──な部屋
「暇。本当に暇」
「奇遇やな、俺もや」
そう言いながらも彼は、飽きもせず台所に立っている。
今度は匂いからしてまさかのパンケーキらしい。
(よくやるわね…)
カーペットに寝転がったまま、電波の繋がらない板を見つめるのにももう飽きた。
(起き上がるのが怠い…でも転がってるのも怠い)
左崎さんが探偵社に来てから行動範囲が広がったせいか、今とても運動不足なのを感じていた。
(昔なら全然大丈夫だったのに)
まさかこんな弊害があるとは。
昨日の夜から食べてばかりでとうとう食欲もなくなってきたし、どう考えてもそろそろ運動はした方がいいのだが。
(──運動)
運動、ねぇ。
(最高にお膳立てされた運動が、ひとつあるんだけど)
のそりと起き上がって彼の方を見つめれば、どうやって認識しているのかこちらは見ないまま声だけ飛んでくる。
「何や?今忙しいんやけど」
「…別に」
その声に昨日の失態をふと思い出して、またカーペットに倒れる。
実のところ、今夜もああならない保証はないというのが今一番気にしていることだった。
(それは絶対嫌…敬慈たちも来ないし)
ネズミのかかった気配もないし、もう起こせる行動はそんなに残っていなかった。
だから。
からかってやろうとか、そんな気持ちでもなくて。
ただ、今こうすれば、外に出られる。
どこか純粋な気持ちで立ち上がって、彼の方に足を進める。
「だから何や。今から目玉焼きやから、焦げたら不味く…」
「ねえ」
フライパンに集中している彼の左腕を引けば、ようやく振り向いた。
「…しない?」
見上げて首を傾げてみせれば、ぐしゃっと何かの潰れる音。
彼の左手を見るに被害に遭ったのは卵だろうか。
「………」
何も言わずに彼が手を開けば、無残に潰れた卵のかけらが滴る。
仕方ないので掴んだ腕を放して、やはり押し黙ったまま淡々と流しで手を洗う彼を見ながら返事を待つ。
「…………」
淡々、たんたんと。
乾いたタオルで手を拭いて。
「…あのな。あんた、俺を失職させる気か?」
次の瞬間、肩を掴まれ同じ高さで目が合った。
顔こそ笑顔だが多少怒らせたらしく声が低くて、思わず少し怯む。
「…だって暇なんだもの…分かるでしょ」
「それは分かる、俺も暇や。けどな、未成年のお嬢さんとそういうことする気はないんや。犯罪やからな」
「…ああ、そう」
手を追い払って、リビングに戻る。
少し間を置いて今度こそフライパンに卵を落とす音が聞こえてきたが、やはりあまり食欲をそそられるという感じはしない。
(…私だって別にしたいわけじゃないし)
運動不足なだけだし、ここから早く出たいだけだし。
(要するに、違法じゃなければいいんでしょ?)
ごろごろしながらぐだぐだと色々考えてはいたが、未だ助けが来る気配はないし、私の得意分野で勝負する方がもしかしてずっと楽なのではないかという気がしてきた。
(敬慈が手伝ってくれればだけど…っていうか早く助けが来ればそんな面倒なことにはならないのに…)
敬慈をこんなに恋しく思ったことがあっただろうか。いやない。
(今日中に来なかったら探偵社のネット環境、どうしてやろうかしら)
ちなみにこんなに憎らしく思ったこともない。
(むくれとったな。マズったか)
そんなことを言われてもする気はないのだからしょうがない。
(ほんの少しだけ動揺したけどな。いやー驚いたわ、まさかド直球で来るとは)
それほどその手のことに抵抗がないとは思わなかった。
(所長さんは一体どういう教育して…あ、日常茶飯事なん?それなら納得いくわ)
それはつまり、立派に犯罪だが。
もっとも彼らは公務員でも何でもないし、事実が明るみに出たところで受けるダメージも少ないのだろう。
(羨ましいご身分やなあ)
じゃあ代われと言われたら、絶対に御免だが。
「できたで、パンケーキ。…よう寝るな」
動く気配もなく大人しい寝息が聞こえたと思ったら、さっきの体勢のまま倒れて寝ていた。
「低気圧でも来とるんか?俺は影響ないから分からんわ…」
ひとりごちながらパンケーキはテーブルに置いて、何となしに彼女を改めて観察してみる。
若いというより、あどけない寝顔。
黒い猫耳に手を伸ばして触れてみれば、思っていたよりふわふわとした感触だ。
(…猫耳だけなら好みなんやけど。流石に少女趣味はなあ…)
自分の魅力を意識するほど成熟していない、それだけにさっきの一瞬は独特な気迫があったが。
「…あんたが未成年で良かったわ」
猫耳から逸れて、その髪をつい、と撫でながら呟いた。