰も起きていないかもしれない。
そんなことを考えながら、花壇に囲まれたボロいビルにようやくたどり着く。
妙な重さにも慣れたガラスの扉を開けて薄暗い室内に入れば、やはり寝息が聞こえた。
予想通りソファの上では、日和さんが安らかに眠っている。
しかし振り返って部屋の向こう、いつもの椅子を見ても、そこにいるべき人物はいなかった。
(もしかして、起きてる?)

階段を辿って他の部屋を周ってみるが、結局5階まで巡っても見つからない。
諦めて踵を返そうか迷って、まだ一つ探していない場所があったのを思い出した。
最後に残ったそこは、階段を登りきった先。
まだ一度も入ったことがない屋上だ。
薄暗く埃っぽい踊り場は、絶えずかすかな隙間風の音が響く。
鉄製のドアに鍵はかかっていないようだ。
ごく自然に手をかけて、引いた。


灰色の空一面を千切れて飛ぶ白い欠片と、その中に埋もれそうに屈み込んだ、黒いスーツの背中が目に入る。
所長だ。
(起きてたんだ)

ようやく起きている人に出会えたと、名前を呼ぶ前に彼は振り返って、一瞬驚いたように私を見つめた。
そして、口の端を歪める。

「何で君、ここにいるんだ?」
その声色は驚くほど冷たくて。
彼が腕に抱えた白い百合の花束が、かさりと音を立てる。

(え…?)
いつものようには言葉が出てこない。
私の知っている所長と全く雰囲気が違う。
いつもみたいに笑っていない、無表情な瞳が私を見ている。

「…所長こそ、何でこんな所に」
「ここなら会えると思ったんだ」
誰に、そう聞く前に彼は続ける。
「でも、会えなかった」
掠れた声、濡れて光る眦。
それでも口端を歪めて。

(…泣いてる)
笑いながら、泣いている。

(ああこれ、悪夢だ)


「…所長」
「もう嫌なんだ」
私の言葉を遮って、彼は笑いながら大げさに両手を広げる。
花束が鼻を掠めて、強い百合の匂いがした。
「俺のことは放っておいてくれ、君にはどうせ何もできないんだから。だからみんな眠っているだろう?なあ、君は何で起きて、ここにいるんだ」

何もできないのに。

ヒステリックな声が空虚な呟きに変わると共に、彼の広げた手が力を失って落ちる。
私は、ただ木偶の坊のように突っ立っていて。

(何もできない?)
そんなこと、ない。

「ねえ、中に入りましょう、所長」
勇気を出して、努めて冷静に。
手を伸ばしてその手を掴んで、引っ張った。
「こんな寒い所で、まともに頭を動かそうってのが間違いですよ」

いつからここにいたのか、白い手は氷のように冷たい。
何が起こったのか理解できない、彼はそんな顔をしている。
その呆然と見つめるガラス玉の瞳に、私はちゃんと映っているだろうか。

「私にだって、暖かい場所に案内するくらいはできますから」
勢い余って、抱きとめるような格好になる。
腕の中で雪に塗れ、凍え切った身体が震えている。
顔は見えないけれど、私の耳の後ろで、彼が小さく息を吐いたのを、妙に生々しく感じて。

(あれ?)

次の瞬間、視界は明転した。
即ち、視界の先には天井、腕の中には確かな質量。
抱き枕よろしく所長を抱き締め寝ている自分を自覚したのだった。

その日、日和は初めて愛理の悲鳴を聞いたと言う。
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